雅工房 作品集

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運命紀行  葵を支える

2013-04-20 08:00:45 | 運命紀行
          運命紀行

              葵を支える


徳川家康が天下人となり、徳川幕府という長期政権を築き上げたのには、幾つもの要因が見事に積み重ねられた結果だと考えられる。
その要因の最大のものは、家康という人物の資質にあるということは否定できない。しかし同時に、個人の資質だけであの長期政権を成し得たのかといえば、少し違うと思われるのである。

個人の資質ということになれば、戦国末期にあたる時代、家康が圧倒的な能力の持ち主であったかといえば、賛否は分かれると思う。確かに第一人者であったことは確かだろうが、例えば家康に先立つ最高権力者であった織田信長にしろ、豊臣秀吉にしろ、資質面で大きく劣るとは考えにくく、年齢差はあるとしても、現に彼らも天下の一端は掌握していたのである。
それでは、長期政権を実現させることが出来たのには、単に時代の要請であったとか、時期に恵まれていたなどということではなく、もっと具体的な要因があったはずである。例えば、大変忠実な家臣団に恵まれていたといったことである。
今回のテーマは、徳川家康を、そして徳川政権に少なからぬ影響を与えたと考えられる女性について考えてみたいのである。

家康の生涯において、最も大きな影響を与えた女性ということになれば、間違いなく生母である於代の方であろう。
家康には多くの妻妾がおり、その中には政治的に相当な働きをした女性もいる。娘や孫にも存在感のある女性もいる。しかし、家康の生涯を通して考えた場合、当然のことではあるが、生母である於代の方を超える女性はいないだろう。

於代の方は、尾張知多郡の豪族水野忠政の娘として誕生した。
水野忠政の所領は、尾張と三河にまたがっていたが、この一帯は織田氏と今川氏の勢力が接する辺りで、各豪族は両氏に臣従したり離反したりを繰り返しながら一族の勢力拡大の機会を狙っていた。
当時忠政は今川氏に属していたが、同じく今川氏に臣従している松平氏との紐帯を強めるため、於代の方を松平広忠のもとに嫁がせた。そして誕生したのが竹千代、後の徳川家康である。
天文十一年十二月(1543.1月)のことで、於代の方が十五歳の頃のことである。

しかし、実家の忠政が亡くなり、その跡を継いだ於代の方の兄信元が今川を離れ織田方に属するようになった。
松平と水野が直接争ったわけではないが、今川氏の意向を配慮した広忠は於代の方を離縁し、水野氏の三河刈谷城に返されたのである。天文十四年のことというから、竹千代はまだ三歳か四歳の頃である。
そして、天文十七年、兄信元の意向で知多郡阿古居城の城主久松俊勝のもとに再嫁する。
於代の方は、久松俊勝との間に三男三女を儲けている。

一方竹千代は、生母於代の方が松平家を去った後、苦難の日々を送ることになる。
今川氏の人質として駿府に送られる途中で織田氏に身柄を拘束され、織田氏の人質としての生活を強いられ、人質交換で返された後も今度は今川家で長い人質生活を送るのである。
竹千代、すなわち徳川家康が自立することが出来るのは、桶狭間の戦いで今川義元が討死した時のことである。永禄三年(1560)のことで家康は十九歳になっていた。
この間の織田・今川に拘束された生活の間、於代の方は陰に陽に息子に支援を続けていたのである。

家康はこのあと苦難を乗り越えながら天下人への道を進んでゆくが、於代の方に対する愛情と感謝の気持ちは大きなものであった。
岡崎城主として、織田信長の勢力拡大の恩恵も受けながら身代を増やしていったが、その過程で於代の方の夫である久松俊勝や二人の間の子供たちを重用し一族として迎え入れているのである。
久松俊勝の長男信俊は於代の方の子供ではないが、久松家を継いでいる。
於代の方の生んだ三人の息子は、いずれも松平の姓を与えられ、家康の一族として遇せられている。
俊勝の次男にあたる康元は、下総国関宿二万石の藩主にまでなっいる。(後に四万石)
三男にあたる康俊は、今川家への人質なども経験しているが、その後駿河国久能城主になっているが、三十五歳で他界している。後は娘婿が継いでいる。
四男にあたる定勝が一番の出世頭ともいえる。久松松平家の創始者となり、桑名十一万石の藩主にまで上り、家康の臨終にあたっては、二代将軍秀忠の相談役となることを懇願されたとされている。

於代の方の三人の姫も、徳川体制の重要な人物のもとへ嫁いでいる。
松姫は、戸田松平家を興した康長に嫁ぎ、康長は信濃国松本七万石の藩主に就いている。
名前は不詳であるが天桂院として伝えられる女性は、竹谷松平家の嫡男家清に嫁ぎ、家清は三河国吉田藩主となっている。ただこの姫は、姫出産の時に若くして他界している。その前に男児を儲けていてその人物が康長の跡を継いでいる。
そして、もう一人の姫である多劫姫(タケヒメ)は、波乱に満ちた試練を与えられているが、それらを見事に乗り越えて、徳川を支えた女性の代表のようにさえ見えてくるのである。


     * * *

多劫姫は、久松俊勝と於代の方にとっては最初の姫である。
天文二十二年(1553)の生まれなので、於代の方が二十六歳の時の子供である。
異父兄にあたる家康は、十一歳年上であるので、この頃は今川氏のもとにあった。母を同じくした兄と妹とはいえ、その環境には大きな開きがあり、誕生時点では多劫姫が家康と深いかかわりを持つようになるとは考えられなかったはずである。

しかし、歴史は、桶狭間の戦いにより、家康に活躍の場を提供したのである。この歴史上名高い合戦は、織田信長という英雄を全国に知らしめた戦いとして位置付けられているが、実際その通りであるが、同時に徳川家康という大人物を歴史の表舞台へと押しやった合戦でもあったのである。
家康の台頭とともに家康の異母弟にあたる於代の方の息子たちは松平姓を与えられ、徳川体制の中で重要な役割を担うようになって行く。軍事的に特に優れた人物を輩出したわけではなく、また内政名で突出した才能を示したわけではないが、徳川一門であることの意味は、余人では替えられない働きを示しているのである。

多劫姫もまたその方針にそって、松平一族の一つ桜井松平家の第四代当主である松平忠正に嫁いだ。
桜井松平家は、かねてより松平宗家に対して敵対的であり、忠正も当初は三河一向一揆の乱では宗家と争っている。家康とも直接戦っているが、敗れた後は家康に臣従するようになっていた。
忠正は家康より一歳ほど年下であり、多劫姫とは十歳年上であった。
多劫姫が嫁いだ年齢ははっきりしないが、松平一族を束ねていくうえで重要な意味を持つ婚姻であった。

天正五年(1577)に多劫姫は嫡男家広を出産したが、間もなく夫忠正が亡くなってしまう。
多劫姫は二十五歳で未亡人となってしまったが、嫡男はまだ当歳であり、とても家督を継げる年齢ではなかった。そこで、当然これも家康の配慮というか計らいというかはともかく働きかけがあって、忠正の弟忠吉を婿に迎えて桜井松平家の第五代当主とした。
忠吉は多劫姫より六歳年下である。この結婚の日時も不詳であるが、忠正が亡くなってからそれほど月日が経っていない時のことと考えられる。
二十五歳で未亡人となった兄嫁のもとに、十九歳の弟が婿入りしたことになるが、家系を護って行くことが何よりも大切な当時としては、決して特異なことではなかった。

忠正が亡くなった三年後には二人の間に信吉が誕生し、さらに忠頼と二人の男児を儲けたが、天正十年六月、忠吉もまた二十四歳の若さで亡くなってしまうのである。
この時多劫姫は三十歳。再び未亡人となった多劫姫は幼い三人の子供抱えてどのような行動を取ったのであろうか。
忠吉が亡くなった天正十年という年は、歴史上の大事件が起きた年でもあった。
本能寺の変により権力の頂点にあった織田信長が討たれたのが六月二日のことであった。その時家康は、信長から饗応を受けた続きで堺にあった。信長倒れるという報に接した後は、家康の生涯で最も厳しかったとされる逃避行・伊賀越えを強行突破し、命からがら岡崎に辿り着いたのである。
この時の随行者は僅か三十四人だったといわれているが、その中には徳川四天王と呼ばれる重臣などが含まれていて、万一落武者狩りにでも討たれておれば、徳川は滅亡に向かっていたかもしれないのである。

家康は、信長自刃の報に一時は茫然自失の状態であったともいわれるが、岡崎に辿り着くと直ちに次の対策を打っており、信長の影響下にあった甲斐を手中に収めるべく行動しているのである。
多劫姫の夫忠吉が亡くなったのは六月二十四日、大混乱の家康や側近らの助力は請える状態ではなかったはずである。それなりの支援はあるとしても、おそらく、多劫姫を中心とした桜井松平家の重臣たちが善後策に苦慮したことであろう。
結局、先夫忠正の子供である五歳の家広が第六代当主となる。家広は、天正十八年(1590)に武蔵松山一万石(後に二万五千石)の城主に遇せられているが、二十五歳で亡くなっている。病死とも、家康の勘気を受け自刃したとも伝えられている。その後、義弟であり多劫姫の三人目の息子である忠頼が藩主を継いでいる。

多劫姫と忠吉のもう一人の息子信吉は、藤井松平家の養子となり同家の家督を継ぎ第三代藩主となっている。信吉は、土浦四万石、高崎五万石と出世を重ねている。子孫は、山城守家と伊賀守家の二流に分かれるが、伊賀守家は老中を多数輩出している。
多劫姫の子供たちは、桜井松平家と藤井松平家を護っているのである。

しかし、多劫姫の真価はこの後にさらに輝きを見せているのである。
天正十二年(1584)、二度目の夫忠吉が亡くなった二年後に、多劫姫に再び結婚話が持ち上がったのである。
三度目の夫となる人物は、多劫姫より十一歳年上の保科正直であった。
保科正直は甲斐武田氏に仕えていたが、高遠城を織田信忠に攻略された際に実弟を頼って上野国箕輪城に逃れ、本能寺の変の後は後北条氏に属し、高遠城を奪還している。
その後、甲斐における徳川勢力が強まる過程で家康方となった人物である。
年齢は家康とほぼ同年であるが、スケールはともかく家康同様に乱世を生き抜いてきており、多劫姫が結婚した先の二人とは異質の人物といえた。

この結婚には、家康の思惑が強く働いていることは間違いない。家康には、次々と主を替えてきた歴戦の武将をしっかりと味方につけておきたいという思いがあり、正直には家康と縁続きになる有利さを求めたはずである。
この時三十二歳の多劫姫は、異父兄でもある家康の勧めるままに嫁いだのであろうが、二人の仲は睦まじいものであったらしい。多劫姫は、保科家においても二男四女を儲けているのである。
上の男子正貞は、正直の跡を継ぎ高遠藩主となっていた異母兄正光の養子となるが、その後波乱の生涯を過ごすことになる。
二番目の男子氏重は、後北条一門の氏勝の養子となり下総国岩富一万石を継ぐ。その後、遠江国掛川三万石に加増されるが、五人の子供が全て女子であったため改易となり、跡目は氏勝の弟が旗本として家系を繋いでいる。また、女の子の子供には、名奉行として名高い大岡忠相がおり、氏重は外祖父にあたるわけである。
また、四人の女の子は、それぞれ大名家に嫁いでおり、多劫姫の存在感を高めている。

さて、保科正直の嫡男は跡部氏の娘を母とした正光であるが、なかなかの人物であったらしい。父の跡を継ぎ高遠藩主となっていたが、実子がいなかったため家康の命で異母弟正貞を嫡子として迎えた。
ところが、その後、もう一人とてつもない人物を養子に迎えることになるのである。
秀忠の隠し子である幸松丸は、秀忠の正妻お江から身を守るため武田信玄の娘である見性院に養育されていたが、その将来を武田旧臣の子として信頼していた保科正光に託したのである。
当然引き受けたとなれば、幸松丸の処遇が問題となり、嫡子として迎えていた正貞の立場が難しくなった。

正貞は、義父正光との仲が悪く廃嫡となり、保科家を出奔し諸国を放浪している。おそらくは、正光の苦悩を察しての振る舞いと考えられるが、切ない話である。
その後、桑名藩主となっていた松平定勝(久松氏)のもとに身を寄せている。その後、幕臣となって三千石が与えられ、さらに大坂城や二条城の在番を務めるなど功績を重ね、上総国飯野一万七千石の藩主になっている。
また、幸松丸は保科家を継ぎ保科正之となるが、三代将軍家光に見出され、その信頼は厚く、会津藩主として江戸初期の名君の一人と称されるようになる。
そして、正之に松平の姓が与えられることになる。正之自身は生涯松平の姓を遠慮したとされるが、保科家伝来の文物などを正貞に引き継いでおり、実質的な保科家の家督を正貞に託しているのである。

家康と秀吉と比較する時、一族や譜代の家臣たちの層が圧倒的に家康の方が優れていたといわれることが多い。
しかし、ごく身近な人物、つまり父母を同じにする兄弟に限っていえば、秀吉には秀長(異父弟という説もあるが)という実に優れた人物がいた。しかし家康には、父母を同じにする兄弟はいなかったのである。そして、その差を埋める役割を果たしたのは、於代の方のもとに生まれた異父弟妹たちであったのである。
多劫姫の生涯は、私たちが物語として眺めるよりは遥かに悲しみの多い生涯であったように思われるが、徳川という長期政権の一角を担っていたことも事実だと思うのである。

                                          ( 完 )
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