次の日の夕方、業務の終了を待ちかねて石川は敦子のアパートを訪ねた。
昨日に続く訪問に警戒する様子だったが、昨日の件ではないことが分かると気持ちよく中に入れてくれた。
十か月になるという男の子も、食事の後だということで、玩具を振り回して元気に遊んでいた。赤ん坊が動き回っているだけで、部屋の雰囲気は昨日とは様変わりのように温かく感じられた。
石川が持参した少しばかりの子供用の菓子に対して、敦子は丁寧な挨拶をし、昨日と同じように彼を座卓の前に案内した。
「昨日いただいたお菓子しかないんです・・・」
敦子は、ばつが悪そうに、モナカを二つ乗せた小皿をお茶に添えた。
「どうぞ、お気を使わないで下さい。昨日も申し上げましたように、私は甘いものはあまり得意ではないのですよ。お茶を頂戴します」
石川は、甘いものが特に駄目ということではないが、このモナカを手にすることはできなかった。
そして、持参した大きな紙袋を手元に寄せた。昨夜、妻が出してきた品物のうちの一部だが、紙袋はいっぱいになっていた。
「うまく話さないと失礼になるわよ」と今朝も妻に何度も念を押されたことを思いだしながら、石川は話を切り出すタイミングをはかっていた。
「実は、小林さん。昨日初めてお会いしただけなのに、こんなことをするのは失礼かもしれないんですが・・・、ええ、私の家内なんかも、失礼にならないようにと何度も何度も言うんですよね・・・」
「どうされましたの?」
石川の歯切れの悪い話し方に、敦子は微笑みながら少し首を傾けた。昨日のお金の話をしていた時とは別人のように明るい笑顔である。
昨日も若い母親だとは感じていたが、今日の表情は二十歳そこそこに見えた。それに、大阪の下町というか庶民的なというか、そのような土地柄に似合わない丁寧な言葉遣いの女性だった。
石川は、敦子の明るさに圧倒されるようなものを感じていた。
「小林さん、もし、私が気に入らないことを申し上げましたら、はっきりと失礼だと言って下さいね。決して、小林さんを困らせるつもりはないんですから・・・」
「ますます分かりにくいお話ですね」
と、今度は小さな声を出して笑った。そして、笑顔のまま、石川に話の続きを促した。
「どうぞ、何でもおっしゃって下さい。失礼なことでしたら、失礼ですとはっきりと申しあげますから」
「そうですね。ぜひ、そうして下さい、ね」
石川は合点するかのようにうなずきながら、持参した紙袋から紙箱を取りだした。子供用の靴が入っているものである。
「見て下さい、この靴。少し前のものですが、一度も使っていません。流行があるのでしょうが、十分素敵だと思うんですよね」
「どうされましたの、この靴?」
「出来れば、あの坊やに履いてもらいたいと思って持ってきたんですよ」
石川は、時々奇声を発しながら、大人たちの会話を無視するように遊んでいる赤ん坊に視線を向けた。
「まあ・・・。わざわざ買ってきて下さったのですか?」
「いえ、違いますよ。お話したように、三年程前のものなんです。実は、私の子供にお祝いとしていただいたものなんです。たまたま重なってしまって、履かせる機会を外してしまったんです。子供の足って、あっという間に大きくなってしまうでしょう。使うあてがないまま仕舞っていたんですが、置いておく場所の問題もあって、次のバザーに出すことにしていたんですよ。でも、誰だか分からない人に渡してしまうことに躊躇していまして、出来ればどなたか知っている方に使ってもらえたらと考えていた時に、小林さんにお会いしたんです。
ぜひとも、あの坊やに使ってもらえるようお願いしようと思って、持参したんですよ」
小林は、昨夜から考えていたストーリーを一気に語り終えた。
「まあ・・・」
敦子は、紅潮した頬を両手で押さえて、石川の顔と靴とを交互に見つめていた。そして、突然に、涙をあふれさせた。
石川は、その涙の意味が分からず、慌てた。
「三年前のものといっても、そんなに悪くないと思うんですよ」
石川は少し口ごもりながら、同じような説明を繰り返した。
「いいえ、とってもいい靴ですわ。でも、高価なものだわ・・・。頂戴してもいいんでしょうか?」
「もちろんですよ。バザーに出すつもりだったんですから。この靴だって、あの坊やが履いてくれれば、きっと喜びますよ・・・。靴が喜ぶなんて、変ですよね・・・」
敦子は濡れた頬を拭おうともせず、はにかんだような笑顔で石川に向かって深々と頭を下げた。そして、立ち上がると一人で遊んでいた子供を抱きかかえてきた。
「正夫といいます。ありがとうございます。この靴を頂戴して、この子に履かせていただきます・・・」
正夫くんは、若い母親の膝の上で勢いよく跳ねた。何度も何度も跳ねる動作は、まるで靴をねだっているように見えた。
「すごく元気ですね。すぐにでも歩きそうですよ。この靴、履かせてみて下さいよ」
「よろしいですか・・・。では、頂戴します・・・。正夫、素敵な靴をいただきましたよ」
敦子は母親の顔になって、正夫くんに靴を履かせにかかった。
正夫くんは靴を履くのが初めてのことらしく、嫌がって全身を使って拒もうとしたが、若い母親は巧みにあやしながら両足に履かせることに成功した。
すると正夫くんは、それ以上は嫌がる様子もなく、再び母親の膝の上で跳ね始めた。
「とっても、いい靴だわ・・・。ありがとうございます。今度の日曜日に、この靴を履かせて近くの公園に行くことができます・・・」
そして、その時になって初めて気がついたかのように、、手の甲で頬の涙を拭った。
「私の方こそうれしいですよ、そう言っていただけて・・・。いただいたものなので捨てるわけにはいきませんし、品物としていくら良いものでも、使う人がいなくてはどうにもなりませんものね」
「石川さんって、優しいんですね」
「私がですか? 靴を持ってきたからですか?」
「いいえ。それもありますが、それより、下さるのに、こんなに気遣った言い方をされるんですもの・・・。本当に、ありがとうございます」
「いえ、そう言われますと恥ずかしいんですよ。でも、うちで不要なものだから差し上げるというのは、失礼にあたるかもしれませんからね。確かに今となってはわが家では不要なものですが、それは使う機会がなかったというだけのことで、品物が悪いわけではないですよ、ね。いただいた時は私たちもとてもうれしかったですし、先方さんもいろいろ考えて下さったと思うんです。どれも、私たちには大切な品物なのです。でも、使わないことには、贈って下さった方にも悪いし、何よりも品物に申し訳ないですよ・・・。
それでね、他の品物も見ていただきたいんです」
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