雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

哀しい方の人生   第二回

2009-12-29 16:23:00 | 哀しい方の人生

その一帯は、アパートや文化住宅と呼ばれた長屋形式の賃貸住宅が雑然と集まっていた。
後の時代から見れば狂乱とさえ表現されるバブル経済は、この辺りにまで再開発の波が押し寄せていた。表通りやそれに隣接する辺りは、新しいビルが建設されていたり、地上げされたと思われる空き地が目立ったが、その一帯だけは、まるで取り残されたように昭和二十年代後半から三十年代にかけて建築されたと思われる建物が残されていた。


小林敦子の住居も、それらの建物の一つにあった。
そのアパートは木造二階建ての古いもので、共同の玄関を入ると廊下が奥まで通っていて、その両側に部屋が並んでいた。


小林敦子の部屋は二階にあった。部屋の扉には、中央の目の高さの辺りに「小林」と手書きされた名刺大の紙が貼られていて、その下に来訪者を確認するための小さな覗き窓があった。
石川は、扉をそっとノックした。気が重い交渉の始まりである。


「はあーい」という、建物の雰囲気とはまるで不似合な明るい返事が、扉の向こうから返ってきた。
その声は石川をほっとさせるものだった。


「どちらさまですか?」
扉越しに応答が続き、覗き窓で訪問者を確認することもなく扉が開き、若い女性が顔をみせた。


石川は意外な印象に言葉が詰まった。
店舗からここへ来る道すがら、漠然とではあるが交渉方法を頭に描いていたが、交渉相手は中年以上の女性と決め込んでいた。窓口担当者は若い主婦と記憶していたが確かなものではなかった。
しかし、明るい声の持ち主は、まだ十代に見える女性だった。


「失礼します。A銀行のものですが、お母さん、おいでですか?」
石川はなお先入観から抜けきれず、来店したのは目の前の女性の母親だと判断していた。


「誰に、ご用ですか?」
若い女性は、ちょっと首を傾げるようにして尋ねた。
片足だけがサンダルのような履物の上に乗った不安定な姿勢である。


「小林敦子さんを、お訪ねしたのですが・・・」
「それなら、わたしです。わたしが小林敦子ですが、何か?」


「それは、どうも失礼しました。私はA銀行の石川と申します。突然お邪魔して申し訳ありません」
「A銀行さん・・・。駅前のですか?」


「そうです。今日、銀行へおいで下さいましたのは、小林さんご本人でしたか?」
「ええ、わたしが午前中に行きました」


「そうでしたか。実は・・・」
敦子は私が手渡した名刺をじっと見つめていたが、私が言いにくそうに言葉を切ると、小さく頷くように首を動かしながら中に入るように勧めてくれた。
話の内容からして、廊下での立ち話はまずいと、私が思うのと同時だった。


「どうもすみません。では、入らせていただきます」
と、言いながら中に入ったが、当然私は、たたきの部分で話をするつもりだった。
しかし、その部分の広さは、大人の靴がやっと入る程度しかなかった。横幅は九十センチ程あるが奥行きはその三分の一程で、そこに立って扉を閉めるのは難しい状態の広さだった。


「どうぞ上がって下さい。汚くしていますが・・・」
石川は、敦子の言葉に甘えて上がらせてもらうしかなかった。


入った所が台所を兼ねた板間で、その奥が六畳の和室になっていた。和室の真ん中には食卓兼用らしい座卓が置かれていて、石川はその前に案内された。
部屋の隅に、小さな布団が敷かれ赤ん坊が寝かされていた。


部屋の壁も天井も畳も古ぼけていて、お世辞にもきれいといえない部屋だが、不似合いなほど小ざっぱりとした白いカバーの座布団を座卓の前に置いた。
石川に座布団をすすめると、敦子は板の間でお茶の準備を始めた。


「どうぞ、お構い下さらないように・・・」
「本当にお茶しかありませんの」
敦子は少し困ったような表情で、石川の前に湯飲みを置いた。

「実は、大変申し訳ないことですが、今日のお支払いのことでお願いに参りました。私どもの窓口の者が、間違ってお支払いしているのではないかと思われますので、ご確認していただこうと思いまして参りました」
「はい・・・」

敦子は正座した膝の上に両手を揃えて乗せ、その指先辺りをじっと見つめていた。


「大変ご迷惑をおかけして申し訳ありません。私どものミスで、少し多くお支払いしてしまっていると思われるのです」
石川は息苦しい空気を振り払うように、もう一度確認を求めた。
事務処理の記録などから敦子への支払いを間違えていることは確信できる状態なので、そのことをそれとなく伝え、相手に、気がつかなかったが調べてみると言わせることが、スムーズに解決させるコツだった。


「すみません・・・。多く、いただいていました・・・」
消え入るような声だった。


「そうでしたか。申し訳ありませんでした」
石川は、姿勢を改めて丁重に頭を下げた。
相手に謝らせるようなことになってはまずいのである。現金さえ受け取れば、早々に引きあげるのが正しいのである。相手が気付いていたかどうかなどに関わらないことが、問題を難しくさせない方法なのだ。
しかし敦子は、石川の思惑など全く受け付けないかのように、言葉を続けた。

「許して下さい・・・。気が付いていたのですが・・・、そのまま持って帰ってきてしまったのです。ごめんなさい・・・」


敦子は座卓から離れて、深々と頭を下げた。
石川は、まずいことになったと思った。原因を作ったのはこちらなのである。相手に負担を感じさせてしまっては、たとえ現金を無事回収できたとしても、問題を複雑にしてしまう危険があるのだ。


「小林さん、間違えたのは私どもの方なのですから、どうぞ頭を上げて下さい。謝るのは私の方なのですから・・・」


石川も同じように食卓から少し離れて、再度頭を下げた。
しかし頭を下げながら石川は、敦子のあまりに大げさな謝り方に、何か裏があるのではないかとの思いを巡らせていた。予期していたものとは違う展開に戸惑いながらも石川は、危険な罠のようなものはないかと敦子の詫びる姿を冷静に分析していたのである。
かつて、必要以上に下手にでてくる人物が、とんでもないトラブルメーカーだったことを経験したことがあったのだ。


後になって、この時の敦子の心境を思うたびに、石川は自己嫌悪に陥った。
職業上の必要性から身についたものなのか、あるいはもともと自分が持っている資質なのかはともかく、あの必死な敦子の姿から、自己保身のことしか考えられない自分がやり切れなかった。


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