『 ウクライナ 総司令官交代 』
噂されていた通り
ウクライナ軍の総司令官が 交代した
大統領との関係が 悪化していたらしいので
円満な交代では ないのだろう
前総司令官は 軍内部での人気が高かったともいわれていて
戦局や戦術面で 悪い影響が出ないか 気になる
欧米の ウクライナ支援が細る懸念も 伝えられているし
特に米国では 議会が難色を示しているようにも見え
「もしトラ」の場合も 気になる
戦線は膠着という声もあるが 前線を中心に
大きな犠牲が出ている状況は 変っていない
すでに 誰も得る物がない状態だと思われるが
行くところまで行かなくては 終らないのだろうか・・
☆☆☆
『 八十島かけて 』
わたの原 八十島かけて 漕ぎいでぬと
人には告げよ 海人の釣舟
作者 小野篁朝臣
( 巻第九 羈旅歌 NO.407
わたのはら やそしまかけて こぎいでぬと
ひとにはつげよ あまのつりふね
* 歌意は、「 大海原に 多くの島々をたどって 漕ぎ出していったと 家人に伝えておくれ 釣り船に乗っている漁師たちよ 」といったものでしょう。
この歌の前書き(詞書)には、「 隠岐国に流されける時に、舟に乗りて出で立つとて、京なる人のもとにつかはしける 」とありますので、なかなか深刻な場面での詠歌と言えます。
* 作者の小野篁朝臣(オノノタカムラ アソン)は平安時代の貴族・政治家・歌人と、紹介させていただきます。
生没年は、( 802 - 853 ) ですが、和暦にしますと仁寿二年十二月三日となり、行年は五十一歳です。
最終官位は、参議左大弁従三位です。
* 815 年、篁は、陸奧守に任じられた父に従って、陸奧国に赴きましたが、当地ではもっぱら弓馬の道に励んだようです。篁は堂々たる体躯の持ち主で、成人した後の事ですが、身長が六尺二寸( 188cmほど )あったそうです。当時の男性の平均身長は 160cm 程度とされますので、抜きん出た体躯だったようです。
帰京後も、篁の武術熱心は変らず、学問には見向きもしなかったようで、漢詩など学問に優れた父を持ちながら「弓馬の士」とは、と嵯峨天皇が嘆かれたという事を知って、学問を志したと伝えられています。当時は、武人の地位は文官に比べ遙かに低かったのです。
* 822 年に、文章生試に合格し、830 年には蔵人に就いていますので、この頃には正六位上にまで昇っていたようです。
832 年、従五位下を叙爵、貴族の仲間入りを果たします。
833 年、東宮学士(教官)に就くなどした後、834 年に遣唐副使に任ぜられました。その後、835 年に従五位上、836 年に正五位下と昇進が続きました。
そして、いよいよ遣唐使船が出帆の時期となりましたが、836 年、837 年と続いて失敗し、838 年の三回目の出帆で問題が発生しました。
* 三回目の出帆に際して、大使が乗る第一船が破損したため、副使である篁が乗る予定の第二船に大使が乗船する事になったため、篁は激しく抵抗しました。おそらく、第二船と変更される船とはかなり安全性に差があったのでしょうか、部下の安全のために変更に難色を示し、さらに、自分の健康面や、老母の世話を理由に乗船を拒否してしまいました。
その後、遣唐使船は出帆しましたが、篁が遣唐使事業を風刺するような詩を作った事から嵯峨上皇の怒りを蒙り、官位剥奪の上、隠岐島へ流罪となったのです。
掲題の和歌はその時のものです。また、配流の途上で詠んだ漢詩は大変な評価を受けたようです。
* 840 年、赦免されて帰京しました。
841 年、卓越した文才を評価されて、本位に復されて正五位下に戻り、刑部少輔に任ぜられました。
842 年、道康親王(のちの文徳天皇)が皇太子に立てられると、東宮学士に任ぜられました。
845 年には従四位下蔵人頭となり、その後も要職を務めなから、847 年には参議に任ぜられ、遂に公卿の地位に達しました。
849 年、従四位上に叙されますが、程なくして病のため官職を辞しています。
850 年、文徳天皇即位に伴って、正四位下を受けました。
852 年には、病状が回復したため、左大弁(太政官の最高位)に復帰しますが、再び病を得て参朝が困難になります。天皇は何度も使者を遣わし、治療や生活支援を行ったとされます。
そして、同年十二月、在宅のまま従三位に叙されましたが、程なくして生涯を終えました。行年五十一歳でした。
* 冒頭で、作者の小野篁について、「貴族・政治家・歌人」として紹介させていただきましたが、これでは全く不足しているといえるでしょう。
貴族というのは正しいのですが、公卿にまで昇っています。
政治家というのは、余り正しい表現ではなく、むしろ行政能力が非常に高かったようです。
歌人というのは、本稿が「古今和歌集の歌人」を紹介させていただいたいますので、当然の事ですし、掲題歌は小倉百人一首に入っていますので、私たちには馴染み深い和歌だと思います。古今和歌集には8首、勅撰和歌集全体では14首採録されていますから、一流歌人といえますが、実は、当時は漢詩に対する評価の方が遙かに高かったようです。書も当時並ぶ者とてない上手だと伝えられています。
学問・文芸全般で勝れていて、武勇についての逸話は少ないようですが、何せ、六尺二寸という巨漢ですから、ヤワな学者ではなかったようです。
* しかし、私たちを強く惹き付ける小野篁の魅力は、伝えられている逸話のすばらしさです。何せ、冥界と行き来していたと言うのですから、スケールが違います。そうした逸話を二つ紹介させていただきます。
* 篁は、昼間は朝廷で政務を司っていましたが、夜には冥府において、閻魔大王のもとで裁判の補佐を務めていたそうです。冥界との行き来には井戸を使っていて、行く時には、京都東山の六道珍皇寺(現存・還りの井戸もあったともされる。)の井戸、還ってくる時には、京都嵯峨の福正寺(明治期に廃寺)の井戸を用いていたという。
* 落書に関して嵯峨天皇から疑われる事があり、「自分はどのような文章でも読める」と答えたところ、蘇我天皇がこれを読めと「子子子子子子子子子子子子」という文章を見せました。篁は、「猫の子の子猫 獅子の子の子獅子」と即座に呼んだそうです。
* 小野篁は、個人的に大変好きな人物です。学べば学ぶほど、新たな魅力を発見できると思われます。
すでに、多くの文芸作品などにも登場していますが、伝えられている逸話のスケールが大きすぎて、なかなか主人公には難しいようです。
多くの人に、もっともっと触れていただきたい人物です。
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