『 神と僧の語らい ・ 今昔物語 ( 7 - 19 ) 』
今は昔、
震旦の随の大業( 605 - 616 )の時代に、一人の僧がいたが、仏法の修行をするために、あちらこちらに遊行していたが、そのうちに太山(タイザン・太山(泰山)府君のこと。道教の神で、陰陽道でも重視され、わが国にも伝えられている。)の廟(ビョウ)に行き着いた。
その所に宿泊しようとしたが、廟令(ビョウリョウ・番人のような者か?)という者が出て来て、「此処には泊まれる部屋はない。されば、廟堂の廊下の床下で泊まるとよい。ただし、これまでこの廟にやって来て宿泊した人は、必ず死んでいる」と言った。
僧は、「死ぬことは、遂の道です。私にとって、苦しむことではありません」と答えた。
廟令は、僧に床(椅子のような物)を与えた。されば、僧は床下に宿泊した。
夜になると、静かに座って経を読誦した。すると、堂の内に環(タマキ・神が顕われる予兆らしい。)の音がした。僧は、「何事か」と恐れを感じていると、気高くて身分ありげな人が姿を見せた。そして、僧に礼をされた。
僧は、「聞くところによりますと、『長年、この廟に泊まる者は大勢死んでいる』とのことです。どうして、神が人を害されるようなことがありましょうか。願わくば神よ、私を守り給え」と言った。
神は、僧に仰せられた。「我は、決して人を害することなどない。ただ、我がやって来ると、人は、その音を聞くと、それに恐れて勝手に死んでしまうのだ。願わくば、師よ、我を恐れないでくれ」と。
僧は、「そうであれば、神よ、近くにお座り下さい」と言った。
神は僧の近くに座り話をしたが、人と変わらなかった。
僧は神に訊ねた。「世間の人が言っていることを聞くと、『太山は人の魂を納めている神だ』と言っております。これは、本当のことでしょうか」と。
神は仰せられた。「全くその通りです。あなたは、もしや前に死んだ人で見たい人がいますか」と。
僧は答えた。「前に死んだ、二人の同学(一緒に学んだといった意味か)の僧がおります。願わくば、私は彼らに会いたいと思います」と。
神は仰せられた。「その二人の姓名は何と言われるか」と。僧は、詳しく二人の姓名を申し上げた。
神は、「その二人、一人はすでに人間に生まれ変わっています。もう一人は地獄にいます。極めて罪が重く見ることは出来ません。ただし、我と共に地獄に行けば見ることが出来ます」と答えた。
僧は、喜んで神と共に門を出て、いくらも行くことなく、ある場所に至った。見てみると、火炎が激しく燃えさかっている。神は僧をその近くに連れて行った。僧が遙か向こうを見てみると、一人の人が火の中にいた。何も言うことが出来ず、ただ叫んでいる。その姿からその人と見分けることは出来なかった。ただ、血だらけの肉の塊であった。見るほどに心が乱れ怖ろしいこと限りなかった。
神は僧に告げられた。「あれが、もう一人の同学の者です」と。
僧はそれを聞いて、哀れみ慈悲の心が起きたが、神は、それ以外の所を見て回ることはせずに引き返されたので、僧も同じように返った。
もとの廟に戻ると、また、神と近い距離で座った。
僧は神に申し上げた。「私は、あの同学の者を苦しみから救いたい」と。
神は仰せられた。「速やかに救ってやりなさい。彼のために法華経を書写し奉りなさい。そうすれば、きっと罪を許されることが出来るでしょう」と。
僧は、神の御教えに従って廟堂を出た。朝、廟令がやって来て、僧の姿を見て、死ななかったことを怪しく思った。僧は廟令に神との事を詳しく語った。廟令はそれを聞いて、「不思議なことだ」と思いながら返っていった。
その後、僧はもとの住処に返り、すぐさま法華経一部を書写して、あの同学の僧のために供養し終った。
その後、その経を持って、また廟に行き、前と同じように泊まった。
その夜、また前と同じように、神が姿をお見せになった。
神は、歓喜なさり、僧を礼拝して、またやって来た理由を尋ねられた。僧は、「私は、同学の僧の苦しみを救うために、法華経を書写し供養し奉りました」と答えた。
神は、「あなたが、あの同学のために、最初に経の題目を書いた時点で、彼は、すでに苦しみを免れています。今は、別の所に生まれ変わって、まだそう時間が経っていません」と仰せられた。
僧はそれを聞いて大変喜び、「この経を、廟に安置し奉ります」と申し上げた。
すると神は、「此処は、清浄な所ではありません。されば、経を安置すべきではありません。願わくば、師よ、もとの所に持ち帰って、経を寺に贈り奉りなさい」と仰せられた。
このように、しばらく語り合った後、神はお返りになったので、僧ももとの所に返って、神のお言葉のように、経を寺に贈り奉った。
これを以て思うに、高貴な神といえども、僧を敬っていらっしゃるのである。
以前は、この廟に行き着いた人は、確かに生きて返ることがなかったが、この僧だけは、神にも敬われ、同学の僧の苦しみを救い、尊敬されて返ってきたのである、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
『 失われた二文字 ・ 今昔物語 ( 7 - 20 ) 』
今は昔、
震旦の秦郡(シングン・江蘇省の町)の東寺(未詳)に住んでいる一人の沙弥がいた。その姓名は未だ詳らかではない。
その人は、法華経を読誦することに秀でていた。ただ、薬草喩品(ヤクソウユホン)の靉靆(アイタイ・経の一節で、雲がたなびくさまのこと。)二字まで来ると、いくら教えられても忘れてしまう。そのように忘れてしまうことが、すでに千度に及んだ。
彼の師僧は、これを厳しく責めて、「お前は、法華経を一部読誦することは優れている。それなのに、どうして靉靆の二字を覚えることが出来ないのか」と言った。
そうした時、師僧の夜の夢に、一人の僧が現れて、「汝、あの沙弥に、靉靆の二字が覚えられないことを責めてはならない。あの沙弥は、前世において、この寺のほとりの東の村に住んでいて、その時は女の身であったが、法華経一部を読誦していた。ただ、その家にあった法華経の薬草喩品の靉靆の二字を、紙魚(シミ)が食い破っていた。されば、その経には、この二字が存在していなかったのだ。それ故に、今、生まれ変わった身であるとしても、法華経を受け習うに、靉靆の二字を忘れて覚えることが出来ないのだ。その時の姓名、また、その経も、今もなおその所にある。もしこの事を信ずることが出来ないのであれば、その所に行って、見てみるがよい」と教えられたところで、夢から覚めた。
明くる朝、師僧は夢で教えられたその村に行き、その家を尋ねて、主人に会って言った。「この家に、何か供養すべき事はありませんか」と。
主人は、「ございます」と答えた。師僧がさらに、「それは、経典のような物ですか」と尋ねると、主人は、「はい、法華経一部でございます」と答えた。 (このあたり、文意が繋がらない所があり、一部推定しました。)
師僧は、頼んでその経典を取り寄せ、開いて薬草喩品を見ると、夢の教えの通り靉靆の二字が欠けていた。
主人は、「この経は、私の妻の物でございました。早くに亡くなってしまいましたが、生前、大切にいつも受持していた経でございます」と言った。
師僧はこれを聞いて、その人が亡くなってからの年月を数えてみると、十七年であった。あの沙弥の生まれた年月と合致する。
その後は、この二文字をしっかりと覚えることが出来るようになった、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
『 鬼を救う ・ 今昔物語 ( 7 - 21 ) 』
今は昔、
震旦の予州に恵果和尚(エカワジョウ)と申す聖人がいらっしゃった。慈悲の心は広大にして、人に恩恵を与えること、仏のようであった。宋の代の初めに京師(ケイシ・都。宋の都は健康。)に入り、瓦官寺(ガカンジ)という寺に留まり住んで、法華経・十地経を読誦することを勤めとしていた。
「また、不空三蔵を師として、三密の大法を極めて、真言経を世に広められた。」(この部分、他の人物と誤認している)
ところで、この和尚は、かつて、厠(カワヤ)の前で、一匹の鬼に出会った。その姿はとても怖ろしいものだった。
鬼は、和尚を見て敬って言った。「我は昔、前の世において、多くの僧の為に維那(ユイナ・寺の事務職)になっておりました。ところが、少しばかり間違いを起こしたために、今は糞溜に住む鬼に堕とされました。聖人は、徳高くして業績は明らかで、慈悲広大にしてその恩恵は特に貴くあられるとお聞きしています。願わくば、我をこの苦しみからお救い下さい。我は昔、銭三千枚を、これこれの所の柿の木の根元に埋めました。その銭を掘り出して、我の為に功徳を修して下さい」と。
和尚はこれを聞いて、哀れみの心が強く起こり、すぐに寺の者たちに告げて、鬼が教えた所に行って、そこを掘ると、本当に鬼が言ったように三千枚の銭を掘り出すことが出来た。
そこで、ただちに法華経一部を書写して、かの鬼の為に法会を行って供養した。
その後、和尚の夢に、かの鬼が現れて、和尚を礼拝恭敬して言った。「我は、すでに聖人の徳に救われて、鬼の道を赦されて、住む世界を改めることが出来ました」と告げたところで、夢から覚めた。
その後、和尚は、いよいよ法華経の験力のあらたかなることを尊び、寺の衆にこの事を語り広められた、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
* 本稿の主人公である「恵果」は優れた和尚ですが、この人は、宋(420 - 479)時代の人です。
同名の著名な人物に、唐時代の密教僧で真言第七祖という高僧がいます。この人(746 - 806)は、空海(弘法大師)の師として知られている人物です。
本稿の最初の部分にある、「真言を広めた」といった部分は、この二人を誤認していると考えられます。
☆ ☆ ☆
『 蘇って写経を供養する ・ 今昔物語 ( 7 - 22 ) 』
今は昔、
震旦の宋の時代に、瓦官寺(ガカンジ)という寺に一人の僧が住んでいた。名を恵道(エドウ・伝不詳)という。予州の人である。
この人は、恵果和尚(エカワジョウ・前話に登場)の同母の弟である。この恵道は、一生の間、善行を積むような修行をすることがなかった。ただ、商売に精を出して世を渡り、それ以外のことは全く知らなかった。
やがて、恵道は重い病にかかり亡くなった。
ところが、三日を経て蘇(ヨミガエ)り、次のように語った。
「自分が死んだ時、冥官(ミョウカン・閻魔庁の役人)に引き立てられて、暗く遠い道を進んだ。その途中、一人の僧が現れて、わしに話してくれた。『お前が閻魔王の所に連れて行かれ、王がもしお前に問いただすことがあれば、このように答えると良い。「私は、昔、法華経八部を書写しようという願を立てました」と』そう教えてくれると、たちまち姿を消した。その後、わしはすぐに王の御前に連れて行かれた。王はわしを見て訊ねられた。『お前は、どのような功徳を修めたか』と。わしは先ほどの僧が教えてくれたとおりに、『法華経八部を書写しようとの願いがあります』と答えた。すると、王はこれを聞くと、笑みを浮かべて仰せられた。『お前には、すでに願いが有るという。もし法華経を書写すること八部に及べば、必ず、八つの地獄を免除しよう』と仰せになられたが、そこでわしは蘇ったのだ。わしは、あの僧の一言の教えによって、人間界に返ることが出来たのだ」と。
この事を語り終ると、泣く泣く持っている限りの財産を投げ出して、法華経八部を書写して、心を尽くして供養し奉った、
となむ語り伝えたるとや。
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『 写経で友を救う ・ 今昔物語 ( 7 - 23 ) 』
今は昔、
震旦の絳州(コウシュウ)に孤山(コザン・平地に孤立している山。)がある。
永徽(エイキ・唐時代の元号。650 - 655)の頃、二人の僧がその山にある同じ僧坊に住んでいた。一人の名は僧行(ソウギョウ・伝不詳)という。三階教(サンカイキョウ・随から宋にかけて興隆。法華や阿弥陀信仰を批判した。)の仏法を修行していた。もう一人の名を僧法(ソウホウ・伝不詳)という。法華三昧(ホッケザンマイ・法華信仰の内の懺悔滅罪の修法らしい。)を修行していた。
二人は共に仏法を修行して、出離の計(シュツリのハカリゴト・俗界を離れ解脱を求める方法)を求めていた。
やがて、僧行が先に亡くなった。
その後、僧法は、観世音菩薩に祈請して、僧行が生まれ変わった所を知りたいと思った。三年を経た後、僧法は夢の中で、突然、地獄に至り、見てみると猛火が激しくて近付くことが出来ない。鉄(クロガネ)の網が七重にその上を覆っている。鉄の扉が四面にあり、閉じられていてたいへん堅固である。その中に、百千の僧、浄戒(ジョウカイ・清浄で戒律を守る行い(?))を犯した者、心身の不調(フチョウ・仏の教えにそぐわないこと。)なる者、そうした者が皆堕ちて、苦しみを受けること量り知れない。
その時、僧法は獄卒に尋ねた。「あの中に僧行という僧はいるのでしょうか」と。獄卒は、「いる」と答えた。僧法は、「私は、その僧行を見たいのですが」と言うと、獄卒は、「彼の罪は重い。絶対に見ることは出来ない」と答えた。僧法は、「私は、仏を信奉する者です。どうして見せることを強く拒むのですか」と尋ねた。
すると、獄卒は、鉾でもって黒い炭の塊を貫き、「これが、僧行だ」と言って、僧法に見せた。僧法は、その真っ黒な炭を見て泣き悲しんで言った。「沙門僧行。なに故、仏子でありながらこのような苦しみを受けるのか。願わくば、私は昔の姿を見たいと思う」と。
それを聞いて、獄卒が「活(ヨミガエ)れ」と言うと、黒い炭は、たちまち変じて、昔の僧行の姿になった。ただ、体全体が激しく焼けただれていた。
僧法は、その姿を見て泣き悲しんだ。僧行は僧法に、「僧法よ、どうか私のこの苦しみを救ってくれ」と言った。僧法は「どのようにして救うことが出来るのか」と尋ねた。僧行は「私のために、法華経を書写してくれ」と言った。僧法は「どのように書写すればよいのか」と尋ねた。僧行は「一日のうちに一部を書写してくれ」と言う。僧法は「私は修行が未熟なので、どうして一日のうちに書き終わることなど出来ようか」と言った。僧行は「私のこの苦しみは堪えがたくして、一瞬の間も耐えられない。されば、一日の猛利の行(猛烈な行といった意味らしい。)でなければ、どうしてこの苦しみを取り去ることが出来ようか」と言うのを見たところで、夢から覚めた。
そこで、僧法は、衣鉢(エハツ・僧の全財産)を投げ出して、書生(ショショウ・写経を仕事にする者)四十人を雇い、一日のうちに法華経一部を書写し終り、心を尽くして僧行のために供養した。
その後、ある人の夢で、僧行がすぐさま地獄の苦を離れて、忉利天(トウリテン・いわゆる天上界の一つで、帝釈天の居城がある。)に生まれ変わったのを見た、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
『 法華八講の誕生 ・ 今昔物語 ( 7 - 24 ) 』
今は昔、
震旦に恵明(エミョウ・伝不詳)という僧がいた。いずれの出身の人かは分からない。また、俗称も知らない。
この人、知恵明瞭なること人に勝っていた。熱心に人々を仏の教えに導き、常に法華経を唱えた。
ある時のこと、恵明は深い山に入り、石の窟(ムロ)に座って法華経を唱えると、たくさんの猿が集まってきて法を聞いた。
その後、三月ばかり経った夜、石の窟の上に光明が現れた。その光明は次第に窟の前に近付いてきた。すると、その光の中から声があり、恵明に語りかけた。
「我は、師が法華経を唱えるのを聞いていた猿の中の、老いて失明した猿であります。師が法華経を唱えるのを聞いた功徳によって、命尽きたあと忉利天(トウリテン・いわゆる天上界の一つで帝釈天の居城がある。)に生まれ変わりました。本の身は、この窟より東南に七十余歩離れた所にあります。師の恩に報いようと思って、やって来ました。願わくば、また法華経を唱えて下さるのをお聞きしたいと思います」と。
恵明は、「どのように唱えればよろしいのか」と尋ねた。天からの声は、「我は、急いで天上に返ろうと思っています。されば、師よ、一部を八つに分けて唱えて下さい」と言った。
恵明は、「この経典は七巻から成っています。されば、七座(ザ・講説の席)に分けるべきです。どうして八座に分けることなど出来ましょうか」と言った。天からの声は、「法華経は、もとは八カ年の所説です。(法華経は釈迦入滅前の八年間に説かれた、ということに基づいているらしい。)もし、八年掛けて講ずれば、それはまことに長い。願わくば、八座に分けて講説を行い、八年の所説となさい」と言った。
そこで、すぐに七巻の経典を八軸(巻)に分け直して、天上の声のために講説した。
( このあたり、私の力ではうまく説明できませが、「法華八講」の誕生を示しているようです。「法華八講」とは、「法華経八巻を、朝座・夕座に一巻ずつ四日間に八人の講師により読誦・供養する法会」です。)
講説が終ると、天上の声の主は、八枚の真珠(枚は真珠を数える単位。)を恵明に布施し、偈(ゲ・韻文の形で、仏を賛嘆し教理を述べたもの。)を説いた。
『 釈迦如来避世遠 流伝妙法値遇難 雖値解義亦為難 雖解講宣最為難 云々 』
( シャカニョライヒセオン ルデンミョウホウチグナン スイチゲギヤクイナン スイゲコウセンサイイナン ウンヌン )
( 釈迦が世を去って長い年月が過ぎた 法華経は広まっているが巡り会うのは難しい 巡り会っても理解できない 理解できてもそれを講説するのはもっと難しい 云々・・ )
この偈を説き終ると、また言った。「もし、この法を一句でも、ほんの少しの間でも聞くことが出来た者は、三世(サンゼ・・過去・現在・未来)の罪を皆滅して、自然のうちに仏道を達成できること疑いなし」と。そして、「我は、今、経を講ずるのを聞いて、畜生の身を棄てて、忉利天に生まれて、その威光は旧天(モトノテン・天上ー畜生道ー天上と流転しているらしい。)にも勝る。この事を話し回ってはならない」と言うと、忉利天の昇っていった。
恵明は、この事を詳しく記して、石に彫って残した。その石碑は今もある、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
『 見事な最期の姿 ・ 今昔物語 ( 7 - 25 ) 』
今は昔、
震旦の絳州(コウシュウ)に、唐の高宗(第三代皇帝。則天武后の夫。683年没。)の御代に一人の僧がいた。名を僧徹(ソウテツ・伝不詳)という。
幼少にして出家したが、慈悲深い心の持ち主で、ひたすら仏法を修行した。また、人に哀れみを掛けること限りなかった。
ある時、孫山(所在不詳。「孤山」の誤記とも。)の西の山間の入り込んでいる所に堂を造った。その場所は、多くの樹木が生い茂っていた。僧徹が住処にするのにふさわしい所であった。
さて、僧徹がその住処を出て行脚(アンギャ)していると、その山の間の地面に一つの穴を見つけた。その穴の内に一人の癩病の者がいた。全身に瘡が満ちていて、とても臭い。決して近付いてはならない。
ところが、この病んでいる人が、僧徹が通り過ぎるのを見て、声を掛けて食べ物を乞うた。僧徹はこれを哀れんで、穴より呼び出して、食べ物を与えて病める人に言った。「あなたを私の住処にお連れして、お世話させていただこうと思います。どうでしょうか」と。病める人は、それを聞いてたいへん喜んだ。
そこで、僧徹はその病める人を本の寺に連れて行って、すぐに地面に穴を掘って、病める人を住まわせて着る物や食事を与えて世話をした。(地面に穴を掘って住まわせたのは、病人の一般的な対処法らしい? )また、法華経を教えて、読誦させた。病める人は文字を学んで居らず、記憶力も劣っていてなかなか覚えられなかったが、僧徹は熱心に一字一句を心血を注いで教え、怠ることがなかった。
その結果、病める人はようやく法華経の半分(八巻のうちの四巻らしい)を習得した。
そうした時、病める人の夢に、一人の人が現れて、病める人に法華経を教えた。「自分は自然に覚えて、五、六巻を読誦した」と思ったところで、夢から覚めた。そして、自分の体を見てみると、瘡がすべて治っていた。
「これは、ひとえに法華経の験力のお陰だ」と信じて、まことに不思議で貴いことだと思った。その後、すべてを習得し、一部を読み終わると、髪・眉は皆もとのように生えた。
それから後は、病める人は、自らが人の病の治療をする人となり、僧徹に付き従った。
そこで、僧徹はこの人を、世間の病ある人のもとに遣わして、祈祷し治療したが、必ずその効験があった。つまり、この人は、以前はわが身の病を憂い、今は人の病を癒やした。
また、この僧徹の寺の辺りには水がなく、常に遠い山の下に下りて水を汲んでいた。そのため、僅かに一度の食事用の水を備えているだけであった。ところが、ある時、地面に窪んだ所があったが、突然水が湧き出した。それ以後、水に困ることがなくなった。
その頃、房の仁裕(ボウのニンユ・伝不詳)という人がいた。秦州の長官である。その人が、この泉が湧き出したことから、この僧徹の寺を陥泉寺(カンセンジ)と名付けた。
また、僧徹はもっぱら善事を勧めることを常に務めていた。遠近の人々は僧徹を崇め敬うこと、父母に対するようであった。
やがて、永徽(エイキ)二年(651)という年の正月、僧徹は弟子たちに、「私はまさに死のうとしている」と告げて、衣服を改め、縄床(ジョウショウ・縄や木綿を張った粗末な椅子。)に端座して、目を閉じて身動きしない。
その時、晴れている空から花が、まるで雪のように降ってきた。香ばしい匂いが部屋の中に満ちて消えない。また、その辺り二里ばかりの樹木の葉の上に、真っ白い物が現れた。まるで軽い粉のようである。三日後に常の色に戻った。
また、僧徹の身が冷えてから三年、なお端座していて、生きているかのようであった。また、臭き香りはなく、遺骸が腐乱することもなかった。ただ、目の中から涙が出ているだけである。
この話は、僧徹の弟子たち、並びに州の人が語るのを聞いて、
語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
『 前世の夫と出会う ・ 今昔物語 ( 7 - 26 ) 』
今は昔、
震旦の随の開皇の御代(581 - 600)に、魏州の刺史(シシ・長官)、博陵(ハクリョウ・北京の東方にあたる)の雀の産武(ジャクノサンブ・人名。雀は「崔」が正しいらしい。)という人がいた。
その産武がその州の巡察に出たが、ある里に至ると、突然驚き喜んで、供をしてい官人を呼んで、「わしは、前世において、この里に住んでいたが、女の身を受けていて人の妻になっていた。わしは今、その家の場所を思い出したのだ」と話すと、馬に乗っている従者一人を里に入れて、一軒の家に行かせ門を叩かせた。
家の主人がいた。年老いた者である。産武がやって来たわけを伝えると、家の主は、産武を家に呼び入れた。
産武は、その家に入り、部屋に上がると、まず壁の上を見た。地面から六、七尺(二メートルほどか)ばかりの所に、壁より高い所がある。
産武はそれを見て、家の主に話した。「わしは、昔、読誦し奉った法華経と、わしが使っていた金の釵(カンザシ)五隻(セキ・釵を数える単位)を、この壁の高い所に隠し置きました。その経典の第七巻(法華経はもともと七巻だった。)の終りの一枚が火に焼けて文字が消えていました。わしは、常にこの経典を読誦し奉っていたが、その第七巻の終りの焼けた所を書写し奉らんと思いながら、常に家業に追われているうちに、つい失念して書くことが出来ませんでした」と。
そして、すぐに人に壁を壊させて、経箱を取り出した。中には、本当に、第七巻の終りの一枚が焼けていた。また、金の釵を見ると、すべて産武の言うことに違いがなかった。
家の主は、これを聞いて、そもそもの由来を知らないので、不審に思って産武にそのわけを訊ねた。
産武は、「あなたは知らないのか。わしは、あなたの妻としてこの家にいたのだ。わしは、お産のために死んだのだ」と言った。家の主は、その事を聞いて、涙を流して泣き悲しんで、「まことに、亡くなった私の妻は、常にこの経典を読誦し奉っていました。また、この釵もあの妻の物です。あなたは、昔の私の妻で在(マシマ)したのだ。ただ、あの妻が亡くなる時、自ら髪を切りました。そして、それを置いておく所を隠して私に教えませんでした。あなた、ぜひその髪を置いた所を教えて下さい」と言った。産武は、近寄って、庭にある槐(エンジュ・落葉の高木)を指して、「わしが、お産にあたって、自ら髪を切って、この木の上の方にある穴の中に置いた。今もあるかどうか、試しに人を登らせて捜させてみよ」と言った。
家の主は、すぐに、産武の言うとおりに、人を登らせて穴を捜させて、その髪を見つけ出した。家の主はその髪を見て、泣き悲しむこと限りなかった。
産武は、昔のことを家の主に教えた後、深く信頼し合ってさまざまに語り合う様子は、かつての夫婦の時のようであった。そして、産武は、いろいろな財宝を家の主に与えて返って行った。
これを以て思うに、流転することなく人間界に生まれた人は、このように前世のことを覚えているのである。これはひとえに、法華経を読誦したが故に、ふたたび人間として生まれ、前世から因縁の厚いことを示したのである、
となむ伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
『 妻子を棄てて父に尽くす ・ 今昔物語 ( 7 - 27 ) 』
今は昔、
震旦に韋の仲珪(イのチュウケイ・伝不詳)という人がいた。正直な心の持ち主で、父母に孝行する心も深かった。また、兄弟を敬う心も持っていた。それゆえ、里の人々は皆、仲珪に好感を持っていた。
さて、仲珪が十七歳の年、郡の役人になった。
ところで、この人の父は、資陽郡という所の丞(ジョウ・副官)としてその地に務めていたが、年老いてもすぐには帰ってこなかった。そのうちに、武徳年間(618 - 626)の頃に仲珪の父は資陽郡において病気になった。子の仲珪は、官服を脱ぐ間もなく父の所に駆けつけ、大事に父の世話をした。その父は、しばらく患った後に亡くなってしまった。
その後、仲珪は妻子のもとを離れ、父の墓の辺りに庵を造ってそこに住み、専ら仏教を信奉して、法華経を読誦し奉った。昼は土を背負って墓を築き、夜は専ら法華経を読誦し奉って、父の後世を弔った。
こうして、誠心誠意三カ年を過ごしたが、家に帰ることがなかった。
ある夜のこと、一頭の虎が現れて、庵の前に来てうずくまって、経を読誦するのを聞いて、なかなか立ち去らない。仲珪はそれを見ても恐れることもなく、虎に言った。「私は、悪しき獣の道に向かう事は願っていない。虎よ、どういうわけがあって、やって来るのか」と言った。虎は、これを聞くと、すぐに立ち去った。
また、明くる朝、墓を廻ってみると、蓮花が七十二茎生えていた。墓の前の辺りは、きちんと並んで生えている。人がわざわざ植えたかのようである。茎は赤く、花は紫である。花の大きさは五寸ある。色や輝きはすばらしく、ふつうの花とは違っていた。
隣の里の人は、これを聞いてやって来て見て、その様子を遠近の人に伝えた。
州の長官である辛君(シンクン・伝不詳)、補佐役の沈裕(シンユ・伝不詳)という人など、この事を聞いて、共に墓の所にやって来て見ている間に、突然一羽の鳥が現れた。鴨に似た鳥である。
その鳥は、一尺ばかりの鯉を二匹くわえて飛んできて、辛君の前に下りると、魚を地面に置いて去って行った。辛君らは、これを見て、「不思議なことだ」と思った。そして、この蓮花を摘んで国王に奉り、事の次第を申し上げた。
「これは、ひとえに法華経の験力である」と言って、見聞きする人は皆、誉め尊んだのである、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
『 法華経と観音の加護 ・ 今昔物語 ( 7 - 28 ) 』
今は昔、
震旦に中書の令(チュウショのリョウ・中書省の長官。政務の中枢を担う。)である峰の文本(岑文本(シンノブンポン)が正しく、有能な官吏であったらしい。)という人がいた。幼少の頃から仏法を信奉し、常に法華経の普門品(フモンボン・観音経のこと。)を読誦していた。
ある時、この人は、多くの従者と共に船に乗って、呉の江(ゴノエ・蘇州河)の中流を渡る途中で、突然船が壊れた。その為、船に乗っていた大勢の人は皆、水中に落ちて死んでしまった。ただ、文本だけは、水中で生きていて、今まさに死にそうになって苦しんでいたが、かすかに人の声が聞こえた。「速やかに仏を念ずれば、死ななくてすむだろう」と、その声が三度繰り返すのを聞いたところで、文本は波にもまれながらも浮き上がり、自然に北側の岸に着くことが出来た。
喜んで岸の上に登ったので、なんとかこの難から逃れられた。そこで、この「仏を念じ奉れ」と教えてくれた人を捜したが、どこにも教えた人は見当たらない。されば、これは、ひとえに法華経の験力であり、観音菩薩の助けなのだと知った。
その後、文本は、いよいよ信仰心を高めて、江陵において齋江(サイエ・僧を招いて施食する法会。)を催した。多くの僧がその家に集まる中に、一人の客僧がいた。
齋江が終ったあと、その僧は一人残って、文本に語った。「天下はまさに乱れようとしている。但し、君は、仏法を敬うが故に、その災いに巻き込まれることなく、安全に守られて富貴の身となるだろう」と言い終わると、走り出て去ってしまった。
その後、文本は、食事の間に、器の中に舎利(シャリ・釈迦の遺骨)が二粒あるのを見つけた。「これは不思議なことだ」と思って、さらに丁重に恭敬供養した。また、本当にかの僧が告げたことに違うことなく、天下に反乱が起こったが、文本はその災いに巻き込まれることなく、安全で富貴の身となった。
これもまた、ひとえに法華経の験力であり、観音菩薩の助けによるものである。前には、河を渡る時に船が壊れて水中に落ちたが死ぬことがなかった。後には、天下に乱が起こるもその災いに巻き込まれることなく、安全に守られて富貴の身となった。
されば、人はひたすらに仏法を信奉すべきである、
となむ語り伝へたるとや。
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