枕草子 第二百八十六段 うちとくまじきもの
うちとくまじきもの。
似而非(エセ)もの。さるは。「よし」と人にいはるる人よりも、うらなくぞ見ゆる。
船の路。日のいとうららかなるに、海の面のいみじうのどかに、浅緑の打ちたるを引きわたしたるやうにて、いささか恐ろしき気色もなきに、若き女などの、衵・袴など着たる、侍の者の、若やかなるなど、櫓といふもの押して、歌をいみじう唄ひたるは、いとをかしう、やむごとなき人などにも見せたてまつらまほしう思ひいくに、風いたう吹き、海の面ただ悪しに悪しうなるに、ものもおぼえず、泊るべきところに漕ぎ着くるほどに、船に浪のかけたるさまなど、片時に、さばかり和(ナゴ)かりつる海とも見えずかし。
(以下割愛)
気のゆるせないもの。
いい加減な者。そうなんですよ。「善い人」だと人から言われる人よりも、裏表がないように見えてしまうんですよ。
船の道中。日がとてもうららかな頃は、海の面はとてものどかに、浅緑色の布の艶出しをしたものを引きわたしたようで、少しも恐ろしそうな様子もない時に、若い女などで衵に袴などを着た者や、侍ふうの者の若々しいのが、櫓というものを押して、歌を盛んに唄っているのは、たいへん楽しく、高貴な御方などにもお見せしたいと思いながら行くと、にわかに、風がひどく吹いて、海の面がどんどん荒れて来るので、無我夢中で、船が泊まる予定の所に漕ぎ着く間に、船が浪を被っているありさまなどは、しばらく前まで、あれほど穏やかだった海とは思われないほどですよ。
思うに、船に乗って往来する人ほど、恐ろしくて不安なものはまずありませんよ。それほどでもない深さの海であっても、あんな頼りないものに乗って、漕ぎ出せるものではありませんわ。
まして、底も知れず、千尋ほどもありそうな海ではねぇ。
荷物を沢山積み込んでいるので、水面から、ほんの一尺ほどもない船で、船人足の下種(ゲス)たちが、いささかも「恐ろしい」とも思わないで、走りまわり、「ほんの少しでも荒っぽくすれば、沈むのではないか」と心配なのに、大きな松の木などの、二、三尺もある丸木を、五つも六つも、ぽんぽんと投げ込んだりするのときたら、全く恐ろしい限りです。
屋形というものの横側で櫓を押しています。内側にいるのは安心です。屋形の外側に立っている者ときたら、目もくらむ心地でしょうよ。「早緒」と名付けて、櫓を流さないようにすげているのですが、その早緒の何と弱そうなこと。それが切れたら、一体どうなるのかしら。たちまち海に落ちてしまうでしょうに。そうなのに、その命綱である早緒も太くなんかないのですよ。
私が乗っている船は、きれいに仕立てていて、妻戸を開けたり、格子を上げたりして、荷船ほど「水面すれすれに、下がっている」というのではないので、まるで「家の小さいもの」といったふうです。
船の中から、小舟を眺めるのは、とても心細いものです。遠くのものは、まるで笹の葉で作った舟を、水面に打ち散らしているのと、全くそっくりです。
停泊している港で、夜、船ごとに灯した火は、格別情緒があるように見えます。
「端舟」と名付けて、とても小さな舟に乗って、漕ぎまわる早朝などは、実にしみじみとしたものです。
「あとの白波」は、全くその通りで、すぐに消えてしまう。ある程度の身分の人は、やはり、舟に乗ってあちこち動き回るべきではないと思いますよ。陸路の旅もまた恐ろしいらしいですが、それは何といっても、足が地に着いているのですから、ずっと安心ですよ。
「海はやはり、ずっと不安だ」と思うにつけても、なおのこと、海女が獲物を取るために潜るのは、辛い仕事です。腰についている綱が切れでもしたら、「どうしよう」というのでしょう。せめて男がするのならそれもいいでしょうが、女は、やはり並大抵の気持ちではないでしょう。
舟に男は乗って、のんきそうに歌を唄って、女のつけた命綱を海に浮かべて漕ぎまわるのは、はらはらして、心配にはならないのでしょうか。
海女が、「上がろう」とする時には、その綱を引っ張るのだとか。それを男が、あわてふためいて手繰り寄せる様子は、当然のことですよ。
海女が、舟の端に手をかけて吐き出した息などは、本当に哀切で、ただ見ているだけの者でも涙をもよおすのに、その海女を海に放り込んで、ふらふら漕ぎ回っている男は、見てはいられぬほどの、あきれた情け知らずですよ。
「うちとくまじきもの」で書きだされていますが、全体としては船や海の恐ろしさが描かれています。
研究者によれば、少納言さまがまだ少女時代に、父元輔が周防守として赴任した当時に同行した時の思い出だそうです。
個人的には、最後の部分の「海女の夫婦」の描写がとても可笑しくて、大好きです。
うちとくまじきもの。
似而非(エセ)もの。さるは。「よし」と人にいはるる人よりも、うらなくぞ見ゆる。
船の路。日のいとうららかなるに、海の面のいみじうのどかに、浅緑の打ちたるを引きわたしたるやうにて、いささか恐ろしき気色もなきに、若き女などの、衵・袴など着たる、侍の者の、若やかなるなど、櫓といふもの押して、歌をいみじう唄ひたるは、いとをかしう、やむごとなき人などにも見せたてまつらまほしう思ひいくに、風いたう吹き、海の面ただ悪しに悪しうなるに、ものもおぼえず、泊るべきところに漕ぎ着くるほどに、船に浪のかけたるさまなど、片時に、さばかり和(ナゴ)かりつる海とも見えずかし。
(以下割愛)
気のゆるせないもの。
いい加減な者。そうなんですよ。「善い人」だと人から言われる人よりも、裏表がないように見えてしまうんですよ。
船の道中。日がとてもうららかな頃は、海の面はとてものどかに、浅緑色の布の艶出しをしたものを引きわたしたようで、少しも恐ろしそうな様子もない時に、若い女などで衵に袴などを着た者や、侍ふうの者の若々しいのが、櫓というものを押して、歌を盛んに唄っているのは、たいへん楽しく、高貴な御方などにもお見せしたいと思いながら行くと、にわかに、風がひどく吹いて、海の面がどんどん荒れて来るので、無我夢中で、船が泊まる予定の所に漕ぎ着く間に、船が浪を被っているありさまなどは、しばらく前まで、あれほど穏やかだった海とは思われないほどですよ。
思うに、船に乗って往来する人ほど、恐ろしくて不安なものはまずありませんよ。それほどでもない深さの海であっても、あんな頼りないものに乗って、漕ぎ出せるものではありませんわ。
まして、底も知れず、千尋ほどもありそうな海ではねぇ。
荷物を沢山積み込んでいるので、水面から、ほんの一尺ほどもない船で、船人足の下種(ゲス)たちが、いささかも「恐ろしい」とも思わないで、走りまわり、「ほんの少しでも荒っぽくすれば、沈むのではないか」と心配なのに、大きな松の木などの、二、三尺もある丸木を、五つも六つも、ぽんぽんと投げ込んだりするのときたら、全く恐ろしい限りです。
屋形というものの横側で櫓を押しています。内側にいるのは安心です。屋形の外側に立っている者ときたら、目もくらむ心地でしょうよ。「早緒」と名付けて、櫓を流さないようにすげているのですが、その早緒の何と弱そうなこと。それが切れたら、一体どうなるのかしら。たちまち海に落ちてしまうでしょうに。そうなのに、その命綱である早緒も太くなんかないのですよ。
私が乗っている船は、きれいに仕立てていて、妻戸を開けたり、格子を上げたりして、荷船ほど「水面すれすれに、下がっている」というのではないので、まるで「家の小さいもの」といったふうです。
船の中から、小舟を眺めるのは、とても心細いものです。遠くのものは、まるで笹の葉で作った舟を、水面に打ち散らしているのと、全くそっくりです。
停泊している港で、夜、船ごとに灯した火は、格別情緒があるように見えます。
「端舟」と名付けて、とても小さな舟に乗って、漕ぎまわる早朝などは、実にしみじみとしたものです。
「あとの白波」は、全くその通りで、すぐに消えてしまう。ある程度の身分の人は、やはり、舟に乗ってあちこち動き回るべきではないと思いますよ。陸路の旅もまた恐ろしいらしいですが、それは何といっても、足が地に着いているのですから、ずっと安心ですよ。
「海はやはり、ずっと不安だ」と思うにつけても、なおのこと、海女が獲物を取るために潜るのは、辛い仕事です。腰についている綱が切れでもしたら、「どうしよう」というのでしょう。せめて男がするのならそれもいいでしょうが、女は、やはり並大抵の気持ちではないでしょう。
舟に男は乗って、のんきそうに歌を唄って、女のつけた命綱を海に浮かべて漕ぎまわるのは、はらはらして、心配にはならないのでしょうか。
海女が、「上がろう」とする時には、その綱を引っ張るのだとか。それを男が、あわてふためいて手繰り寄せる様子は、当然のことですよ。
海女が、舟の端に手をかけて吐き出した息などは、本当に哀切で、ただ見ているだけの者でも涙をもよおすのに、その海女を海に放り込んで、ふらふら漕ぎ回っている男は、見てはいられぬほどの、あきれた情け知らずですよ。
「うちとくまじきもの」で書きだされていますが、全体としては船や海の恐ろしさが描かれています。
研究者によれば、少納言さまがまだ少女時代に、父元輔が周防守として赴任した当時に同行した時の思い出だそうです。
個人的には、最後の部分の「海女の夫婦」の描写がとても可笑しくて、大好きです。
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