雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

小さな小さな物語 ・ 目次

2010-01-07 12:07:57 | 小さな小さな物語 第一部~第四部

  小さな小さな物語 ・ 目次 (No.41 ~ No.60)


         41.  奇跡と偶然
     42.  小さくても一人前
         43.    抜群の組み合わせ
         44.    心の在り処
     45.    究極の錬金術


          46.    上手に休みましょう
       47.    「さようなら」の前にあるもの
      48.    つつましやかな みどりの日
      49.    里山 里海 里心
      50.    母の日には母のことを


     51.    ミツバチよ お前もか
     52.    「いつまでも」って、いつまで?
     53.    進化と神化
      54.    桃栗三年柿八年
     55.    失われた富


       56.    あこがれ
    57.    心にかなはぬもの
    58.    祇園精舎の鐘の声 
    59.    眠りましょう
    60.    数字の魔力

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奇跡と偶然 ・ 小さな小さな物語 ( 41 )

2010-01-07 12:04:00 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
奇跡に直面したことがありますか?
この質問に迷わず「はい」と答える人はそう多くないと思われます。ところが、奇跡的な出来事に直面したことがあるか、ということになりますと「はい」という人は多くなります。
奇跡と奇跡的とは差があるようでして、もしかすれば「似て非なるもの」なのかもしれません。


いやいや、奇跡というものに私たちは意外に遭遇しているものだ、という意見もあります。
偶然が二回続けば、それは奇跡的なことで、三回・四回となれば、それはまさしく奇跡だというのです。さらに、奇跡的なことなら、二回続けば奇跡になるそうです。
つまり、偶然が二つで奇跡的になり、奇跡的が二つで奇跡になるというのです。
何だか江戸時代の貨幣の単位のようなこの理論、どう思われますか。


一方で、偶然を経験したことがあるかという質問には、多くの人がためらうことなく「はい」と答えるようです。偶然の垣根は、奇跡より相当低いようですね。
しかし、この偶然というものも本当はもう少し起こりにくいはずなのに、思い違いから偶然とされているようなものが多いようです。
例えば、これは「毎日新聞の余禄」欄からの拝借ですが、四十人のクラスで誕生日が同じ日の人がいる確率は、約九割になるそうです。
子供の頃、同じクラスに誕生日が同じ日の子が一組でもいると偶然だと思ったものですが、これなどは偶然でも何でもなく当たり前のことなのです。むしろ、同じ誕生日の子が一組もいないことの方が珍しいのです。


このように、奇跡というものは別格としましても、奇跡的も偶然も少し厳格にとらえれば、そうそう頻繁に起こるものではないようです。
私たちの日常は、殆どが、普通の出来事・当然の出来事・必然の出来事が繰り返されているようです。
わが国には八百万の神々が居られると以前に書きましたが、偶然のラッキーや奇跡的な逆転はあまり期待せず、地道な生活を心がけることが大切なのでしょうね。

( 2009.04.13 )
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小さくても一人前 ・ 小さな小さな物語 ( 42 )

2010-01-07 12:02:32 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
桜前線が話題になり、開花予報や満開の便りなど桜の便りが賑々しく伝えられていましたが、当地のソメイヨシノはすっかり葉桜となり、入れ替わるように八重桜が主役に躍り出てくるところです。
関東以北などは、これからが桜の季節でしょうから桜前線はまだまだ健在というところでしょうか。


わが家のまことにささやかな庭も、季節の移り変わりを正直に伝えてくれています。
梅も桜もないわが家の庭の主役は、ホームセンターで買ってくる草花なので、季節の微妙な変化など感じることなく過ごしてきたように思います。


しかし、ちょっとその気になって見てみますと、何の何のしっかりと季節の移り変わりを反映してくれているものです。
何年か前に鉢植えから地植えに昇格させた藤の木は、場所がないため出てくるつるは次から次と切られてしまいますが、いま見事な満開の房をたくさんつけています。二年前に種をまいた、おだまきも今年は花をつけてくれました。姿を消していたダリアやユリも黄緑色の新芽をあちらこちらに見せてくれています。
それに何よりも、気まぐれに植えられた草花を鍛えているかのような雑草たちが力強く成長していて、春が深くなっていることを教えてくれています。


気候の不順が伝えられることの多い昨今ですが、わが国の四季の移り変わりはありがたい自然の恵みだと思います。
新緑の候から、アヤメ、ボタン、シャクヤク、シャクナゲ・・・、と次から次へと季節の便りが伝えられてきます。
しかし、わが家のようなささやかな庭でも、その気にさえなれば世界に冠たる四季の変化という自然の恵みを感じることができるように思います。
いくら小さくても一人前に季節を表現してくれています。

( 2009.04.16 )
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抜群の組み合わせ ・ 小さな小さな物語 ( 43 )

2010-01-07 12:01:11 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
抜群の組み合わせって、ありますよね。
テレビで漫才や落語を見ることがよくあります。上手い漫才の条件には、個々の能力やネタの面白さも重要ですが、コンビ同士の組み合わせが何より大切だと思われます。


これは漫才に限ったことではなく、テレビの番組だけでも、サスペンスドラマの主人公とその助手、ニュースキャスターとアシスタントなど数え上げればきりがありません。


子供のころ覚えた童話などもそうですが、かつて、かなり真剣に興味をもったものに、桃太郎の家来たちがあります。
桃太郎のお供は、ご存知のように、イヌ、サル、キジですが、これがなかなかの組み合わせなのです。
イヌは勇気を表し、サルは知恵を表し、キジは情報能力を表していると、そのころ何かで読んだ記憶があります。
三人のお供にそれぞれ特技を持たせるなど、大変工夫されたキャスティングだと思ったこともありましたが、でも、それほど考え抜いた結果ではないようにも思うのです。
だって、このお供、「ネ、ウシ、トラ・・」と続く干支の中から「・・サル、トリ、イヌ・・」の部分を頂戴しただけのように思うのです。


まあ、あげ足を取るようなことはともかくとしまして、組み合わせというものがいかに大切かということは確かなことだと思うのです。ドラマであれ、漫才であれ、童話であれ、組み合わせの良し悪しで作品全体のレベルを左右してしまうと思われます。
さて、そこで、わが家族の組み合わせや如何に、と考えてみました。確かなことは、その組み合わせの良し悪しが人生の多くに関わってくるということは言えます。ええ、結論はそれだけですよ。
ただ、蛇足ながら加えるとしますと、名人といわれる漫才コンビが私生活では必ずしも仲が良いわけではなく、お互いが大変な努力をしてコンビを守っているという話を聞きます。
また、桃太郎の原作者に聞いたわけではないのですが、お供を単に干支から選び出しただけだといっても、イヌ・サル・キジは抜群の組み合わせで、ネズミ・ウシ・トラでは様にならず、同じトリでもニワトリでは鬼退治には不向きなように思われます。
抜群の組み合わせには、それなりの努力や工夫が必要なようですね。

( 2009.04.19 )
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心の在り処 ・ 小さな小さな物語 ( 44 )

2010-01-07 11:59:58 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
「こころ」って、何処に在るのでしょうか。
子供の頃、友達と心の在り処について議論したことがあります。
結論をはっきり覚えているわけではないのですが、胸、心臓、脳、という意見が多く、他にも、身体全体とか、どこか分からないが身体の部分ではない何か、というものがありました。
どんな場での議論だったのかも忘れてしまいましたが、なかなかレベルの高い議論だったと思うのです。今考えてみても、私にはこれ以上の答えが出てこないのです。


例によって広辞苑の力を借りてみますと、心の語源は禽獣などの臓腑の姿からきているらしいのです。
少々驚きですが、その語源となるものから転じて、人間の内臓の通称となり、更に精神の意味に進んだ、とあるのです。
現在では、精神作用のもとになるもの、と位置付けられていて、肉体と対称のものとして考えられていると思われます。


このように、広辞苑の力を借りましても心の在り処を確定させるのは難しいのですが、私たちが日常使っている言葉から推理していきますと、「胸」が「心」と同じように使われることが多いようです。たとえば、胸が騒ぐ、胸が熱くなる、胸が痛むなど心と同義語と思われるものがたくさんあります。
それでは「胸」が正解かといえば、それがまた難しいのです。そもそも、この「胸」とは何のことかという問題にぶつかります。単に腹の上の部分を指しているとも思えませんし、心臓でもないと思うのです。
結論は、子供の頃と全く変わらない答えに行き着きました、ということです。


長い年月を生きてきて、それなりの経験も積んできたような気になっていても、「心の在り処」一つ取りましても、人間の成長などこの程度なのかと複雑な気持ちです。
ただ、成長は僅かでも、変化は大きくしていますよ。
切ない恋に「胸を痛めた」昔もありましたが、今では「胸が痛く」なると心筋梗塞を疑ってしまうのですから。残念ながら・・・。

( 2009.04.22 )
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究極の錬金術 ・ 小さな小さな物語 ( 45 )

2010-01-07 11:58:46 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
錬金術とは、古代エジプトに起こりアラビアを経てヨーロッパに伝わった原始的な化学技術をいいます。中国などでも同様の試みがなされていたようですが、鉄・鉛などから金や銀に変化させたり、不老不死の万能薬を製造するための技術のことです。
これらの研究は大変まじめなもので、残念ながら研究はことごとく失敗に終わりましたが、種々の化学物質を取り扱う技術の発達に役立ったのです。


しかし、これが錬金術師ということになりますと、こちらは詐欺師とほぼ同様の言葉として使われています。
近代化学の基礎が確立した後は、鉄や鉛から金が作り出せないことは常識となったのですが、それを承知の上で「まがいものの金」を作り出すことで一儲けしようとする輩を指すからです。
最近では、もっと現代的な錬金術師たちが肩で風を切って跋扈しています。
使っても使っても減らない疑似通貨を考え出した人。世間の常識の数十倍の利益を上げることができる投資物件を構築した人、いつまでも走り続けられるはずだという自転車操業を立ち上げた人、投資者が無限に増え続けさえすれば素晴らしい組織である「ネズミ講」・・・。有能な悪は後を絶ちません。


しかし、錬金術まがいのものがすべて詐欺行為かといいますと、必ずしもそうとは言い切れないのです。
現に、わが国にはこの恩恵を受けている人が大勢います。
金額に若干の不満はあるとしましても、死ぬまでほぼ一定金額を受け続けることができる制度というものは、錬金術以外の何物でもないはずです。
長い間保険料を払ってきたからだという意見もありますが、どんな錬金術でもそれなりの資金投資は必要なのです。


わが国の年金制度の危機がいわれ始めてから久しいですが、なお安心させてくれるような解決策はまだ確立されていないようです。
わが国の年金制度を危うくしているものは、人口の減少と不加入者の増加です。
今躍起になって調査されている管理の不備などは論外で、少しばかりまじめな人材を投入すればそう遠くない日に解決されるはずですが、加入者減の問題は重要です。
そもそも、年金制度には多額の国費が投入されているのですから、不加入者が増えれば年金会計は豊かにならないとおかしいのです。やがて不加入者の老後の問題は顕在化してくるでしょうが、年金会計は加入者が減るほど国庫負担が楽になるはずです。そうならないのは今の年金制度に致命的なミスがあるからなのです。
今の年金制度では人口減を含め加入者の減少が制度を危ぶませる仕組みになっています。これは、ネズミ講と同じ仕組みです。ネズミ講による犯罪組織も出資者が増え続けている間は安泰なのですから。
わが国の年金制度が、高齢者福祉を支える究極の錬金術なのか、ネズミ講と同じ類の錬金術師によるものなのか、まさに正念場だと思いませんか。

( 2009.04.25 )
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上手に休みましょう ・ 小さな小さな物語 ( 46 )

2010-01-07 11:57:36 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
いよいよゴールデンウィークです。
中には既に長期連休に入っている会社も少なくないとか。今年は、世界的な不況からあまり歓迎できない長期休暇も多いようで複雑な面を持つゴールデンウィークになるようです。
それでも、高速道路料金の割引や定額給付金の支給、航空運賃の実質的な値下げや円高の影響などもあり、交通機関や行楽地などではかなりの混雑が予想されているようです。


百年に一度の大不況といわれながらレジャーを楽しむ人も多いということは、わが国全体としてはそれほど深刻ではないということなのか、それとも、私たちには休養するということが大変重要なことだということなのか、どちらなのでしょうか。
いずれにしても、私たちにとって「休む」ということは大切なことです。
肉体的な疲労の蓄積は大病のもとですし、精神的にストレスの蓄積はもっと深刻なダメージを私たちに与えます。それらの蓄積を緩和させるために上手な休み方を身につけたいものです。


ところが、この「上手に休む」ということは、なかなか難しいことのようです。
例えば、疲れたから眠ればよい、といっても、眠るということもなかなか体力のいるものでして、赤ん坊が暑い中で大汗をかきながら寝ていることがありますが、大人にはそんな体力はありません。それに、いつもいつも疲れを睡眠だけで解決させるのは後ろ向きすぎます。
趣味に没頭することが心身のリフレッシュに役立つといわれています。これは正解のように思うのですが、「世の中で一番不幸だというような顔で走っている市民マラソンのランナー」「青菜を育てているのかモンシロチョウを育てているのか分からない趣味の園芸作業の途中で、しきりに腰をたたいている人」「往復五時間の乗り物を使って二時間のハイキングを楽しむ人」「大渋滞の中をがんばるドライブ旅行」などなど・・・。
嫌味を言うのが本文の目的ではないのですが、上手に休むということはなかなか難しいことです。


これは大分前に、相場の世界で成功しているという人物から直接聞いた話ですが、「相場で成功するのは簡単なことで、安く買って少しばかり高く売るだけのことだから。そこで何より大切なことは、休むということを忘れないこと。売買の繰り返しだけで成功した人を見たことがない。成功する人は休むことの重要性を知っている。ただ、哀しいかな、自分も含めて、重要性を知っていても、少し成功すると休むことを忘れてしまう」
名言だと思いませんか。
上手に休むということはこれほど難しいことなのですが、まあ、とりあえずのんびりした時間を持つことから始めましょう。

( 2009.04.28 )
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「さようなら」の前にあるもの ・ 小さな小さな物語 ( 47 )

2010-01-07 11:56:05 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
日本語には、美しい言葉がたくさんあります。
我ながら素晴らしい書き出しだとだと思うのですが、こんな書き出しを使えるのは外国語を、それも二つや三つの外国語を知っている程度では資格がないのでしょうね。
さらに、言葉には辞書に載っているような本来の意味に加えて、その国の歴史や文化、各人の生い立ちや人生観まで加味しなければ、ある言葉を正しく理解することなどできないのかもしれません。


しかし、日本語だけしか理解できない私でも、それもかなりあやふやな知識を基にした日本語しか使えない私ですが、美しい言葉ってあると思うのです。
ありがとう、おはよう、おかげさまで、などという日用語もそうですし、美しい、優しい、穏やか、たおやか、など形容詞という言葉の通り実に素晴らしい言葉がたくさんあります。
さらに、方言などには、標準語ではとても表現できないような味わい深い言葉があるようです。
もちろん人それぞれに好き嫌いはあるでしょうが、どなたでも素晴らしいと感じている言葉の十や二十は簡単にあげられるのではないでしょうか。


「さようなら」という言葉も、素晴らしい日本語ランキングがあれば上位入賞間違いない言葉だと思うのです。
「さようなら」は漢字書きすれば、「左様なら」となるように、「さようであるならば」といった接続語から転じてきた言葉です。従って、本来は言葉の前に何らかの意味や目的のある言葉があって、「・・・、左様ならば、これにて失礼つかまつる」といった具合に使われていたようです。
また、別れの挨拶言葉としては、世界的にみてかなり特殊なもののようなのです。多くの国では、お元気で、ご機嫌よう、また会いましょう、神のお加護を、といった意味を持つ言葉が別れの言葉の主流のようで、さようならに類似するようなものは見当たらないようなのです。
もちろん私たちも、「お元気で」「またね」などと多くの別れの挨拶語をもっています。でも、主役はやはり「さようなら」です。


最近、お見舞いなどで病室を訪れる機会が多いのですが、入院中の人に対して「さようなら」という言葉を使っている人があまりいないのに気がつきました。皆無というわけではないのですが、私が経験した限りでは極めて少ないと思います。
私たちは、「さようなら」という言葉を独立した美しい別れの言葉として認識していると思うのですが、そのどこかで何とも奥深いものを無意識に感じているのかもしれません。
新緑燃え上がるばかりの五月、そして、ゴールデンウィークの真っただ中、すべてが活動的に見えるこんな時にこそ、「さようなら」という言葉の前にあるものを思い浮かべてみるのもいかがでしょうか。

( 2009.05.01 )

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つつましやかなみどりの日 ・ 小さな小さな物語 ( 48 )

2010-01-07 11:54:42 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
本日五月四日は、みどりの日です。
もちろん、ご存知ですよね。自然に親しむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ日、だということを。
わが国の国民の祝日は全部で十五日ありますが、年の初めとかお彼岸といった伝統的な生活に密着したような日が多い中で、高邁な目的のために定められた貴重な祝日だといえます。


ところが、どうもこの祝日、何故かつつましやかな性格らしくあまり目立たない存在なのです。
そもそも制定の経緯からして、四月二十九日だったものが本日に移ってきたのですが、その理由や根拠は今一つ分からないのです。単に祝日を一つ作るのが目的で、みどりの日とすれば反対する人も少なかろうといった程度の理由で制定されたのではないかと疑ってしまうほどです。


ゴールデンウィークと呼ばれる大型連休の中でも、憲法記念日や子供の日はそれなりの行事は多いのですが、四日はどうも静かな感じです。
私的な行事でも、四日は連休の真ん中のため、この日に行うのは嫌われるようです。
緑という色も、信号機の色はいまだに赤・青・黄といわれていますし、緑を代表すると思われる若葉の色も、青葉若葉というように青に占領されています。


この色の表現については、古代の日本人には、白・黒・赤・青の四つしか表現方法がなかったため、緑も青と表現されていたようなのです。
つまり、緑という表現はまだその歴史は新しく、発展途上なのです。また、新芽や若葉に見られるように生命力の色であり、目に優しく気持ちを穏やかにしてくれる色でもあります。
私たちは制定の意味をもっと大切にして、このつつましやかな祝日を大切に送りたいものです。

( 2009.05.04 )
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里山 里海 里心 ・ 小さな小さな物語 ( 49 )

2010-01-07 11:53:19 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
大型連休も昨日で一段落しました。最終日の昨日も道路や交通機関は混雑し、海外旅行者の帰国ラッシュも激しかったようです。
今年は、高速道路料金の割引制度、不況からくる超大型連休が多かったこと、その上に新型インフルエンザ騒ぎが加わって、例年とは様子が違う面も見られました。


多くの人がレジャーを大いに楽しむゴールデンウィーク、国民行事としてすっかり定着したようです。
海外や国内の観光地やレジャー施設を求めて、この期間に旅行する人の数は、遠近すべてを合わせると膨大な数になるのでしょうね。
早くから練りに練ったプランに基づいて、魅力ある土地に旅立っていったのでしょうが、しかし、この期間に自宅を離れた人の最大の行き先は、実家であるとか故郷の町だったのではないでしょうか。


小さな子供のいる家族なら、素朴な自然の中で子供と一緒に遊んだり、日頃忘れてしまっていた風景がいやに懐かしかったり・・・、そのような経験をされた人も多いのではないでしょうか。
お正月やお盆は、旅行者より帰郷者の方が断然多いのはわかるのですが、ゴールデンウィーク期間でも意外に帰郷する人が多いようです。


旅行から帰ってきた家族にインタビューしている様子がテレビで報道されていました。その中で、「何が美味しかったですか?」という質問に、少し考えてから「焼きおにぎり」と答えている子供がいました。実にほほえましく、嬉しくなってしまいました。きっと、穏やかな里山や里海で遊んで、ほんわかとした里心を満喫してきたのでしょうね。

( 2009.05.07 )
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