『 成人の日 』
朝六時 散歩に出る
近所の美容院は 満員で
華やかな 新成人の姿も
東の空は 朱に染まり
空には 27日の細い月と金星が
煌々と輝き 門出を祝っているようだった
存分な 青春の日々を 送って欲しい
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『 賀茂祭の有様 ・ 望月の宴 ( 99 ) 』
こうしているうちに、寛弘二年( 1005 )になった。
司召(ツカサメシ・春の除目)などあって、殿(道長)の君達(公達)は、鷹司殿(倫子)御腹の弟君(教通。頼通の弟。)、高松殿(明子)御腹の巌君(イワキミ・頼宗)などが、みな元服なさって、相応の官職として、少将、兵衛佐などと申し上げるが、春日の使いの少将(嫡男の頼通のこと。)は中将に昇られ、今年の祭(賀茂祭)の使いを勤められる。
(史実としては、頼通が賀茂祭の使者を勤めたことはないらしい。しかし、原作者はこの場面を詳しく書き残しているのは、「この時の使者が、道長の正妻倫子の甥に当たる源雅通で、道長の枇杷殿から出立している」「二年後の寛弘四年の使者を、頼宗が勤めている」といったことと混同している可能性が考えられる。)
殿は、一条大路の御桟敷の建物を長々とお造らせになり、檜皮葺きや高欄などもたいそう立派に備えられて、この数年、御禊(ゴケイ・みそぎの儀式。)をはじめとして、祭を殿も上(倫子)もお出向きになってご覧になっているが、今年は使いの君がお身内からお立ちになるとなって、世間は準備に大わらわである。
その日になると、皆が御桟敷にお出向きになる。殿は、使いの君のご出立の儀式をお見送りになってから、御桟敷に参られた。たくさんの殿方、殿上人を引き連れていらっしゃる。
それほどの身分でない者でも、この使いにお立ちになる君達は、大変な名誉として親たちは支度なさるものだから、まして今年は殿のお身内が使者となれば、この盛大さも当然のこととお見受けされる。お供の侍、雑色(ゾウシキ・雑役を勤める下級職員。)、小舎人(コドネリ・ここでは、近衛府の中・少将が使う童。)、御馬副(ウマゾイ)にいたるまで、至れり尽くせりの様子は、とてもお伝えすることが出来ない。
今年は、この祭の使いが大評判で、帥宮(ソチノミヤ・敦道親王。冷泉天皇の皇子で、花山院とは異母兄弟。)や花山院などが、特別に御車を仕立てて御見物になり、御桟敷の前を何度もお通りになる。
帥宮の御車の後ろには和泉式部(敦道親王の恋人。その激しい熱愛の様子は、「和泉式部日記」に書き残されている。)をお乗せになっている。
花山院の御車は金の漆などというように塗らせている。網代の御車を何もかもご立派にお造りになっている。それは、まさにこのようにすべきだと思わせるすばらしさである。御供には、大童子(ダイドウジ・寺院で童形のまま雑役をする下級の僧。上童子、大童子、中童子の順の序列がある。)の大柄で年配の者四十人、中童子二十人、召次(メシツギ・院で雑事を勤める者。)たち、もとから院に仕えていた俗人たちが仕えている。
御車の後ろには、殿上人を引き連れていて、様々な衣装に、赤い扇を揃えてひらめかせながら、御桟敷の前を何度も行き来されているのを、いつもの年であれば、これほどまで派手ではあるまいと、殿は見奉っているに違いないが、使いの君が引き立って見えるためにだと、上達部(カンダチメ・公卿)はつい微笑み、殿の御前(道長)は、「やはり、ご趣向をなさる院でいらっしゃることだ。自分の子が使いに立つ年には、『我が花を添えてやろう』と仰せられたと聞いていたが、その通りに、思い掛けずもお出まし下さったものだ」と言われて、一同が興じられている。
行列もすべてととのい、使いの君は何となくふっくらと小柄で可愛らしい姿でお通りになる。
殿の御前は御涙が止めどなく流されていらっしゃるが、子への情愛を知っている殿方であれば、誰もが殿のお気持ちがお分かりになるであろう。
京じゅうの宮家、殿方、家々に仕える女童を現代風であるとしても、ばかばかしいほどにまで、幾重とも分らぬほど着重ねさせているのが、十人二十人、あるいは二十人三十人と一団となって通ると、殿は、「どちらに仕える者か」と必ず召し寄せてご覧になりお尋ねになると、「何々の宮の」「かの御邸の」「何々の守の家の者」などと申し上げるのを、すぐれている者には興じられ、それほどでもない者には微笑まれなどなさっているのも、様々にたいそう面白く、当世風らしい有様であった。
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