雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

十方浄土に生まれる ・ 今昔物語 ( 7 - 9 )

2022-08-20 13:36:03 | 今昔物語拾い読み ・ その2

       『 十方浄土に生まれる ・ 今昔物語 ( 7 - 9 ) 』


今は昔、
震旦のリ州(河南省の一部)に宝室寺(ホウシツジ・伝未詳)という寺があった。その寺に一人の僧がいた。名を法蔵(593年に寺を建てたという記録があるらしい。)という。
武徳二年( 619 ) という年の閏三月に、重い病にかかった。二十余日臥せった頃、意識がもうろうとした中で見たものは、「一人の青衣(ショウエ・冥界の者の着衣)を着た者が、美しく花を飾った高楼の上にいて、手に経巻を持って法蔵に、『汝は今、三宝の物(仏事用の神聖な物。)を盗用して罪を得たること限りなく大きい。我が持っている経は、金剛般若経(金剛経とも)である。もし、この経を汝自ら一巻だけでも書写して心から受持するならば、一生の間の三宝の物を盗用した罪を滅することが出来るだろう』と告げた」というものであった。
法蔵はこれを聞くと、罪をすべて滅することが出来て、病は全快した。

その後、法蔵は、金剛般若経百部を書写して、心を尽くして受持・読誦して怠ることがなかった。
そして、遂に法蔵の命が尽きて、閻魔王の御前に参った。王は法蔵を見て訊ねた。「師よ、一生の間にどのような福業を造られたか」と。法蔵は、「私は仏像を造り、金剛般若経百部を書写して多くの人に転読させました。また、一切経八百巻を書写しました。昼夜に般若経を受持することを怠ることがありませんでした」と答えた。
王は、この事を聞いて、「師の造れるところの功徳は、たいへん大きく不可思議である」と仰せられて、すぐに、使いを蔵の中に行かせて、功徳の箱を取って王の前に持ってこさせて、その箱を王自らが開いて検証されたが、法蔵の言う事に違うところはなかった。
されば、王は、法蔵を誉めて、「師の功徳は不可思議である。速やかに師を放免して人間界に還す」と仰せられた。

法蔵は生き返って、寺にいて多くの人を教化し、また、種々の般若経を読誦した。また、諸々の功徳を修して怠ることがなかった。
法蔵は、病なくして長命であった。遂に命終る時に十方の浄土に生まれ変わった。
この話は、法蔵が生き返って後、ある人に向かって語ったのを、かくの如く、
語り伝ふる也けりとや。


     ☆   ☆   ☆

* 「十方の浄土」・・・「十方」は、四方と四隅(北東・北西・南東・南西)と上下のことで、「十方の浄土」とは、「十方に無量無辺に存する諸仏の浄土」のこと。

* 本稿も、「となむ語り伝へたるとや。」という定型で結ばれていない物の一つです。
本稿の場合、結句の直前に、「ある人が語り伝ふる」としたため、定型の結句が
使えなかったようです。

     ☆   ☆   ☆

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僧と鴿との契り ・ 今昔物語 ( 7 - 10 )

2022-08-20 13:35:36 | 今昔物語拾い読み ・ その2

       『 僧と鴿との契り ・ 今昔物語 ( 7 - 10 ) 』


今は昔、
震旦の幷州(ヘイシュゥ・今の山西省)に一つの寺があった。名を石壁寺(シャクビャクジ・石壁山玄中寺とすれば、浄土教の拠点として栄えた寺院。)という。
その寺に、一人の老僧が住んでいた。若い時から三業(サンゴウ・身業、口業、意業の総称。)を犯すことがなく、常に法華経及び金剛般若経を読誦して怠ることがなかった。

ある時、この僧が住んでいる僧坊の軒の上に鴿(ハト・鳩と同じ。)がやって来て、巣を作って二羽の子を生んだ。
僧は、この鴿の子を可愛がって、いつも食事の時ごとに、食べ物を分けて巣に持って行き、これを養った。鴿の子は次第に成長して、まだ羽がしっかり生えそろっていないのに、飛ぶ稽古をしようとして巣から飛び立ったが、まだ十分に飛ぶことが出来ず、地面に落ちてしまった。そして、二羽とも死んでしまった。
僧はこれを見て、とても可哀そうに思って泣き悲しみ、すぐに土を掘って埋めてやった。

その後、三月ばかり経って、僧の夢の中に二人の稚児が現れて、僧に向かって、「私たちは、前世において少しばかりの罪を犯し、鴿の子として生まれ、聖人の僧坊の軒におりましたが、聖人の養育を得て、次第に成長して巣から飛び立つときに、思いがけなく地面に落ちて死んでしまいました。ところが、聖人がいつも法華経と金剛般若経を転読されていましたのを聞いていた功徳によって、今、人間に生まれることが出来ました。今は、この寺の辺りから十余里離れた、[ 欠字。方角を示すが不詳。]方の、某郷の某県のある家に生まれようとしています」と言うのを見たところで、夢から覚めた。

その後、
十月が過ぎて、僧は実否を知るために、かの夢で見た所を探し尋ねて行くと、「ある家に、一人の女がいて、同時に二人の男の子を産んだ」と、ある人が言うのを聞いて、その家を尋ねて行って、二人の男の子に会った。
僧は稚児に向かって、「そなたたちは、鴿の子か」と尋ねると、二人の稚児は、一緒に答えた。
僧は稚児の答えを聞き、夢に見たのと違う所がないので、哀れで感激すること限りなかった。そして、その母に向かって、もとの有様や夢に見て尋ねてきたことなどを話した。母や家族たちは、この事を聞いて、皆涙を流して感動した。
僧は、深い契りを結んで、もとの寺に帰っていった。

これを以て思うに、多くの僧がおり、それぞれが経を読誦するときに、多くの鳥獣をみれば、必ず読誦して聞かせるべきである。鳥獣には分別が無いとはいえ、法を耳にすることがあれば、必ず利益を受けることが出来るのはかくの如くである、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

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仁王般若経の験力 ・ 今昔物語 ( 7 - 11 )

2022-08-20 13:03:16 | 今昔物語拾い読み ・ その2

       『 仁王般若経の験力 ・ 今昔物語 ( 7 - 11 ) 』


今は昔、
震旦の唐の代宗皇帝(779年没)の御代に、永泰元年 ( 765 ) という年の秋、天下に雨が降らず、諸々の草木はみな枯れ果てて、大臣・百官をはじめ人民みな嘆き悲しむこと限りなかった。
そこで、代宗皇帝は心の内で、「仏法の力によって、雨を降らそう」と思われて、八月二十三日に詔(ミコトノリ)して、資聖寺・西明寺の二寺において、百人の法師を招いて新しく翻訳した仁王般若経を講じさせた。三蔵法師(経・律・論に優れた僧のこと。)不空(フクウ・中国密教の大成者。)を総講師とした。
すると、九月一日に至り、黒雲が空に盛り上がり、待ちに待った雨が降り出し、国中に満ちた。それによって、天下はすべて潤い、枯れ果てていた草木もことごとく蘇り生い茂った。
その時、皇帝をはじめ、大臣・百官・人民、皆々喜ぶこと限りなかった。

されば、仁王般若経の験力は、不可思議なものと信じられる。
その後、辺境の遊牧民が国境を侵し、都では星の異変が生じたので(このあたり、意訳できず推定が入っています。)、仁王経二巻を取り出して、百座の仁王道場を開いたが、どれも、その験力を現わさないものはなかった、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

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新約も旧約も ・ 今昔物語 ( 7 - 12 )

2022-08-20 13:02:48 | 今昔物語拾い読み ・ その2

        『 新約も旧訳も ・ 今昔物語 ( 7 - 12 ) 』


今は昔、
震旦の唐の徳宗皇帝(805年没)の御代、貞観十九年(正しくは貞元。803 年 )という年、一人の僧がいた。その名前も住所も分からない。

その僧が、大山府君(タイサンブクン・道教では泰山府君。生死と福録を司る神。陰陽道でも重視され、仏教とも習合し、日本にも伝わっている。)の廟堂に行き、宿泊し、新訳(不空のものを新訳、鳩摩羅什のものが旧訳。)の仁王経の四無常の偈(シムジョウノゲ・無常、苦、空、無我を説いている。)を読誦した。
夜に至り、僧の夢の中に大山府君が現れて、「我は、昔、仏前において、目の前でこの経を聞いたが、この経も、鳩摩羅什(クラマジュウ)が翻訳した言葉も意味内容も同じで違うところはない。我は、この読誦の声を聞いて、心身の浄化を得ることが出来、大変嬉しい。しかれども、新訳の経は、文章表現はとても美しいが、教理が淡く薄い。されば、汝はやはり旧約の経を信奉すべきである」と仰せられた。そして、毘沙門天(毘沙門天は仁王経の守護神。)が経巻を与えて下さった、と見たところで夢から覚めた。

その後、この僧は、旧約の経も並べて、新約と共に受持した、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

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青雀の恩返し ・ 今昔物語 ( 7 - 13 )

2022-08-20 13:02:13 | 今昔物語拾い読み ・ その2

        『 青雀の恩返し ・ 今昔物語 ( 7 - 13 ) 』


今は昔、
震旦の[ 欠字 ]代、武当山(ブトウサン・湖北省にあり、修行の山らしい。)という所に恵表比丘(エヒョウビク・伝不詳。比丘は僧とほぼ同意。)という比丘が住んでいた。
さらに深く仏道を求めるために、建元三年 ( 481 ) という年に嶺南(レイナン・地域名)に至り、広州の朝亭寺(チョウテイジ・未詳)において、中天竺より渡ってきた沙門、曇摩伽陀耶舎(ドンマカダヤシャ・無量義経の翻訳者。)に会って無量義経(法華経の序説にあたる経。法華三部の一つ。)を伝えようと思った。心を尽くしてそれを願い、わずかに一本を得ることが出来た。そこで、武当山にこの経を持ち帰って、この経を信奉した。

その後、永明三年 ( 485 ) という年の九月十八日に、恵表はこの経を頂いて、山を出て、世に広めようとした。
山の中で野宿したが、初夜(午後八時頃)の頃に、突然一人の天人が恵表の所にやって来た。百千の天衆を従者として従えていて、この無量義経と恵表比丘を供養した。
恵表は天人に尋ねた。「あなたはいずれの天人で、どういうわけがあって参られたのですか」と。
天人は、「私たちは、この武当山にいる青雀(青は、異界を示している。)です。私たちは集まって、比丘が無量義経を読誦されるのを聞いておりました功徳によって、命が終えたあと、忉利天(トウリテン・天上界の一つ。帝釈天の居城がある。)に生まれることが出来ました。私たちは、その恩に報いたいと思い、こうしてやって来て経及び師を供養しているのです。私たちのもとの身は、かの山の西南の陽当たりにあります。一カ所に集まってきて、身を捨てたのです」と。
そして、こう話し終わると、たちまち姿を消した。恵表はこの事を聞くと、使いを彼の山に見に行かせると、多くの青雀が教えられた所に集まって死んでいた。
その後、恵表はこの経を世に広めた。

ある時、この経を信じていない一人の人が、「この経が、どうして法華経の序でなければならないのか」と言った。すると、このように思っていた人の夢に、一人の神が現れた。身長が一丈余り(3m余り)、金の鎧を着け鋭い剣を持っている。まことに恐ろしげな姿である。
その神は、この不信の人を叱りつけて、「汝、もしこの経を信じないのであれば、ただちにその頭・首を斬ろう。この経は、まさしく法華経の序である。一度でもこの経を耳にした者は、必ず菩提心を起こし消えることがない」と言った。
夢から覚めたあと、その人は過ちを悔い感謝した、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

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鳴り響く唇と舌 ・ 今昔物語 ( 7 - 14 )

2022-08-20 13:01:51 | 今昔物語拾い読み ・ その2

       『 鳴り響く唇と舌 ・ 今昔物語 ( 7 - 14 ) 』


今は昔、
震旦の斉の武成皇帝(569年没)の御代、幷州(ヘイシュウ)の看山(カンザン・未詳)のあたりで、ある人が土地を掘っていたが、ある所の土の色が黄白(オウビャク)になっているのに気づいた。不思議に思ってよく調べてみると、その形は人の上下の唇に似ていた。その中に舌があり、それは鮮やかな紅赤(グシャク)の色をしている。
集まってきていた人はみな、これを見て怪しみ、帝王にこの様子を奏上した。帝王は、その様子について広く大勢の人に尋ねたが、知っている者はいなかった。

ところが、一人の沙門(シャモン・出家者。僧。)がやって来て、帝に奏上した。
「これは、法華経を読誦していた人の六根(ロッコン・六感と同意。)が壊れることなく残された唇と舌です。法華経を読誦すること千返に及べば、その霊験を顕わすのです」と。
帝王は、この事を聞き、驚き尊ばれた。

すると、法華経を受持していた人は、皆、この事を聞いて、その唇・舌の所に集まってきて、唇‥舌を取り巻いて経を読誦した。最初、わずかに声を発した時、この唇と舌は同時に声を発し揺れ動いた。
これを見聞きした人は、総毛立ち、「希有のことだ」と思った。そして、この事を帝王に奏上したところ、詔(ミコトノリ)があり、石の箱を遣わして、その中にこの唇‥舌を納めて、墓室に安置された、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

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羅刹女と交わった僧 ・ 今昔物語 ( 7 - 15 )

2022-08-20 13:01:10 | 今昔物語拾い読み ・ その2

        『 羅刹女と交わった僧 ・ 今昔物語 ( 7 - 15 ) 』


今は昔、
震旦の外国(中国周辺の国を指す。)に一つの山寺があった。その山寺に年若い一人の僧が住んでいた。常に法華経を読誦していた。
ある日の夕暮れ時、寺の外に出て、遊行(ユギョウ・行や礼拝のため出歩くこと。)していたが、その途中で羅刹女(ラセツニョ・人を喰う鬼。羅刹鬼とも。)に出会った。
鬼はたちまちのうちに女の姿に変えた。その姿は、まことに美麗である。その女は、僧に近寄り、戯れかかった。
僧は、たちまちのうちに惑わされて、すぐにその女と性交に及んだ。通じてのち、僧の心は呆けてしまい、もとの心を失ってしまった。

そこで、その女は、「僧を自分の住処に連れていって喰ってやろう」と思って、僧を背負って空を飛んで行ったが、初夜(午後八時頃)になった頃にある寺の上を飛び過ぎた。
僧は鬼に背負われていたが、その寺の内から法華経を読誦する声が微かに聞こえてきた。それによって、僧の心は少しばかり覚めて、もとの心が戻ってきたので、心の内で法華経を暗誦した。
すると、女が背負っている僧の体がたちまち重くなり、次第に下がって行き地面に近付いた。遂に背負いきれなくなり、女は、僧を捨てて去って行った。
僧の心は覚めたが、自分がどこに来ているのか分からなかった。その時、寺の鐘の音が聞こえてきた。その音を頼りに寺まで行き門を叩いたところ、門が開いた。
僧は中に入り、詳しく事の次第を語った。その寺の大勢の僧は、この事を聞くと、「この人は、すでに犯した罪は重い。我等と同じ席に着くことは出来ない」と言った。

その時、一人の上座の僧が出て来て、「この人は、きっと鬼神のために惑わされていたのだ。決して本心からのものではない。いわんや、法華経の験力を明らかに
した人なのだ。すぐにこの寺に留めて、宿を貸しなさい」と言って、僧に女鬼と犯した咎を懺悔させたのである。
僧は、もと住んでいた寺のことを話すと、今いる所からの距離を推量すると、二千余里(一里の長さは諸説あるが、ここでは羅刹女の力を表現するためのもの。)もあった。
僧は、この寺に住んでいたが、たまたまもと住んでいた里からやってきた人と出会い、その由を聞いて、僧をもとの所に連れ帰った。

これを以て思うに、法華経の霊験は不可思議である。女鬼が現れて、僧を自分の住処に連れていって喰らうために、背負って二千余里の距離を一気に飛び渡ることが出来るといえども、法華経を暗誦することによって、たちまち体が重くなって、棄てて去って行ったということは、全く希有のことだ、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆ 

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神が逃げ去る ・ 今昔物語 ( 7 - 16 )

2022-08-20 13:00:44 | 今昔物語拾い読み ・ その2

        『 神が逃げ去る ・ 今昔物語 ( 7 - 16 ) 』


今は昔、
震旦の上定林寺(ジョウジョウリンジ)という寺に一人の僧が住んでいた。名を普明(フミョウ・460 頃に没したらしい。)といい、臨渭(リンイ・甘粛省にある。)の人である。
幼少にして出家し、心は清く、仏道を広く修した。常に懺悔(サンゲ・右肩を脱ぎ右膝を地につけ合掌し犯した罪を言う、といった修業方法らしい。)を行ずることを日課としていた。また、寺の外に遊行する事もなかった。もっぱら法華経を読誦してそれ以外念ずることがなかった。また、維摩経(ユイマキョウ)を転読した。法華経の普賢品(フゲンボン)を読誦する時には、普賢菩薩が六牙(ロクゲ)の白象に乗って、光を放ってその所に姿を現わした。維摩経を読誦する時には、妓楽(ギガク・雅楽にあたる。)や歌詠が大空に満ちて、その音(コエ)が聞こえた。また、神呪(ジンジュ・真言、陀羅尼と同意。)を以て祈願すると、ことごとくその験(シルシ)はあらたかであった。

ところで、その頃、王遁(オウトン・伝不詳)という人がいた。その妻は、重い病にかかっていて、苦しみ痛むこと堪えがたい状態で、急いで普明を招いて病気回復を祈願させようとした。
普明は、王遁の依頼によって、その家に向かったが、その門に入ろうとした時、すでにその妻は気を失っていた。その時、普明は、一つの憑き物を見たが、狸(ネコ・ネコと読ませるらしいが、タネキよりネコを指しているらしい。)に似ていた。長さ数尺ほどである。それが、犬の穴から出て来たのだ。
すると、王遁の妻の病が癒えた。王遁は喜び、普明を礼拝した。

また、普明は、昔、道を歩いていると、川のほとりで神を祭る行事をしている人がいた。カムナギ(シャーマンのような人)がその場にいて、普明を見て言った。「神が、普明を見て皆逃げてしまった」と。
これは、土着の神が、普明に備わった仏の験力を恐れて逃げていったのである。

普明は、臨終の時に臨んで、身に病を得てはいたが痛む所は少なく、端座して仏に向かい奉って、香をたき仏を念じ奉って息絶えた、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

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流浪の行者 ・ 今昔物語 ( 7 - 17 )

2022-08-20 13:00:16 | 今昔物語拾い読み ・ その2

        『 流浪の行者 ・ 今昔物語 ( 7 - 17 ) 』


今は昔、
震旦の会稽山(カイケイザン・浙江省にあり故事で名高い。)という所に一人の僧が住んでいた。名を弘明(グミョウ・486 年没)という。
幼少にして出家して、戒律をよく守り、禅定(ゼンジョウ・雑念を払い絶対の境地に至るための瞑想。)を修した。山陰県(今の浙江省の一部)の雲門寺という所に住んで、昼夜に法華経を読誦して、六時(勤行の定められた時間で一日に六回。)に礼懺(ライサン・仏を礼拝して懺悔すること。)を行ずることを欠かすことがなかった。

このような話がある。誰も水を汲み入れていないのに、瓶の水が毎朝一杯になっていたが、これは、諸天童子(護法童子、天童とも。)が奉仕したものである。
また、弘明が以前に雲門寺という寺に住んでいたが、仏の御前において、静かに経を読誦していると、虎がやってきて堂の内に入ってきて床に臥した。弘明はその虎を見たが、座にすわったまま動かなかった。虎は弘明が経を読誦するのを聞いていたが、しばらくすると立ち去った。

また、ある時、弘明がふと見ると、一人の小児が現れて、弘明が法華経を読誦するのを聞いていた。
弘明はその小児に尋ねた。「そなたは、一体どなたか」と。小児は、「私は、昔、この寺にいました沙門です。私は、帳台の下の食べ物を盗んだ罪のため、今は厠(カワヤ)の中に堕とされました。ところが、聖人の行状を耳にしましたので、やってきて法華経を読誦し給うのを聞かせていただいております。願わくば、聖人、慈悲を垂れ給いて、私のこの苦しみをお救い下さい」と言った。
弘明は、即座に、法を説き小児を教化した。小児は、法を聞いて悟りを開き、姿を消した。

その後、弘明は永興(エイコウ・不詳)に至り、石姥巌(シャクムガン・未詳)にして入定(ニュウジョウ・死ぬこと。即身仏を意味する場合もある。)する。
その時、そこに山の精である鬼がやって来て弘明を悩ました。弘明はその鬼を捕らえて、縄で括った。鬼は、自分の咎を謝って、逃してくれるように頼み、「私は、決して聖人の所に来ることはいたしません」と言った。弘明はこれを聞いて哀れに思い、その鬼を許し解き放った。
その後は、鬼は行方を断って姿を見せることはなかった。

また、元嘉(424 - 453)の間のことであるが、平昌の郡守であるモウギ(宋の人)が弘明の人柄を重んじて、新安(シンアン・浙江省の都市)に出てくるように求めた。弘明は新安に出かけ、道樹精舎(ドウジュショウジャ・不詳)に留まった。
後に、済陽の江斉という人(伝不詳)は、永興村に昭玄寺(不詳)を建立し、弘明は招かれてそこに行き住んだ。
また、大明(457 - 464 )年間の末に、陶里の董氏(トウリのトウシ・伝不詳)は、弘明のためにその村に栢林寺(不詳)を建てた。弘明は、そこに留まり禅戒(ゼンカイ・禅定と戒律といった意味か?)を修行した。そして遂に、その栢林寺において命を終えたのである、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

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経典の文字が消える ・ 今昔物語 ( 7 - 18 )

2022-08-20 12:59:49 | 今昔物語拾い読み ・ その2

        『 経典の文字が消える ・ 今昔物語 ( 7 - 18 ) 』


今は昔、
震旦の河東 ( カトウ・山西省の黄河東部 ) という所に熱心に修行する尼がいた。その身は清浄にして、常に法華経を読誦して長年が過ぎた。
ある時、法華経を書写しようと思う気持ちが強まり、人に頼んで書写させることになった。書く者を一人熱心に誘って、その者の手当をふつうの二倍与えた。特に清浄な所を造り、書写する部屋にした。
書写する者は、一度立って部屋の外に出ると、沐浴して香をたいた上で、部屋に入ってまた書写を続けた。その部屋の壁に穴を開け、竹の筒を通して、書写する者が息を吐こうとする時には、その穴から外に出させた。
このようにして、清浄な状態で法華経を正確に書写し奉り、八カ年の間に七巻を書写し終った。その後、真の心を尽くして供養し奉った。供養のあとは、熱心に恭敬礼拝し奉ること限りなかった。

ところで、竜門という寺に法端(ホウタン・伝不詳)という僧がいた。その寺において、寺の衆徒を集めて法華経を講じようとしたが、かの尼が受持し奉っている経を借りて講じようと思って、法端は尼に借りたい旨申し出たが、尼は大変惜しんで法端に貸そうとしなかった。
法端はぜひとも貸して欲しいと、その必要性を熱心に説明したので、尼も渋々ながら貸す気持ちになり、使いに来ていた者には渡さず、自ら持って竜門寺に行き、経を法端に渡して、自分の住処に帰った。

法端は、経を得て喜んで衆徒を集めて講を開こうとした。そこで、借り受けた経巻を開いて見奉ると、ただ黄色の紙があるだけで文字は一つもない。これを見て不思議に思い、他の経巻を開いて見奉ると、最初のものと同じだった。借り受けた七巻すべて同様に、文字は一字も存在していない。
法端は、奇異の思いを抱いて衆徒にも見せた。衆徒たちもこれを見たが、誰もが法端が見たのと同じである。そこで、法端ならびに衆徒は怖れ恥じて、経巻を尼の許に送り返し奉った。
尼は、これを見て泣き悲しみ、貸したことを後悔したが、今さらどうすることも出来ない。

そこで、尼は、泣く泣く香水で以て経巻の箱を濯ぎ、自ら沐浴して経巻を戴き奉って、花を散らし香をたいて、仏を廻り奉ること七日七夜、少しの間も休むことなく、真の心を尽くして祈請した。
その後、経巻を開いて見奉ると、文字がもとのように顕われていた。尼はそれを見て、泣く泣く恭敬供養し奉った。

これを以て思うに、僧といえども、経典の文字が隠れ給うは、真の心がなかったからではないだろうか。尼であっても、経典の文字をもとのように祈りによって顕わすことが出来るのである。真の心が深かったからであろう、と当時の人々は言った、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

* 最後の部分は、僧より尼を低く見ている表現で、男女差別ともいえますが、当時としては一般的な考え方で、仏教説話の多くの場面で見られることです。

     ☆   ☆   ☆

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