雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

小さな小さな物語 ・ 目次

2010-01-16 14:06:17 | 小さな小さな物語 第一部~第四部

   小さな小さな物語 ・ 目次 ( No.101 ~ 120 )


   101  虚しい努力でも・・・
   102  欲しい欲しい病  
   103  本当に貧しいのか?
   104  秋は月
   105  虎の心


   106  幼き命
   107  それぞれの命
   108  いとおしさの定義
   109  一年という期間
   110  空前絶後


   111  どうして?
   112  時には夜空を仰いで
   113  二重星
   114  仕分け人って?
   115  学びて時にこれを習う


   116  失われゆくもの
   117  遥かなる友よ
   118  つぼみ固し
   119  少し遅れて
   120  明け六つの頃

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

虚しい努力でも・・・ ・小さな小さな物語 ( 101 )

2010-01-16 14:04:22 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
新型インフルエンザの患者が増えており、大流行が懸念されています。
いよいよワクチン接種が始まるということも話題になっています。この新型インフルエンザ、旧来型より強烈というわけではないようですが、発症者が幼児や若い人に多いという極めて深刻な特徴を持っています。
ワクチンを始めとして有効な医療体制が確立されることを祈るばかりです。


かつて、わが国では肺結核は助からない病気として恐れられていました。
世界の歴史を見ても、ペストやスペイン風邪なども人類の危機としてとらえられたようです。
最近でも、癌やエイズ、あるいは心の病に起因する諸問題などが人類にとって克服すべき難問と考えられています。
また、病気ばかりでなく、戦争やテロ、麻薬や化学兵器なども同様に大変不幸な状況を生み出しています。


しかし、現在の人類にとって克服すべき最大の問題は何かといえば、食料問題に他なりません。
これは、十月十六日が「世界食料デー」とされていることから、各紙に載せられている記事を参照させてもらっているものですが、世界の人類の死因の第一位は飢餓によるものだそうです。
毎日二万五千人以上の人が飢餓状態で命を落としており、さらにその危険のある飢餓人口は直近の一年間でも一億人以上増加していて、今年末には十億人を超えるというのです。


人類は、多くの難問に直面するために知恵と情熱を傾けて立ち向かってきました。
完全に克服できた難問はおそらくないのでしょうが、相当の成果を上げ、あるいは受け入れることによって衝撃を和らげてきたものも少なくありません。
しかし残念ながら、食料問題に関する限り、解決どころか改善の端緒さえつかめていないように思われます。
正直なところ、私たちにとって飢餓という状態は切実な問題として伝わってきません。生活が苦しいとか老後の不安とか、毎日の生活は不満だらけです。しかし、餓死などということは、ごく特殊な例を除けば身近な問題ではありません。
けれども、わが国の食料自給率は40%そこそこです。残りの60%は、もしかすれば飢餓状態にある人々に分配される可能性のあるものを取り上げてきているのかもしれません。
盗んできているわけではなく、ちゃんと対価は支払っている、と胸を張っていてよいものなのでしょうか。
パン一つ節約したところで、あるいは一食抜かしたところで、十億の飢餓人口を救えるわけではありません。所詮虚しい努力かもしれません。
しかし、いくら虚しい努力でも、私たち一人一人が何かをしなければ、そう遠くない日に飢餓問題が全世界の人々の問題になってくるのではないでしょうか。

( 2009.10.19 )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

欲しい欲しい病 ・ 小さな小さな物語 ( 102 )

2010-01-16 14:02:35 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
十月十六日が世界食料デーだということを前回のテーマにさせていただきましたが、新聞などの報道も、当日は若干の紙面を割いていましたが、次の日からは目立った記事は見られません。
やはり、わが国では飢餓をテーマにしても読者の関心は得られないのでしょうか。


「衣食住」という言葉がありますが、かつては生活の最も基礎の条件となるものを表現する言葉として使われていました。
子供の頃、衣・食・住というのが、重要な順に並べられているのか、単なるゴロの良さから並べられたのか議論した記憶があります。他愛もない話ですが、今になって真剣に考えてみますと、なかなか簡単に結論できないことのように思われます。


「衣食足りて礼節を知る」という言葉がありますが、この言葉によれば「住」より「衣食」の方がより生活の根源と考えられているように思えます。
「武士は食わねど高楊枝」とか「ボロは着てても心は錦」などは、食や衣を重要だと言っているのでしょうか、無くても耐えられると言っているのでしょうか。


いずれにしても、わが国においては、飢餓などは遠い国の物語なのでしょうか。
着るものは、もっともっと値段の高いものが欲しいという異常心理さえ押さえることができれば、寒さをしのぐのに困ることはまずありますまい。
住の問題も、先だって派遣契約を打ち切られ住むところが無くなったということが大きなニュースになるほどですから、ほとんどの人にとって雨露しのぐ家には困っていないのでしょう。
単に衣食住に限らず、わが国の過半の人にとっては、何とか生きて行くには困ることなどなく、飢餓問題など考える必要性など感じないのでしょうね。
それでいて、心豊かな生活でないと訴える人が非常に高い比率を占める原因の一つは、もっと値段の高いものを、皆が持っているものは必ず手に入れたい、などという「欲しい欲しい病」が原因の一つなのかもしれません。

( 2009.10.22 )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本当に貧しいのか? ・ 小さな小さな物語 ( 103 )

2010-01-16 14:01:27 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
わが国の「相対的貧困率」は、OECD加盟三十カ国中高い方から数えて四位だそうです。
これは厚労大臣が発表したものですが、三十カ国中四番目に貧困率が高いと聞けば、少々ショックです。
ただ、この「相対的貧困率」という指標は、必ずしも国民生活の貧困度を表しているとはいえず、むしろ、所得格差を把握するために有効なように思われます。
その算出方法は、国民全員を所得の高い方から並べて(ベースは所帯の所得になるでしょうが)、その中間にあたる額の人を定め、さらにその人の半分以下の所得の人の割合を計算したものです。
2006年度のわが国の比率は15.7%、つまり七人に一人は貧困層に属しているというのです。
うーん、やはり少々考え込んでしまいます。


実質的な貧困率を測る指標としては「絶対的貧困率」というのがあります。
こちらの方は、算出方法が数多くあり、国家の状況や生活事情などもあって統一指標を定めるのは難しいようです。
その中で比較的よく用いられるのは世界銀行の定義によるもので、一日の一人当たり所得が1米ドルに満たない者、つまり2000年代初頭において、年間の一人当たり所得が370米ドルに満たない者を絶対的貧困者として定義しています。
年間370米ドルの所得といえば、為替変動や物価価値の問題もありますが、せいぜい年間5万円前後の計算になります。つまり四人家族で年間所得が20万円ほどということですので、貧困層といわねばならないでしょう。


「相対的貧困率」で貧困率が低位なのは、デンマーク、スウェーデン、チェコと続いています。
今朝のあるテレビ番組で、いかにこれらの国が豊かで、わが国は見かけだけで実質的には貧しいのだと強調されるコメンテーターがおりました。まあ、本当は承知の上で発言されているのだと思うのですが、相対的貧困率で国民生活の経済的な豊かさや貧しさを論じるのは、少々的外れな気がします。


北欧諸国の国民生活が豊かに見え、実際に豊かだと思うのですが、その理由の大きなものは、経済的なことにもあるでしょうが、それにも増して、社会や生活や生きがいなど、もっと違う部分での差が豊かな生活を生み出しているのではないでしょうか。
私たちの生活は、経済面からみる限りぼつぼつ満足すべき水準にあるのではないでしょうか。もちろん、逆境にあり厳しい経済状況の人も少なくないでしょう。しかし、トータルで見れば、食料にせよ、石油にせよ、もうこれ以上外から取り込んではいけないと思うのです。もっと心の面からの豊かさを求めなければ、データーはともかく、相対的な貧困感は消えることなどないと思うのです。 

( 2009.10.25 )
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋は月 ・ 小さな小さな物語 ( 104 )

2010-01-16 13:59:36 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
 『春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり』
この和歌は、日本曹洞宗の開祖、道元の作として大変有名なものです。わが国の四季の素晴らしさを見事に表現しているものとして紹介されることも多い作品です。
なお、最終句の「すずしかりけり」の意は、清浄である、クリーンである、といった意味で、前の四句すべてを受けています。


俳句では、月は秋の代表的な季語にあたります。古来、私達の祖先は秋の月をこよなく愛し、恋歌に用い、恋慕の対象に擬し、時には人生のはかなさを映してみたりしたのです。


今朝は、五時頃から散歩に出ました。まだ暗闇ですが、寒くもなくウォーキングには最適の季節です。
秋の最中とはいえ空には月はなく、快晴らしく明るい星がいくつも輝いています。その星空の中を、中点より東寄りの空を北から南に向かって赤味がかった星が瞬きながら動いていきます。おそらくあれは人工衛星なのでしょう。


人工衛星の流れを見つめながら冒頭の和歌を連想するのは、我ながら無茶だとは思います。
また、この和歌には「本来の面目」という題がつけられているようですから、単純に四季の姿を描いたものではないのでしょう。宗教的な、あるいは哲学的な教えが秘められているのでしょうが、それはそれとして、今が秋の真っ最中であることは確かです。
秋は月・・・、夜空はますます美しくなっていきます。紅葉も本格化してきます。
今年も残り少なくなってきたなどと言わないで、秋の最中の今を満喫したいものです。

( 2009.10.28 )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

虎の心 ・ 小さな小さな物語 ( 105 )

2010-01-16 13:58:14 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
ことわざや名言を集めた本を読む機会がありました。
ある言葉の出店を確認したかったからですが、ついつい他の項目にも目がいき、しばらくページを繰りました。


手にした本は、ごく小型のものでしたので掲載されている言葉の数は少なく、私ほどの年齢を重ねてしまうと、初めて目にするものは殆どありません。それでも、改めて読んでいくとそれなりに面白く、新しい発見もあります。特に、人間だんだん素直でなくなってくるものらしく、言葉の意味をそのまま受け取れない場合が増えてきます。
今回は、そのような観点からのお話です。


『虎は死して皮を残し、人は死して名を残す』
これは、中国北宋の政治家、欧陽脩(オウヨウシュウ)の著書「五代史記」の中にある言葉です。
言葉の意味は、虎は死後に立派な毛皮を残し、人は死して後に名誉や業績を残す、といったものです。すなわち、人は死後の名声を大切にせよ、ということであり、武士社会の時代には重要視された教えだったようです。


しかし、武士の心意気を持ち合わせていない私には、今回少々ひねくれた気持ちでこの言葉を読んでしまいました。
つまり、『人は死して名を残す』という部分はともかく、『虎は死して皮を残す』などということは、人間の物欲に寄与しているだけのことで、虎自身は、己の皮の敷物をいくら誉められても嬉しくもなく、名誉とも思わないことでしょう。
これと反対の意味で、名を残して死んだと自負したところで、他人はどう受け取るのでしょうか。いわんや、神のような存在からみれば、人の名誉や業績など、どの程度のものとしてみることでしょう。
今生の命が去った後、わが身が敷物となろうと名声として語り継がれようと、どうということでもありますまい。
今のこの命を、己に正直に、悠々と、生きて行くことを心がけたいと思うのですが、ついつい人のうわさを気にしてしまうことが少なくないのが現実でもあります。
立派な皮を残した虎の心は、どんなものなのでしょうか。

( 2009.10.31 )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幼き命 ・ 小さな小さな物語 ( 106 )

2010-01-16 13:57:14 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
昨日、赤ちゃんボックスに関するテレビ番組を見ました。
これはNHKの再放送番組ですが、かつて話題になった出来事がその後どうなっているかを追跡する内容で、今回は「赤ちゃんボックス」がテーマでした。


そういえば、この話題も赤ちゃんボックスが開設された当時は大きく報道されましたが、昨今ニュースとしてさえ久しく目にしていません。
当時、設置に踏み切った医師に対する称賛の言葉も少なくなかったのでしょうが、私たちが報道を通じて知る限り反対意見の方が多かったように感じました。
曰く、捨て子を容認するようなものだ、あるいは、ますます無責任な母親が増えるとか、極端な意見の中には、売名行為ではないのかというのさえありました。
あれほど声高にご高説を述べられた方々は、この件に関して現在どのように関わっていられるのでしょうか。


かく申す私自身、たまたまつないでしまったこの番組を観るまで赤ちゃんボックスのことなど全く忘れてしまっていました。
設置されたと報道された当時は、私自身も大いに関心があり、どちらかといえば設置に対して消極的な意見を持っていました。しかし、テレビなどの報道が少なくなるのに比例して関心は薄れていきました。当時、仲間内では正義感ぶった意見を述べあったりしたものですが、所詮興味本位の与太話だったといわれても仕方がありますまい。


今回の追跡番組によりますと、赤ちゃんボックスに託された幼い命は二年間で四十二人だそうです。
その数を多いと取るか少ないと取るか、また、託された子供たちはこの施設により命が救われたと取るか親子の絆を安易に打ち切られたと取るか、意見は様々でしょう。
番組は、看護婦長の方の経験を軸に進められていましたが、この施設に携わる方々の熱意とご苦労が胸が痛くなるほど伝わってきました。託された幼い命は四十二人ですが、苦しみ悩む母親の相談を受けることで事前に解決方法をアドバイスした件数はその三倍以上だそうです。
この施設の良し悪しはともかく、現在も多くの幼い命が虐待され、貧困にされされ、哀しい死を迎える命さえ少なくありません。
「その事実を放っておくことはできない」と言う、一こまだけ登場した院長の姿には千金の重みがあり、好き勝手な意見を述べてきたわが身が縮む思いでした。
傷つけられ失われようとしている幼き命、私たちも少しは関心を寄せるべきではないでしょうか。

( 2009.11.03 )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

それぞれの命 ・ 小さな小さな物語 ( 107 )

2010-01-16 13:56:15 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
前回の当コラムで、赤ちゃんボックスについて触れさせていただきました。その時のNHKの番組には、何人かのコメンテーターの方が出演されていました。その中のひとり人気タレントのHさんは、わが子をボックスに入れるという行為に対して大粒の涙を流されていました。


これは、全く私個人の考え方なのですが、テレビほどの番組にコメンテーターとして登場される人が、素人のゲストならともかく、番組で取り上げているものに対して、フィクションであれノンフィクションであれ、大仰に怒ったり泣いたりするのには好感が持てないのです。感情を素直に表現することも大切なのでしょうが、コメンテーターとはもっと冷静な対応が必要なのであって、大げさな感情表現は番組の効果を考えているように見えてしまうのです。
しかし、この時のHさんの涙には感動しました。


この方は大変人気の高いタレントさんで、この一年でテレビの芸能番組に登場した回数では相当上位にランクされるであろうと思われる人で、つい最近では、タイで行われたある美人コンテストで優勝したという話題の人でもあります。
私は、この方の大粒の涙が真剣に命の大切さを訴えている姿として伝わってきたのです。今は芸能番組では確固たる地位をつかんでおられるのでしょうが、これまで生きてきた道のりは、おそらくそれほど安易なものではなかったはずです。それだけに、まだ幼い命を赤ちゃんボックスという空間に託そうとすることに人一倍激しい怒りと悲しみを感じたのではないでしょうか。


前回のコラムと重複しますが、赤ちゃんボックスに幼い命を託そうと決断する陰には、様々な事情があるのでしょう。この施設を運営されている方々の勇気と献身によって救われている命も決して少なくないでしょう。
わが子を手放さなければならない辛い事情はともかく、幼い命は何としても守っていける社会でなくてはならないと思うのです。様々な事情があり、様々な環境にある幼い命があります。Hさんとて厳しい環境を強いられた命の一つともいえるのではないでしょうか。それゆえのあの涙、私はHさんのファンになりました。
いかなる環境や事情にあろうとも、幼いそれぞれの命があたたかく育まれる社会でありたいものです。

( 2009.11.06 )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いとおしさの定義 ・ 小さな小さな物語 ( 108 )

2010-01-16 13:55:05 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
わが家の庭は大荒れ。
小さな庭の粗末な花壇ですが、このところ少々他事に時間がとられ放置していたため、例年以上に荒れています。


それでも、気候の移り変わりとともにわがもの顔であった雑草たちも大人しくなり、その合間を縫うようにあちらこちらから球根が芽を出しています。放ったらかされていた鉢植えのクロッカスも可憐な花をつけています。
その中でも、植えたものや勝手に芽吹いたものを含めて菊が満開になっています。いずれも見苦しく下葉を枯らしていますが懸命に時の流れを伝えるかのように咲き乱れています。


菊花の大半は、薄いピンク混じりの白の小菊ですが、これはわが家の庭で三十年以上命をつないできているものです。庭のあちらこちらへ移され、時には全部抜かれてしまったこともあるのですが、春になるとわずかに残っていた根から芽吹き、次の世代を生かしてきたのです。今、荒れた庭を少しは手入れをしなくてはと考えながら、この菊の花に何とも表現しがたいいとおしさを感じています。


どんな言葉でも好き勝手に使っていいわけではないと思うのですが、「いとおしい」などという言葉もその類だと私は考えています。別に定義があるわけではありませんが、純粋に切ない部分で用いるのにふさわしい言葉だと思っています。
そして、背ばかり高くなり倒れかかりながら懸命に咲いている白い小菊は、私には限りなくいとおしく感じられるのです。

( 2009.11.09 )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一年という期間 ・ 小さな小さな物語 ( 109 )

2010-01-16 13:53:46 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
当ブログは開設一年を迎えました。
ブログという文化を全く理解できていなかった私が開設に踏み切ったのは、それまでに書き貯めたり構想していた小説を発表しておきたいと思ったのが切っ掛けでした。ただ、正直なところ、長続きはしないだろうなと予感しながらのスタートでしたが、とりあえずは一年続けることができました。


スタートに当たって、他の人のブログをかなり見て参考とさせていただきました。
そして、自分なりのルールを決めました。例えば、小説を発表するのが主目的ですので、文字だけで作成することにこだわり、イラストや写真は出来るだけ使わないこと。文字の色も単色を基本とすること。自分が書きたいものを出来るだけ正直に書くこと・・・。
他にもあるのですが、内容のレベルはともかく、カラー文字を使っている以外はまずまず実行することができました。


さて、ほぼ毎日発表しながら一年続けられたことは自分としては頑張れたと思っていました。今回のテーマとしたのも、その気持ちからです。
ところが、いざ書き進めてみますと、一年を長いというのは、いかにもふさわしい表現ではないと思えてきました。


さて、一年という期間をどう考えればよいのでしょうか。
自分の身で考えてみれば、生きてきた期間からみれば一年なんてあっという間ですが、残された時間を数えてみれば貴重な期間になってきます。天文学の時間を尺度にすればゴマ粒にも当たらない時間です。しかし、ブログを作っていく時間と考えれば、一日千字書いていけば三十六万五千字書くことができます。これは決して少ない量ではないでしょう。
ただ、書きたいことを好き勝手に書いていくのは楽しいものですが、うっかり当ブログを覗いてしまい義理で読んでいくには気が遠くなるほどの量かもしれません。
とりあえず次の一年は続けたいと思っていますので、忍耐の訓練と思ってお付き合いくださいますようお願いします。

( 2009.11.12 )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする