『 二期目のトランプ大統領 』
大統領選挙に圧勝した トランプ氏の
次期政権の陣容が 少しずつ明らかになっている
小差とはいえ 上下院とも共和党が多数のようなので
トランプ氏にとって 一期目より追い風になるだろう
いくつかの訴訟も 棚上げになりそうだし
次の選挙を 心配する必要がないので
思い存分の人事と 政策推進が可能だろう
一回りパワーアップしそうな トランプ次期大統領は
世界にとって 吉か凶か
アメリカ国家と人民にとって どんな栄光をもたらすのか
祈る思いで 見守るしかないのだろうか
☆☆☆
今昔物語 巻第三十一 ご案内
本巻が最終巻に当たります。
全体の中での位置付けは「本朝付雑事」となっています。
本巻には三十七話が収められていますが、実際に、それぞれの物語の分野は
やや雑然としています。
研究者によっては、本来「今昔物語」は三十巻で完了させる予定だったものが、
各卷から落ちこぼれたもので、捨て難い物を、この巻に集めたと考えているよう です。
いずれにしても、膨大な量を誇る「今昔物語」の最終巻を楽しみたいと思います。
『 放生会を競い合う ・ 今昔物語 ( 31 - 1 ) 』
今は昔、
天暦の御代(天暦年間というより、村上天皇の治世全般 ( 946 - 967 ) を指すことが多い。)に、粟田山の東山科の郷の北に寺があった。建立と同時に藤尾寺(伝不詳)と名付けられた。
その寺の南に別の堂があった。その堂に一人の年老いた尼が住んでいた。その尼は、たいそう豊かで、何事も思いのままに長年過ごしていた。
その尼は、若い時から熱心に八幡(石清水八幡宮)に帰依していて、 常にお参りしていた。
いつも心の中で、「わたしは長年八幡大菩薩を頼み奉って、朝夕に念じ奉っています。同じことなら、わたしが住んでいる辺りに大菩薩をお遷しして、思うままに常に崇め奉りたいものです」と思っていたが、さっそく、住まいの近くに土地を選んで、宝殿(お堂)を造って立派に飾り立てて、大菩薩を勧請し奉った。
そして、長年崇め奉っていたが、尼はさらに願いを立てて、「本宮(石清水八幡宮)では毎年の行事として、八月十五日に法会を行い、放生会といっている。これは、大菩薩のお誓いによるものである。されば、わたしもこの宮において、同じ日にこの放生会を行おう」と思いついて、本宮のように年中行事として、あちこちで放生会を行い、八月十五日には、本宮と同じように放生会を行った。
その儀式は、本宮の放生会と同じようにした。様々な高貴な僧を大勢招き、妙なる音楽を奏し、歌舞を調えて法会を行ったが、尼はもともと裕福で何の不足もなかったので、招いた僧への布施も、楽人への祝儀なども十分なものであった。
そういうことで、本宮の放生会に見劣りしないものであった。
このようにして、毎年行って数年が経ったが、本宮の放生会がしだいに新宮に劣るようになり、祝儀なども見劣りするので、舞人や楽人などもこの粟田口の放生会に競って行くようになり、本宮の放生会は少し廃れた。
この事を、本宮の僧俗の神官たちは、皆嘆きながら相談して、使者をあの粟田口の尼の許に遣わして、「八月の十五日は、大菩薩の御誓いによって、昔から今に至るまで行われている放生の大会(ダイエ)である。人が考え出したものではない。ところが、本宮とは別に、この所で放生会が行われている。そのため、本宮の恒例の放生会がまさに廃れようとしている。されば、ここで行われている新しい放生会を八月十五日には行わず、日延べして別の日に行うべきである」と伝えた。
尼はこれに答えて、「放生会は、大菩薩の御誓いによって、八月十五日に行うことです。されば、この尼が行う放生会も、同じく大菩薩を崇め奉るゆえに行うことですから、やはり八月十五日に行うべきです。決して他の日を以て行うことがあってはならないのです」と言った。
使者は帰って、尼の答えを伝えると、本宮の僧俗の神官などは全員がこれを聞いて大いに怒り、集まって相談し、「我等は今すぐ尼の新宮へ行って、その宝殿を壊して御神体を奪って、本宮に安置し奉るべきである」と言って、大勢の神人らが集まって気負い立ち、かの粟田口の新宮に押しかけて、尼が夜昼構わず崇め奉る新宮の宝殿をすべて打ち壊し、御神体を奪って本宮にお遷しし、護国寺(石清水八幡宮の境内にあった寺。)に安置し奉った。
こうしたことがあり、その御神体は今も護国寺に安置されていて、霊験あらたかである。粟田口の放生会は、その後絶えてしまった。
その尼は、もともと朝廷の許可を得て行っている放生会ではなかったので、訴えることはしなかった。
ただ、世間ではこの尼を非難した。本宮より、「日延べして他の日に行え」と言われたことに従って、他の日に行うようにしておれば、今も両宮で放生会が行われていたであろう。やたらと我意を通して、日を変えなかったことが悪かったのである。
しかし、それもしかるべき[ 欠字あるも不詳。]事であろうか。大菩薩を崇め奉ると言いながら、古来尊ぶべき放生会であるのに、それを競い合うようにするのを、大菩薩が「悪いことだ」とお思いになったのであろうか。
その後、本宮の放生会はいよいよ盛大で、今に至るまで栄え続けている。
此(カク)なむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
『 桂川の橋を修復する ・ 今昔物語 ( 31 - 2 ) 』
今は昔、
鳥羽の村(京都市伏見区)に大きな橋があった。これは、昔から桂川に渡した橋である。
ところが、その橋が壊れて人が渡ることが出来なくなっていた。
[ 欠字。時代などが入るが不詳。]の頃、一人の聖人がいたが、この橋が壊れているため人々が河を歩いて渡るのを見て嘆いて、行き来する人を助けるために、広く諸々の人に喜捨を募って、その橋を修復した。
その後、喜捨の品が多く残ったので、聖人はそれを基に、また多くの人を集めて、その村の人の協力を頼んで、盛大に法会を儲けて、橋供養を行った。
その講師には、[ 欠字。講師名が入るが不詳。]という人を招いた。招請する僧には四色の法衣を調えて、百人の僧を招いた。大山寺(比叡山延暦寺のこと。)・三井寺の名高い名僧はすべて招いた。唐や高麗の舞人・楽人らには皆唐の装束を用いた。
京じゅうの上中下の人々は挙って喜捨をした。舞台・楽屋・僧席には幕を張り巡らし、立派に飾り立てた。
その当日になると、京じゅうの上中下の人は皆やって来て聴聞した。
( 以下 欠文 )
☆ ☆ ☆
* 欠文となった事情は不明です。
作者が「今昔物語」を三十巻で完了させると考えていて、ただ、捨て難い物語もあるため巻第三十一を加えたと仮定しますと、まだ完成していない物語を加えるのは不自然に思われます。
おそらく、完成していたものが何らかの事情で喪失したものと推定しますが、残念ながら、他の資料も見当たらないようです。
☆ ☆ ☆
『 妻を娶った阿闍梨 ・ 今昔物語 ( 31 - 3 ) 』
今は昔、
[ 欠字。「文徳天皇」らしい。]の御代に、湛慶阿闍梨(タンケイアジャリ・815 - 880 比叡山の僧。)という僧がいた。慈覚大師(第三代天台座主。)の弟子である。真言教義を極め、仏典や和漢の典籍も極め、諸道について才能があった。
湛慶は真言の行法を修得して、公私にわたって仕えていたが、忠仁公(藤原良房)が病気の時に、湛慶が御祈祷のために呼ばれて参上した。そして、祈祷し奉ったところ効験はいちじるしく、病は平癒したが、「このまましばらく伺候しているように」と屋敷に留め置かれていたが、若い女の声が聞こえてきて、湛慶の前に供養の膳を調えた。
湛慶は、この女を見たとたん、深い愛欲の情を起こし、密かに口説いて、互いに情を交わすようになり、遂に破戒僧となってしまった。その後、隠してはいたが、その噂は広く知れ渡ってしまった。
湛慶は、以前熱心に不動尊にお仕えして修行をしていたが、ある時、夢の中でお告げがあって、「汝は心から我に帰依している。我は汝を加護してやろう。但し、汝は前生の因縁によって、[ 欠字。「尾張」らしい。]の国[ 欠字。郡名が入るが不詳。]の郡に住む[ 欠字。人名が入るが不詳。]という者の娘と通じて、夫婦となるであろう」と聞かされたところで、夢から覚めた。
その後、湛慶はこの事を嘆き悲しんで、「私は何ゆえあって、女と通じて戒を破ることがあろうか。ただ、私は不動尊が教えて下さったその女を尋ねて、殺して、安心していられるようにしよう」と思い至って、修行に出るような振りをして、たった一人で、[ 欠字。「尾張」らしい。]の国へ行った。そして、教えられた所に尋ねて行くと、本当にそういう人がいた。
湛慶は喜んでその家へ行き、そっと中の様子を見た。家の南面で湛慶は使用人のような振りをして窺っていると、十歳ばかりの可愛らしい女の子が庭に走り出てきて遊び回っている。すると、その後から下仕えの女が出て来たので、「あそこで遊んでいる女の子は誰か」と湛慶は尋ねた。女は、「あの方はこの屋敷の一人娘です」と答えた。
湛慶はそれを聞いて、「あれこそ、その女だ」と喜んで、その日はそれだけにして、次の日にまた行って、南面の庭にいると、昨日のように女の子は出てきて遊び回る。その時近くには誰もいなかった。湛慶は喜びながら走り寄って、女の子を捕らえて、その首を掻き斬った。
これに気づいた者は誰もいなかった。「後で見つけて大騒ぎになるだろう」と思って、遙か遠くまで逃げて、そこから京に帰った。
「もう、気になることはし終えた」と思っていたが、今になって、思いもかけずこのように女に迷ってしまったので、湛慶は「先年、不動尊が示して下さった女を殺してしまったのに、このように、思いもかけない女に迷ってしまったことは不思議なことだ」と思って、この女と抱き寝している時に、湛慶は女の首をさぐってみると、首に大きな傷跡があり、それは傷を焼いて癒着させた跡であった。
湛慶が「これは如何なる傷跡か」と訊ねると、女は「わたしは[ 欠字。「尾張」らしい。]の国の者です。[ 欠字。人名が入るが不詳。]という者の娘です。幼かった頃、家の庭で遊び回っていたところ、見知らぬ男が現れて、わたしを捕らえて首を掻き斬ったのです。その後で家の人が気づいて大騒ぎになりましたが、その男の行方は分からないままです。その後、誰かは分かりませんが、わたしの傷を焼き付けてくれたのです。死ぬはずの命を不思議にも助けられました。そして、縁あって、このお屋敷にお仕えしているのです」と言った。
これを聞いて湛慶は、不思議にも哀れに思った。自分がこの女と前世からの因縁があるのを、不動尊がお示し下さったのだと、貴くもしみじみと感じられ、涙ながらに女にこの事を話すと、女もしみじみと感動を覚えた。
こうして、二人は末永く夫婦として暮らすようになった。
湛慶が戒律を守らず破戒僧になってしまったので、忠仁公は、「湛慶法師はすでに破戒僧になってしまった。僧の姿でいることは許されない。しかし、仏道ばかりでなく和漢の道も極めた者である。こういう者を世の中から捨て去るべきではない。速やかに還俗(ゲンゾク・出家した者が俗人に戻ること。)して、朝廷に仕えるべきである」と決定されて、湛慶は還俗した。その名を公輔(キミスケ)という。もとの姓は高向(タカムコ)である。
即座に五位に叙せられて、朝廷に仕えた。これを高大夫(コウダイブ・伝不詳)という。
もともと優れた才能の持ち主なので、朝廷に仕えても何の見劣りもしなかった。遂に讃岐守に任じられて、家もますます豊かになった。
これを思うに、忠仁公は、才能のある者はこのように捨てなかったのである。
この高大夫は、俗人となったが、真言の密法をよく修得していた。
ところで、極楽寺という寺に木像の両界(金剛界の三十七尊と胎蔵界の九尊)像が安置されていたが、長らくその諸尊の座るべき位置が違っていて、ある人が、「これを誰か正しく直し奉る人はいないか」と、多くの真言の師僧を呼んで直させたが、様々な意見が出て、誰も直すことが出来なかった。
高大夫はその事を聞いて、極楽寺に行き、その両界を見奉って、「まことに、この諸尊が座っておいでの位置はことごとく間違っている」と言って、杖を持ち、「この仏はここにおいで下さい」「その仏はあちらにおいで下さい」と差し示すと、仏たちは、誰も手も触れ奉っていないが、踊るように杖が差し示す位置に、お移りになった。多くの人が、それを見ていた。
人々は、「高大夫が仏の位置を直し奉るために、極楽寺に行くらしい」と、かねてから聞いていたので、然るべき身分の人たちもいたが、このように仏たちがそれぞれ正しい位置に直られたのを見て、涙を流して尊んだ。
高大夫は、仏道やそれ以外の道に優れていたことは、このようであった、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
『 地獄絵を描いた名絵師 ・ 今昔物語 ( 31 - 4 ) 』
今は昔、
一条院(一条天皇)の御代に、絵師巨勢広高(コセノヒロタカ)という者がいた。古人にも劣ることなく、当代にも肩を並べる者がいないほどの絵師であった。
さて、この広高はもともと信仰心が厚かったが、重い病にかかり長い間煩っているうちに、世の中を「虚しい」と感じ取って、出家してしまった。
その後、病は癒えて元気になったが、朝廷では広高の出家をお聞きになり、「法師になっても絵を描くことに差し障りはあるまいが、内裏の絵所に召して使うには具合が悪いので、速やかに還俗すべきである」と定めて、広高を召して、その旨を仰せになった。
広高は、それは本意では無いと嘆き悲しんだが、宣旨が出てはどうすることも出来ず、仕方なしに還俗した。
そこで、近江守[ 欠字。人名が入るが不詳。]という人に広高を預けて髪を伸ばさせた。近江守はその所(この場所がどうも分かりにくい)に新しい堂が一つあったので、そこに籠もらせて、人に会わせないようにして、髪を伸ばさせていたが、広高は、堂の背後の壁板に、つれづれなるままに、地獄の絵を描いた。
その絵は、今も残っている。多くの人がやって来てこの絵を見た。皆が「すばらしいものだ」と言った。今の長楽寺(京都の円山公園の近くの寺のことを指すらしいが、どうもしっくりこない。)というのは、その絵を描いた堂である。
広高は、その後は俗人として長い間朝廷に仕えた。この広高が描いた襖絵(フスマエ)や屏風の[ 欠字あるも、内容不詳。]然るべき所にある。一の所(摂関家などを指す。)に代々伝えられている物の中にも、広高が描いた屏風の絵がある。これは家宝として、大饗(ダイキョウ・大宴会)や特別な客などの時に、取り出されている。
( 以下、欠文 )
☆ ☆ ☆
* 以下の展開は全く不明ですが、当初から欠落していたようです。
ここまでの段階でも物語としては成立していますので、作者は、捨て難くてこの巻に加えたのかも知れません。
☆ ☆ ☆
『 下級官吏の悲哀 (1) ・ 今昔物語 ( 31 - 5 ) 』
今は昔、
大蔵の最下の史生(サイゲのシショウ・最末席の書記。)に宗岡高助(ムネオカノタカスケ・伝不詳。宗岡氏は蘇我氏の一族らしい。)という者がいた。
道を行く時には垂れ髪で、栗毛の貧弱な雌馬を乗り物にして、表着の袴・衵(アコメ・小袖)・足袋などは粗末な布を用いていた。この高助は身分が低いからだとは言っても、身のこなしやその姿などが、とりわけ卑しげであった。
家は西の京にあった。堀河小路よりは西、近衛大路よりは北にあたる所にある、八戸主(ヤエノヌシ・戸主は地面の広さの単位で、約 140 坪。八戸主はその八つ分)の家である。南は近衛大路に面して唐風の門構えがあり、その門の東の脇に七間の家(柱と柱の間が七つある家。相当大きな家である。)を造って、そこに住んでいた。
その敷地内には、綾檜垣(アヤヒガキ・檜の薄板や皮で組目文様を表すように作った贅沢な垣。)を巡らして、その中に小さいが五間四面の寝殿を造り、その寝殿に高助の娘二人を住まわせていた。
その寝殿を[ 欠字。「しつらえ」といった意味か? ]たる事、帳(トバリ・部屋を仕切る道具。)を立て、冬は朽木形の几帳の帷(カタビラ・垂れかける絹の布。)をかけ、夏は薄物の帷をかけた。その前には、唐草の蒔絵の唐櫛笥(化粧箱)などを置いていた。
女房二十人ばかりを仕えさせ、それら皆に裳・唐衣(女官の正装。)を着せていた。娘一人に十人ずつと言うことであろう。また、女童四人に、常に汗衫(カザミ・童女の正装時の上着。)を着せていた。それも、娘一人に二人ずつ仕えさせたのであろう。
この女房や女童は、全員が然るべき蔵人を経験した人の娘で、父も母も亡くし、生活に困っていた者を、うまく言い含めて盗むかのように引き取って仕えさせていたので、一人としておかしな者はいない。容姿も態度も皆すばらしく上品である。下々の召使いも、心に任せて姿形の優れている者を選んでいるので、卑しげな者は一人もいない。
女房の局(部屋)ごとに、屏風・几帳・畳など[ 欠字。「しつらえ」といった言葉か? ]たる事、宮宅の有様に劣らない。女房たちには、季節ごとに衣装を調えて重ねて着せ替えさせた。
まして姫君達の装束となれば、綾織り職人を選んで織らせ、染め物師も尋ねて頼んだので、仕上がった物の模様や色合いなどは手に映えるほどで、目もくらむばかりであった。食事にあたっては、それぞれに揃いのお膳に銀の器物を調えた。
侍(サブライ・後世の武士とは違い、雑用や警護を務めた。従者。)には、落ちぶれた高貴な家の子弟で、どうしようもなく貧しい者を誘ってきて、様々に衣装を飾らせて仕えさせた。およそその有様はあでやかで上品らしい振る舞いは、まことに良家の人と変わりなかった。
父の高助は、外出する時は、たいそう貧しげな様子をしていたが、自分の娘の所に行く時には、綾の直衣に葡萄染(エビゾメ・薄紫色)の織物の指貫を着て、紅の出衣(イデシギヌ)をして、香をたきしめて行った。
妻は、ふだんは[ 欠字。「粗末な織物を表す言葉]らしい。]の襖(アオ・あわせ)という物を着ていたが、それを脱ぎ捨て、色とりどりに縫い重ねた衣装を着て娘の方に行った。
このように、力の及ぶ限り、とても大切に育てていた。
ある時、池上の寛忠僧都(カンチュウソウズ・宇多天皇の孫。仁和寺の子院池上寺に住んだ。)という人が堂を造って供養を行ったが、この高助は寛忠僧都の許を尋ねて、「御堂供養は極めて貴い事でございますから、卑しい娘たちにも見させてやりたいと思うのですが」と言った。僧都は、「大変善いことだ。然るべき所に桟敷など設けて見させてあげよ」と許可したので、高助は大変喜んで帰っていった。
この高助は、この僧都に長年奉仕している者なので、この堂供養においても、かねてより然るべき事を様々に承っていたので、このように見物のことを申し出たのであろう。
( 以下 (2) に続く )
☆ ☆ ☆
『下級官吏の悲哀 (2) ・ 今昔物語 ( 31 - 5 ) 』
( (1) より続く )
さて、明日には堂供養が行われるという日になったが、夕方になって、松明をたくさん灯して、車二台に川船二艘を積んで、牛に引かせて池の水際に降ろす者がいるので、僧都が、「これはどこから持ってきたものか」と訊ねると、「大蔵の史生高助が持ってこさせた川船です」と運んできた者が答えた。
僧都は「何のための川船だろう」と思っていると、高助はかねてから準備していたので、その船に、柱などを加え、一晩中さまざまな装具を付け、上には錦の天幕で覆い、側面には帽額(モコウ・簾の上部を縁取りする布。)の簾を懸け、裾濃(スソゴ・上を薄く下を濃くする染め方。)の几帳の帳を重ねた。さらに、朱塗りの高欄を船の周囲に巡らし、その下には紺の布を引きめぐらした。
こうして、暁になると、蔀(シトミ・車の側面の囲い)を上げた新しい車に娘たちを乗せて、その後ろには、出し車(イダシグルマ・装束の裾を出して飾りにした車。)十輛ばかりに女房たちが色鮮やかな裾を出して続いた。さらに、色とりどりに装った指貫姿の前駆が十余人がその前に松明を灯して続いている。
そして、全員が船に乗り終ると、簾を巡らせているその下から、全員が衣を垂らした。その衣の重なり具合や色合いは、とても言い表せないほどすばらしく、まるで光を放っているようであった。
盤絵(草花や鳥獣を円形に図案化した絵柄。)の衣装を着た童は髪をみずらに結って、二艘の船に乗せ、色鮮やかな棹で船を操った。池の南には平張りを立て、そこに前駆の者どもの席を設けた。
さて、夜が明けて、供養当日の朝になると、上達部・殿上人・招請した僧などがやって来た。
先ほどの二艘の船が池の上を巡っていくと、飾り立てた太鼓・鉦鼓(ショウコ・雅楽用の打楽器の一つ)・舞台・絹屋(絹製の天幕)などが照り輝いて目を見張るように見えるが、それ以上に、この二つの船の飾り立てた様や、出し衣が高欄に打ちかけられているのが色とりどりに重なって、それが水に映ってこの世のものとは思えぬほどすばらしく見えるので、上達部や殿上人はこれを見て、「あれは、いずれの宮の女房方の御物見か」とお尋ねになるが、僧都は、「決して誰の船とは言ってはならぬ」と固く口止めしたので、「高助の船だ」と言う者はいなかった。
しかし、ますます知りたがって、しつこく問い訊ねたが、遂に誰の船とも分からないまま終った。
その後も、事の折節に付けて、高助はこのようにして娘に物見をさせた。しかし、それが高助の娘だとは、知られることはなかった。
このように、すばらしく立派に養育していたので、勤番の者や宮の侍や諸官庁の尉(ジョウ・三等官)の子など(いずれも身分が低い)が、「婿になりたい」と申し入れてきたが、高助は気にくわないことだと娘への手紙さえ受け取らせなかった。
そして、「わが身は卑しくとも、先払いを付けるくらいの家柄の者を娘の許に通わせたい。たとえ富裕な近江・播磨(共に最上級の国とされる。)の守の子であろうとも、先払いを付けられないような者は、我が娘たちの近くには、絶対に寄せ付けない」などと言って、婿取りもしないでいるうちに、高助も妻も続いて亡くなってしまった。
娘たちには兄が一人いたが、高助が返す返すも妹のことを言い置いていたが、この兄は、「全ての財産は、自分が独り占めしよう」と思って、妹たちのことはいっさい面倒を見なかった。
そのため、侍も女房も一人残らず去って、寄り付きもしなくなった。娘二人は嘆くばかりで、食事も摂らないうちに病となり、懇切に看病してくれる者もなく、二人とも相次いで死んでしまった。
この高助は、大蔵の史生時延(トキノブ・伝不詳)の祖父である。
昔は、このように卑しい身分の者の中にも、このような気概のある者もいたのである。だが、どれほど気概があっても、家が貧しく財産を持っていなければ、いくら娘が可愛くとも、これほどのことは出来まい。
これを思うに、「高助は計り知れないほどの財産を持っていたのだ。現職の受領などにも勝っていたからこそ、このように振る舞えたのであろう」と人々は言い合った、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
『 翁専用の高札 ・ 今昔物語 ( 31 - 6 ) 』
今は昔、
賀茂祭の日、一条大路と東洞院大路が交わる辻に、明け方から高札が立ててあった。
その高札には、「ここは翁が物見する場所である。他の者は立つのを禁じる」と書かれていた。人々は、その高札を見て、決してその辺りには立ち入らなかった。
「これは、陽成院(陽成天皇。清和天皇第一皇子。奇行が多かったとされる。)が祭をご覧になるためにお立てになったものだ」と人々は思って、徒歩の人は誰も近寄らなかった。いわんや、車という車は、その高札の辺りに止めなかった。
やがて、祭りの行列が近付く頃になった時に、見れば、浅黄色の上下を着た翁がやって来て、空や地面を見上げたり見下ろしたりしながら、悠然と高々と扇を使い、その高札の下に立って、静かに見物し、行列が通り過ぎると帰っていった。
そこで、人々は、「陽成院が行列をご覧なさるはずだったのに、どうしておいでにならなかったのだろう」「何事があって、ご覧にならなかったのか」「高札を立てながらおいでにならないのは、おかしなことだ」と、口々に納得いかないことだと話し合っていると、ある人が、「あの物見していた翁の様子はどうも怪しい。彼奴は『院が立てられた高札』だと人に思わせて、あの翁が高札を立てて、『自分が良い場所で見物しよう』と思ってやったことでないかな」などと、様々に人が言い合っていたが、いつしか陽成院がこの事をお聞きになって、「その翁を必ず捕らえて尋問せよ」と仰せになられたので、翁を捜してみると、その翁は西八条の刀禰(トネ・町の五戸で構成する組織の長。検非違使によって任命される。)であった。
そこで、院から下役人を遣わして召し出すと、翁は参上した。
院の役人が仰せを承って、「お前は何を考えて『院より立てられた札』と書いて、一条大路に高札を立てて人を脅して、得意顔で行列を見物したのか。そのわけを申せ」と詰問されると、翁は、「札を立てたのはこの翁がしたことでございます。但し、『院より立てられた札』とは決して書いておりません。この翁は、すでに年も八十になりまして、物見する気力もございません。ところが、孫に当たります男が、今年、蔵司(クラノツカサ・内蔵寮)の小使(ショウシ・雑務に従事する者。)として行列に加わっております。その晴れ姿を何とかして見たかったものですから、『出かけていって拝見しよう』と思いましたが、『すっかり年老いていて、大勢の人が出ている中で拝見すれば、踏み倒されて死ぬかも知れません。それも、つまらないことだ』と思いまして、『人が近寄らない所で、静かに拝見しよう』と思いまして、立てた物でございます」と申し開きをした。
陽成院はこれをお聞きになって、「その翁は、実に良い思いつきで札を立てたものだ。『孫を見たい』と思うのは、全くもっともなことだ。その者は、実に賢い奴だ」と感心なさって、「速やかに、帰してやれ」と仰せになられたので、翁は得意顔で家に帰り、老妻に、「わしの計画はうまく行ったぞ。院もこのように感心なさっていた」と話して、いかにも自慢げであった。
しかしながら、世間の人は、院がこのように感心なさったことを良いとは申さなかった。但し、「翁が『孫を見たい』と思うのは無理からぬ事だ」と人々は言い合った、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
『 心変わりの悲劇 ・ 今昔物語 ( 31 - 7 ) 』
今は昔、
右少弁(ウショウベン・太政官の役職で、五位相当。)藤原師家(モロイエ・1027 - 1058 )という人がいた。その人には、互いに愛し合っていて、通い続けている女がいた。
女はたいそう奥ゆかしい心の持ち主で、辛いこともひたすら耐え忍ぶという性格なので、師家は何かにつけ、この女につれない男だと思われないように振る舞っていたが、公務に関して多忙なことなどがあり、また、時には浮かれ女に引き留められる夜などもあって、夜の訪問が遠のきがちになったが、女はこういうことには慣れていないので、辛いことだと思い、打ち解けた様子を見せないでいるうちに、しだいに男の足が遠のき、以前のようではなくなっていった。女は男を憎らしいとまでは思わなかったが、それを情けなく思い、不満な気持ちが高まっていくうちに、互いに嫌いでもないが、遂に二人の仲は絶えてしまった。
こうして、半年ばかり過ぎたころ、師家がその女の家の前を通りかかったが、たまたま、その家の人が外出先から帰ってきて、「弁の殿(師家)がいまこの前を通っておりました。通っておいでだったころは、どんなだったでしょうか。なんとも複雑な気持ちでございました」と話した。主の女は、それを聞くと人を出して、「申し上げたいことがございます。ちょっとお寄りくださいませ」と言わせた。
師家はそれを聞いて、「ほんとに、ここはあの人の家だった」と思い出して、車を返して、降りて家に入ってみると、女は経箱に向かって、なよやかな着物に美しい清らかな生絹(スズシ)の袴を着けているが、急に取り繕ったという様子ではなく、姿よく座っている。その目元も額つきも憎からず、見るからに魅力的である。
そのため、師家は、まるで今日はじめて会った人のような思いがして、「これほどの人を、なぜ今まで大切にしなかったのだろう」と、返す返す我ながら残念で、「女が経を読み奉っているのを中断させてでも共寝したい」と思ったが、長い間訪れもしないでおいて、了承も得ないで無理押しするのも気が引けて、あれこれ話しかけようとしたが、答えようともしない。
女は、経を読み終えてから話そうとしている様子なので、打[ 欠字。推定できず。]たる顔の美しさは、過ぎ去った二人の仲を取り返すことが出来るものなら今すぐ取り返したく、その思いは、自分が余りにも無様に感じられるほどであった。
そこで、ここに留まって、「今日より後は、この人をおろそかにするようなことがあれば、どんな罰でも受けよう」と、心の内であらゆる誓言を立てながら、この間の冷たい仕打ちをしてきたことなどを繰り返し話したが、女は何も答えようとはせず、法華経の七の巻になると、薬王品(ヤクオウボン)の部分を繰り返し繰り返し三度ばかりも読み奉っているので、師家が「どうしてそのように繰り返されるのか。早く読み終えて下さい。お話ししたいことがたくさんあります」と言うと、女は、『 於此命終 即往安楽世界 阿弥陀仏大菩薩衆 囲遶住所 青蓮花中宝座之上 』( オシミョウジュウ ソクオウアンラクセカイ アミダブツダイボサツシュウ イニョウジュウショ ショウレンゲチュウホウザシジョウ ・ 命終えてのち 極楽世界の 阿弥陀仏や大菩薩たちが 取り巻いている所に往生し 青い蓮花の中の宝座の上に生れよう )』という所を読み奉り、目から涙をホロホロと流したので、師家は、「何となされたか。まるで尼たちのように道心がお付きになられたのか」と言うと、女は涙を浮かべた目を上げてじっと見つめた。
その目元は霜か露かに濡れたのかと思われるほどで、何か不吉な気がして、「この数か月、どれほどつれないと思ったことだろう」と思うと、師家も涙を押えるのであった。
「もしこの人を、今日より後に二度と逢えないとなれば、どれほど辛いことだろう」と、繰り返し悔やまれ、我が心のなせることとは言いながら腹立たしくてならなかった。
やがて、女は経を読み終えると、琥珀で飾った沈(ジン・香木の一種)の念珠を押し揉んで念じ入り、しばらくして目を見上げたが、その顔色はにわかに変じて怪しくなったので、師家が「どうしたことか」と思って見つめると、女は「今一度お逢いしたいと思いまして、お呼びしたのです。今はこれを恨んで・・」と言うと、そのまま死んでしまった。
師家は驚愕して、「どうなさったのか」と叫び、「誰か来てくれ」と人を呼んだが、すぐには聞きつける者がいない。しばらくして、ようやく聞きつけた年配の侍女は「何事ですか」と言ってやって来たが、師家が[ 欠字。「茫然としている」といった言葉らしい。]いるので、侍女は「これは大変。いったいどうしたというのですか」と言って、あわてるのも当然のことである。
もはやどうすることも出来ず、まるで髪の毛が切れるほどの短い時間の間に死んでしまったが、とはいえ、ここで喪に籠もると言うわけにもいかず、師家は家に帰ろうとしたが、女の生前の面影が心に懸かり、かなしく思うばかりであったが、このようなことになろうとは予想できようもなかった。
やがて、師家は家に帰ったが、それから幾らも経たないうちに病にかかり、数日して亡くなってしまった。あの女が取り憑いたのではないかと言われた。また、親しかった人は、女の霊などの仕業であることを知っていたに違いない。
「あの女は最後の時に法華経を読み奉って亡くなったのだから、きっと後世は貴いことであろう」と人は見ていたが、「師家を見て、深い恨みの心を起こして死んだとは、二人ともどれほど罪深いことであろうか」と思われる、
此(カク)なむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆