『 穏やかに三が日を終える 』
当地に この三日間は ほぼ快晴
今日も 箱根駅伝に どっぷり浸かり
悲喜こもごもを 楽しませていただいた
世間は 九連休にまだ二日残しているが
あすから ぼつぼつ日常に戻ろう
と 思ってはいるが・・
☆☆☆
『 穏やかに三が日を終える 』
当地に この三日間は ほぼ快晴
今日も 箱根駅伝に どっぷり浸かり
悲喜こもごもを 楽しませていただいた
世間は 九連休にまだ二日残しているが
あすから ぼつぼつ日常に戻ろう
と 思ってはいるが・・
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『 若宮たちの成長 ・ 望月の宴 ( 131 ) 』
さて、小一条大将(藤原済時)の中の君と申し上げるお方は、宣耀殿女御(センヨウデンノニョゥゴ・娍子)の御妹君で、父の殿も母の北の方も、この女君の御身の振り方を、どうともなさらないうちにお亡くなりになったので、なんとか姉の女御殿に劣らぬような御身の上になりたいとお考えになって、ご自身の意志で、東宮の御弟の帥宮(ソチノミヤ・冷泉天皇の第四皇子敦道親王)に意中をお伝え申し上げ、やがて、帥宮はこの女君を南院にお迎えになられたが、年月を経るにつれてお気持ちが冷めていき、和泉守道貞の妻(和泉式部のことで、その熱愛ぶりは『和泉式部日記』に記録されている。)に夢中になり、この女君を振り向きもしないというお扱いになり、居づらくなったため小一条の祖母北の方(祖父の妻、藤原定方の娘。)の御許にお帰りになってしまった。
ところが、東宮も宣耀殿女御も、「この二人のことを、こちらが口をきいて仲立ちしていれば、どれほど聞きづらい事だったか。知らぬ事なので、気持ちが楽だ」とお思いになり口にもなさった。
御幸いのほどは、同じご姉妹とは見えないほどである。
和泉式部のことは、故弾正宮(敦道親王の兄の為尊親王)もたいそう熱愛なさっていらっしゃったので、帥宮も故兄宮の後を受け継いでいらっしゃるのだろう。
故関白殿(道隆)の三の君である帥宮の北の方も、一条辺りで納得出来ない有様でお過ごしである。また、小一条の中の君も、どうなることかと世間で噂されているようである。
こうしているうちに、六条の宮(具平親王。村上天皇の第七皇子。長女が頼通の室。)がお亡くなりになったので、左衛門督殿(頼通)がすべてお世話申し上げるのもお心通りであり、感に堪えない御事であった。
ところで、花山院が崩御なさったので、一条殿の四の君(為光の四女。花山院の妾だった。)は、鷹司殿に移り住んでいらっしゃったが、殿の上(道長の室・倫子)が何度もお便りなさって、御邸にお迎えして、姫君のお相手役にお付け申されたが、殿(道長)が万事につけお世話申し上げていらっしゃったが、そのうちに情愛をお寄せになるようになっていった。
そして、家司などもみなお定めになって(正式な妻の一人として、世話をする担当者を定めた。)、正当な立場としてお扱いなされたので、然るべき有様で、何不自由なくお過ごしになったので、花山院の御時には、出家の御身で女性の許に通うのを不愉快に思われて、四の君のご兄弟たちも関知しない態度をなさっていたが、この度のことは良い事と大切に接せられている。
中宮(彰子)の若宮(敦成親王)は、たいそう可愛らしくなられて、あちこちと走り回られている。今年三歳におなりである。
四月には、殿(道長)が一条に設けられた御桟敷で、若宮に賀茂祭の行列をお見せになられた。
たいそうふっくらとして色白で愛らしく美しいので、斎院(選子内親王。村上天皇皇女。)が前をお通りになるとき、大殿(道長)は、ご覧になられますか、と若宮をお抱きになって、桟敷の御簾をかかげていらっしゃると、斎院の御輿の帷(カタビラ)の間から、御扇を差し出されなさったのは、若宮をご覧になられたのであろう。
やがて日が暮れたので、翌日に斎院から、
『 光いづる あふひのかげを 見てしかば 年経にけるも うれしかりける 』
とあり、御返しとして殿の御前は、
『 もろかづら 双葉ながらも 君にかく あふひや神の しるしなるらん 』
とお申し上げになった。
若宮と今宮(敦良親王)が、続いて走り回っていらっしゃるのを、並々ならぬ功徳を積まれた御身とお見えになる。その母である中宮を、殿はたいそう貴いお方とお思いであるが、当然のことと思われる。
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