雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

二条の姫君  第五十三回

2015-07-12 09:20:46 | 二条の姫君  第二章
               第二章 ( 十一 )

九月には、御供花(クゲ/クウゲ)が行われました。
今年は、六条殿の御所が新しくなって、いつもにも増して見栄えがするのですが、その上に新院(亀山上皇)の御幸まであり、「御供花行事の立ちあいに、深草院御所の女房の応援が欲しい」などと申し出があったものですから、女房方皆さまご準備に大わらわでございました。
ただ姫さまは、このところご気分がすぐれないご様子で、引きこもりがちな日を送っておられました。

しかし、御供花の行事には参らぬわけにはいきません。
御供花が終わった後、松茸を採りに伏見の御所に御所さま・新院の両院お揃いで御幸されるということで、近衛の大殿もお出でになることになっておりました。
ところが、どのような差し障りがあったのでしょうか、突然ご欠席となり、お手紙が届けられました。

『 伏見山幾万代(イクヨロヅヨ)か栄ふべき みどりの小松今日をはじめに 』
という、近衛の大殿の御歌に、御所さまのお返しの御歌は、
『 栄ふべきほどぞ久しき伏見山 生(オ)ひそふ松の千代を重ねて 』
というものでございました。
近衛の大殿と申し上げますのは、前関白鷹司(藤原)兼平殿でございますが、伏見山に御所さま御一統の繁栄を込められたものなのでしょう。(伏見山は、後深草院の皇統である持明院統の象徴)
中二日のご逗留でございましたが、賑やかな酒宴などもあり、両院はご機嫌よいご様子で、姫さまも少し元気になられたご様子でございました。

ところで、一昨年の七月のことですが、姫さまがしばらく里に下がられていた後御所に参られた時のことでございます。
姫さまは、裏表に小さな州流し(スナガシ・紙などに金・銀の砂子を散らしたもの)をして中央が縹色(ハナダイロ・薄い藍色)の紙に水だけを描いて、その水の上に白い絵の具で「くゆる煙(ケブリ)よ」とだけ書いた扇紙を樟木の骨とともに、張らせるためにある人のもとに依頼されました。
すると、その人の娘というのは絵の上手として知られた方なのですが、その扇紙を見て、一面の水に秋の野を描いて、「異浦(コトウラ)にすむ月は見るとも」と書きつけたものを持参されました。
いずれも、他の和歌の一部を引用したものです。

姫さまは、この扇を御所さまにお見せしましたところ、
「一人の筆跡には見えぬ。どのような関係の人の形見なのか」
と、いろいろとお尋ねになられるものですから、適当にお答えするわけにもいかず、姫さまはありのままを申し上げられました。
御所さまは、その絵の美しさに感心されておりましたが、やがて、浮気な恋心が高まって、やがて恋路に迷い込まれてしまったのです。あれから、足掛け三年ほどにもなりますが、折々に姫さまに恋の手引をねだられたりしていたようです。

ところが、どのような経路で進展したものでしょうか、十月十日の宵の頃に、その女性が参られるという手筈になったのです。御所さまはお心の置き所もないご様子で、格別なお心遣いで御仕度をなさっていましたが、中将の藤原資行(スケユキ)殿が参られて、
「御命令ありました御傾城(ケイセイ・美人)を、お連れしました」
との報告があり、姫さまが御所さまにお伝え申し上げますと、
「しばらく、車に乗せたままで、京極面の南の端の釣殿のあたりに留めておくように」
との仰せがございました。

     * * *

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二条の姫君  第五十四回

2015-07-12 09:19:34 | 二条の姫君  第二章
               第二章  ( 十二 )

初夜の鐘を打つ頃(午後八時過ぎ頃)に御所さまの三年越しの想い人が参上されました。
姫さまは、青柑子(表は青、裏は柑子)の二つ衣に紫の糸で蔦を縫い取りしたものに、蘇芳の薄衣を重ねて、赤色の唐衣を着て伺候されておりました。

いつものように、「案内せよ」との仰せがあり、姫さまは車寄せの所に参りました。
その人は、車から降りる時の音や、衣ずれの音なども荒々しくて、ひどく大きな音がするのが意外に思いながら案内いたしました。、いつもの昼の御座所のそばの四間を、特別に整えて、香も格別に心をこめて薫きしめられている所に、お導きになられました。

その人のお姿は、一尺ばかりの檜扇を浮織にした衣装に、青裏の二つ衣に紅の袴をはき、どれもすっきりと糊気のきいたものを付けておられましたが、着慣れていないのでしょうか、ぎくしゃくとしていて竹籠でも背負っているように背中が出っ張っていました。顔のご様子も、とても色っぽく目鼻立ちもはっきりとしていて、いかにも美人だと見えるのですが、とても良家の姫君といった雰囲気ではなかったそうでございます。
肥え気味で肉付きがよく、背が高く、色は白く、内裏などの女房で、大極殿の行幸の儀式などに、一の内侍などとして、髪を結い上げて、御剣を捧持する役などを勤めさせたいと見える人だったそうです。

「ご案内致しました」
と申し上げますと、御所さまは、菊を織った薄色の御直衣に大口袴をお召しになって、御部屋に入られました。
薫きしめられた香のかおりは、百歩の先までも届くといったほどで、屏風のこちらまで漂っていて少々過ぎています。
御所さまが御話などなさるのに対して、はきはきと答えられている様子なのが、御所さまにはお気に召さないのではないかと、姫さまは可笑しく思っておられましたが、やがてお寝みになられました。

姫さまは、いつものようにお側近くで宿直のお役目についておりましたが、西園寺の大納言実兼殿も明り障子の外、長押の下で同じように宿直として控えておられました。
やがて、それもまだ夜もあまり更けないうちに何事も終わってしまったのでしょうか、まったくあきれてしまうほどのことでございます。

そして、御所さまは早々に御部屋の外へお出になり、姫さまをお召しになられ参上されますと、
「玉川の里だ」
と、仰せられたそうです。
古歌を引用したものと思われますが、姫さまはそれ以上詳しくはお話されませんでしたが、御所さまのご機嫌は悪かったようでございます。

夜更けの鐘すら打たれぬ前にその人は帰されたそうです。
御所さまは御気分がすぐれない様子で、御衣を召し替えられた後、簡単な御食事さえ召し上がらないで、「ここを打て、あそこを打て」と身体のあちこちを姫さまに打たせながら、御寝みになられたそうでございます。
折から雨が激しくなってきていて、あの人の帰途の袖もさぞかし濡れることだろうと、姫さまは同情されていたのです。

     * * *


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二条の姫君  第五十五回

2015-07-12 09:17:57 | 二条の姫君  第二章
               第二章  ( 十三 )

やがて、夜も明けて参った頃、
「資行殿がお連れしたお方は、いかがいたしましょう」
と姫さまが申し上げますと、御所さまは、
「おお、そうだ。すっかり忘れていた。見て参れ」
と仰せになりました。
起き出てみますと、すでに日が昇っている時間になっていました。

角の御所の釣殿の前に、ひどく屋根の破れた車が、夜通し雨に打たれていたことがはっきりと分かるほどに、ぐっしょりと濡れている。
何とひどい状態なのだと思いながら、
「車をお寄せなさい」
と、姫さまが命じられますと、供の人が今になって門の下から出てきて、車を寄せました。

姫さまが中を見てみますと、練貫(ネリヌキ・絹の織り方の一種)の柳の二つ小袖に、花の絵を粗雑に描いたと思われるのが、車が雨漏りをして、水に皆濡れてしまい、裏の花模様が表に透けてしまい、練貫の二つ小袖に色移りして、ひどい状態になっていました。
女性は、一晩中泣き明かしたようで袖は涙に濡れ、髪は、漏った雨水のためか、あるいは涙のためなのでしょうか、まるで洗ったばかりのようになっていました。

「この有様では、かえって失礼にあたります」
と言って、女性は車から降りようとされないのです。
姫さまは、何ともいたたまれないような気持ちになりましたが、
「わたしの所にまだ新しい衣服があります。それを着て参上なさいませ。昨夜は大事なことがあって、ご案内が遅れました」
などと、取りなされましたが、ただ、泣くばかりだったそうでございます。そして、手を合わせて、
「どうぞ、帰らせて下さい」
と言う様子も、お気の毒なばかりでした。
時刻もすでに昼に近く、「実際、これから参上されたとて、何ともしようがあるまい」と姫さまはお考えになり、その傾城とやらをお返しになられました。

その経緯を御所さまにご報告申し上げますと、
「まことに、ひどいことをしてしまったな」
と、さすがに御所さまもお気になされたようで、直ちに御手紙を届けさせられました。
しかし、ご返事はなくて、「浅茅が末にまどふささがに(浅茅の先で惑っている蜘蛛)」と書かれた硯の蓋に、縹色の薄様の紙に包まれた物だけを載せて差し上げられました。
御所さまが受け取られてご覧になられますと、「君にぞ惑う」と、絵具で彩色された薄様の紙に、黒髪が少しばかり切って包まれていて、
『 数ならぬ身の世語りを思ふにも なほ悔しきは夢の通ひ路 』
という和歌だけで、それ以外には何も書かれておりませんでした。

「出家などしたのだろうか。何とも後味の悪いことだ」
と、御所さまは、たびたび御使いを差し向けられましたが、とうとう、行く方知れずになってしまったそうでございます。

これは、ずっと後のことでございますが、河内国更荒寺という寺に、五百戒を守る尼衆としておいでだという噂が伝わってきましたが、御所さまの仕打ちはとてもひどいものでありましたが、それを機に、仏道という真実の道に進むきっかけになったのですから、「憂きことはかえって嬉しいこと」とでもいうのでしょうね、と姫さまは寂しく笑っておられました。

     * * * 
     
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二条の姫君  第五十六回

2015-07-12 09:15:06 | 二条の姫君  第二章
               第二章  ( 十四 )

さて、まことに突然のことでございましたが、姫さまが有明の君と呼ばれる存在になっていました御方から、稚児として伺候している者を通じて御手紙が届けられました。

姫さまのお気持ちは、なかなか複雑なものであったようでございます。
御手紙の内容と申しますのが、意外と思われるほどに真心が感じられる心情を綴ったものでしたので、かえって姫さまには煩わしく感じられたようでした。
再三の御手紙に対して、時々はご返事申し上げていたようですが、直接お逢いすることもなく、その方がよいと考えておられたようでした。
そして、やがて年も改まり、建治二年(1276)を迎えました。

新院と本院(亀山上皇と後深草上皇)の間で、御花合(ハナアワセ・二組に分かれて、種々の花を競う遊び)が行われました。
人も知らない山奥まで花を探し求めるなど、この春は時間が足らないほど忙しいので、人目に隠れてお逢いすることなど出来ない寂しさを、姫さまは雪の曙殿にお手紙に込められたようでございます。
この年は、ほとんど御所に伺候して過ごし、里に下がることもなく秋になりました。

九月の二十日過ぎの頃でございましたでしょうか、善勝寺の大納言殿から細々と書いたお手紙が届きました。
この御方は、四条隆顕殿でございますが、姫さまの母方の叔父にあたられる方で、御両親を亡くされている姫さまにとって、最も親身になってお世話下さる御方なのです。ただ、その言動には粗忽な面もあり、甘えもあるのでしょうが姫さまがお気にいらないところも多々ある御方でもあります。

「申し上げたいことがあります。出雲路という辺り(鴨川の西岸にあたる辺り)に居りますが、お目にかかりたがっている女たちがおりますので、何とかしておいで下さい。私からのお願いには、その身に代えてもお聞きいただきたい」
と、お手紙には、強引なほどに御所を退出して来るようにと記されておりましたが、何といっても姫さまには親代わりともいえる御方だけに、むげに断ることなど出来ません。
早速に僅かな供だけで向かわれましたが、そこには女性などおらず、善勝寺の大納言殿と一緒に居られたのは、かの法親王、つまり有明の月殿でございました。

善勝寺の大納言殿は、有明の月殿とは幼い頃から親しく好意を持っていたようです。今回の姫さまへの呼出し状は、有明の月殿への手助けだったのです。
いつものことながら、ひどい振る舞いだと姫さまは苦情を申されましたが、同時に、どのような手段を使ってでも逢いたいという真心は、それはそれで伝わってきてはいました。
しかし、あまりにも執拗な御振舞いは、いくら高貴な御方とはいえ、姫さまは気味の悪さを感じ、怖ろしささえ感じておられました。

有明の月殿は、姫さまのお心をほぐそうと何かと話しかけられましたが、ほとんど何もお答えになられませんでしたが、拒絶することも出来ないままに、共寝の床の中で身を固くしている有様は、何かの物語の中での姿のように思われて、切なくも不思議な思いだったのです。
有明の月殿は、夜もすがら、自分の気持ちの愛情がいつまでも変わらぬことを誓い続けられましたが、姫さまには、自分とは関係のない出来事のように感じられ、「この御方とのことは、今宵が最後だ」と心に誓い続けていたそうでございます。

鶏の声がいかにも後朝の別れを促すように聞こえてきますのも、その御方は悲しい限りだと言葉を尽くして仰られるのですが、姫さまのお心には、嬉しく聞こえたそうで、我ながら薄情なことだと思ったと、後に姫さまは寂しくお話になられました。

     * * *


 
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二条の姫君  第五十七回

2015-07-12 09:13:52 | 二条の姫君  第二章
               第二章  ( 十五 )

善勝寺の大納言殿が、咳払いをして、姫さまに何か話しかけようとなさりました。
一度目は、よく聞き取れないほどの声をかけたようですが、思い止まったかのように立ち去り、またすぐに戻ってきて思いきったかのように声をかけてきました。
姫さまが善勝寺の大納言を今一つお好きでないことは確かなのですが、とはいえ、お身内の中では最も親身に後見して下さる方であることは確かですし、御所さまからのお言葉もあって、ご当人は親代わりのような気持ちもお持ちなのです。

「せめてお見送りなどしておくれ」
と、大納言殿は、あれやこれやとくどくどと話された後、姫さまに懇願されました。大納言殿の法親王に対するお気持ちが姫さまには可笑しいほどに伝わってきました。
大納言殿は、姫さまの私的な部分の多くのことを承知されていて、今回お手紙を寄こしたのも、法親王から懇願されたとはいえ、薄々二人の関係を承知していたからなのでしょう。それだけに、その大納言殿に寝乱れた姿を見せることなど姫さまに出来るはずがございません。

「気分が悪いのです」
と、姫さまは小さな声で伝え、起き上がろうとなさいませんでした。
大納言殿に顔を見せたくない気持ちもありましたが、それ以上に、泣く泣く部屋を出て行かれた法親王の御姿を思うと、姫さまの御袖の中に魂を残してゆくのではないかとさえ見える有様で、その執念への怯えもあり、自らの罪深さに本当に気分が悪くなっていたのかもしれません。

自分をだまして呼び寄せた大納言に対する心のうちも恨めしく、まだ明るくならないうちに起き出して、公事にかこつけて姫さまは急いで御所に戻り、自分の局に臥していますと、つい先ほどまでの御姿そのままで法親王の面影が浮かんできたそうで、姫さまはたいそう怯えている様子でした。
さらに、その昼頃には、長々と書きつづられた御手紙が届けられましたが、その一言一言は決して偽りではないと思われるのですが、その中に、
『 悲しとも憂しとも言はむ方ぞなき かばかり見つる人の面影 』
と、別れ際の姫さまのつれなさを嘆く御歌がございました。

今さら姫さまのお心が変わるわけではありませんが、さすがにあの時は自分の鬱々とした気持ちがそのまま出てしまったことをお気にされたようで、ご返事を書かれました。
ただ、頂かれた御手紙はあまりにも長く、それに何とお応えすればよいのか戸惑いながら、
『 変はるらむ心はいさや白菊の うつろふ色はよそにこそ見れ 』
と、だけお書きになってご返事なさいました。
「自分の心が変わるかどうかは分かりません。白菊の色がうつろうのは、そちらのことで、自分には関係ありません」とお伝えしたのでしょうが、姫さまのご返事を法親王はどのように受け取られたのでしょうか。

     * * *


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二条の姫君  第五十八回

2015-07-12 09:12:44 | 二条の姫君  第二章
               第二章  ( 十六 )

その後も、有明の月殿からは、姫さまに御手紙など様々に接触されてきましたが、姫さまはお返事をされることはございませんでした。まして、参上することなどお考えにもならなかったはずです。
何かと口実を作って、何とかお逢いすることを避けているうちに、はや年の暮の頃になりました。
その時の流れの速さに驚いたわけではないのでしょうが、姫さまのもとに意外なお手紙が届きました。

その、善勝寺の大納言殿からのお手紙には、
「法親王の御手紙を差し上げます。
あなたのこのところの有り様は、本当にかいのないことです。あなたがむやみにお嫌いなられることではありません。しかるべき前世からの因縁があればこそ、このようにあなたのことを深く愛するようになられたでしょうに、あなたが薄情にあしらわれ、このように気まずい状態になってしまったことは、あなたの身の上だけではないとお考えください。
法親王の御恨みが、あなたばかりでなく、この身にも同じように向けられていることが、本当に恐ろしく思われます」
といった内容が、細々と書かれていたのです。

同封されている御文を見ますと、ごつい感じの立文を上下に糊付けにして、書かれていました。
開けてみますと、熊野権現だとか、またどこのお寺なのか、本寺のとでもいうのでしょうか、牛王(ゴオウ・牛王法印。寺社が出す厄除けの護符で、時にはその裏に誓詞・起請文などを書いた)というものが捺されている裏に、まず日本六十カ国(正しくは日本は六十六カ国とされていた)の神仏・梵天王・帝釈天を始めとして、書きつくされた後に、

「私は七歳にして勤求等覚の沙門(ゴングトウガクノシャモン・修業する僧の姿)を汚してよりこの方、炉壇(ロダン・護摩を焚く炉を備えた壇)に印を結び、難行苦行の日を重ね、近くは天長地久(テンチョウチキュウ・天皇の長寿を祈る)をお祈り申し上げ、遠くは一切衆生もろともに滅罪生善を祈誓してきました。
心のうちでは、必ずや牛王天童諸明王が、霊験を垂れ給うと思っておりましたが、いかなる魔縁によるものなのか、よしなき愛執ゆえに、ここ二年というものは、夜は夜通しあなたの面影を恋うて、涙に袖を濡らし、本尊に向かって経典を開く折々も、まずあなたの言った言葉を思い出し、護摩壇の上にはあなたの手紙を置いて経典代わりとして、御灯明の光にはまずその手紙を開いて心の糧としている。
この思いは抑え難く、かの善勝寺の大納言に相談すれば逢う機会も容易いだろうと思ったのです。また、私のこの思いと同じように、きっとあなたも同じように思ってくれるものと願ったけれど、全て虚しいばかりだった。
この上は、手紙を差し上げたり、言葉を交わそうと願うことは、今生では断念する。

さりながら、心の中からあなたを消し去ることなど、転生輪廻を繰り返してもあるはずもないのだから、私はきっと悪道に堕ちるだろう。従って、この恨みが尽きる時はあるはずがない。
金剛・胎蔵両界の修行以来潅頂(カンジョウ・密教で仏の位に乗るための儀式)に至るまで、一期の行法、読誦大乗、四威儀の行と、一生の間に修業するもの全てを、三悪道(六道のうちの地獄・餓鬼・畜生の三悪道)に回向しよう。この法力でもって、今生は虚しいままに終わるとも、後生には悪道であなたと生まれ逢おう。
そもそも、生を受けてこの方、幼少の頃むつきの中にいた時のことは記憶にないまま過ぎてしまった。七歳にして髪を剃り、墨染の衣を身にして以来、女性と同じ床に居たり、または愛欲の念を起こしたことなど全くない。これから後も絶対にない。
かの大納言が私にいった言葉は、私のこの思いを並の人と同じだと考えているからだ。その心中が、返す返すも恨めしい」

などと書いていて、天照大神・正八幡宮など、おびただしい数の神々の名をお書きになった内容には、姫さまはただ茫然となされておりました。
身の毛が立つほどに恐ろしく、気分が悪くなられたようでございましたが、かといって、姫さまのお気持ちをどうこうすることなど出来ますまい。

姫さまは、これらの御手紙をすべて巻き集めて、お返しになられましたが、その中に、
『 今よりは絶えぬと見ゆる水茎の 跡を見るには袖ぞしをるる 』 (水茎は筆跡のこと)
とだけ書いて、初めと同じように封をしてお返しになられました。
この後は、すっかり訪れも無くなりました。もちろん、姫さまからご連絡することなく、何とはなく虚しいままに年が改まりました。

新春には、法親王は早々に御所に参上されるのが常でございます。
その時には盃を差し上げることになっており、格別に他の方もおいでにならず、静かな酒席でございました。
いつものように常の御所でのことですから、姫さまも身を隠すわけにもいかず、御前に伺候されておりました。
「酌に参れ」
と、御所さまの仰せがあり、姫さまが立ち上がろうとなされました時、突然鼻血を流されたのです。目まいもするようで、そのまま御前を退出いたしました。

その後、十日ばかりも、姫さまのご気分は優れず、それもかなり重い様子が続き、どういうことなのかと、恐ろしい気がいたしました。

     * * *
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二条の姫君  第五十九回

2015-07-12 09:11:16 | 二条の姫君  第二章
               第二章  ( 十七 )

姫さまの御病状は、それ以上は悪化することもなく、やがて全快なされました。
実は、姫さま御自身も、仏罰などとあれこれ考えてしまわれたようで、ご体調というより、ご心痛の方が勝っていたのだと申されておりました。

そして、二月になって間もない頃のことでございます。
新院(亀山上皇)がおいでになられ、御所さまとただお二人で小弓の競技をなさいました。
「お負けになられたなら、御所の女房たちを、上臈も下臈も皆お見せください。私が負けましたなら、同じように致しましょう」
と、新院が御提案なされました。
御所さまも異存なくお受けしましたが、ご遊技は新院の勝ちとなりました。

「こちらからご案内いたしましょう」
と言う御所さまのお言葉があり、新院は還御なさいました。
御所さまは、資季(スケスエ)の大納言入道殿をお召しになって、
「どのようなやり方がよいだろうか。珍しい趣向など、何かないか」
と、御相談になられました。
この大納言入道殿は、御歳七十歳にて、歌人として知られた御方でございます。

「正月の儀式のように、台盤所に並べ置かれるのも、あまり珍しいことではないでしょう。また、一人ずつ人相占いの人に会うように出て参るのも、異様なものでございましょう」
など、公卿方がそれぞれに申されますと、御所さまは、
「竜頭鷁首(リュウトウゲキシュ・一艘は竜頭、一艘は鷁首を彫刻した二艘一対の舟。鷁は想像上の水鳥)の舟を造って、女房たちに水瓶を持たせて、源氏物語に出てくるような舟楽をしてはどうか」
という御意向を示されましたが、「舟は、あまりに大仰で煩わしい」ということになり、それも決まりませんでした。

資季入道殿は、
「上臈八人、小上臈・中臈もそれぞれ八人ずつを、上中下の蹴鞠の童にみなして、橘の御壺庭に柳・桜・松・楓などの木を立て、蹴鞠の有様をまねるのは、珍しゅうございましょう」
と進言なされました。
「それがよい」と、皆々賛同し、めいめい、上臈には公卿、小上臈には殿上人、中臈には上北面(昇殿を許されている武士)が後見役について、支度にかかりました。

女房方皆さんが蹴鞠の童に扮するというのですから、そのご準備は大騒ぎです。
水干袴に刀を差して、沓・襪(シタウヅ・沓の下にはく足袋のようなもの)などをはいて支度するのですから、姫さまはとてもご機嫌ななめです。それも、まだ夜ならともかく、真昼間に行うというのですから、ご不満は姫さまばかりではないようです。
けれども仕方のないことで、それぞれ皆さまご不満を申し上げながらも、準備に余念がありません。

姫さまには、西園寺の大納言殿が後見役になりました。はい、姫さまが雪の曙殿としてお慕い申し上げている御方でございますが、このような場では親しげに振舞うことなど出来ることではございません。
姫さまは、縹裏(ハナダウラ)の水干袴に紅の袿を重ねて着られました。左の袖に沈香の岩を付け、白い糸で縫い取りをして滝を落とし、右の袖には桜を結びつけて、たくさん花びらを散らしています。袴には、岩や井堰(イセキ・川の流れを堰き止めた所)などを描いて、花びらをびっしりと散らしてあります。
『涙もよほす 滝の音かな』といった趣向で、源氏物語の一場面を演出しているのでしょうか。

権大納言殿(女房名)には、資季の大納言入道殿が後見役になっています。
萌黄裏の水干袴には、左に西楼、右に桜の模様が描かれ、袴には、左に竹を結んで付け、右に灯台(室内用の灯り台)を一つ付けています。これは和漢朗詠集からの趣向なのでしょう。そして、紅の単衣を重ね着されています。
皆さまそれぞれにこのような工夫をなされています。冷泉富小路殿の中の御所の広間を屏風で区切って、二十四人の女房方がご準備される様は、壮観と申し上げるばかりでございます。

     * * *

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二条の姫君  第六十回

2015-07-12 09:10:12 | 二条の姫君  第二章
               第二章  ( 十八 )  

さて、毬も蹴鞠用の本物のものではなく特別なものを作り、前もって新院(亀山上皇)の御前に置くことにしていましたが、それでは面白くないということで、蹴鞠の競技のように、最初に高々と蹴り上げる真似をして、落ちるところを袖で受けて、沓を脱いで新院の前に置くという指示がありました。
女房方皆さま、この最初に毬を蹴り上げる役を泣いて辞退されたものですから、そういうことが上手だということで、東二条院の御方の女房である新衛門督殿が上臈の組の八人の中に加わり、勤められました。

ご大役を無事果たされたお姿は、なかなかご立派なものでございました。しかし、それにも増して、毬を袖で受けて新院の御前に置くお役こそがもっとも晴れがましいお役なのです。
そのお役は、上臈方八人の首座に就いておられる姫さまがお勤めになられたのです。その艶やかな御姿、臆することのない颯爽とした御振舞い、姫さまが嫌がっておられた服装さえも実に晴れやかで、居並ぶ方々をうっとりとさせてしまうほど、すばらしいものでございました。

南庭の御簾をお上げになって、両院と春宮(トウグウ)がお出ましになっており、階下には公卿方が両側に着座されています。殿上人はここかしこに立っておられます。
女房方が塀の下を過ぎ、南庭に入る時には、後見役の方々が色とりどりの狩衣を着て、介添えに同伴されました。
新院は、「女房たちの名前を、一人一人お伺いしたい」と申されています。

新院の御幸は昼からあって、酒宴も早くから始まっていましたので、
「遅い。御毬を早く早く」
と、奉行の春宮大進・藤原為方殿をお責めになりますが、「ただ今すぐに」などと言い訳しながら、松明を灯す時刻なりました。
やがて、それぞれの後見役は紙燭を持って、「私は誰それで、こちらは何々の局です」と申されて、特に御前に向かっては、袖をかき合せて皆さま緊張したご様子で通り過ぎられました。

中臈の八人から順に、蹴鞠場のように設えられている木の下に進み、それぞれが定められた木のもとに居並んだ様子は、それはそれは艶やかなものでございました。
ましてや、御観覧の殿方たちが、上の方も下の方も興味津々でありましたことは当然のことでございましょう。
そして姫さまは、御毬を新院の御前にお届けする大役を果たされたのです。御毬を置いたあと急いで戻ろうとされたのですが、新院からお声がかかり、しばし召し置かれて、そのお姿のままでお酌に参られたのです。
姫さまにはとても恥ずかしいことであったようですが、見学させていただいていた者には、とても晴れがましく、その美しさは際立っておりましたのでございます。

二、三日前から、それぞれの局に伺候されて、髪を結い、水干を着たり靴を履いたりする練習をされていて、慣れるまでの間は後見人たちが世話をされていて、養い君の女房方をもてなされるうちに、それぞれの組でいろいろなことがあったようでございます。
姫さまでございますか・・・。姫さまの後見役は、西園寺の大納言殿、つまり雪の曙殿でございますからねぇ・・・。

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二条の姫君  第六十一回

2015-07-12 09:08:52 | 二条の姫君  第二章
               第二章  ( 十九 )

それから間もなくのことでございます。
両院の間で報復戦をということになり、今度は御所さまがお勝ちになられました。
新院(亀山上皇)は御所さまを嵯峨殿の御所にお招きになって、按察の二品(アゼチノニホン・藤原永子、亀山上皇の乳母)のもとにいらっしゃる今御所(イマゴショ・亀山上皇の皇女)とか申される十三歳におなりの姫君を、五節(ゴセチ)の舞い姫に仕立て上げられ、上臈女房たちが童や下仕えとなって、帳台(チョウダイ・天皇が五節の舞を見る儀式)を試みる趣向がございました。

また、公卿方は厚褄(アツヅマ・着物の裾に綿を入れたもの)で、殿上人や六位の方々は肩脱ぎになって、北の陣を渡られました。雑仕などの仕事ぶりや、露台での乱舞などもあり、天皇の前で舞う御前の儀式など、きめ細かく演じられる様子はとても面白く、すばらしいものでございました。
さらに、まだそれでも名残惜しいということになり、報復戦の報復戦までなさいまして、それは御所さまの負けとなり、そのことへのご趣向は、伏見殿にて行うということで、源氏物語の六条院の女楽を真似されることになったのです。

紫の上の役は東の御方(藤原愔子、伏見天皇生母)、女三宮の琴(キン)の代わりに笙の琴を隆親大納言殿の娘の今参り殿に弾かせるということを、大納言殿自ら申し出られたということをお聞きになって、姫さまはご機嫌を悪くなさっておりました。この大納言殿は、姫さまの母方の祖父にあたるお方ですが、出しゃばられるのを姫さまはお気にいらなかったのでしょう。
そのこともあって、姫さまは、今回のご趣向には参加しない旨申し出されましたが、
「この前の御毬の折に、新院が格別に声をかけたりして見知っているので」ということで、姫さまのわがままは通していただけず、「明石の上の役で、琵琶を弾くように」との御沙汰がありました。

琵琶につきましては、姫さまは七歳の時より叔父である雅光の中納言殿から手ほどきを受け、ご本人の申すにはあまり熱心ではなかったようでございますが、九歳の頃からは御所さまからお教えを受けておられて、琵琶の三秘曲というところまでは達していないまでも、蘇合・万秋楽などは習得されているのです。
後嵯峨院五十の御賀の折にも、白河殿で荒序(コウゾ)とか申す秘曲を、「十歳にして、後深草院を頼りに、可憐に弾いたものだ」とお褒めを戴き、花梨木を用いた琵琶で紫檀の転手(テンジュ・琵琶の柄の頭部の弦を巻きつける棒)があるのを、赤地の錦の袋に入れて、後嵯峨院より頂戴しているのです。

当然御所さまは、姫さまが琵琶の上手なことを承知の上でのご命令でしたが、姫さまはあまり気が進まないご様子でございました。
「柳の衣に紅の袿、萌黄の上着、裏山吹の小袿を着るように」ということでご準備されましたが、そもそも、田舎の明石入道の娘である明石の上は、あきらかに他の方々のお役より身分の低い役であることも、姫さまにはお気にいらなかったのです。

東の御方の和琴といいましても、上手ということは聞いておりませんので、最近お習いになったものでしょう。琴(キン)の琴の代わりである今参り殿の琴は、申し出られたそうですから、自信があるのでしょう。
源氏と明石の上の娘である明石の女御の君の役は、花山院太政大臣のご息女、西の御方(後深草院の妃)ですが、紫の上役の東の御方とお並びになられました。
姫さまは、対座に敷かれた畳の右の上臈女房として控えることになるのでしょう。今参り殿は女三の宮の役ですから、きっと上座でしょうから、姫さまはますますご機嫌斜めのようです。
しかし、御所さまのご意向がそうなのですから、ご不満申し上げるわけにもいかず、皆さまと共にご趣向が行われる伏見殿に向かわれました。

     * * *


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二条の姫君  第六十二回

2015-07-12 09:07:50 | 二条の姫君  第二章
               第二章  ( 二十 )

今参り殿は、当日、家紋を付けた車で、侍を連れなどして参ったので、姫さまは、ご自分の昔のことを思い浮かべられていたようでございます。

やがて、新院が到着されました。
早速に酒宴が始まりました。
こちらには、女房方が順に居並んでいて、めいめいの楽器を前に置き、思い思いの敷物などを敷き、源氏物語の若菜の巻なのでしょうか、その場面の手筈に従って座っておられるようです。
時刻になりますと、御所さまは六条院(光源氏)のお役につき、新院は夕霧大将のお役につかれました。
鷹司中納言中将殿や洞院の三位中将殿なのでしょうか、笛や篳篥(ヒチリキ)のお役で階下へ召されるという手筈になっていて、まずは女房方が居並んでいるようです。

両院は、あちらの裏で御酒盛りがあって、酒宴半ばになって、こちら側へお入りになるという段取りになっているのですが、隆親の大納言殿が参られて、女房方の座を確認され、
「この席次の有様はよくない。女三宮役は文台(小机)の前である。今、明石の上を演じる人には、こちらは叔母にあたる。あちらは姪である。叔母であるこちらが上座に座るべきである。かく申す私隆親は、故大納言雅忠(二条の姫君の父)よりは上位だった。どうしてその娘が下座に座るべきなのか。座り直せ、座り直せ」
と、大声を出されました。
善勝寺大納言殿や西園寺大納言殿らが参られて、
「これは格別の勅命でございますので」
と、なだめられましたが、
「何であれ、このようにことがあってよいはずがない」
と、さらに強く申されるもですから、それ以上押さえることができず、指図なさった御所さまもまだあちらに居らっしゃることで、誰に訴えることも出来ないままに、姫さまは座を下に降ろされてしまったのです。

六条殿の長講堂の御供養の時には、姫さまは、叔母にあたられる京極殿より格上の扱いを受けて、出だし車で颯爽とされていたことを思い出しますにつけ、姪・叔母の関係にそれほどこだわる必要があるのかと悔しく思うのですが、姫さまのお気持ちを察しますと、身が震えるほどでございました。
叔母や祖母だといって何かと大きな顔をなさいますが、その出自を考えますと、姫さまにこれほど強いことなどいえるはずはないと思うのですが、これも、御父上の大納言殿さえ生きていればと、悔しさは増すばかりでございます。
姫さまも、これほど皆さまの前で面目をつぶされてはいたたまれなくなられたのでしょう、一言も抗弁されることなく、座を離れられました。

局に下がられた後、何事かしたためられ、
「もし、御所さまからお尋ねがあれば、この手紙を差し上げよ」
と言い残されて、他には供も連れず、御所を退去なされたのです。
行く先は、小林という所でございました。
そこは、乳母殿の母で、宣陽門院(後白河法皇の皇女)に女房として仕えていた伊予殿と申される方の所で、女院がお亡くなりになった折に尼となり、即成院(ソクジョウイン・伏見寺ともいう)の女院の御墓近くで奉仕されているのですが、そこを訪ねられたのです。

御所さまに差し上げるように残された御手紙には、白い薄様の紙に琵琶の一の緒を二つに切って包んで、
『 数ならぬ憂き身を知れば四つの緒も この世のほかに思ひ切りつつ 』(四つは、琵琶の弦の数)
という歌が添えられておりました。
「お尋ねがあれば、都のうちに出ていった」とお伝えするようにと申し付けられておりました。

     * * *

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