『 あれから29年 』
阪神淡路大震災から 29年が経った
今朝も 神戸市を中心に各地で
鎮魂の行事が 行われた
ほんの僅かだけれど 影響を受けた身としては
発生から数か月の 凄惨な日々を
今も 思い浮かべる事が出来る
未だ 被害の全容さえ掴めない 能登半島地震
失われた命は多く 心身が傷ついた人々は
その数倍に のぼるだろう
私たちの国や社会は 懸命に
息の長い支援を続ける事を 信じて欲しい
被災地の皆さん くれぐれも御身大切に
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『 故里寒く 』
みよしのの 山の白雪 つもるらし
故里寒く なりまさるなり
作者 坂上是則
( 巻第六 冬歌 NO.325 )
みよしのの やまのしらゆき つもるらし
ふるさとさむく なりまさるなり
* 歌意は、「 吉野の山の雪は 積もるらしい 奈良の旧き都の寒さは いっそう厳しくなるようだ 」といった、かつての都を訪れたときに詠んだものです。
* 作者の坂上是則(サカノウエノコレノリ)は、平安時代前期の貴族・歌人です。
生没年は不詳ですが、亡くなったのは 930 年とされているようです。
伝えられている資料によりますと、901 年頃には歌壇デビューを果たしており、紀貫之らとの接触もあった可能性があります。
905 年には、宮中において、醍醐天皇の御前で行われた蹴鞠に参加していて、その見事さを称賛されたとされています。
* しかし、伝えられている官職は、これより後のことになります。
908 年、大和権少掾、その後に大掾。
912 年、少監物、のちに中監物を経て少内記。
921 年、大内記。
924 年、従五位下を叙爵して貴族の仲間入りを果たし、加賀介。
といったものです。
大内記で六位程度ですから、少掾・少監物などは七位前後だったのでしょう。924 年に待望の従五位下に昇っていますが、おそらく四十歳は過ぎていたのではないでしょうか。
* 是則は、あの征夷大将軍として名高い坂上田村麻呂( 758 - 811 )の四代孫にあたります。父の好蔭は従四位上右馬頭まで昇っていて、武官として活躍したようです。ただ、是則は武官として活躍したという情報は伝えられていないようで、文官そして歌人としての活躍が目立っていたようです。
* 是則の歌壇デビューが何歳の頃なのか確認できませんが、早くから当時の一流歌人の何人かと交流があったようです。また、古今集の編集が始まった頃には、編者に次ぐほどの上手とされていたともされます。選ばれなかったのは、まだ力が及ばなかったか、年齢が若すぎたか、身分が低すぎたか、そのいずれかと想像できます。
* 是則は、古今和歌集に7首採録されており、勅撰和歌集全体では39首が採録されています。歌人として一流といえるほどの数なのです。
また、古今和歌集に選ばれている是則の別の和歌( NO.332 )に、
『 あさぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野の里に 降れる白雪 』
というのがあり、これは小倉百人一首に入っています。
私たちにとって、小倉百人一首は親しむ機会が多く、その作者も比較的知られているものですが、残念ながら坂上是則は、それほど知られていないように思われます。
是則の歌人としての評価や研究は、もっと光が当てられるべきのように思うのです。
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