プロローグ
「あの時の親父の言葉を、なかなか忘れることができないんだ」
彼は、まぶしそうな表情で私を見つめた。
「俺は、親父とは良いつきあいをしてきたと思っていた。いや、今も思っている。親父が好きだったし、今も好きだ。家を離れていた期間も長いが、晩年の二十年近くは同じ敷地内で生活したので、顔を合わせる機会も多かったし話し合うことも多かった・・・」
「しかし、あの時は辛かった。もう堪忍してくれ、という気持ちがあったことは確かなんだ・・・。
親父とあれだけのつきあいをしてきていながら、最後のひと月かふた月のわがままに音をあげてしまって・・・。親父の最後の必死の訴えを、真剣に受け取ろうともしなかった・・・」
* * *
その頃、彼の父は米寿に近い年令だったが、ふた月ほど前から自宅から少し離れた病院に入院していた。
病状はすでに回復困難な状態にあった。腎臓をはじめ内臓の多くが衰弱してきており、この病院に入院してからは腹水が患者を苦しめていた。
水分の摂取を厳しく制限され、一日分として与えられる水の量は、患者が欲しがる量の一割にも満たなかった。
彼は勤務先からの帰途、ほぼ毎日のように病院に通った。
午後八時を過ぎることが多く、見舞いが許される時間帯は終わっていたが、消灯される九時頃までは咎められることはなかった。
父が水を欲しがる様子は日ごとに激しくなっていて、六人部屋の他の患者に気を遣いながらベッドに近付くと、待っていたかのように野太い大きな声で呼びかけるのだ。
「章夫か? 口が苦いからうがいをしたい。水を汲んで来てくれ」
入れ歯を外していることもあって口跡ははっきりしていないが、部屋中に響き渡るような声である。
彼がうがい用の大振りの水差しに水を入れ、洗面器と共に枕もとに持って行くと、すでに起き上がれない身体なのに、上体を精一杯よじって口を漱いだ。
漱いだあと水を洗面器に吐き出すのだが、大半は頬に当てるように添えたタオルに吸い込まれた。二口目からは、吐き出されるより飲まれる方が多かった。
入院間もない頃には彼もそのことを咎めたが、病状が本復することがないことを知ってからは自由にさせていた。
水差しに少しばかり残った水を最後の一滴まで口に含み、これはうがいの素振りも見せずに飲み込んだ。それから、いつものように別の水差しを取るように手で合図した。
飲料用の小振りの水差しには、一口にも満たない量の水が残っていた。
その僅かな水をいとおしむようにして飲み干すと、洗面器の水を捨ててくるように手振りと表情で指示し、空になった飲料用の水差しを彼に握らせた。
彼は軽くうなずき、父の指示に従い病室を出た。廊下の一角にある洗面所に向かい、洗面器を洗ったあと飲料用の水差しに水道水を七分目ほど入れた。
消灯間近の廊下には誰も居なかった。
悪戯を見つけられないように辺りをうかがう少年のような気持ちと、父と共有の秘密を持ったようなときめきがあり、充実感に似た気持ちが一瞬ではあるが感じられた。
制限されている量を遥かに超える水分を与えることが、父の残り少ない命をさらに削っていることは十分に承知していた。水を飲む束の間の喜びが、その後患者にどれほどの苦痛になって跳ね返るのか懸念しなかったわけでもない。
しかし彼は、ずっと後になってからも、父との悪事のような行動を後悔することはなかった。
七分目ばかり水の入った水差しを父に見せると、満足そうにうなずきながら手を伸ばせば届きそうな辺りに置くように指示した。
この、七分目というのは、一杯にしておくと看護士などに秘密が見つかるかも知れないからという二人の知恵だった。
この病院に入院した頃から、父には精神の混乱が見られるようになっていた。
痴呆の初期症状なのか、見舞いに来た人に対して殆んど感情を示さなかったり、 識別できているのかどうか判断がつかないことが時々起きた。
家族に対しては大概意識がはっきりしていたが、そのかわり、あそこが痛いここが痛いと病室中に響き渡るような声で訴え、付添い者をはらはらさせていた。病室内では、わがままで気難しい患者だということにされてしまっていた。
担当医の話では、寝たきり状態では痴呆症状が進むのが早いとのことだった。当時はまだ認知症という表現は一般的ではなかった。
しかし、彼に対してはそのような様子を見せることがなかった。
言葉は分かり難いが意思表示ははっきりしていたし、こちらの言うこともよく聞き、言われるほど気難しいとは思えなかった。ただ、声が大きいのには少々困った。もともと工場の現場職として過ごしたためか地声が大きく、それに晩年は耳が遠くなったことも影響していた。
彼が見舞いに訪れるのはいつも消灯時間の直前なので、声が大き過ぎるのにはいつも気を遣ったが、病状が進んだ後も彼に対してはいつも機嫌が良く、いつもの手順で秘密の作業が終わり水差しの位置を確認すると、「早く帰ってやれ」と柔和な表情で指示するのが常だった。
その日も彼は、水差しをテーブルのいつもの位置に置くと帰るつもりでいた。
しかし、父はいつもと違って彼を手招きした。
いつにない小声である。
「お前、車で来ているのか?」
「そうだよ」
彼は車で通勤していた。父が入院してからは、帰宅途中に病院に寄るのに便利だからだった。
「それならちょうど良い。乗せて帰って欲しいんだ」
「帰るって? 家へ?」
「そうだ、どうしても帰りたいんだ」
「帰っても、家では治療ができないよ」
「治療など、どうでもいい」
家に帰りたがっているということは、母や妻から聞いていた。しかし、彼が直接聞くのは初めてのことだった。
現実の問題として、家へ連れて帰るなどできることではなく、返答に困った。
「家では、ここのような世話ができないよ。それに、医者はどう言っているの?」
「医者が駄目だと言っているから、お前に頼んでるんだ」
「医者が駄目だと言っているのに、帰ることなどできないよ」
「今なら、誰も居ないだろ。ちょっと手を貸してくれたら、車の所まで行ける。どうしても、帰りたい・・・」
父が周囲に気を遣いながら低い声で必死に訴える様子に、彼は息が詰まるような苦しさを覚えた。
ふた月前までは自宅で療養していたが、主に世話にあたっていた母が倒れたため、騙すようにしてこの病院に連れてきたのである。
母も別の病院に入院し、今は退院して自宅にいるが、高齢でもあり、とても以前のような過酷な生活を強いることなどできない。彼の妻や、近くに住んでいる姉や妹も居るには居るが、とても世話しきれるものではない。
現在の父にとって、治療より精神的な安らぎの方が大切だと彼は考えていた。
入院後の父との接し方なども、できるだけ父の希望を受け入れることを心がけていた。しかし、いくら望んでいるからといって、連れて帰ることなどできることではなかった。
「連れて帰ってくれないのか・・・。お前をそんな子に育てたつもりはないのに・・・」
家に帰るのが無理なことをあれこれ並べ立てる息子に、父は独り言のようにつぶやいた。
この言葉は、彼の胸の奥深くに、ずしりと響いた。
父の表情はいつになく厳しく、今にも大声を出して暴れだすのではないかと予感させたが、息子を睨みつけるようにしていた眼差しは、やがて柔和なものに戻った。
「分かった・・・。もういい・・・。早く帰ってやれ、子供たちが待っているから・・・」
「明日にでも、医者に相談してみるよ・・・」
その場限りの言い訳をする息子の言葉を聞こうともせず、
「無理を言ったな・・・。もういいから、早く帰ってやれ」
と、手で追い払うようにした。
彼は暗い気持ちでベッドから離れた。
息子に裏切られた気持ちを呑み込むようにして手を動かす父の姿が、重たく心にのしかかってきた。
その重い気持ちを引きずるようにして病室を出た。
非常灯だけの薄暗い廊下を急ぎ足で進み、何かから逃げだすような思いで通用口を出た時、外気の僅かな空気の流れが彼の気持ちを軽くしてくれたことを、否定することができない。
次の日の午後、父の容体が急変した。
彼が途中退社して駆けつけた時、父は個室に移されていてチューブと計器に包まれるようになっていた。
父の表情は昨日までとは一変していて、すでに意識はなく、酸素が送られる音と競うような呼吸音だけが生きていることを示していた。
二日後、一度も意識を取り戻すことなく、家族たちに見守られて八十七年の生涯を終えた。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます