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雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

中国恒大集団に清算命令

2024-01-29 19:06:35 | 日々これ好日

      『 中国恒大集団に清算命令 』

    香港の高等法院(裁判所)が
    中国恒大集団に 清算命令を出した
    同集団は 50兆円前後の負債があるとされ
    完全な破産となれば 影響は大きそうだ
    ただ この命令は 中国本土には及ばないようなので
    同集団の先行きは 中国当局の考え方次第らしい
    さて わが国への影響は どの程度なのだろうか・・・

                  ☆☆☆ 

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ものを思ふころかな

2024-01-29 08:00:42 | 古今和歌集の歌人たち

       『 ものを思ふころかな 』


 なよ竹の よ長きうへに 初霜の
        おきゐてものを 思ふころかな

           作者  藤原忠房 

( 巻第十八 雑歌下  NO.993 )
        なよたけの よながきうへに はつしもの
               おきゐてものを おもふころかな 


* 歌意は、「 なよ竹の 長い節(ヨ)の上に 初霜が 置いている 私も秋の夜長を寝ることなく起きていて この先の任務の重大さを あれこれ思いやっています 」と、重大任務を思いやっている様子を詠んでいるのでしょう。
この歌の前書き(詞書)には、「 寛平御時に、唐土(モロコシ)の判官に召されて侍りける時に、春宮の侍ひにてをのこども酒飲べけるついでに、よみ侍りける 」とあります。つまり、「遣唐使の判官(ホウガン・三等官)に任命されたときに、春宮の侍所で侍たちが酒をいただいたときに詠んだ歌」なので、任務の重さをいろいろ考えていたのでしょう。

* 遣唐使に選ばれることは、大変な名誉であったのでしょうが、同時に、当時の大陸への航海は大変な危険が伴うものでした。実際に、それまでの遣唐使派遣では多くの犠牲者を出しています。
ただ、作者が選ばれた遣唐使派遣は、894 年(寛平六年)の、菅原道真を大使として任命されたものですが、唐の混乱のためもあって出発が延期された上、停止となりました。そして、907 年に唐は滅亡していますので、遣唐使制度は消滅しています。

* 作者の藤原忠房は、藤原不比等の四男・麻呂を祖とする藤原京家の一員です。この当時、宮廷政界において、北家の圧倒的な優位に至っていませんでしたが、京家はあまり有力ではなく、音楽・舞楽・和歌・儒学といった面で人材を輩出していました。
忠房も音楽・舞楽面で秀でていたようで、特に笛の名手として伝えられており、「胡蝶楽」の作曲者として伝えられています。

* 忠房の父・是嗣も琵琶の名手とされていたようですが、その官職は信濃掾ですから、貴族とされる従五位下より遙か下位でした。掾(ジョウ)というのは、国司の三等官で中央官の判官(ホウガン)にあたります。官位では七位程度と考えられます。

* 忠房の生年は未詳ですが、894 年に遣唐使の判官として選任されていますので、少なくとも二十歳程度にはなっていたと考えられ、生年は 870 年前後なのではないでしょうか。
忠房の最初の官職は、887 年の信濃掾ですから、父の職務を引き継いだのかも知れません。その後、周防権掾、播磨少掾と地方官を歴任し、
897 年正月、左兵衛権少尉と中央入りし、同年七月に六位蔵人、後に左近衛将監となり、900 年に近江権掾を兼務しています。
そして、901 年に従五位下を叙爵し貴族の仲間入りを果たしています。三十歳前後の頃だったのでしょうか。902 年に備前介(次官)を兼務。
904 年に左兵衛権佐。
910 年に従五位上に昇る。
911 年に左近衛少将。913 年に近江権介を兼務。
915 年正月に美作介兼務。同月に正五位下に昇る。
916 年に信濃権守。
920 年に大和守。 922 年に従四位下に昇る。
925 年正月に従四位上に昇る。同月に山城守。
927 年に右京太夫。
928 年 12 月に死去。

* 少し長くなりましたが、伝えられている官職を列記しました。
これらから読み取れることは、中央ではほとんど武官であり、しかも地方官を兼務しています。そして、国守を転任しています。
父を遙かに超える官位を得ている一つの要因は、舞楽などの面の功績が大きかったようにも思われますが、地方官としては相当有能だったのではないかと推定されます。おそらく、兼務の理由は、有力者からの強い要望があったのではないでしょうか。そしてそれが、固定されがちな身分制度の社会の中で、昇進を重ねることが出来たのではないかと推定されます。

* 忠房を語るとき、歌人としてよりは舞楽としての能力を高く買われるようですが、実は、地方行政に関して非凡であったのではないかと思うのです。さらに、武官としての実力も備えていたのかも知れません。
いずれにしても、藤原忠房は、文武両道、そして官職と芸能の両面で、存分な生涯を送った人物のように思われるのです。

     ☆   ☆   ☆

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