雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

さ夜更けて

2019-02-12 08:13:29 | 新古今和歌集を楽しむ
   さ夜更けて 声さへ寒き あしたづは
            幾重の霜か 置きまさるらん


                      作者  道信朝臣

( No.613 巻第六 冬歌 )
             さよふけて こえさへさむき あしたづは
                       いくへのしもか おきまさるらん



* 作者 藤原道信は、藤原北家の貴族であり歌人としても名高い。( 972 - 994 )享年二十三歳。

* 歌意は、「 夜が更けて 鳴く声さえも寒く聞こえるつるは 何重もの霜が 包みかかっているのだろう 」と、霜を浴びている鶴を思いやったものであろう。 なお、「あしたづ」は、葦田鶴で、鶴の異称。

* 作者は、藤原氏の全盛期、そして平安王朝文化が咲き誇ろうとしている時代に、藤原北家の御曹司の一人として誕生した人物である。
父は、太政大臣を務める藤原為光であり、母は、一条摂政藤原伊尹の娘である。
藤原氏の最全盛期を築いた藤原道長の誕生が966年であるから、六年遅れての誕生であるが、道長とは藤原師輔を共通の祖父とする従兄弟同士にあたる。

* 986年、伯父の藤原兼家の養子として元服する。この兼家も摂政関白太政大臣と貴族の頂点に立っているが、道長の実父でもある。つまり、道信は道長と義兄弟でもあるのである。
もっとも、この時代、有力貴族間の権力闘争は壮絶なもので、兄弟間であっても母親が違えば、他人間以上の足の引っ張り合いは珍しくなく、義兄弟であることがどれほど支援を受けられるかは保証の限りではなかった。
それでも、名門の出自に加え養父となった兼家の支援もあってか、道信は元服と同時に、従五位上を受けている。下級貴族であれば、生涯をかけても到達が可能か否かという位階である。

*その後も、左兵衛佐、左近衛少将、そして、991年、二十歳にして左近衛中将と、武官として順調に地位を駆け上って行った。
しかし、994年正月に従四位上に叙されたが、同年七月、当時流行していた天然痘により、病没した。まだ二十三歳であった。

* 道信の名を後世に残すことになったのは、和歌の才能であった。その人柄はおくゆかしく、残されている和歌も、現代人にも比較的分かりやすく、優しさが感じられるような気がする。
歌人としての活躍期間はごく短いものであるが、新古今和歌集には9首が入選しており、勅撰和歌集には全部で49首が選ばれている。その才能は、当時の人々にも高く評価されていたことが窺える。

* 僅か二十三歳(数え年)での夭折は、あまりにも惜しい。貴族として、歌人として、まだまだ飛躍が期待されていたはずである。
道信の和歌は、小倉百人一首にも入選している。最後にご紹介しておくが、その和歌も、若くして世を去らなくてはならなかった無念さが、期せずして加味されているように思えてならないのである。

 『 明けぬれば 暮るるものとは 知りながら なほ恨めしき 朝ぼらけかな 』

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