雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

兼通の天下へ ・ 望月の宴 ( 10 )

2024-03-13 20:41:21 | 望月の宴 ①

        『 兼通の天下へ・ 望月の宴 ( 10 ) 』


さて、政権の頂点にお立ちになった一条の摂政殿(藤原伊尹 コレマサ )でございますが、ご体調が勝れず、水だけをお飲みになっておられましたが、御年もまだ若くていらっしゃいますし、摂政になられて三年になっており、ご心配しながらも回復なさるだろうと頼りに思っているうちに、幾月かが過ぎました。
この間、参内なさることもなく、世間の嘆きの元となっておりました。

九月半ばのことである。
摂政殿のお見舞いに、ご子息の義孝の少将(伊尹の四男)の御許に、ある人が、ご様子はいかがですかとお尋ね申したところ、少将はこのようにお返しになった。
『 夕まぐれ 木繁(コシゲ)き庭を ながめつつ 木の葉とともに 落つる涙か 』

このように どうなることかとご一家こぞってご心痛のうちに、天禄三年十一月一日に摂政殿はお隠れになった。
女御(冷泉院女御懐子)をはじめとして、女君達(オンナキンダチ・姫君方)や前少将(三男挙賢)や後
少将(義孝)等と申し上げる方々、悲しみに動転なさっているのも世の常というものである。
その中でも後少将は、幼い頃よりたいそう道心が深く、法華経を明け暮れに読誦なされ、いっそ法師になってしまおうかというお気持ちであったが、実は、桃園の中納言保光と申されるお方は故中務卿の宮代明親王(ヨアキラノミコ)の御子であるが、その姫君のもとに後少将は数年通っておられて、可愛らしい男の子を儲けていて、その子らを見捨てがたくて、すべて辛抱しておられるのであった。

こうして御忌(オンイミ・服喪期間。ここでは四十九日間。)の間は、何事も悲しみのうちにお過ごしになった。御法事などはあるべき限りを営んで過ぎた。
そして、もうこれで終わりということで人々が退出するときに義孝の少将がお詠みになった歌は、
『 今はとて とび別れぬる 群鳥(ムラドリ)の 古巣にひとり ながむべきかな 』
修理大夫惟正(スリノカミコレマサ・源氏)の返歌は、
『 翼(ハネ)ならぶ 鳥となりては 契るとも 人忘れずは かれじとぞ思ふ 』
( あなたとは 比翼の鳥となって 契りを結ぶ仲と思っています 私を忘れずにいてくださるなら 決して離れることはいたしません )

故摂政殿は、今年は四十九歳であられた。太政大臣として亡くなられたので、後の諡(イミナ)を謙徳公と申し上げる。


こうして、次の摂政には、すぐ下の弟で、九条殿(師輔)のご次男の内大臣兼通殿が就かれました。

やがて、年号が変わり、天延元年 ( 973 )となりました。
すべてがめでたい世の有様で、兼通殿の御娘の女御(媓子)を早く皇后にしたいと急いでおられました。
前の摂政殿が、東宮(師貞親王)のご即位を見届けることが出来なかったこ
とを、人々が同情されている様子が伝わって参ります。
そして、この年の七月一日、摂政殿の御娘である女御が皇后となられ、中宮と申し上げることになりました。
帝(円融天皇)は、御妹の一品宮(イッポンノミヤ・資子内親王)の御もとへ、そして中宮の御もとへとお通いなさっています。宮中のご様子全体が、今風に華やいでいます。

この摂政殿を堀河殿とおよび申していますのは、その御邸の名前からでございますが、今は関白殿と申し上げるようでございます。ご子息方も四、五人いらっしゃって、やはり、今風に華やかで、わが世の春といったところでございますのでしょぅか。

     ☆   ☆   ☆


 

 


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