雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

ラスト・テンイヤーズ   第七回

2010-01-04 15:51:36 | ラスト・テンイヤーズ

  第二章  戦国武将たちの『ラスト・テンイヤーズ』 (1)


(一)


最初に登場するのは織田信長です。

戦国武将と一口にいっても、思いつくままに挙げるだけで十人や二十人は列記することができます。
また、戦国時代という区分にも多くの説があります。学術的な面から考えれば、それぞれの意味するところを検討することも必要なのでしょうが、本稿では、応仁の乱 (応仁元年・西暦1467年) から大坂夏の陣 (元和元年・西暦1615年) までの百四十八年間として進めさせていただきます。


その一世紀半にも及ぶ戦乱の時代を代表する人物となれば、織田信長というのが順当な選出ではないでしょうか。
第二章の最初に信長を登場させたのは、戦国時代を代表する人物であるということが第一の理由ですが、もう一つは『ラスト・テンイヤーズ』を考える上でも最も適任と考えたからです。


***     ***     ***


信長の誕生は天文三年 (1534) 五月、応仁の乱から六十七年が過ぎていました。
戦国時代を百四十八年と定義しますと、戦国の世のほぼ真ん中に登場してきた人物ということができます。誕生時期だけでいいますと、後記します豊臣秀吉や徳川家康にも当てはまりますが、信長の場合は亡くなってから戦国の世が終わるまでなお三十三年を要しています。


信長は後に藤原氏を称し、その後には平氏を名乗ったりしていますが、生家はそれほどの家柄ではありませんが、戦国大名として飛躍しつつある一族の一人でした。
織田氏は、尾張の守護斯波氏に仕える守護代の家柄ですが、戦国時代に入った頃には実質的な支配権をすでに握っていました。下克上の典型的な形で力を伸ばしていたのです。


しかし、その織田氏も、尾張の上四郡を支配する岩倉城の織田伊勢守と、下四郡を支配する清州城の織田大和守に分かれて抗争していました。
そして、清州城の織田家には、清州三奉行と呼ばれる織田因幡守、織田藤左衛門、織田弾正忠という重臣がおり、この織田弾正忠家というのが信長の家系であります。
弾正忠というのは官名で、実際にその任務にあったわけではありませんが、現在でいえば検察庁の中堅検事といった地位にあたります。


信長が歴史上の重要人物として登場するのに、この弾正忠家の力が源泉になっているのですが、その基を築いたのは信長の祖父にあたる信定で、津島を支配下に置くことで力を蓄えていきました。
津島は伊勢湾交易の要港で、経済的な基盤を掴むことができたのです。
信長の父、信秀も非凡な人物で、この二代の蓄積の延長線上に信長は登場してくるのです。


十三歳で元服、三郎信長を名乗ります。
十五歳の秋、斎藤道三の娘を妻に迎えます。道三は行商の油売りから身を立てついに美濃一国を支配する大名になったといわれる人物です。もっとも、この人物の立志伝も謎が多く、父親と二代で美濃を手中にしたというのが本当のようです。

それはともかく、婚儀がまとまった時点での両家の力関係は、遥かに斎藤家が勝っていたと考えられますが、このことからも道三が織田家の存在を無視できない状態であったと思われます。
ただ、それは道三が信長の器量を評価したということではなく、父の信秀の存在を無視できなかったことから成立した婚姻と考えられます。


十八歳の時、父信秀が病死、信長は家督を継ぎます。
しかし、この家督相続は簡単なものではありませんでした。家督を受け継いだあとの数年間は、領地内を掌握するための激しい戦いの毎日となりますが、その多くが兄弟や同族たちとの血みどろの戦いでした。
奇抜な身なりや常識外れの言動から「尾張のうつけ者」と噂されていましたが、二十六歳の頃には尾張一国を統一しておりました。


永禄三年 (1560) 五月、信長二十七歳の時、大きな転機が訪れました。桶狭間の戦いでの勝利です。
かつては、今川義元は上洛を目指しての進軍中というのが定説であったようですが、どうや三河安定のための尾張侵略だったようです。


確かに、後背に武田信玄、北条氏康という強大な勢力があり、これらの国と同盟を結んでいるとしても戦国の常として安心できるものではありません。さらに、上洛するとなれば、尾張の織田氏はともかく、その先には美濃の斎藤、近江の浅井など有力大名が堅城を誇っており、東海屈指の大名とはいえ義元が京都に向かっていたというのには無理があります。


いずれにしても、この戦いが小勢力の信長が今川義元の大軍を打ち破ったということは事実で、信長が全国デビューを果たした戦いであったことは確かです。


桶狭間の戦いから一年半後、信長は松平元康 (徳川家康) と同盟を結びます。
元康はまだ今川の人質という立場でした。今回の義元の軍勢にも先鋒として加わっていましたが、別動隊であったことが幸いして、今川から離れて本拠地である岡崎城に入りました。その後、今川からの命令を無視して、浸食されていた松平領を固めていました。


二人の同盟が実現したのには、信長の家臣であり元康の生母於大の方の兄である水野信元の奔走があったといわれ、また、信長が尾張の人質となっていた幼い頃の元康に器の大きさを感じ取っていたからとも伝えられています。


この同盟は、信長が倒れるまで二十年に渡って続くのです。
戦国の世に類い稀ともいえるこの堅い同盟は、信長が上洛を果たすための後背の守りとなり、元康が三河を固め、遠江からさらに東へと領土を拡張するのに大きな力となりました。
後の強大な徳川氏を築くのに大きく役立ったことを考えると、実に大きな意味を持つ同盟でした。


永禄十年八月、念願だった美濃の斎藤氏を滅ぼし稲葉山城を本拠地としました。地名を岐阜と改め、秋頃から「天下布武」の印を使い始めています。すでに天下統一を構想していたのでしょうか。
信長、三十四歳の時でありました。


翌年九月、将軍足利義昭を擁して上洛を果たします。
このことは天下布武実現への大きな一歩ではありましたが、各地の大名や宗教勢力との戦いは始まったばかりでした。擁立した義昭とも戦ったり和睦したりと目まぐるしい状況が続きます。


天正元年 (1573) 信長四十歳の年、戦国の巨星武田信玄が西上途中の陣営で没しました。
七月には、長らく敵となり味方となる関係を繰り返してきた足利義昭を追放します。ここに、室町幕府は消滅したのです。
さらに八月には、宿敵浅井・朝倉を打ち果たします。


天正四年には、安土城の建設に着手し早々に入城しています。天主閣が完成するのは三年も先のことですが、城郭の建設と共に城下町の整備も進められ、短期間のうちに巨大都市が出現したのです。
信長が新たな本拠地としてこの地を選んだのは、琵琶湖の交通権を睨むことや、本来の拠点である岐阜と京都の中間にあたることなどが理由だと考えられますが、天下布武を実現しようとする信長の意思を象徴するような壮大な建設でした。


しかし、天下統一への道程は遠く、各地の大名や豪族などとの戦いに加え、宗教勢力との戦いはさらに激しさを増していました。
後世に悪名を残すことになる比叡山の焼き討ちの他にも、伊勢長島や越前の一向一揆との戦いでは凄まじいまでの残虐さが伝えられています。
特に石山本願寺との戦いは、信長にとってどの大名との戦いよりも激しいものとなりました。


天正八年閏三月、信長は遂に本願寺顕如との和睦に成功します。
顕如は翌月大坂石山の地を離れ紀州雑賀に移りました。
このあとも顕如の子の教如が抵抗を続けますが、八月には退去し各地に散っていきました。この退去の混乱の中で出火し、三日三晩にわたり燃え続けました。放火したのが信長方によるものなのか本願寺方によるものなのか不明ですが、難攻不落を誇った石山本願寺と寺内町は灰燼に帰してしまいました。
信長とは、十一年に及ぶ抗争だったのです。


石山本願寺の陥落で、信長は大きな山を越えました。
関東や奥羽にはまだ信長の威が及んでいない勢力もありましたが、上杉謙信すでに無く、武田氏も滅亡していました。
そして、当面の敵は中国地方十か国余を支配する毛利氏に絞られつつありました。
中国方面軍の総大将は羽柴秀吉でした。その秀吉からの援軍要請に、信長は明智光秀に出陣を命じました。


その時、信長は京都本能寺に滞在していました。
運命のいたずらによるものなのか、それともそれが必然であったのか、供する侍は百人余りという手薄なものでした。嫡男信忠も近くの寺院に泊まっていましたが、僅か数百人という軽装備でありました。中国路に大軍を進めようとしていた光秀は、「敵は本能寺にあり」と下知し、進路を京都に変えました。


「是非もなし」という言葉を残して、信長は明智軍の夜襲の中でその波乱に満ちた生涯を閉じました。
天正十年 (1582) 六月二日の早朝のことでした。


***     ***     ***


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