『 台風14号 福岡県に上陸 』
台風14号 先ほど 福岡県に上陸
台風が 福岡県に直接上陸するのは 初めてだとか
迷走の上 あまり経験しないコースを取っており
強風はもちろん 大雨 土砂災害などに加え
高潮も 懸念されている
進路に予想されている地域はもちろん
遠く離れた地域で すでに激しい雨に襲われている所がある
くれぐれも 安全第一を心がけてください!!
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『 やまとうたは人の心を種として 』
『 やまとうたは、人の心を種として、万(ヨロヅ)の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出(イダ)せるなり。花に鳴く鶯、水に住む蛙(カハズ)の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地(アメツチ)を動かし、目に見えぬ鬼神(オニガミ)をもあはれと思はせ、男女(オトコオンナ)の中をも和らげ、猛き武士(モノノフ)の心をも慰むるは歌なり。 』
これは、古今和歌集の「仮名序(カナジョ)」の冒頭部分です。
古今和歌集には、「仮名序」と漢文による「真名序(マナジョ)」があります。
仮名序は、古今和歌集の選者の一人でもある紀貫之により書かれたものと、ほぼ定説となっていますが、わが国最初の勅撰和歌集として、その心意気が伝わってくる名文と言えましょう。もちろん、貫之が、次々と編纂される勅撰和歌集を予測していたわけではないでしょうから、「わが国最初の」といった認識は抱いていなかったでしょうが、万葉集に対する対抗意識は強かったように感じられます。
古今和歌集を味わうに当たって、仮名序は大きな意味を持っていると思われます。本稿では、その概略を紹介させていただきます。
仮名序は、冒頭部分に続き、
『 この歌、天地のひらけ初まりける時よりいできにけり。・・・ 』と、和歌の起源について述べられています。
次には、
『 そもそも、歌のさま、六つなり。唐の詩(カラのウタ)にもかくぞあるべき。その六種(ムクサ)の一つには、そへ歌(表面に詠まれていることと直接関係のない裏の意味を相手に伝えようとした歌)。 ( 中略 )
二つには、かぞへ歌(物の名前を羅列して数え上げる歌)。 ( 中略 )
三つには、なずらへ歌(歌いたい事柄を何かになぞらえて歌う歌)。 ( 中略 )
四つには、たとへ歌(草木や鳥獣に託して作者の心を表現する歌)。 ( 中略 )
五つには、ただこと歌(偽りのない正しい世の中を願う歌)。 ( 中略 )
六つには、いはひ歌(祝意の歌)。 ( 中略 )
次には、和歌の歴史について多くが記されています。その中で、歌人について述べられている部分を抜粋させていただきます。
『 古(イニシエ)よりかく伝はるうちにも、ならの御時よりぞひろまりにける。かの御世や歌の心をしろしめしたりけむ。かの御時に、正三位柿本人麿なむ歌の聖なりける。これは、君も人も身を合わせたりといふなるべし。秋の夕(ユウベ)、龍田河に流るる紅葉をば帝の御目に錦と見たまひ、春の朝(アシタ)、吉野の山の桜は人麿が心には雲かとのみなむ覚えける。また、山部赤人といふ人ありけり。歌にあやしく妙なりけり。人麿は赤人が上(カミ)に立たむことかたく、赤人は人麿が下(シモ)に立たむことかたくなむありける。
( 中略 )
近き世にその名聞こえたる人は、すなわち、
僧正遍昭(ソウジョウヘンジョウ)は、歌のさまは得たれども、まことすくなし。たとへば、絵にかける女を見て、いたづらに心を動かすがごとし。 ( 中略 )
在原業平は、その心余りて、詞(コトバ)たらず。しぼめる花の色なくて匂ひ残れるごとし。 ( 中略 )
文屋康秀(フンヤノヤスヒデ)は、詞はたくみにて、そのさま身におはず。いはば、商人(アキヒト)のよき衣(キヌ)着たらむがごとし。 ( 中略 )
宇治山の僧喜撰(キセン)は、詞かすかにして、始め終りたしかならず。いはば、秋の月を見るに暁の雲にあへるがごとし。 ( 中略 )
小野小町は、古の衣通姫(ソトオリヒメ)の流(リュウ)なり。あはれなるやうにて、つよからず。いはば、よき女のなやめるところあるに似たり。つよからぬは女の歌なればなるべし。 ( 中略 )
大友黒主は、そのさまいやし。いはば、薪(タキギ)負へる山人の花の陰に休めるがごとし。 ( 中略 )
この部分を受けて、後世の人は、「柿本人麿・山部赤人」の二人を「歌聖」と呼び、「僧正遍昭・在原業平・文屋康秀・喜撰・小野小町・大友黒主」を「六歌仙」と称されることになりますが、あくまでも紀貫之の私見であり、特に後の六人に対する評価は辛いものが多く、筆者個人としては、「歌聖」「六歌仙」という言葉が過大な重みをなしているように思えてならないのです。
いずれにしても、紀貫之によるとされる「仮名序」は、単なる歌集の編纂ということだけでなく、自らの時代の自信を後世に伝えようとの意思が感じられると思うのです。
最期に、仮名序の最終部分を載せさせていただきます。
『 人麿亡くなりにたれど、歌のこととどまれるかな。たとひ時移り事去り、楽しび悲しびゆきかふとも、この歌の文字あるをや。青柳の糸絶えず、松の葉の散り失せずして、真拆の葛(マサキノカヅラ・蔓草の一種)長く伝はり、鳥の跡久しくとどまれらば、歌のさまを知り、ことの心を得たらむ人は、大空の月を見るがごとくに、古を仰ぎて今を恋ひざらめかも。 』
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古今和歌集の歌人たち ご案内
古今和歌集は、醍醐天皇の命令により編纂された、わが国最初の勅撰和歌集です。
これ以後、次々と勅撰和歌集が作られていますが、それぞれがそれぞれの時代に応じた時代背景や活躍している歌人たちにより特有の世界を生み出しています。
しかし、どの勅撰集においても、陰に陽に、古今和歌集の影響を受けていると考えられます。陰に陽にと表現したのは、見習おうとしたり、影響を排除しようとしたり、といった意味です。と言いながらも、勅撰和歌集のすべてを勉強しているわけではないのですが。
簡単に古今和歌集の内容を列記しますと、
☆ 成立したのは、905年(延喜5年)と考えられています。
☆ 勅命者は醍醐天皇。撰者は、紀友則・紀貫之・凡河内躬恒(オオシコウチノミツネ)・壬生忠岑(ミブノタダミネ)の4人。
☆ 規模は、全20巻、1111首(流布本)。全体の分類は、「 春上・春下・夏・秋上・秋下・冬・賀・離別・羈旅・物名・恋1~5・哀傷・雑上・雑下・雑躰・大歌所御歌 他 」の20分類になっています。
☆ 掲載されている歌人の数は、130人弱ですが、名前が判明していない人(読人しらず)を勘案すると、200人を遙かに超える可能性もあります。
ただ、作者の歌数などを考えてみますと、読人しらずとなっているものが450首余、撰者となっている4人の歌が240首余、この両方で全体の6割を越えることになります。また、読人しらずを除く歌数に対する撰者4人の比率は1/3を越えており、歌数の偏りが少し気になります。
☆ 古今和歌集の歌人について、多くの研究書は、次の三期に分けています。
第一期・・・読人しらずの時期 嵯峨・淳和・仁明の御代で 809 ~ 849
古今和歌集は万葉歌人を採録しない方針と考えられるも、その時代の歌が多い
第二期・・・六歌仙の時期 文徳・清和・陽成・光孝・宇田(一部)の御代で 850 ~ 890
後世の人が六歌仙と名付けた歌人を中心とした歌人
第三期・・・撰者たちの時期 宇田・醍醐・朱雀の御代で 891 ~ 945
撰者と同時代の歌人
勅命者である第六十代醍醐天皇の御代は、平安京に都が移されて100年が過ぎ、天皇親政が最も安定していた時代です。古今和歌集編纂の背景には、朝廷政治の安定と自信があったと推察できると思うのです。
古来、古今和歌集に関する研究書や注釈書は数多く発表されています。本稿を書くに当たっての私もそうですが、公営の図書館に行けば、古今和歌集に関する資料や、代表的な歌人に関する資料は、かなりの物を見つけることが出来ます。
ただ、本稿の目的とするところは、先人たちの優れた資料に対抗しようということではありません。掲載されている和歌の新解釈を試みようとするものでもありません。
本稿の目的は、古今和歌集に登場してくる歌人と和歌をもとに、その人物が「その時どのような景色を見ていたのだろうか」といった視点で、想像し、空想し、彼らが見た景色の一端を覗いてみたいということです。
きっと妄想の類いが主流になるのではないかと懸念してはいるのですが、それも覚悟の上で試みてみたいと思っています。
どうぞ、よろしくお願いいたします。
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