『 壮大な企み ・ 今昔物語 ( 29 - 17 ) 』
今は昔、
摂津の国[ 欠字。郡名が入る。「児屋」か? ]の郡に小屋寺(コヤデラ・昆陽寺に同じ。)という寺があった。
その寺に年が八十歳ほどにもなろうかという法師がやって来て、その寺の住職に会って、「私は西国から上って来て京の方に行こうと思っておりますが、年寄りで疲れてしまい、とても上京できそうもありません。この御寺のどこかに、しばらく置いていただきたいのです。適当な所に居させてくださいませんか」と言った。
住持は、「今すぐお泊まりいただけるような所などありません。囲いもない御堂の廊下などに居られたのでは、風に吹かれて凍えてしまわれるでしょう」と答えた。
老法師は、「それでは、鐘堂の下でしたら居れるでしょう。周囲に囲いがある所ですから、あそこに置いていただきたいと思うのですが、いかがでしょうか」と言う。
住持は、「確かに、あそこならいいでしょう。では、あそこにおいでになってお泊まり下さい。そして、鐘でもおつき頂ければ、まことに都合がよろしい」と答えたので、老法師はたいそう喜んだ。
そこで住持は、老法師を連れて鐘堂の下に連れて行き、「鐘つきの法師の莚・薦(ムシロ・コモ)などがあります。それを使ってここに居りなさい」と言って置いてやることになった。
それから住持は鐘つきの法師に会って、「ここに宿なしの老法師がやって来て、『鐘堂の下に泊めてくれ』と言うので泊めてやることにした。『鐘もつく』と言うので、『いる間はつけ』と言っておいた。その間はお前は休んでいていい」と言ったので、鐘つきの法師は「それはありがたいことです」と言って、去っていった。
さて、その後、二夜ばかりはこの老法師が鐘をついた。
その次の日の巳の時(午前十時頃)ばかりに、鐘つきの法師がやって来て、「このように[ 欠字あるも不詳。]に鐘をつく法師はどういう者なのか、見てやろう」と思って、鐘堂の下に向かって、「御坊はいらっしゃいますか」と言って、戸を押し開けて這い入ってみると、八十歳ほどのひどく老いぼれて背の高い老法師が、粗末な布衣(ホイ・ここでは麻布などの粗末な衣類の意。)を腰に巻いて、手足をいっぱいに伸ばして死んでいた。
鐘つきの法師はこれを見て飛び出して、御堂にいる住持のもとに行き「老法師が死んで倒れています。どういたしましょう」と、あわてふためいて言うと、住持も驚いて、鐘つきの法師を連れて鐘堂に行き、戸を細目に開けて覗いてみると、間違いなく老法師は死んで横たわっていた。
そこで、戸を閉じて、住持は寺の僧たちを集めてこの由を告げると、寺の僧たちは、「つまらぬ法師を泊めて、寺に穢れを持ち込んだ大徳(ダイトク・高僧に対する敬称だが、ここでは、住持に対する皮肉で使っている。)ですなあ」と、腹立たし気に言い合った。
「とはいえ、今となっては仕方がない。郷の者どもを集めて、取り棄てさせよう」ということになり、郷の者どもを集めようとしたが、「御社の祭りが近づいており、穢れるわけにはいかない」と言って、死人に手を触れようとする者は一人もいなかった。
「そうとはいえ、このままにはしておけない」などと言って騒いでいるうちに、いつしか午未(ウマヒツジ・午後一時頃)になった。
すると、年の頃が三十くらいで、椎鈍色(シイニビイロ・薄い鼠色?)の水干(男子の平服)に裾濃(スソゴ)の袴を着た男が二人、袴のわきを高々とはしょって帯に挟み、大きな刀をこれ見よがしに腰に差して、綾藺笠(アヤイガサ・い草で編んだ笠で、流鏑馬で使われているような笠。)を首に懸け、下賤の者ではあるが見苦しくはない者が、軽快な姿で現れた。
そして、僧房に僧たちが集まっている所に行き、「もしや、この御寺の辺りに年老いた法師が参っておりませんか」と尋ねた。僧たちは「先日から鐘堂の下に、年が八十くらいで背の高い老僧が来ていました。ところが、今朝見てみますと、死んで横たわっていたとのことです」と答えると、その男たちは、「これは大変な事になった」と言うなり、大声で泣きだした。
僧たちは、「あなた方はどういう人ですか。どうしてそれほど泣かれるのですか」と尋ねると、男たちは「その老法師は、私たちの父でございます。父は老いて頑固になり、ちょっとした事でも気に入らない事がありますと、いつもこのように家出ばかりしておりました。私たちは播磨の国の明石の郡に住んでおりますが、先日父がまた家出してしまいましたので、手分けしてここ数日捜していたのでございます。私たちはそれほど貧しい身ではございません。田十余町は、私たちの名義になっております。この隣の郡にも配下の郎等が数多くおります。ともあれそこに行って、本当に父であれば、夕方葬りたいと思います」と言って、鐘堂の下に入って行った。
住持について行き、外に立って見ていると、この男たちは這い入って、老法師の顔を見るや、『わが父はここにおいででしたか』と言って、突っ伏して身を震わせて声を挙げて泣き叫んだ。
住持もその様子を見て、哀れに思えてもらい泣きした。男たちは、「年老いて頑固となり、ともすれば隠れて出歩かれ、とうとう、このような哀れな所で死んでしまわれた。悲しいことに、死に目にお会いすることも出来なかった」と言いながら泣き続けた。
やがて、しばらくすると、「今となっては、お葬式の準備にかかろう」と言って、戸を引き立てて出て行った。
住持が、男たちが泣いていた様子を寺の僧たちに話すと、哀れがること限りなかった。僧たちの中にも、これを聞いてもらい泣きする者もいた。
そして、戌の時(イヌノトキ・午後八時頃)になると、四、五十人ほどの人がやって来て、がやがや言いながらこの法師を担ぎ出したが、弓矢で武装している者も数多くいた。僧房は鐘堂から遠く離れているので、法師を担ぎ出す様子を僧房から出て見る者はいなかった。みな怖気づいて僧房の戸に錠をして籠って聞いていると、後ろの山の麓の、十町ばかり離れた所にある松原の中に亡骸を運び、終夜(ヨモスガラ)念仏を唱え、鉦を叩き、夜が明けるまで葬儀を行ったあと去って行った。
寺の僧たちは、あの法師が死んでいた鐘堂の辺りに近寄る者はいなかった。そして、死による穢れの三十日の間は鐘つきの法師も鐘堂で鐘をつこうとしなかった。
やがて、三十日が過ぎたので、鐘つきの法師が鐘堂の下を掃こうと思って行って見ると、大鐘がなくなっていた。
「これは一体どうしたことだ」と、寺の僧たち全員に告げて廻ると、僧たちが皆集まって来て見たが、盗賊が盗んだのだから、あるはずがない。
「あの老法師の葬式は、なんと、この鐘を盗もうとして謀った芝居だったのか」と気づいて、「葬った所はどうなっているのか」と言って、寺の僧たちや郷の者たち大勢が連れ立って、彼の松原に行ってみると、大きな松の木を伐って鐘に寄せて焼いたらしく、銅の破片があちらこちらに散らばっていた。
「実にうまく企んだ奴らだ」と言って騒ぎ合ったが、誰の仕業か分からないので、どうすることも出来ずそのままに終わった。
そのため、それ以来その寺に鐘は無いままである。
これを思うに、計略を立てて盗みを働く者もいるのである。
しかし、どうして死んだふりをして身動きもせず長い時間いることが出来よう。また、どうして思いのままに涙を流すことが出来よう。実際に見ていて、何の関係もない者までが皆悲しんだのである。
「実に巧みに謀った奴らだ」と見聞きした人は盛んに噂し合った。
されば、何事につけ、もっともだと思われる事であっても、見知らぬ者がする事は、よく思いを巡らして疑ってかかるべきだ、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
『 無慈悲な盗人 ・ 今昔物語 ( 29 - 18 ) 』
今は昔、
摂津の国の辺りから、盗みをするために京に上ってきた男が、日がまだ明るかったので、羅城門(ラジョウモン・平安京外郭の正門で、朱雀大路の南端に建てられた。)の下に立ち隠れていたが、朱雀大路の方は人通りがまだ多いので、人通りが静まるまで待とうと思って、門の下で待ち続けた。
すると、山城(京も山城国であるが、ここでは京の外のこと。)の方から大勢の人がやって来る声がしたので、それらに見られないようにと思って、門の上の層にそっとよじ登った。見てみると、ぼんやりと火を灯している。
盗人は、「怪しいぞ」と思って、連子窓(レンジマド・多くの細木を縦または横に打ちつけ渡した窓。)から覗いてみると、若い女が死んで横たわっている。その枕元に火を灯して、たいそう年老いた白髪の嫗(オウナ)が、その死人の枕元に坐って、死人の髪をむしり取っていたのである。
盗人はこれを見て、どういうことか分からず、「あれは、もしかすると鬼ではないのか」と思うと怖ろしくなったが、「もしかすると死人の霊かしれぬ。試しに脅してみよう」と思って、そっと戸を開けて、刀を抜いて「おのれは、おのれは」と叫びながら走りかかると、媼はあわてふためき、手を摺り合わせてうろたえているので、盗人は「嫗め、お前は何者だ。ここで何をしているのだ」と詰問すると、嫗は「私の主人であられるお方が亡くなってしまいましたが、弔ってくださる人もおりませんので、ここにお置きしているのです。その御髪が背丈に余るほど長いので、それを抜き取って鬘(カツラ)にしようと思って抜いていたのです。どうぞ、お助け下さい」と答えた。
それを聞くと、盗人は、死人の着ていた着物と媼の着ている着物と、さらに抜き取ってある髪まで奪い取って、下へと降りて逃げ去ってしまった。
ところで、この門の上の層には、死人の骸骨がたくさん転がっていた。葬式など出来ない死人を、この門の上に捨て置いていたのである。
この事は、その盗人が人に話したのを、聞き継いで、
此(カ)く語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
『 大盗賊袴垂 ・ 今昔物語 ( 29 - 19 ) 』
今は昔、
袴垂(ハカマダレ・伝不詳も、十世紀後半あるいは十一世紀初頭の伝説的な大盗賊。)という盗人がいた。
盗みを仕事としていたので、捕らえられて獄舎に入れられていたが、大赦に浴して出獄したが頼って行く所もなく、為すべき手段も思い浮かばないので、関山(逢坂山)に行き、何一つ身につけず、裸のままで、死人のふりをして道端に伏せっていた。
道行く人たちはこれを見て、「この者はどうして死んだのかな。傷もないのに」と周りを取り巻いて騒いでいると、立派な馬に乗った武士が、弓矢を負って、多くの一族郎党を引き連れて、京の方からやって来たが、大勢の人が集まって何かを見ているので、急に馬を止めて、従者を呼び寄せて「彼らは何を見ているのか」と言って見に行かせると、従者は走って見に行き、「傷もない死人がいるようです」と報告すると、主人はそれを聞くや、すぐさま隊列を整えて弓を取り直して、死人から距離を置いて馬を進めながら、死人がいる方に目を配りながら通り過ぎるので、その様子を見た人たちは、手を叩いて笑った。
「あれほど多くの一族郎等を引き連れた武者が、死人に出会ってあれほど警戒するとは、たいした武者ではないか」などと言って、あざけり笑っているうちに武士は通り過ぎて行った。
その後、集まっていた人も皆散って行って、死人の辺りに誰もいなくなった頃、また武士が通りかかった。この武士は郎等眷属を連れていない。ただ弓矢を持っているだけで、この死人の近くにどんどん馬を近づけて行き、「哀れな奴かな。どうして死んだのか、傷もないのに」などと言いながら、弓で突いたり引いたりしていると、この死人は突然その弓をつかみ、それにすがって跳ね起きて、武士を馬から引き落として、「親の敵はこうするのだ」と言いながら、武士の腰に差していた刀を引き抜いて、刺し殺してしまった。
そして、その武士の水干袴を剥ぎ取って身につけ、弓と胡録(ヤナグイ・弓を入れて背負う武具)を背負い、その馬にまたがり、飛ぶかの勢いで東に向かって行くと、同じように大赦で牢から出された裸の者ども十人、二十人ほどが、前もって打ち合わせていた通り後から追いついた来たので、それらを手下にして、道で出会う者を片っ端から襲って、水干袴や馬などを奪い、弓矢・太刀・刀などを多量に奪い、その裸の者どもに着せ、武器を整えて馬に乗せ、郎等二、三十人を引き連れた者として下って行ったが、向かうところ敵なしという状態であった。
こういう者は、少しでも隙があればこのような事をするのである。それを知らず、むやみに近づいて隙を見せれば、襲われないはずがないのである。
最初に用心して通り過ぎた騎馬武者を、「誰だったのか、賢い武者だ」と思って問い尋ねたところ、村岡五郎平貞道(生没年未詳。源頼光の四天王の一人。)という者であった。その人だと知ると、人々は「あの人なら当然だ」と言い合った。
このように、多くの郎等眷属を引き連れていても、この事を心得て油断することなく通り過ぎたのは賢明である。それに比べ、従者も連れていない者が、近くに寄って殺されたのは浅はかなことだと、この事を聞く人は褒めたりそしったりしたとうわさし合った、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
『 無駄死に ・ 今昔物語 ( 29 - 20 ) 』
今は昔、
明法博士(ミョウホウハカセ・法律を教える教授。正七位下相当。)で助教(ジョキョウ・教授の補佐役。助博士とも。)の清原善澄(キヨハラノヨシズミ・(943-1010) 従五位下。奇行が伝えられている。)という人がいた。学才は並ぶ者がなく、昔の博士にも劣らない人物だと言われた。年は七十に余り(正しくは六十八歳らしい。)世間でも重んじられていたが、その家は極めて貧しく、日々の生活にも事欠くほどであった。
ところが、その家に強盗が入ったのである。うまく対処して、善澄は逃げ出して縁の下に入り込んだので見つからずにすんだ。盗人は家の中に入ると、手当たり次第に物を盗み、打ち壊し、家じゅうをどたどたと踏み砕いて、わめきながら出て行った。
そこで、善澄は縁の下から急いで這い出すと、盗人が出ていった後から門の所まで走り出て、大声で「やい、お前たち、その面はしっかり覚えたぞ。夜が明けたら、検非違使の別当に申し出て、片っ端から捕まえさせてやる」と、大いに腹を立てて叫びながら門をたたきながら呼びかけた。
盗人どもはこれを聞くと、「お前ら、聞いたか。さあ、引き返して、あいつを打ち殺してしまおう」と言って、どやどやと走って引き返してきた。善澄はあわてて家に逃げ込み、縁の下に急いで入ろうとしたが、あわてていたので、額を縁に打ちつけて、うまく入ることが出来ないでいるところに、盗人が戻って来て善澄を引っ張り出して太刀で以って頭をさんざんに打ち割って殺してしまった。
盗人はそのまま逃げ去ってしまったので、どうすることも出来ないまま終わってしまった。
善澄は学才は優れていたが、和魂(ヤマトタマシイ・珍しい使い方と思われるが、ここでは「思慮・分別」といった意味らしい。)のまるでない男なので、このような幼稚なことを言って殺されてしまったのだと、これを聞いた人すべてにそしられた、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
『 だまし討ちに遭う ・ 今昔物語 ( 29 - 21 ) 』
今は昔、
紀伊の国の伊都郡に坂上晴澄(サカノウエノハルズミ・伝未詳)という者がいた。武の道にかけては極めて隙のない男であった。前司(前任の国司)平惟時朝臣(タイラノコレトキノアソン・一条天皇の頃の人物。従四位下。紀伊守であったかは不詳。肥後守にはなっている。)の郎等である。
ある時、京に所用があって上京したが、敵として狙われていることがあって、油断することなく、自分も弓矢を持ち、郎等たちにも弓矢を持たせるなどして、襲われる隙が無いように防備し、夜更けの町に用足しに出たが、下京辺りで賑やかに先払いして馬に乗り連ねて行く公達の一行に出会った。
声高に先払いをしてくるので、晴澄は馬から下りていると、「弓の弦を外して平伏しておれ」と、わあわあ言うので、あわてふためいて弓の弦をみな外した。さらに、額を土につけて全員が平伏していたが、「この公達方が通り過ぎられた」と思った時、晴澄を始めとして郎等従者に至るまで、人がやって来て首根っこを押さえて押し倒した。
「これはまた、何をしようとするのか」と思って、顔をあげて見上げてみると、公達と見えていて馬に乗った五、六騎の者は、甲冑を着け、弓矢を持っていて、とても恐ろしげな様子で矢をつがえ、「お前ら、少しでも動けば射殺すぞ」と言う。何と、公達などではなく、強盗が化けていたのである。
それに気づいたが、実に悔しく情けない限りであった。少しでも動けば射殺されるので、ただ、こ奴らのするに任せて、打ち伏せられ引き起こされているうちに、盗賊たちの思いのままに、一人残らず着物をみな剥ぎ取られ、弓も胡録(ヤナグイ・矢を入れて背負う武具。)も馬も鞍も太刀も刀も、履物に至るまでことごとく奪い取って去って行った。
そこで晴澄は、「油断さえしていなければ、どんな盗賊であれ、わしを殺したうえでなければこれほどにはずかしめる事など出来ないはずだ。力の限り戦って捕らえることも出来たはずなのに。それを、大声で先払いしてきたので、畏まって平伏してしまったので、このような目に遭わされてもどうすることも出来なかった。これは、わしが武士としての運がないための結果だ」と言って、これから後は、一人前の武士らしい振舞いを止め、人の従者として勤めるようになった。
されば、先払いしている人に出会っても、十分注意するべきだ、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
女の出歩きは危険 ・ 今昔物語 ( 29 - 22 )
今は昔、
物詣(モノモウデ・神社仏閣への参拝)のたいそう好きな人妻がいた。誰の妻だとは、あえて言わないことにする。年齢は三十歳ばかりで、姿形の美しい人である。
その人が、「鳥部寺(トリベデラ・京の葬送地である鳥辺野あたりにあったらしい。)の賓頭盧(ビンズル・十六羅漢の第一の尊者。現在でも、よく祀られている。)様は大変霊験あらたかであられる」と言って、供に女童一人を連れて、十月二十日ばかりの午時(ウマノトキ・正午)ごろに、たいそう美しく着飾って参拝に出かけたが、寺に行き着いてお参りしていると、少し遅れて屈強な雑色男(ソウシキオトコ・雑役に従事する男)が一人でお参りにやって来た。
この雑色男が、寺の内で、この人妻の供の女童の手をつかんで引き寄せた。女童は怯えて泣き出した。近くに家もない野中のことなので、主の女もこれを見て怖ろしさに震え上がった。
男は女童を捕らえて、「さあ、突き殺してやるぞ」と言って、刀を抜いて押し当てた。女童は声も出ず、着ている着物を次々と脱ぎ棄てた。
男はそれを奪い取り、次に主の女を引き寄せた。主の女はこの上なく怖ろしかったが、どうすることも出来ない。男は主の女を仏像の後ろの方に引っ張って行き、抱いて横になる。主の女は拒むことも出来ず、男の言いなりになった。
その後、男は起き上がって、主の女の着物を引きはがし、「可哀そうだから、下着だけは許してやる」と言って、主従二人の着物を引っ提げて、東の山の中に走り込んだ。
そこで、主の女も女童も泣いていたが、今更どうにもならない。とはいえ、このままいるわけにもいかず、女童は清水寺(現存の著名な寺院。)の師僧のもとに行き、「これこれ然々でございます。鳥部寺に詣でましたところ、追剥に遭いまして、奥様は裸でその寺においでです」と言って、僧の鼠色の衣一枚を借りて、女童は僧の紬の衣を借りて着て、法師一人を付けてくれたので、その僧を連れて鳥部寺に引き返して、主の女にその衣を着せて京に帰ったが、その途中で、賀茂川原で迎えに来た車に出会ったので、それに乗って家に帰って行った。
されば、心幼い(分別の浅い)女の出歩きは止めるべきである。このような怖ろしいことがあるのである。その男も、主の女と体の関係まで持ったのだから、着物だけは取らずに去るべきで、何とも薄情な奴だ。その男は、もとは侍であったが、盗みを働いて牢獄に入り、後に放免になった者であった。
この事は、隠そうとしていたが、いつしか世間に広がったのであろう、
此(カク)なむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
弓矢も妻も奪われる ・ 今昔物語 ( 29 - 23 )
今は昔、
京に住んでいる男が、妻が丹波国の者であったので、男は妻を連れて丹波国に出かけたが、妻を馬に乗せて、男は竹箙(タケエビラ・矢を入れて背負う武具で、竹製の物らしい。)に矢を十本ばかり入れて背負い、弓を持って妻の後ろを歩いて行ったが、大江山の近くで、太刀だけを帯びたたいそう強そうな若い男と道連れになった。
そこで、連れ立って歩いて行ったが、互いに世間話などしながら、「お主はどちらまで行かれるのか」など言っているうちに、この道連れになった太刀を帯びた男は、「自分が帯びているこの太刀は、陸奥国より伝えられた高名の太刀です。ぜひご覧ください」と言って、抜いて見せたが、まことに立派な太刀であった。
妻連れの男は、この太刀を見て欲しくて仕方がなかった。若い男はその様子を見て、「この太刀をお望みなら、あなたがお持ちの弓とお取替えされますか」と言った。この弓を持っている男は、持っている弓はそれほどの物でもなく、若い男の太刀はまことに立派な太刀なので、太刀が欲しいことに加え、「交換すれば、ずいぶん得をするぞ」と思って、迷うことなく交換した。
こうして、さらに行くうちに、若い男が妻連れの男に、「自分が弓だけを持って歩いているのは、どうも人目が悪い。山中を行く間だけ、矢を二本ばかりお貸しください。あなたにとっても、このように連れ立って歩くのですから、同じことでしょう」と言うので、妻連れの男は「もっともだ」と思うのに合わせて、立派な太刀とつまらない弓を交換した嬉しさもあって、言われるままに矢を二本抜いて渡した。
そこで若い男は、弓を持ち矢を二本手にして、後からついて来る。妻連れの男は、竹箙だけを背負い、太刀を帯びて歩いて行った。
やがて、昼食をとるために藪の中に入ろうとすると、若い男が「人が近くを通る所は見苦しいですよ。もう少し奥へ行きましょう」と言うので、さらに奥に入った。
そこで、女を馬から抱き下ろしたりしていると、この弓を持った男がにわかに弓に矢をつがえ、妻連れの男に狙いをつけて強く引き、「貴様、動くと射殺すぞ」と言うので、妻連れの男は全く思いもかけなかった事なので、不意をくらって、茫然と立ちすくんでいた。
すると、「山の奥の方へ入って行け、さあ行け」と脅すので、命惜しさに、妻を連れて七、八町ばかり山の奥に入った。そこで、「太刀も刀も投げ捨てろ」と命じたので、皆投げ捨てて立っていると、寄って来て奪い取り、打ち倒して、馬のたずなで木に強くしばりつけた。
こうしておいて、女のもとに寄って来て見てみると、女は二十歳余りで、身分は賤しいが魅力的でとても美しい。若い男は女を見ると、すっかり心奪われて、何もかも忘れて、女の着物を脱がせようとした。女は抵抗することも出来ず、言われるままに着物を脱いだ。されば若い男も着物を脱いで、女を抱いて二人横になった。女はどうすることも出来ず若い男の言いなりになったが、女の夫は、木に縛りつけられたまま見ていたので、どんな思いであったろうか。
その後、若い男は立ち上がり、もとのように着物を着て、竹箙を背負い、太刀を取って帯び、弓を持って馬に這い乗り、女に言った。「気の毒だと思うが、仕方のないことなので、わしは行くことにする。そなたに免じて、その男は殺さないでおこう。馬は急いで逃げるために乗って行くぞ」と。そして、馬を駆けさせていったので、どこへ行ったのか分からなかった。
それから、女は夫のそばに近寄り縄を解いてやると、夫は茫然とした顔つきでいる。
女は、「お前さまは、何とも頼りがいのないお方だ。これから先も、こんなことではとても良い事などありますまい」と言ったが、夫は一言もなく、そこより女を連れて丹波に向かった。
若い男の心根は立派である。女の着物を奪い取らなかったのは感心できる。妻連れの男はまことに情けない。山中で、身も知らぬ男に弓矢を渡すとは、何とも愚かなことである。
その若い男が何者か、遂に分からないままであった、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
寡婦を売る男 ・ 今昔物語 ( 29 - 24 )
今は昔、
近江の国[ 欠字あり。 郡名が入るが不詳。 ]郡に住んでいる人がいた。 未だそれほどの年でもないうちに亡くなったので、その妻もまだ四十歳ぐらいであった。 子も一人も産んでいなかった。 生れは京の人である。
さて、残された女は、死んだ夫のことをいつまでも強く恋い悲しんでいたが、どうすることも出来ず、生国の京に上ろうとも思いはしたが、京にも頼みとする人がなく、思い悩んで過ごしていた。
その家には、長年片時も離れず使っていた男がいたが、何かにつけて誠実に働いてくれているので、夫の死後もこの男を頼りにして何事も相談していた。 その男が、「このように、一人寂しくされているよりは、ここから近い所に山寺がございますので、しばらく湯治などなさって、心静かにあちらこちらにお出かけなどなさっては如何ですか」と勧めると、女は「それは良い事だ」と思って、「そのように近い所であれば、行ってみましょう」と言うと、男は、「ごく近い所です。 決していい加減なことは申しません」と答えたので、女は、「京に上ろうとも思ったが、京にはすでに両親はなく親類もいないので、そういう所に行って、いっそのこと尼にでもなろうか」と言うと、男は、「山寺においでの間は、私が全てお世話させていただきます」と言うと、女は、せっせと旅支度にかかった。
そして、女を馬に乗せて、男はその後ろから歩いて行ったが、近い所だと言っていたが、遥かに遠くまで連れて行くので、女は、「いったい、どうしてこれほど遠いのか」と尋ねると、「もう少し行きましょう。 決して悪いようには致しません」と言って、三日ばかりも連れて行った。
こうして、ある家の門の前で女を馬から下ろし、男は家の中に入った。 女は、「いったい、どうするつもりなのだろうか」と不審に思いながら、そのまま立って待っていると、男が引き返してきて、女を中へ連れて入った。 そして、板敷に畳(薄縁)を敷いた所に座らせたが、女は訳が分からないまま見ていると、この家の者が、男に絹や布などを与えている。
「あれは、どういうわけで物を与えているのだろう」と思っているうちに、男はそれらの品を受け取ると、逃げるように去って行った。
あとで聞けば、何と、この男は主の女をだまして、美濃国に連れて行って売り払ったのである。 そして、女の目の前で代価を受け取ったのである。 女はそうと知って、驚きあきれて、「これはどういうことですか。 わたしにこうこう言って、山寺に連れて行ってくれるのでしょう。 どうして、こんな事を」と涙を流して言ったが、聞き入れようともせず、男は代価を受け取ると馬に這い乗って走り去った。
そこで、女は泣き崩れていたが、その家の主は、「女をうまく買い取ったぞ」と思って、女に事情を尋ねた。 女は、「然々です」と、これまでの一部始終を話し、涙を流して泣き続けたが、家の主も聞き届けようとはしなかった。
女はただ一人で、相談する者もなく、逃げ出すことも出来ないので、泣き悲しんで「わたしを買い取られても、何の得にもなりませんよ。 死ぬほどわたしをこき使われても、わたしは、どうせ間もなくこの世を去る身ですから」と言って、泣き伏した。
その後、食べ物など持ってきて食べさせようとしたが、全く起き上がろうとしなかった。まして、物を食べることなど全くなかったので、家の主は持て余してしまった。使用人どもは、「なに、しばらくの間は嘆き伏しているでしょうが、そのうち起き上って物も食べるでしょう。しばらくは放っておきなさい」などと、口々に言ったが、数日経っても全く起き上がる気配もないので、「とんでもない奴に騙されたものだ」などと言っているうちに、女が連れて来られてから七日目に、遂に嘆き死んでしまった。
されば、家の主は、つまらぬ買い物をしただけで終わった。
これを思うに、口先でどんなにうまい事を言っても、やはり下賤な者の言う事に乗ってはならないのである。
この事は、家の主が京に上って話したのを聞き伝えて、「誠に驚くべき哀れな事である」と思って、
此(カ)く語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
残酷な武将 ・ 今昔物語 ( 29 - 25 )
今は昔、
平貞盛朝臣(タイラノサダモリノアソン・940年、藤原秀郷とともに平将門の追討に成功した人物。)という武士がいた。
丹波の守として任国にあった時、そこで悪性の瘡(カサ・できもの、腫物などの総称)を患ったので、[ 欠字あり。医師名が入るが未詳。]という名高い医師(クスシ)を京から迎えて診察させたところ、医師は「まことに怖ろしい瘡です。されば、児干(ジカン・胎児の肝で作った薬らしい? )という薬を求めて治療すべきです。その薬は、人には聞かせられない薬です。しかも、日が経てば効かなくなる薬です。すぐにお求めになるべきです」と言って、他の所へ出て行った。
そこで、守は、わが子の左衛門の尉[ 欠字あり。不詳。](サエモンノジョウは、宮中警護を主な任務とする武官。なお、貞盛の子には左衛門の尉を勤めた者はいない。孫にはいるがはっきりしない。)という者を呼んで、「わしの瘡を矢傷によるものとあの医師は見抜いた。大したものだ。まして、わしがこの薬を探し求めれば、絶対に世間に知られてしまうだろう。そこでだが、お前の妻は懐妊しているそうだな。その胎児をわしにくれぬか」と言うと、貞盛の子は父の言葉を聞くと、目もくらみ茫然とするばかりであった。
とはいえ、拒絶することも出来ず、「どうぞ、差し上げます」と答えると、貞盛は「大変ありがたい。それでは、お前はしばらく他所に行って、妻と胎児の弔いの準備をせよ」と言いつけた。
さて、貞盛の子は、この医師の所に行き、「こういうことになりました」と泣く泣く話すと、医師もこれを聞いて涙を流した。そして、しばらくすると、「聞くにつけ何ともむごたらしいことです。私が何か手立てを考えましょう」と言って、館へ行って、「いかがでしょうか。薬はありましたか」と守に尋ねると、守は「それが、なかなか手に入りにくいのだ。そこで、わしの息子の妻が懐妊しているので、それを貰い受けることにした」と答えると、医師は「それではどうにもなりません。ご自分の血を受けた者は薬になりません。すぐに、他の者とお替えください」と言った。
守は嘆いて、「それではどうすればよいのか。皆で探せ」と命じると、ある人が、「炊事の女が懐妊していて、六か月になっています」と言ったので、「ならば、それをさっそく取らせよ」と命じて、女の腹を切り開いてみると、女子(児干の「児」は男子の意味。)だったので、取り棄てた。
そして、さらに他に求めて、守は命を取り留めた。
そこで、医師に立派な馬や装束、米などをたくさん与えて京に帰らせることになったが、子の左衛門の尉を呼んで密かに言った。「『わしの瘡は矢傷によるものだったから、児干を付けたのだ』と世間に知れ渡るに違いない。朝廷もわしを頼もしい者と思し召して、夷が反乱を起こしたというので、わしを陸奥国に派遣されようとしている。それなのに、『わしが誰それに射られて傷を負った』と評判が立っては、大変な事ではないか。されば、『あの医師を何とかして殺してしまおう』と思うので、今日、京に上らせるので、途中で待ち伏せして殺せ」と命じたので、左衛門の尉は、「容易いことでございます。上京する途中の山で待ち受けて、強盗を装って射殺しましょう。されば、夕方になったら医師を出発させてください」と言うと、守は「そうしよう」と言ったので、左衛門の尉は「その準備をいたします」と急いで出て行った。
そして、左衛門の尉は医師に会って、密かに伝えた。「これこれ然々の事を守が言っております。どうすればいいでしょうか」と。
医師は、「これは大変な事だ」と思って、「ただ、どのような方法でも、あなたのお考えでお助け下さい」と言うと、左衛門の尉は、「上京される途中、山道に入られたら、あなたに付けられている判官代を馬に乗せて、あなたは歩いて山を越えてください。先日の事を生涯忘れ難いほどうれしく思っておりますので、このようにお知らせするのです」と言う。医師は手を合わせて感謝した。
さて、守はさりげなく医師を出立させることにすると、医師は酉時(トリノトキ・午後六時ごろ)ごろに出発した。
医師は左衛門の尉に教えられたように、山に入ると、自分は馬から下りて従者のようになって歩いているうちに、盗人が現れた。盗人は馬に乗って行く判官代を主だと思った様子で、前もって打ち合わせた通りに、射殺してしまった。
従者どもは皆逃げ去ってしまったので、医師は無事に京に上り着いた。
左衛門の尉は舘に帰り、射殺した旨を守に報告すると、守は喜んでいたが、そのうちに、医師が生きていて京におり、判官代を射殺したことが分かり、守が「これはどういうことだ」と訊ねると、左衛門の尉は「医師が従者のように歩いていることを知らずに、馬に乗っている判官代を主だと思って、過って射殺してしまったようです」と答えると、守は「なるほど」と思って、それ以上は強いて追及しないで終わった。
それによって、左衛門の尉は医師に恩返しが出来たのである。
貞盛朝臣が、わが子の妻の懐妊している腹を切り開いて、胎児の肝を取ろうと思ったことは、全くあさましく残酷な心である。
これは、貞盛の第一の郎等である舘諸忠(タチノモロタダ・伝不詳)の娘が語ったのを聞き継いで、
此(カ)く語り伝へたるとや。
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『 哀れなる書生 ・ 今昔物語 ( 29 - 26 ) 』
今は昔、
日向の守[ 欠字あり。氏名を意識的に伏せているらしい。]という者がいた。
任国にいたが、国司の任期が終わったので、新しい国司の着任を待つ間、引き継ぎの書類などを作らせていたが、書生( ショショウ・書記官 )の中に一人、大変事務能力に優れ字も堪能な者がいたので、その者を部屋に閉じ込めて古い記録などを書き直させていた。
その書生は、「『このような虚偽の文書を書かせる上は、新国司に告げ口するかもしれない』と国司は自分のことを疑うに違いない。この国司は良からぬ心の持ち主のようなので、きっと自分に危害を加えるに違いない」と思ったので、「なんとかして逃げだそう」という気になったが、守は強そうな男を四、五人ばかり張り付かせ、夜も昼も見張っているので、全く逃げ出す隙がなかった。
そのような状態で書き続けているうちに、二十日ばかり経ったので、書類を全部書き終えてしまった。
すると守は、「一人で多くの書類をこのように書き終えてくれたこと、まことに有り難い。京に上っても、わしを頼りにして忘れないでくれ」と言って、絹四疋(ヒキ・絹布の単位で、反物二反分が一疋。)を褒美として与えた。
しかし、書生は褒美をもらう気にもなれず、恐ろしさに胸が震えていた。
書生が褒美を受け取って立っていこうとすると、守は腹心の郎等を呼ぶと、ひそひそ声でしばらく話している。書生はそれを見て、胸が潰れそうで気が気でなかった。
郎党は守の話を聞き終わって出て行こうとして、「そこの書生殿、おいでください。静かな所でお話がしたい」と呼び出したので、書生は仕方なしに近寄って聞こうとすると、突然二人の男によって書生は引っ張って行かれた。
郎党は武具を背負って矢をつがえて立っていたので、「一体どうなさるおつもりなのか」と訊ねると、郎党は、「たいへん気の毒だとは思うが、主人の仰せとなれば断るわけにもいかないのだ」と言うと、書生は、「思っていた通りだ。だが、どこで殺そうと考えておられるのか」と訊ねると、郎党は、「然るべき物陰に連れて行って、密かにやるつもりだ」と言う。
書生は、「主人の命令でなさるのですから、どうこういうつもりはない。ただ、長年の顔見知りなのだから、私の願いを聞いてくれませんか」と言うと、郎党が「何事かな」と訊ねると、書生は、「私は、八十歳になる老母が家に居て、長年世話をしています。また、十歳ほどの幼い子供もいます。『その者たちの顔を今一度みたい』と思うので、その家の前を連れて通ってもらえませんか。そうしてもらえれば、その者たちを呼び出して顔を見ようと思います」と言えば、郎党は「容易いことだ。それくらいのことは何ともない」と言って、その家の方に連れて行った。
書生を馬に乗せて二人の男が馬の口を取り、病人でも連れて行くように、さりげない様子で連れて行った。
郎党は、その後ろから武具を背負って馬に乗ってついて行った。
そして、家の前を連れて通るとき、書生は人を家の中に生かせて、母に『然々』と伝えさせると、母は人に寄りかかりながら門の前に出てきた。見れば、髪は灯心を載せたような白髪で、痛々しいほどに老いている。子供は十歳くらいで、妻に抱かれて出てきている。
書生は馬を止めて、母を近くに呼び寄せて言った。
「私は少しも誤ったことはしておりませんが、前世からの宿命で、間もなく命を召されます。あまりお嘆きにならないでください。この子は、たとえ他人の子供になろうとも、なんとか生きていけるだろう。ただ、母上がこの後どうなさるかと思うと、殺されることよりも遙かに悲しく思います。さあ、もう家にお入りください。もう一度だけお顔を拝見したいと思って立ち寄ったのです」
と言うのを聞いて、この郎等は泣いた。馬の口を取っている者どもも泣いた。母は、息子の話を聞いて泣き惑っているうちに、気を失ってしまった。
しかしながら、郎等はいつまでもこうしているわけにも行かず、「長々と話していてはならぬ」と言って、引き立てていった。
そして、栗林の中に連れ込んで、射殺して、首を取って返っていった。
これを思うに、日向の守はどのような罪を受けたのだろうか。偽りの文書を書かせる事でさえ罪は深い。いわんや、書かせた者を何の罪もないのに殺させるなど、その罪の深さは思いやられる。
これは、重い盗犯と異ならないと、この話を聞く人は憎んだ、
となむ語り伝へたるとや。
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