『 下級官吏の悲哀 (1) ・ 今昔物語 ( 31 - 5 ) 』
今は昔、
大蔵の最下の史生(サイゲのシショウ・最末席の書記。)に宗岡高助(ムネオカノタカスケ・伝不詳。宗岡氏は蘇我氏の一族らしい。)という者がいた。
道を行く時には垂れ髪で、栗毛の貧弱な雌馬を乗り物にして、表着の袴・衵(アコメ・小袖)・足袋などは粗末な布を用いていた。この高助は身分が低いからだとは言っても、身のこなしやその姿などが、とりわけ卑しげであった。
家は西の京にあった。堀河小路よりは西、近衛大路よりは北にあたる所にある、八戸主(ヤエノヌシ・戸主は地面の広さの単位で、約 140 坪。八戸主はその八つ分)の家である。南は近衛大路に面して唐風の門構えがあり、その門の東の脇に七間の家(柱と柱の間が七つある家。相当大きな家である。)を造って、そこに住んでいた。
その敷地内には、綾檜垣(アヤヒガキ・檜の薄板や皮で組目文様を表すように作った贅沢な垣。)を巡らして、その中に小さいが五間四面の寝殿を造り、その寝殿に高助の娘二人を住まわせていた。
その寝殿を[ 欠字。「しつらえ」といった意味か? ]たる事、帳(トバリ・部屋を仕切る道具。)を立て、冬は朽木形の几帳の帷(カタビラ・垂れかける絹の布。)をかけ、夏は薄物の帷をかけた。その前には、唐草の蒔絵の唐櫛笥(化粧箱)などを置いていた。
女房二十人ばかりを仕えさせ、それら皆に裳・唐衣(女官の正装。)を着せていた。娘一人に十人ずつと言うことであろう。また、女童四人に、常に汗衫(カザミ・童女の正装時の上着。)を着せていた。それも、娘一人に二人ずつ仕えさせたのであろう。
この女房や女童は、全員が然るべき蔵人を経験した人の娘で、父も母も亡くし、生活に困っていた者を、うまく言い含めて盗むかのように引き取って仕えさせていたので、一人としておかしな者はいない。容姿も態度も皆すばらしく上品である。下々の召使いも、心に任せて姿形の優れている者を選んでいるので、卑しげな者は一人もいない。
女房の局(部屋)ごとに、屏風・几帳・畳など[ 欠字。「しつらえ」といった言葉か? ]たる事、宮宅の有様に劣らない。女房たちには、季節ごとに衣装を調えて重ねて着せ替えさせた。
まして姫君達の装束となれば、綾織り職人を選んで織らせ、染め物師も尋ねて頼んだので、仕上がった物の模様や色合いなどは手に映えるほどで、目もくらむばかりであった。食事にあたっては、それぞれに揃いのお膳に銀の器物を調えた。
侍(サブライ・後世の武士とは違い、雑用や警護を務めた。従者。)には、落ちぶれた高貴な家の子弟で、どうしようもなく貧しい者を誘ってきて、様々に衣装を飾らせて仕えさせた。およそその有様はあでやかで上品らしい振る舞いは、まことに良家の人と変わりなかった。
父の高助は、外出する時は、たいそう貧しげな様子をしていたが、自分の娘の所に行く時には、綾の直衣に葡萄染(エビゾメ・薄紫色)の織物の指貫を着て、紅の出衣(イデシギヌ)をして、香をたきしめて行った。
妻は、ふだんは[ 欠字。「粗末な織物を表す言葉]らしい。]の襖(アオ・あわせ)という物を着ていたが、それを脱ぎ捨て、色とりどりに縫い重ねた衣装を着て娘の方に行った。
このように、力の及ぶ限り、とても大切に育てていた。
ある時、池上の寛忠僧都(カンチュウソウズ・宇多天皇の孫。仁和寺の子院池上寺に住んだ。)という人が堂を造って供養を行ったが、この高助は寛忠僧都の許を尋ねて、「御堂供養は極めて貴い事でございますから、卑しい娘たちにも見させてやりたいと思うのですが」と言った。僧都は、「大変善いことだ。然るべき所に桟敷など設けて見させてあげよ」と許可したので、高助は大変喜んで帰っていった。
この高助は、この僧都に長年奉仕している者なので、この堂供養においても、かねてより然るべき事を様々に承っていたので、このように見物のことを申し出たのであろう。
( 以下 (2) に続く )
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