『 伊周 隆家 配所に向かう ・ 望月の宴 ( 62 ) 』
師(ソチ・太宰権師伊周)殿は、その日のうちに山崎の関戸院(山城と摂津の国境にあった離宮。)という所にお着きになった。
そのお供には、然るべき検非違使ども四人が奉仕されていた。その部下の者ども(放免)が御車を護衛して参るさまは、まことにいたわしく忌まわしいことであった。
中納言のお供は、左衛門尉延安という人は長谷の僧都の兄弟(このあたりの人物や関係は、史実と違うらしい。)の検非違使であるが、あまりにもいたわしい状況が続いていた。
関戸院において、師殿はご気分が悪くなられ、御供の検非違使どもは、「こうこうの次第で、師殿はご病気になられ、休息しています。母北の方(貴子)もそのまま付ききりで、まだここにいらっしゃいます」と奏上すると、「早々にその病気を治して、滞りなく配所に下るようにせよ。母北の方は、速やかに京に帰らせよ」との宣旨があったが、女院(帝の生母詮子)も帝も、中納言(隆家)や宮の御前(中宮定子)の御有様を案じられ、また母北の方のこともご心配なさるが、それがただ事でもない様子であり、心を痛められていた。
なかでも、伊周・隆家の兄弟が、遙かな地に配流されることをたいそう不憫に思われて、大殿(道長)にも、「ぜひ、罪の軽減を」などと女院が強くお願い申されたところ、師殿は播磨に、中納言殿は但馬に留める、という宣旨が下される。
この事を宮の御前も、人づてにお聞きになり、たいそう嬉しいなどといった言葉では表せないほどのお喜びであったが、胸に迫る悲しい御事の数々であった。
関戸院において、師殿は、播磨の地にお留まりになることになったので、大変喜ばれ、母北の方に、「では、早く都にお帰り下さい。このように都から近い所に留まることが出来ましたので、大変嬉しいことです。また、この私に過失があったわけでもございませんので、今はこのような有様ですが、召し返される日もございましょう」などと、泣く泣くお慰め申されて、母北の方を都へお還しし、ご自分は播磨へと向かわれた。
互いに遠ざかって行かれるので、たいそう悲しいことではあるが、世の常のことである。
こうして、母北の方は帰京なさったが、宮の御前が尼姿に変わられていることに、また、御涙をおさえることが出来ず、激しくお泣きになる。
一方、師殿は、播磨に赴こうとして、「ここは明石と申します」と言うのをお聞きになって、
『 もの思ふ 心の闇し 暗ければ 明石の裏も かひなかりけり 』
とお詠みになったが、なんと、今の自分にも、こうして物を思う余裕があったのかと、ご自分の心を憎らしく思われたに違いない。
中納言は別の配所にいるのだろうが、どうして、別々なのか。せめて同じ場所であれば、何かと心強いものを。などと、思い通りに行かない世の中を情けなく思われて、『 白波は たてど衣に 重ならず 明石も須磨も おのが浦々 』という古歌を詠み替えられたのであろう、
『 かたがたに 別るる身にも 似たるかな 明石も須磨も おのが浦々 』
と思わずにはいられなかった。
中納言殿は、旅先の宿に涙が誘われ悲しく思われたので、
『 さもこそは 都のほかに 旅寝せめ うたて露けき 草枕かな 』
と詠まれた。
こうして、中納言殿が但馬にお着きになると、国の守は、朝廷で定められている処遇より十分に、進んでお世話なさることが多かった。中納言殿は、心根の優しいお方なので、誰もが好意的にご奉仕申し上げた。
配所に到着したので、お供してきた延安は都へ帰ることになるが、中納言殿がたいそう心細げな有様なのを痛々しく思われ、わが子を供に連れてきていたが、その友助という子を残すことにして、「中納言殿のお心に従うように」と言い聞かせて、自分は京に向かった。
播磨においても、師殿の住まいを然るべくしっかりとととのえて、お供の検非違使たちは帰京した。
当初は、遙かに遠い国への旅であったので、途中で変更になったのを、縁故のない人々も心から嬉しく思っている。
とはいえ、松君(伊周の子)が父君をお慕い申し上げているのが、なんとも不憫なことであった。
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