雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

女院の誕生 ・ 望月の宴 ( 41 )

2024-03-13 20:27:14 | 望月の宴 ②

        『 女院の誕生 ・ 望月の宴 ( 41 ) 』


ただ今世の中の一大事は、后宮(キサキノミヤ・詮子。一条天皇の生母。)がご不例でいらっしゃることである。
世の人々が目下の大事と憂慮しているうちに、前々からの御物の怪の様子がいつもと同じである。后宮の御様子は予断を許さない状態でもあり、帝も行幸などなさいまして、あれこれと思い惑われていらっしゃる。
ともすれば、夜昼分かたず、御物の怪に取り込まれ取り潰されそうになられるので、「今は何としても尼になりたい」と仰せになられるのを、殿方たちは、今しばらくは思い止まっていただくように思い申し上げたが、とても絶えられそうもない状態なので、この上は、ともかくも御無事でいて下さることが大切だと思われるようになり、后宮は尼になられた。

嘆かわしく大変なことではあるが、后宮の御平癒が大切とお考えになられたのであろう。
こうして、この世でなし得る限りの事を尽くされ、また、このように尼になられたからであろうか、御悩みも快方に向かわれた。
石山寺には、毎年、存命の限りは参詣なさり、長谷寺や住吉社などもみな参詣なさるとの御願の数はたいそうなものであるが、そのお陰もあってか御平癒なさった。
帝におかれても、うれしい御事であるなどと申し上げるも愚かなことである。

后宮は御年も三十歳くらいでいらっしゃいますので、ご出家なさるにはいかにも若々しく、嘆かわしく残念な御事であるが、譲位なさった帝になぞらえて、女院と申し上げる。これにより、毎年、年間年爵(ツカサコウブリ・経済面での恩恵)をお受けになるはずである。
賀茂祭に使いを発遣することもなくなり、衛士が詰める陣屋もなくなり、まことに気楽になられたが、むしろ結構なご身分である。
女院の判官代(女院に置かれた役人で、主に六位の者が選ばれた。)には、容姿の醜くない者をよく選んで任命なさった。

 
詮子さまは女院号をお受けになり、その居宅の東三条邸に因んで東三条院を称されましたが、この御方がわが国における最初の女院なのでございます。
円融天皇は崩御なされ、皇太后宮職も離れられましたが、何と申しまして、今上天皇(一条天皇)のご生母でございますから、内裏におかれましても、公卿方におかれましても、とても軽くお扱いなど出来る御方ではないのでございます。
東三条院詮子さまは、道隆殿・道兼殿・道長殿のお三方並びに冷泉天皇女御超子さまと同母の御兄弟で、このご一族の繁栄に大きな貢献を果たされているのでございます。
そして、何よりも重要なことでございますのは、詮子さまは、道長殿をたいそう可愛がられていて、道長殿の御立身に大きな力となったお方なのでございます。

さて、出家なさり、女院となられました詮子さまは、その年のうちに、長谷寺に参詣なさいました。
その御供は、上達部(カンダチメ・上級貴族)・殿上人が従い、年若いひときわ秀でた人たちは狩衣姿で、年配の殿方は直衣姿で御供されています。さらに、摂政殿(道隆)も御車で御供なさっているのでございます。
女院は唐の御車(カラノオンクルマ・太上天皇、皇后、東宮、摂関など極めて高貴な方々に限られた乗り物。)をお召しでございます。
そして、女房方が乗っている車の前に尼の乗った車を立てていらっしゃる。たいそうな行列でございます。

長らく女院にお仕えの方も、まだ新参の者も加えて、尼が十人ばかりお供しています。
みゆきという名で女童として仕えていた者は、女院のご出家の折にお供して尼になったので、りばた(離婆多)とお名付けになられました。女院は、后の時から女童をたくさん仕えさせておりましたので、ほめき、すいき、はなこ、しきみ、などと名付けられたいるのでございます。
こうして長谷寺に参詣なさり、ご立派に仏にお仕え申しあげ、僧たちにも十分なおねぎらいがあって、ご帰還なさったのでございます。
次の年には、二、三月の頃に、住吉社に参詣なさるおつもりだとか、思い通りの御様子でお過ごしでございます。

     ☆   ☆   ☆

 


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