思ひやれ 何をしのぶと なけれども
都おぼゆる 有明の月
作者 惟明親王
( No.1545 巻第十六 雑歌上 )
おもひやれ なにをしのぶと なけれども
みやこおぼゆる ありあけのつき
* 惟明親王(コレアキラシンノウ)は、第八十代高倉天皇の第三皇子。母は少将内侍(平範子)。少将内侍の父は平義輔であるが伝えられている情報は少ない。当時絶頂期の平氏一族であるが、官位は高くなかったようである。
( 1179 - 1221 )承久3年没、享年43歳。
* 歌意は、「 お察しください。特に何かを懐かしく思うというわけではないのですが、しきりに都が思われる 有明の月です。」といった感じでしょうか。
* 惟明親王が生きたのは平安時代末期から鎌倉時代初期のことであるが、源平が激しく争った時期であり、平家滅亡の渦中にあった人物である。平家色の強い皇族には厳しい時代でもあった。
元暦2年(1185)3月、まだ8歳の安徳天皇は壇ノ浦の戦いに敗れ、海中に身を投じ、ここに清盛を頂点とした平家政権は滅亡した。安徳天皇は高倉天皇の第一皇子であるが、平家の都落ちに従って第二皇子の守貞親王も皇太子に擬せられて同行したので、京都に残っていた第三皇子である惟明親王と第四皇子の尊成親王の二人が皇嗣の有力候補となった。
しかし、次期天皇に就いたのは、一歳年下の異母弟尊成親王であった。後鳥羽天皇の誕生である。
長幼の順からいえば、惟明親王こそが次期天皇となるべきと思われるが、それが実現しなかった一番の理由は、母の出自の身分が低かったためと思われ、もう一つは、なお隠然たる力を擁していた皇子たちの祖父にあたる後白河法皇の意向が働いたようである。
惟明親王の母の父平義輔の官職は、宮内大輔であったらしい。この地位は、正五位下ぐらいらしい。単純に官位だけで身分を推定するのが正しいかどうかという意見もあるが、およそ、有力守護職か少し上位にあたるようだが、公卿にはとても及ばない地位である。余談になるが、少納言という地位も時代により差がありその程度を図るのが難しいが、大納言や中納言と一列にして推定できる地位ではなく、遥かに下位で、従五位くらいで、何とか殿上人の仲間入りができる程度であったらしい。
異母弟に先を越された惟明親王であるが、その後、後鳥羽天皇の生母・七条院の猶子となって禅譲を待ったようであるが、次代土御門天皇、次々代順徳天皇と後鳥羽天皇の実子に譲位されるに至って、失意のうちに出家している。33歳の頃のことである。
以後は、当時一流の歌人との交流など、政権争いとは離れた生活を送ったようである。そして、承久三年に薨去したが、後鳥羽上皇が鎌倉幕府と争って敗れた承久の乱の直前のことであった。
* この和歌は、叔母にあたる式子内親王に贈ったものであるが、惟明親王の果たされなかった夢を想えば、実に切ない。
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