雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

ラスト・テンイヤーズ   第三回

2010-01-04 15:55:02 | ラスト・テンイヤーズ

   第一章  ある男の生涯  ( 2 )


時代は昭和へと移り、良夫は十九歳で結婚しました。
妻に迎えたのは、同じ長屋に住むおかみさんの妹にあたる咲という女性でした。


咲の故郷は四国のほぼ中央に位置する山間の村でした。
小学校卒業してから間もなく、大阪南部の町に住んでいた姉を頼って実家を出ました。三人いる姉たちはいずれも大阪周辺で結婚していて、しばらく紡績会社で寄宿舎生活をしたあとは、姉たちの家事を手伝うような生活を送っていました。


ちょうどその頃は、神戸で所帯を持っていた姉が出産したことから家事を手伝っていました。その家が良夫の家のすぐ近くで、どうやら良夫の方が見染めたらしく、良夫の父と咲の姉が話し合って結婚が決まったようです。
良夫は大柄な方ですが咲は小柄で、年齢は咲の方が半年ほど上でした。


結婚間もなく徴兵検査があり、良夫は入営しました。新妻となった咲は、姉の家で寝泊まりしながら、日中は舅の世話や家事をするという生活を送ることになりました。二人が新婚生活らしい形になるのは良夫が除隊してからのことでした。


一方で、世相は険しい状況に動いていきました。
昭和二年には金融恐慌が発生しました。そして、昭和四年十月に起こったニューヨーク株式市場の大暴落が世界恐慌の始まりとなりました。
翌年にはその荒波がわが国にも押し寄せ、昭和恐慌といわれる大不況に突入していきました。良夫が相続した預金も、銀行の倒産などで少なからぬ被害を受けたようです。


しかし、厳しい世相の中で二人の家庭は順調に成長していきました。二人の女の子が誕生したあと、家が狭くなったこともあり転居を計画しました。


良夫が転居先に選んだ土地は、神戸市の北端に近い辺りでした。
現在は立派な住宅街になっていますが、当時はまだ開発されておらず、山の中といえるような場所でした。
なだらかな土地ですが、ほぼひと山を購入したのです。その一部は住宅地として造成されていましたが、過半は雑木林のままでした。
周囲には、ほぼ同時期に開発された住宅が十軒ばかりあるだけの淋しい所でした。


工場に通うのにもずいぶん不便になるのに、良夫がそのような所を選んだのは、土をいじるような生活がしたかったからのようでした。
生まれた環境や仕事内容とは結びつかないもので、何が切っ掛けになったのかについては語ることがありませんでした。


新しい家に移って数年のちに、父親が六十九歳で亡くなりました。一方で、子供はさらに三人が生まれ五人になりました。
彼が誕生したのは、良夫の父親が亡くなって間もない頃、日本が真珠湾攻撃を断行することになる一年ほど前のことでした。


*     *     *


戦争は多くのものを奪っていきました。
多くの人の命を、多くの財物を、そして多くの秩序を・・・。


この敗戦が、古い因習や歪んできていた秩序や体制などを消し去ることになったという意見があります。
結果論としては、そういうことも言えるのかもしれませんが、混乱の中で何の対抗手段も持たない庶民にとって、その打撃は計り知れないほど大きなものでした。


良夫も、多くのものを失いました。
預金は封鎖され、支払われるようになっても凄まじいインフレが襲いかかり、戦前の金融資産など殆んど紙くず同然の有様でした。
満期になれば相当の資産になると思い、無理して掛け続けていた生命保険も支払い余力がなくなり解約しましたが、二十年近く掛けていた返戻金で長靴一足が買えなかったそうです。


終戦の時、良夫には五人の子供がいました。一番上が十三歳、一番下は初誕生を迎えたばかりで、彼以外は女の子でした。

家族はたちまち生活に窮しました。
勤めている会社は大企業でしたが、軍需産業の代表のような存在で、敗戦と共に仕事がなくなり、外地からは社員が続々と帰ってきていました。
給料の遅配こそありませんでしたが、一か月の給料で一週間分の食料さえ買えない状態になっていました。


少ない賃金の上、食料の不足は現在からは想像もつかないほど厳しいものでした。
終戦後僅か数か月で、良夫の蓄えは底をつきました。残っているものは住居だけとなり、生き延びるために売却を決意しました。
しかし、苦しい生活は誰も同じで、買い手はなかなか見つからず、知人に声を掛け回ってようやく売却できた値段は泣きたいほどのものでした。


不便な場所とはいえ、雑木林のままの部分も加えれば千坪程あったようですが、受け取れた現金は家族が何とか当座を凌げるほどでしかありませんでした。
それでも売却に踏み切ったのは、すでに明日の食べ物にさえ困る状態に追い込まれていて、選択の余裕などとてもなかったからです。


住居を手放した一家は、咲の姉を頼ることになりました。
二人が結婚する切っ掛けになった神戸にいた姉は、終戦の少し前に故郷に帰っていました。姉の夫も同じ村の出身者で、神戸の港湾関係の会社に勤めていましたが、戦況が厳しくなるにつれて仕事が少なくなり、解雇されたのを潮に故郷に帰っていました。


姉の夫の実家は代々農業を営んでいましたが、山村の小農では一家が生活することが厳しく、年寄り夫婦だけ残して神戸で生計を立てていましたが、失業後再就職が難しく僅かな農地を頼りに帰郷していたのです。


良夫は、自分だけ工場の寮に入り、家族はこの姉の世話になることを決断しました。
村の生活も楽なものではありませんが、最低の食料は何とかなりそうなのが決断の理由でした。神戸ではすでに最低限の食料さえ入手するのが難しい状態で、特に五人の子供を育てていくのは困難に思えていました。
住居を手放したのも、生活が成り立たなくなってきたからですが、一時的にでもこちらへ来るようにと姉夫婦が誘ってくれていたことも、決断できた理由の一つでした。


咲と子供たちは、姉夫婦の家に同居させてもらうことになりました。
その家もずいぶん古いものでしたが、農家だけにそこそこの広さがありました。
姉夫婦も家族が多かったのですが全員が一階に移り、二階を咲と子供たちのために空けてくれました。

二階は、納戸になっている部屋以外は、昔は蚕を飼っていた場所なので、床は板敷きで天井は低く窓も小さなものでした。
床には粗い筵を敷き詰めて、その上に薄べりを敷いて畳の代用にしました。それで、住まいを手放した母子六人が雨露を凌ぐには十分でした。


姉の夫の父は大分前に亡くなっていて、年老いた母が一人で田畑を守っていましたが、かなり荒れていました。
姉夫婦と咲が加わわったことで田畑は整備されていきましたが、もともと一家が食べて行くだけの農地はなく、水利の枯渇もあって米は殆んど作れない状態でした。


それほど広くない庭にも、農作業に必要な場所以外には野菜や豆を植え、遠くの山まで枯れ木を拾いに行ったりもしました。
両方の子供たちも、農作業を手伝ったり、家事を分担したり、幼い子供の面倒をみたりと、総動員で日々の生活に立ち向かいました。


神戸に一人残った良夫も、工場内の粗末な寮に入り仕事がある限り残業を続けました。
そして、懸命の努力が実り、一年余り後に家族が一緒に暮らせるようになりました。かねてから会社に申請し続けていた社宅が割り当てられたのです。工場から離れていますし質素な作りの住宅ですが、希望者が殺到していることを考えれば、実に幸運なことでした。


長女が入学の決まっていた女学校を断念するなど、子供たちの教育面での犠牲もありましたが、姉夫婦に助けられながら、終戦直後の最も厳しい時期を餓えることなく乗り超えることができたのです。


*     *     *


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