枕草子 第百三十一段 円融院の御終ての年
円融院の御終ての年、みな人、御服脱ぎなどして、あはれなることを、公けよりはじめて、院の御事など思ひ出づるに、雨のいたう降る日、藤三位の局に、蓑虫のやうなる童の大きなるが、白き木に立て文をつけて、
「これ、たてまつらせむ」
といひければ、
「いづこよりぞ。今日・明日は物忌なれば、蔀もまゐらぬぞ」
とて、下は閉(タ)てたる蔀より取り入れて、「さなむ」とは、きかせたまへれど、
「物忌なれば、見ず」
とて、かみについ挿しておきたるを、早朝、手洗ひて、
「いで、その昨日の巻数」
とて、請ひ出でて、伏し拝みて開けたれば、胡桃色といふ色紙の厚肥えたるを、「あやし」と思ひて、開けもていけば、法師のいみじげなる手にて、
これをだにかたみと思ふに都には
葉替へやしつる椎柴の袖
と書いたり。
(以下割愛)
円融院(一条天皇の父、三十三歳で崩御)の喪(一年間)があけた年、どなたも、喪服をお脱ぎになり、しんみりとしたことを、朝廷をはじめとして誰もが、院の生前の御事などを思い出しておりましたが、雨がひどく降る日に、藤三位の局(一条天皇乳母、上臈女房として勢力を有していた)に、蓑虫のような格好をした大柄な男童が、白く削った木に立て文をつけて、
「これを、差し上げたいのです」
と言うので、取次の女房が、
「どちらからですか。今日・明日は物忌なので、蔀も開けないのです」
ということで、下半分を閉めてある蔀から受け取って、藤三位の局も「こうこうだ」とは、お聞きになられていましたが、
「物忌なので、見ませんよ」
というので、その手紙を高いあたりに挿して置きましたので、翌朝、藤三位の局は手を洗い清めて、
「さあ、その昨日の巻数(カンズ・依頼により僧が経文などを読んだ時に、その巻数などを書いて依頼主に送る文書)を拝見しましょう」
と、持ってきてもらい、伏し拝んで開けましたところ、胡桃色という色紙の厚ぼったいものなので、「変だな」と思って(胡桃色の色紙は裏が白いので、立て文には白い部分が出ていて巻数と勝手に思っていたので、変だと感じたらしい)、だんだんと開けていくと、僧侶特有の癖の強い筆跡で、
「これをだにかたみとおもふに都には
葉替へやしつる椎柴の袖」
(せめて故院の思い出にと椎柴の衣<喪服>を着ていますが、春の早い都ではもう衣を替えられたのでしょうね)
と書いてありました。
「まあ、あきれた。いまいましいことねぇ。一体誰の仕業なのかしら。仁和寺の僧正(円融院が潅頂を受けた縁がある。大僧正で七十七歳)なのでしょうか」
とも思われますが、
「まさかあのお方がこんなことは仰るまい。藤大納言が、円融院の御所の別当でいらっしゃったから、あの方がされたことのようね。このことを、天皇の御前や中宮様に、早くお聞かせいたしたい」
と思うと、大変気が急くのですが、
「やはり、たいそう厳格にいいならわしている物忌を、すませてしまおう」
ということで、その日は我慢しながら過ごして、次の日の早朝、藤大納言の御もとに、この歌の返歌を詠んで、使者に置いて来させたところ、折り返し、藤大納言がまた返歌を詠んでお寄こしになりました。
藤三位の局は、それらの二つの手紙を持って急いで参上し、
「このようなことがございました」
と、天皇もおいでになられている中宮様の御前でお話になられました。中宮様は、それらをほんの少しばかり御覧になられて、
「藤大納言の筆跡の具合とは違うようね。法師の筆跡に違いない。昔話の鬼の仕業みたいな気がしますね」
などと、たいそう真顔で仰られますので、
「それでは、これは誰の仕業なのでしょう。こんな物好きな心を持った上達部・僧綱(ソウゴウ・上達部に匹敵する上級職の僧侶)などは、誰がいるでしょうか。その人かしら。あの人かしら」
などと、不審がり知りたがって仰るので、天皇は、
「このあたりで見かけた色紙が、よく似ているではないか」
と、にやにやされながら、もう一枚、御厨子のところにあったのを手にとって、お示しになったので、
「まあ、何と情けないこと。このわけを仰ってくださいませ。ああ、頭が痛みます。ぜひとも、今すぐにお伺いいたします」
と、わあわあとせがんだり恨み言を申し上げた挙句、ご自分から笑い出してしまったものですから、天皇はようよう真相を明かされて、
「使いに行った鬼童(諸説あるも、単に大柄な童という意味と考えられる)は、台盤所の刀自という者(下級の女官)のもとで働いていたのを、小兵衛(中宮付きの女房)がうまく誘い出して、使者にしたのであろう」
などと、仰せになられますと、中宮様も御笑いになられるので、藤三位の局は中宮様をひっぱり揺すって、
「どうして、このようなはかりごとをされましたのか。それにしても、巻数だとばかり信じ切って、手を清めて、伏し拝み申し上げたことでしたわ」と、笑ったり、腹を立てたりしておられる様子も、いかにも得意そうな愛嬌さえあって、面白い状況です。
そのうえに、藤三位の局は清涼殿の台盤所にまで出向いて、大笑いした後、例の童を探し出してきて、手紙を受け取った女房に見させると、
「その童に相違ないようです」
と言う。
「誰の手紙を、誰が手渡したのか」
と詰問するのですが、何とも口をきかず、とぼけたような様子でにやにやして、逃げて行ってしまいました。
藤大納言は、後にこのいきさつを聞いて、大笑いなされたとか。
天皇と中宮が一緒になって、天皇の乳母であり、女房たちの中で勢力を持っていた藤三位の局に悪戯をしたという、面白い内容の章段です。
この時、天皇十三歳、中宮十七歳ということですから、まあ、いたずら盛りともいえますし、藤三位の局に送った和歌などは、むしろ中宮が主導したものではないでしょうか。
この当時、少納言さまはまだ出仕しておらず、おそらく中宮様からお聞きになった話を記録されたものではないでしょうか。そのためもあってか、敬語の使い方などに少々混乱があると研究者からは指摘されているようです。
いずれにしても、この物語などは少納言さまお好みの内容でしょうし、明るく聡明であったとされる中宮定子の一面が描き出されている章段ともいえます。
円融院の御終ての年、みな人、御服脱ぎなどして、あはれなることを、公けよりはじめて、院の御事など思ひ出づるに、雨のいたう降る日、藤三位の局に、蓑虫のやうなる童の大きなるが、白き木に立て文をつけて、
「これ、たてまつらせむ」
といひければ、
「いづこよりぞ。今日・明日は物忌なれば、蔀もまゐらぬぞ」
とて、下は閉(タ)てたる蔀より取り入れて、「さなむ」とは、きかせたまへれど、
「物忌なれば、見ず」
とて、かみについ挿しておきたるを、早朝、手洗ひて、
「いで、その昨日の巻数」
とて、請ひ出でて、伏し拝みて開けたれば、胡桃色といふ色紙の厚肥えたるを、「あやし」と思ひて、開けもていけば、法師のいみじげなる手にて、
これをだにかたみと思ふに都には
葉替へやしつる椎柴の袖
と書いたり。
(以下割愛)
円融院(一条天皇の父、三十三歳で崩御)の喪(一年間)があけた年、どなたも、喪服をお脱ぎになり、しんみりとしたことを、朝廷をはじめとして誰もが、院の生前の御事などを思い出しておりましたが、雨がひどく降る日に、藤三位の局(一条天皇乳母、上臈女房として勢力を有していた)に、蓑虫のような格好をした大柄な男童が、白く削った木に立て文をつけて、
「これを、差し上げたいのです」
と言うので、取次の女房が、
「どちらからですか。今日・明日は物忌なので、蔀も開けないのです」
ということで、下半分を閉めてある蔀から受け取って、藤三位の局も「こうこうだ」とは、お聞きになられていましたが、
「物忌なので、見ませんよ」
というので、その手紙を高いあたりに挿して置きましたので、翌朝、藤三位の局は手を洗い清めて、
「さあ、その昨日の巻数(カンズ・依頼により僧が経文などを読んだ時に、その巻数などを書いて依頼主に送る文書)を拝見しましょう」
と、持ってきてもらい、伏し拝んで開けましたところ、胡桃色という色紙の厚ぼったいものなので、「変だな」と思って(胡桃色の色紙は裏が白いので、立て文には白い部分が出ていて巻数と勝手に思っていたので、変だと感じたらしい)、だんだんと開けていくと、僧侶特有の癖の強い筆跡で、
「これをだにかたみとおもふに都には
葉替へやしつる椎柴の袖」
(せめて故院の思い出にと椎柴の衣<喪服>を着ていますが、春の早い都ではもう衣を替えられたのでしょうね)
と書いてありました。
「まあ、あきれた。いまいましいことねぇ。一体誰の仕業なのかしら。仁和寺の僧正(円融院が潅頂を受けた縁がある。大僧正で七十七歳)なのでしょうか」
とも思われますが、
「まさかあのお方がこんなことは仰るまい。藤大納言が、円融院の御所の別当でいらっしゃったから、あの方がされたことのようね。このことを、天皇の御前や中宮様に、早くお聞かせいたしたい」
と思うと、大変気が急くのですが、
「やはり、たいそう厳格にいいならわしている物忌を、すませてしまおう」
ということで、その日は我慢しながら過ごして、次の日の早朝、藤大納言の御もとに、この歌の返歌を詠んで、使者に置いて来させたところ、折り返し、藤大納言がまた返歌を詠んでお寄こしになりました。
藤三位の局は、それらの二つの手紙を持って急いで参上し、
「このようなことがございました」
と、天皇もおいでになられている中宮様の御前でお話になられました。中宮様は、それらをほんの少しばかり御覧になられて、
「藤大納言の筆跡の具合とは違うようね。法師の筆跡に違いない。昔話の鬼の仕業みたいな気がしますね」
などと、たいそう真顔で仰られますので、
「それでは、これは誰の仕業なのでしょう。こんな物好きな心を持った上達部・僧綱(ソウゴウ・上達部に匹敵する上級職の僧侶)などは、誰がいるでしょうか。その人かしら。あの人かしら」
などと、不審がり知りたがって仰るので、天皇は、
「このあたりで見かけた色紙が、よく似ているではないか」
と、にやにやされながら、もう一枚、御厨子のところにあったのを手にとって、お示しになったので、
「まあ、何と情けないこと。このわけを仰ってくださいませ。ああ、頭が痛みます。ぜひとも、今すぐにお伺いいたします」
と、わあわあとせがんだり恨み言を申し上げた挙句、ご自分から笑い出してしまったものですから、天皇はようよう真相を明かされて、
「使いに行った鬼童(諸説あるも、単に大柄な童という意味と考えられる)は、台盤所の刀自という者(下級の女官)のもとで働いていたのを、小兵衛(中宮付きの女房)がうまく誘い出して、使者にしたのであろう」
などと、仰せになられますと、中宮様も御笑いになられるので、藤三位の局は中宮様をひっぱり揺すって、
「どうして、このようなはかりごとをされましたのか。それにしても、巻数だとばかり信じ切って、手を清めて、伏し拝み申し上げたことでしたわ」と、笑ったり、腹を立てたりしておられる様子も、いかにも得意そうな愛嬌さえあって、面白い状況です。
そのうえに、藤三位の局は清涼殿の台盤所にまで出向いて、大笑いした後、例の童を探し出してきて、手紙を受け取った女房に見させると、
「その童に相違ないようです」
と言う。
「誰の手紙を、誰が手渡したのか」
と詰問するのですが、何とも口をきかず、とぼけたような様子でにやにやして、逃げて行ってしまいました。
藤大納言は、後にこのいきさつを聞いて、大笑いなされたとか。
天皇と中宮が一緒になって、天皇の乳母であり、女房たちの中で勢力を持っていた藤三位の局に悪戯をしたという、面白い内容の章段です。
この時、天皇十三歳、中宮十七歳ということですから、まあ、いたずら盛りともいえますし、藤三位の局に送った和歌などは、むしろ中宮が主導したものではないでしょうか。
この当時、少納言さまはまだ出仕しておらず、おそらく中宮様からお聞きになった話を記録されたものではないでしょうか。そのためもあってか、敬語の使い方などに少々混乱があると研究者からは指摘されているようです。
いずれにしても、この物語などは少納言さまお好みの内容でしょうし、明るく聡明であったとされる中宮定子の一面が描き出されている章段ともいえます。
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