雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

種を蒔く

2019-09-16 19:09:21 | 日々これ好日

        『 種を蒔く 』

    
 久しぶりに 種を蒔いた
     暑さがおさまってからと考えていたが  待ちきれず
     ダイコンとインゲンの 種を蒔いた
     トマトなどを抜いたあと 放り出していたが
     ちょっぴり ゴンベさんの心境を満喫した

                  ☆☆☆
                 

     

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果てぞなき

2019-09-16 08:38:42 | 新古今和歌集を楽しむ

     武蔵野や ゆけども秋の 果てぞなき
                 いかなる風か 末に吹くらん 
 


                  作者 左衛門督通光

( No.378  巻第四 秋歌上 )
            むさしのや ゆけどもあきの はてぞなき
                        いかなるかぜか すえにふくらん
 



* 作者は、鎌倉時代初期の公卿であり歌人である。( 1187 - 1248 )享年六十二歳。

* 歌意は、「 武蔵野は 行けども行けども 秋の果てに行き着かない 野末には どのような風が吹いているのだろう 」といったふうの、ごく素直に感じ取れる和歌と思われる。平易と言えばそれまでであるが、それが返ってスケールの大きさを感じさせるように思う。

* 作者の左衛門督通光(サエモンノカミ ミチテル)は、村上源氏のれっきとした貴族である。
鎌倉時代の始まりについては諸説あるが、かつて一般に言われていた「イイクニツクロウ・・1192年」というのはほぼ否定されていて、1183年あるいは1185年という説が有力のようである。いずれにしても、源通光という人物は、鎌倉時代の幕開けに誕生した人物といえる。
壇ノ浦の戦いにおいて、平氏はほぼ全滅、安徳天皇が神器と共に入水したのが 1185年。後鳥羽上皇が鎌倉幕府と戦って敗れ、公家勢力の衰退を決定づけたとされる承久の乱が 1221年。通光はこの激動の時代を乗り越えて、衰退していく公家勢力の中で重責を担っていった人物と言える。さらに言えば、通光の生存中に天皇は、「後鳥羽・土御門・順徳・仲恭・後堀川・四条・後嵯峨」と変わっているのである。

* 通光は、内大臣通親の三男として誕生したが、生母が後鳥羽天皇の乳母であったことから嫡男扱いの待遇を受けている。
出生の翌年、1188年には叙爵、1190年には加賀守に就いている。もちろん、四歳(数え年)の子供に任務が果たせるはずもないし、源平の争いは公家勢力の衰退を誘引し、加賀守という職位にどれほどの実利があったのかは分からないが、異例の昇進であることは間違いあるまい。
1201年、十五歳にして公卿に列している。また、この頃に歌壇にデビューしていて、早くして和歌の才能も評価されていたようである。また、後年には琵琶の名手とも評価されていたようで、多彩な才能の持ち主であったようだ。

* 本歌の作者名として冠されている「左衛門督」に就いたのは、1205年のことで、十九歳の頃と考えられる。左衛門督は四位クラスが就くことが多かったようだが、通光はこの年に従二位に昇っている。権中納言と兼務だった可能性があるが、昇進が早すぎたのかもしれないと思うほどである。
承久の乱では、後鳥羽上皇の皇子の一人である雅成親王に娘が嫁いでいたこともあって、上皇とは連絡を取り合っていたようである。
そのため、雌伏の時期もあったがやがて復帰し、公家政権の中核を担い、六十歳にして太政大臣にまで昇り詰めている。

* 因みに、通光の兄弟たちもそれぞれに上級貴族として存在を示している。
長兄の雅通は、通光より二十歳ほど年上であるが、三十一歳で亡くなっている。官位は正四位下参議止まりであったが、雅通の死後に娘の通子が土御門天皇の典侍となり、三男二女を儲けた。そして、その通子が亡くなって二十年以上たって、末子の邦仁王が後嵯峨天皇として即位するのである。それによって、雅通には、従一位左大臣が贈られている。
次兄の通具は、正二位大納言に昇り、堀川家の祖とされている。
四男の定通は、正二位内大臣となり、土御門家の祖とされている。
五男の通方は、同じく正二位となり、中院家の祖とされる。
通光自身も、久我太政大臣と呼ばれ、一般的に久我家の祖とされている。但し、久我を名乗っているのは、四代前の雅実が名乗っていて、これを初代とする説もあるようだ。

* 筆者のように、歴史を単なる趣味として楽しむ者にとっては、源通光が生きた時代は、源平の戦い、平家の滅亡、鎌倉政権、承久の乱など興味深い出来事が多すぎる時代で、源通光なる人物に焦点を合わせることは少ないと思われる。
しかし、この一族の消息を追うとすれば、少し違った鎌倉時代が見えてくるような気もするのである。

     ☆   ☆   ☆

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