雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

忍耐力に頭が下がる

2018-05-12 18:26:57 | 日々これ好日
        『 忍耐力に頭が下がる 』

     バラを見に行った公園で カメラの行列に出あった
     薔薇を撮影しているものではなく 公園の一角にある静かな池に向かって
     望遠付きの立派なカメラをのせた三脚が 列をなしている
     聞いてみると カワセミの姿を撮影するために 何時間も待ち続けるらしい
     趣味なのか 仕事なのか もっと崇高な願いが込められているのか・・・
     その忍耐力に 頭が下がる

                          ☆☆☆
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心まどひに

2018-05-12 08:14:14 | 新古今和歌集を楽しむ
     朝露の おきつる空も 思ほえず
             消えかへりつる 心まどひに


                      作者  更衣 源周子


( No.1172 巻第十三 恋歌三 )
          あさつゆの おきつるそらも おもほえず
                    きえかへりつる こころまどひに  


* 作者 更衣源周子(コウイ ミナモトノチカコ)は、醍醐天皇(在位 897-930)の更衣。( 生年未詳 - 936没 )

(「更衣」について)
更衣は、もともとは単なる女官名であったと考えられるが、天皇の居室や寝室に立ち入ることが可能なことから、后妃としての要素を持つようになった。嵯峨天皇(在位809-823)の時代に、女御のうち下位の者を指す呼称となった。
通常は、四位・五位の位階を授けられた女性が更衣となり、その所生の子は臣籍降下の対象とされた。稀には、公卿クラスの娘が更衣 になる場合もあったが、その場合は後に女御や中宮に進むことがあり、その所生の子も必ずしも臣籍降下の対象にはならなかった。

* 歌意は、「 朝露が置いていて、起きた時のこともよく分かりません。命が消えてしまいそうです、心が乱れてしまって。」といった意味であろうが、何ともなまめかしい歌ではある。
( 朝露は「おき」の枕詞。「おき」は 朝露が「置く」と「起きる」との掛詞。)

* この和歌の表題は、「御返し」となっていて、醍醐天皇からの後朝(キヌギヌ)の増加に対する返礼の和歌である。そして、その送り主の和歌も、新古今和歌集に載せられている。(この和歌の前で、No.1171)
その表題には、「近江更衣(オウミノコウイ・源周子のこと)に賜はせける」となっていて、
「 はかなくも 明けにけるかな 朝露の おきてののちぞ 消えまさりける 」というものである。
つまり、内裏の奥深くの出来事を、勅撰和歌集は堂々と掲載しているとも見える。

* 源周子の父は、右大弁源唱であるが、その家柄は嵯峨源氏という歴としたものとしても、官位は正四位下止まりであったことを考えると、例え醍醐天皇に見初められたのだとしても、周子にとって后妃の一人になる過程はどのような心境であったのかと余計なことに思いを馳せてしまう。

* しかし、周子は、それほどやわな女性ではなかったようである。
醍醐天皇には、中宮をはじめ妃・女御・更衣は二十人に及ぶとされ、子供は三十六人とされる。関白藤原基経の娘である中宮穏子は次代・次々代(朱雀・村上)の天皇を儲けているが、周子も二人の皇子と三人の皇女を設けている。
更衣の常として臣籍降下の対象とされたが、それぞれ歴史上に大きな足跡を残している。
皇子の一人は、七歳で臣籍降下。源高明としたこの人物は左大臣まで上り、政争に敗れ大宰府権帥に左遷されるなど波乱の生涯を送っているが、政権の上層部で活躍している。
二人目の皇子も一度は源氏として臣籍降下しているが、後に皇族に復帰して盛明親王となる。そして、兄の源高明の娘を養女にして藤原道長に嫁がせている。道長の妻となった明子は、多くの子をなし、その中から、藤原中御門流の祖となる頼家、御子左家の祖となる長家が含まれており、貴族社会の一翼を占めているのである。

* 更衣源周子に関して伝えられている情報は多くない。新古今和歌集に載せられている和歌もこの一首だけで、それも、醍醐天皇の和歌と対になっているゆえの採録のようにも思われる。
しかし、醍醐天皇との間に設けた子供たちからの情報を加味すれば、おそらく、相当魅力的な女性であったと思われるのである。

     ☆   ☆   ☆

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