雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

お見送り

2018-08-16 19:48:41 | 日々これ好日
        『 お見送り 』

     お盆の行事も終わり 
     まだまだ暑さが残る中 日常が戻る
     お迎えしたご先祖様を お見送りする
     科学万能の時代と 言われることもあるが
     それだからこそ お盆のようなひとときが 大切だと思う
     ぼつぼつ 京都五山の送り火が 始まる

                      ☆☆☆
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枕だにせず

2018-08-16 08:30:39 | 新古今和歌集を楽しむ
     夢とても 人に語るな 知るといへば
               手枕ならぬ 枕だにせず


                        作者  伊勢

( No.1159  巻第十三 恋歌三 )

               ゆめとても ひとにかたるな しるといへば
                          たまくらならぬ まくらだにせず


* 作者は平安時代を代表する女流歌人の一人であるが、その生没年は確認されていない。( 872頃 - 938頃 )という説もあるが、没年は、天慶元年(938)頃までの生存が確認されていて、なお十年近く生存していたという説もある。
いづれにしても、平安時代中期に活躍した女性で、清少納言や紫式部などより70年ほど早い時代の人である。

* 歌意は、「 たとえ夢の中のこととしてでも、人に話さないでください。枕は共寝の秘密を知るといいますから、手枕でない枕さえしていないのですから。 」といった感じでしょうか。この和歌の前書きには、「 忍びたる人と二人臥して 」とあることから、忍ぶ仲の逢瀬ということは明らかだが、実に堂々と公表している。

* 何とも艶っぽい和歌であるが、平安王朝時代を代表する恋歌の名手と評されるのもむべなるかなと思われる。
もちろん、和歌が全て事実を詠んだものであるわけではなく、単なる創作として作られることの方が多いと思われるが、作者の経歴を見ると、真実味が強まってくる。

* 作者の父は藤原北家に属する藤原継蔭で、官位は従五位上で伊勢守などを務めている。作者の女房名の「伊勢」は、父の官職からきている。また、後には、「伊勢の御(イセノゴ)」「伊勢の御息所」とも呼ばれた。なお、御息所(ミヤスドコロ/ミヤスンドコロ)とは、天皇の休息所を指すことから、天皇の寵愛を受けた女性の尊称にもなった。

* 作者が歴史上の人物として登場することになるきっかけは、第五十九代宇多天皇の中宮・温子の女房として出仕したことに始まる。その時に女房名として伊勢を名乗ったと考えられる。
華やかな宮中生活は、同時に中宮女房としての制約や、決して上級といえない家柄というハンディもあったと思われるが、時の有力公卿である藤原仲平・時平兄弟との交際があったと伝えられているところから推察すれば、類まれな才能もさることながら、抜きん出た美貌の持ち主であったと考えられるのである。

やがて、宇多天皇の寵愛を受け、その皇子を生むが早世している。その後、宇多天皇の第四皇子である敦慶親王と結ばれ、中務を生んだ。この中務も歌人として名高い。また、敦慶親王は容姿に優れ、「好色無双の美人」と評され、源氏物語の光源氏のモデルという説もあるらしい。
こうした華やかな活躍の後、宇多天皇の没後に摂津国嶋上郡(大阪府)に庵を結んで隠棲した。
作者の生没年が確認されていないため、華やかな履歴を年齢で追うことは難しい。美貌の歌人の恋の遍歴を今少し追ってみたいと思うが、次の機会に譲りたい。

* 天皇やその皇子の子供を儲けるなど、ややもするとそちらに目が行きがちであるが、女流歌人としては間違いなく平安時代を通じての第一人者の一人である。
三十六歌仙、あるいは女房三十六歌仙にも選ばれているが、勅撰和歌集に採録されている和歌数も多い。新古今和歌集に採録されている数は十五首とそれほど多くないが、新古今和歌集の編纂の方針が、すでに勅撰和歌集に採録されている和歌は選ばない方針であることに影響していると考えられる。
古今和歌集には二十二首、後撰和歌集には六十五首、拾遺和歌集には二十五首採録されていて、勅撰和歌集の一番目から三番目の全てにおいて、女流歌人として最大の数を誇っているのである。

     ☆   ☆   ☆

  

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