『 道隆の逝去 ・ 望月の宴 ( 48 ) 』
明日のわが身のことは分からず、今日は他人の死を悲しんでいるかに見える、然るべき殿方たちは、胸をどきどきさせて恐ろしく思っているが、その間にも、関白殿(道隆)のご病状はいよいよ危うくなる。
四月六日には出家なさった。どなたもが哀れに悲しいことと途方に暮れておられる。北の方(貴子)はすぐさま続いて尼になられた。
実は、内大臣殿(伊周)が随身(ズイジン・摂関職などに与えられる護衛の舎人)などあれやこれやを賜ったのは昨日のことであるが、このような状況になり、何とも悲しく、どうすればよいのかと邸じゅうが途方に暮れているうちに、四月六日、入道殿(道隆)がお亡くなりになった。
ああ、大変なことだ、と世間は大騒ぎとなる。
内大臣殿の御政務執行の付託は、関白殿がご病気の間との宣旨でございましたが、すでにお亡くなりになられましたので、内大臣殿はこの後どうなるのかと、世間の人々は、人の世の無常ということよりも、後継者のことの方が大事とばかり騒がしく取り沙汰されておりました。
内大臣殿は、ご自分だけが政治の実権を握っているものとお考えのようでございましたが、世間の方々は、内大臣殿をどうも頼りないとお考えのようで、このまま後を継がれるということには首を傾げる方が多いようでございました。
大殿(道隆)殿の御葬送は、賀茂祭を終えてから執り行われることになりました。この事も、御服喪の期間が長くなり、内大臣殿には後継者選びでお気の毒ではありました。
ただ、御喪中でありながらも、政務をあれこれと指示なさって、人々の着衣や袴の丈を長くしたり縮めたりをお取り決めになられたりされておりました。
今は、このようなことはなさらずに、政務には関わらず、何よりも御喪中をお過ごしになるべきだと、非難される方々もおいででございました。
北の方のご兄弟方は、あちらこちらの国守をなさっておられますが、どうなって行くことかとうろたえていらっしゃいます。二位の新発意(ニイノシンポチ・高階成忠。貴子の父。新発意は、新たに仏門に入った者。)は、この御忌みに籠もろうともなされず、然るべき僧たちに命じて、内大臣殿が後継者となるようにと、様々なご祈祷を行わせ、ご自分も手を額に当てて、夜昼に祈られているとのことでございます。
このように、世の中が次の関白の地位を噂しあっているさなか、小一条の大将(済時・宣耀殿の女御の父。左近大将を兼務。)が四月二十三日にお亡くなりになりました。宣耀殿の女御(娍子)がお生みになられた一の宮(敦明親王。この時二歳)もまだ幼く、後に残されてのご逝去は、まことにいたわしいことでございました。
左右の大将がしばらくでもいらっしゃらないことは良くないということでしょうか、中宮大夫殿(道長)が、左大将にお就きになられました。(左大将は済時の死去で欠員となったが、右大将は道兼が兼務していて、道兼の関白就任により道長が左大将に就いているので、この部分は、史実とは違う。)
大殿(道隆)の御葬送は賀茂祭が過ぎて四月の月末に執り行われました。小一条の大将の御葬儀も同じ時期でございました。
ともどもに、たいそう悲しいことでございました。
内大臣殿は、世の中の動きが、どうやらご自分のお立場が危うくなる方向らしいことにお気づきになり、二位の新発意を「油断をするな、油断をするな」と責め立てて、執政の地位を守れるように祈祷をおさせになられました。
二位の新発意は、とっておきの秘法などをご自分で行い、然るべき人にも行わせて、「どういう情勢になっても、ご安心なさい。何事も人の力ではどうなるものでもありません。ただ天の摂理だけが事をお運びになります」と、頼もしげに申されたそうでございます。
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