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雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  歴史の黒子役

2013-04-14 08:00:29 | 運命紀行
          運命紀行

               歴史の黒子役


徳川家康が大坂城から出陣したのは、慶長十五年(1600)六月十五日のことであった。
まさに、わが国の歴史を大きく動かせることになる戦いへの出陣であった。

栄華を誇った豊臣政権も、慶長三年(1598)八月十八日、秀吉が波乱の生涯を終えると急速に衰えていった。秀頼という後継者がおり、五大老や五奉行といった体制を固めてはいたが、徳川家康の実力は抜きん出ていて、五大老筆頭という豊臣政権の重鎮という位置にあるにもかかわらず、次期天下人は徳川殿という声は高まりつつあった。

さらに、豊臣体制を支えてきた大名たちの間にも、文禄・慶長の役を廻る怨讐を中心に武断派と文治派といわれる勢力の対立が激しさを増していった。
その間隙を突くように、家康は自らの勢力基盤を固めていったが、それでも豊臣政権の大老職の一人としての地位を去ることはなく、諸大名の対立も何とか暴発しない状態が守られていたのには、家康の対抗馬ともいえる前田利家の存在があった。
前田家は、当時はまだ百万石に及ばない領地であったが、秀吉の信頼が厚く、秀頼の守役であったことからも諸大名の信望が高く、家康の野望を辛くも押さえこんでいたのである。

しかし、秀吉没後半年余りの慶長四年(1599)閏三月三日、利家もまたこの世を去った。
豊臣政権内は、秀頼を支える重鎮を失い混乱を増した。
加藤清正・福島正則・黒田長政といった豊臣政権下の大大名が石田三成を襲撃し、家康が仲裁に入るという事件もあって、石田三成は居城である近江佐和山に謹慎することになり、さらには、家康暗殺計画なるものが露見したとされ、五奉行の筆頭である浅野長政を隠居させ、利家の後継者前田利長には利家未亡人である芳春院まつを人質として江戸に送らせたのである。

そして、家康の次なる狙いは会津の上杉景勝であった。
景勝は豊臣政権下の五大老の一人であるが、上杉家は戦国時代の名門であり、直江兼続という名将が家老として仕えていた。
この当時の家康が警戒を抱いていた大勢力としては、九州の島津、中国の毛利などあったが、何といっても江戸の背後にある上杉百二十万石の存在は脅威であった。さらには、同盟関係と考えられる佐竹五十四万石と合わせれば、とても無視できる勢力ではなかった。
この勢力に対しては、かねてからよしみを深めている伊達政宗を対抗勢力として考えてはいるが、政宗自身もなかなかの野心家であり、そうそう安心できるものでもなかったのである。

家康は、景勝が上洛命令に応じないことを理由に会津討伐を決断する。
家康はあくまでも豊臣政権下の筆頭大老として、政権の命令に応じない上杉を討つため秀頼の命令により出陣することとしたのである。実際に、秀頼からは軍資金として金二万両、兵糧米二万石の下賜を受けての出陣であり、豊臣政権下の有力大名の多くが行動を共にすることになる。

大坂城を出立した家康は、その日は伏見城に入り、鳥居元忠らに後を託している。反家康勢力が大坂で挙兵した場合、最初の攻撃目標となるのは伏見城であり、その場合はとても勝つあてのない戦いになることは明らかであった。徳川からの援軍は望めず全滅を避ける方法などなかった。同時に、反徳川軍の主力部隊を一日でも長く進軍を遅らせることが、徳川の勝利につながることは家康にも元忠にも当然分かっていた。
鳥居元忠は、家康の人質時代からの側近で、主従はおそらく今生の別れとなる一夜をどのように過ごしたのであろうか。

家康とそれに従う諸大名の軍勢が大坂を離れると、反家康陣営の動きは激しさを増した。
七月一日には、西軍の主力部隊となった宇喜多秀家が出陣式を行い、十一日には、石田三成が東軍に加わることになっていた大谷吉継に打倒家康の決意を述べ味方に引き入れることに成功している。
大谷吉継は、越前敦賀五万石の大名に過ぎないが、かつて秀吉が「百万の軍勢を率いさせたい」と語ったといわれる智将であった。晩年は業病を患い、白い頭巾を付けていて人との交際もままならなかったが、三成は変わらぬ厚誼を続けており、その熱意を拒絶することが出来なかったのである。

その頃家康は江戸城にあったが、当然のこととして、大坂の動きについては様々な筋から情報が伝えられていたはずである。家康からも、たくさんの指示や依頼や勧誘の文書が発せられている。
この頃家康に伝えられた情報の殆どは、大坂を離れるにあたって想定していた範囲のものであったらしく、七月二十一日には江戸城を出発している。
そして、七月二十四日に下野小山に到着したところで、三成が挙兵し、伏見城が攻撃されていることを、鳥居元忠の使者によって伝えられたのである。

家康は思案を重ねた上で、翌日軍議を開くことを決定した。世にいう「小山評定」である。
秀吉恩顧とされる諸大名を中心とした軍議において、家康は伝えられた情報をかくすことなく披露し、「妻子を大坂に残されていることもあり、進退は各自の自由である」と一世一代ともいえる名言を伝えさせたといわれている。
当時の有力大名であれば、元忠が伝えてきたような情報は手にする手配をしているものであった。下手な隠し立てをするよりも、ありのままを伝え各大名の本心を引きだすことの方が得策と判断したものと思われる。当然その裏では、家康に心酔している黒田長政らを中心に軍議が有利に進む対策は練られていたはずである。

予想通り、福島正則らの三成を討つとの表明などがあって、徳川支援を誓い合う軍議となった。
結局、東軍から離れることとなったのは、信濃上田城主真田昌幸と美濃岩村城主田丸寿昌だけであった。
その上、山内一豊は居城である掛川城を提供することを申し入れ、福島正則は秀吉より預っていた非常用の兵糧米二十万石を提供することも申し入れている。
これらの背景には、家康率いる会津討伐軍は、あくまで秀頼の命により行動しているのであって、その留守に挙兵した石田三成たちは秀頼の命令に背く反乱軍だという図式が構築されていたからであろう。
会津討伐軍は、一部の守備隊を残して反転して大坂に向かうことになった。
やがて、九月十五日に大軍が激突する関ヶ原の戦いへと動いて行くのである。

ところで、この「小山評定」に大きな影響を与えたのではないかと考えられる人物がいる。
それは、備中川辺に一万三百石の領地を持つ伊東長実(イトウナガザネ)という小大名である。
この頃彼は大坂に居たと思われ、三成挙兵の様子をいち早く家康に伝えたとされ、家康はその功を高く評価していたというのである。
しかし、「小山評定」は、鳥居元忠の使者からの情報をもとに開かれたようなのである。当然家康のもとには、元忠からばかりではなく、多くのルートから情報がもたらされていたはずである。その中の、最も公式といえるものを中心にしたのであって、伊東長実からの情報もその他の情報の一つだったのかもしれない。

しかし、家康は、伊東長実からの情報を高く評価していたというのである。
何らかの特別な理由があったように思われるのである。


     * * *

伊東長実は、永禄三年(1560)尾張国岩倉の国人伊東長久の長男として生まれた。
伊東氏は、藤原不比等にまでさかのぼる名門伊東氏の一族と称しているが、この頃は尾張の地侍として一定の勢力を持っていたようである。
父の長久は織田氏に槍衆として仕え「鑓三本」と称せられる豪の者であったらしい。

長実も、天正元年(1573)の小谷城攻めから織田信長に仕え、羽柴秀吉の配下に付けられ、大母衣衆に抜擢されている。
秀吉の別所氏攻めでは功績を挙げ、その後も秀吉配下として各地を転戦、黄母衣衆二十四人の一人に加えられている。この黄母衣衆というのは、信長の黒母衣衆・赤母衣衆に倣ったといわれる親衛隊である。

天正十八年(1590)の小田原征伐にも従軍しており、小田原城の支城である山中城攻略の一番乗りを果たす功績を挙げている。この功もあって、翌年の天正十九年には、備中川辺に一万石余の領地を与えられ大名となったのである。
秀吉没後の政権混乱期に、長実がどのような立場を取っていたのか詳しく伝えられているものはないようである。大名とはいえ、一万石の領主の動向は、よほどのこと以外は歴史の表舞台に登場しないのは当然のことではあるが。

時代は少し下るが、慶長十九年(1614)の大坂冬の陣では豊臣方として大坂城に入城し、大坂七手組頭の一人として戦っているのである。
そして、翌年の夏の陣においては、落城と共に高野山に逃れ、そこで秀頼自刃を知ると自らも切腹しようとするが、徳川の使者が到着し「小山評定」前の情報提供の功績に免じ、領地を安堵する旨伝えられたという。長実の自刃の決意は固かったが、家来たちの説得もあって思いとどまったという話が残っている。
何だか、出来過ぎた話である。

同時に、少し違う話も伝えられているようだ。
長実が大坂城を離れたのはもっと前のことで、少なくとも夏の陣では戦っていないというものである。
また、長実が豊臣方に加わったのは、家康に情報を流すためのもので、高野山で切腹云々というのは、単に徳川の使者を待っていただけだというものもある。
どれが真実か分からないが、この人物に対して分からない部分が幾つかある。

その最大のものは、家康が大変恩に着ていたという情報は、特別のものであったのだろうか。
これは、全く個人的な推測にすぎないが、きっと特別なものであったと思うのである。
実は、石田三成を中心とした西軍方の勝利の絶対条件は、毛利輝元が総大将となって大坂城に入り秀頼を後見する体制を組むことであった。毛利本家は百二十万石であるが、小早川家など一族を加えれば二百万石近くになり安国寺恵瓊というとてつもない軍師も付いていた。
石田三成が大将ではとても家康の敵ではないが、輝元が大将として秀頼を後見するとなれば形勢が逆転する可能性は大きい。

おそらく家康は、輝元の大坂入城はないと考えていたのではないだろうか。
それが、安国寺恵瓊の建議を受けて輝元は重い腰を上げて大坂に入り西軍総大将を引き受けたのである。
もしかすると、長実からはこのことが伝えられていたのではないだろうか。
家康が、鳥居元忠からの情報をそのまま公開し、諸大名が毛利の動向を掴まないうちに「小山評定」をうまく誘導すると、直ちに決戦へと大軍を戻し、しかも自らは江戸城に入ってなかなか動かず、秀吉恩顧の大名たちに戦いを急がせているのである。

こういう考え方に立てば、二代将軍となる秀忠が徳川主力軍を率いていながら、信濃真田軍に翻弄されて関ヶ原での合戦に遅参しているのも、何だか分かるような気がしてくる。真田軍の戦上手ばかりが伝えられがちであるが、秀忠一人ではなく歴戦の徳川の勇将たちが付いていながら、籠城している相手にいつまでも時間を取られていることなど、とても考えられないのである。
家康は、毛利輝元が西軍の先頭に立ち、秀頼までが出陣することを懸念していたのではないか。その状況を確認するまで、徳川本隊の戦力を温存しようとしたと思われて来るのである。

しかし、この個人的な推測が当たっているとした場合、長実に対する恩賞は余りに小さいのである。他の外様大名への大盤振る舞いから見れば十万石程度は得てもよいと思われるが、残されている記録からは本領を安堵されているだけなのである。
大坂の陣においてでも同様であるが、本当に関東方のスパイであれば、戦後に恩賞があってしかるべきであるが、やはり本領安堵だけなのである。
事の内容から、公表することが出来ないとも考えられ、当然表だった恩賞も望めなかったのかもしれない。
それでは、伊東長実は何を得たのだろうか。

結局、乏しい調査などで浮き上がってくるものは何もなく、単なる想像だけに終わってしまった。
しかし、長実は、黒子役としてかもしれないが、歴史を動かせた人物の一人といえると思うのである。
そして、長実の領地は、備中岡田藩として明治の世まで繁栄を続けるのである。

                                         ( 完 )

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