雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

加減乗除 ・ 小さな小さな物語 ( 441 )

2013-02-06 18:57:14 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
十月に入っても、なお台風の心配をしなくてはならない今年の天候ですが、北国や、山地などからは深まる秋の便りも伝えられ始めました。
日本列島は大変長いですから、それに島嶼(トウショ)を加えますと、その気候変化を簡単に表現することは難しいと思うのですが、本州中央部あたりでいえば、ここからのひと月余りが一年で最もさわやかな季節ではないでしょうか。
春にも同じような期間がありますが、さわやかさということでは秋のこの期間がまさっていると思われます。


最近、観光目的で京都へ行く機会がありました。現在だけでなく、私の生活圏からは京都は近い位置にありますので、訪れる機会は多く、今更わざわざ観光目的と言うのはピンとこないのですが、たいした目的もなく行ったのですから、観光目的ということになるのでしょう。
今回も、修学旅行生らしい団体の何組かに出会いました。京都ではどんな季節に訪れても一組くらいの修学旅行生に会うものですが、大分以前から何組かに分かれてタクシーで移動する修学旅行生が多くなっているように思っていたのですが、今回の何組かは、バスを連ねての移動のようで、とても微笑ましく感じました。
そんな生徒たちの会話に、こんなのがありました。
三十三間堂(蓮華王院)でのことですが、ここは、中央に大きな観音像(中尊)が安置されていて、その左右に五百体ずつの等身立像の観音さまが整然と祀られていることで知られています。
「本当に千体もあるのかな?」
「数えてみたら」
「うーん・・・。掛け算というものは、こういう時のために習ったのかな?」


何気なく聞いてしまった私は、あやうく吹きだしそうになりました。同時に、「不謹慎だ」などという感情は全く湧かず、むしろ微笑ましく好感を感じました。
確かに、私たちは算数や数学を通じていろいろな計算の方法を学びます。専門的なものはともかく、最も基本的な加減乗除といわれる計算方法でも、実社会においてどの程度利用されているのでしょうか。
特に現在は、電卓などというものがあり、それさえもほとんどの場合は携帯電話で間に合っているのでしょう。
実際に私たちの頭を使って、足したり引いたりにせよ、掛けたり割ったりにせよ、ごくごく簡単なものに限られるのではないのでしょうか。


それでは加減乗除など学ぶ必要はないのかとなれば、やはり必要だといわれる方が大半だと思われます。
いくらコンピューターが発達しても、その基本には加減乗除があるはずだという正論もありますが、人間の感情もこの原理で支配されている部分が多いという面からも学ぶべきだという気がするのです。
つまり、嫌なことは掛け算のように増えていき、大切なものは割り算のように失われていき、一つ一つ加えていくことの大切さを知った時には、一つ一つ失われている悲哀に耐えなければならないことを、私たちは実感しなければならないのですから。
こんなことを考える私は、観音様を数えてみようとする修学旅行生よりは、大分感性が衰えているのでしょうね。

( 2012.10.06 )
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既得権 ・ 小さな小さな物語 ( 442 )

2013-02-06 18:55:49 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
わが国経済は停滞あるいは後退状態に入ってから久しいですが、なかなか脱出の糸口が見つけられないようです。
いろいろな人や団体が工夫を凝らしてくれているようですし、時には政治指導者の方からもそれらしいことを聞くのですが、なかなか難しいようです。個々の企業や個人の家計では、とっくの昔に成長路線に転換させているところも多いのでしょうが、国家全体としては大した進展は見えていません。


いろいろな提言を見る場合、特にそれが国家全体の問題として提言される場合、必ずといっていいほど加えられている項目に「規制緩和」というものがあります。
この言葉も、耳にし始めてから久しいのですが、未だに提言の高順位に鎮座しているところを見ると、はかばかしい効果をあげるに至っていないのでしょうね。
その理由を考えてみますと、「規制緩和」というものは、つまるところは誰かから「既得権」を奪うことですから、そうそう簡単ではないのです。結局は、強い力を擁する「既得権」には手を付けることが出来ず、弱い勢力の「既得権」だけが奪われてきているのですから、それによって利を得る人より社会的弱者に陥ってしまう人の数の方が多いのですから、国家全体としては効果など期待できるはずがありません。
本来、「規制緩和」というものは、強力な権力を持つ少数の人からその既得権を奪い、それより遥かに大勢の人に利益を分配することに意味があるのですから。


しかし、「既得権」を失うということは、当事者にとってはなかなか厳しいものです。
ある団体が国や市町村などから補助金が減額されたり打ち切られたという話が時々話題になります。これまでのうのうと補助金を受け取っていたのだから、無くなって当たり前だと思う人も多いでしょうが、当事者やその周囲の人たちは、そうそう簡単なことではありません。
最近では、業績不振などを理由に、社員の年金が減額されるというニュースを何度か見ました。第三者として見ている分には、「そんなにたくさんもらっていたのなら、少しぐらい減ってもどうということはないだろう」と思ってしまったりするのですが、当事者にとっては、生活の立て直しに大変です。


最近、ベイス・オブ・ザ・ピラミッド(BOP)に関する報道を見る機会がありました。
BOPとは、経済的に最も貧しい層に対して、事業活動を通して貧困問題を解決するということからスタートしていて、この層を有力な市場として住民も事業者も利益を生み出そうとする考えのようです。
わが国は、この分野での活動が遅れているようですが、NPO団体などでは熱心に活動しているところもあるようです。
さて、そのピラミッドのペース部分とされる貧困層は、2007年の国際金融公社などの定義によれば、年間所得が3000ドル未満の人を指し、およそ40億人いるそうです。そして、その層の全購買力はわが国一国とほぼ同じ程度だそうです。
わが国の経済は停滞し、家計は苦しい状態が続いていますが、国家全体でいえば、BOPの人たちの30倍以上の消費をしていることになるのです。何もわが国だけではなく、先進国といわれる国の国民は同じような状態なのでしょうが、世界の人々皆が経済的に平等になるとすれば、私たちは現在の十分の一程度の消費で生活することに耐える必要があります。
さて、私たちに現在の生活を享受しているという「既得権」を放棄する勇気を持つことは可能なのでしょうか。

( 2012.10.09 )
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補助金 ・ 小さな小さな物語 ( 443 )

2013-02-06 18:54:30 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
山中伸弥教授のノーベル賞受賞、久しぶりに嬉しいニュースに出合うことが出来ました。
下馬評というものはかなり無責任なものですが、ノーベル賞に関しても世界中で自薦他薦の候補が数多く上がるようです。
山中教授の場合でも、昨年相当有力視されていましたが選に漏れました。その理由の最大のものは、過去の苦い経験も踏まえてか、ノーベル賞が選定にあたっては確たる実績が正確に確認されるまで相当の時間をかけるためのようです。今回の受賞は、山中教授の研究成果が発表されてから六年目ですが、これは異例というほどの速さのようです。


山中教授の人となりや家族構成など、数多くの親友や関係者がテレビに登場してきて紹介してくれています。どれもとても微笑ましく、いわゆる学者然としたものではない人間像が見えてきて、何だか嬉しくなってしまいます。
その中で、ご夫人が、「疲れていても走りたがりますので、街で見かけた時には注意してやってください」といった話をされていました。とても微笑ましい思いで聞いていたのですが、別の一面を知って愕然としました。
山中教授は何度かフルマラソンに出ているそうですが、ご自分の趣味ということもありますが、研究所への募金を呼びかけるというのが大きな理由のようなのです。全く愕然としました。


わが国は、研究者にとって恵まれた環境にある国家ではないようです。もちろん世界中の中でということになれば、上位の部類にあることは確かでしょうが、先端技術を開発している国家群の中では、研究者にとって極めて冷たい国家のようです。
山中教授の研究は、ノーベル賞受賞はそのスタートラインを表彰されたのに過ぎず、実用化への研究は世界中で凄まじい競争が展開されているそうです。その競争に勝ち抜くためには、山中教授のような天才的な人材が欠かせないことは絶対に必要な条件でしょうが、莫大な研究資金も欠かすことのできない条件なのです。あるテレビに登場していたゲストは、アメリカとの研究費の差は、「桁が違うどころか、二桁違う」と言っていました。
ノーベル賞学者に、募金のために走らせて良いのでしょうか。山中教授には、純粋に趣味として走ってもらいたいのです。


「補助金」とは一体何なのでしょうか。辞書には、「①不足を補うために出す金銭。②国または地方公共団体が行政上の目的を達するため、個人・民間団体・地方公共団体などに特別に交付する金銭」とあります。
そして、わが国の現実を見ますと、国や地方公共団体などは、「欲しければ足らない分を助けてやる」とでも思っているのではないかと感じさせられることが数多くみられます。
「自助努力をしなければ補助金を打ち切る」「一番でなければ駄目なのか」などというのは、そういう考え方が垣間見られる言動ではないでしょうか。また、復興予算の申請現場でも、これ以上の問答がなされているという報道もありました。
「補助金」とは、恵んでやるものなどでは絶対にないはずです。必要な部門で、積極的に活用していただくためのもののはずです。
山中教授の受賞は、わが国も『打たれっ放し』ではないということを教えてくれました。このかすかな望みの分野に、「積極的な補助金」の投入を計って欲しいものです。資金が無いなどと言わせませんよ。

( 2012.10.12 )


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言葉遊び ・ 小さな小さな物語 ( 444 )

2013-02-06 18:53:18 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
言葉遊びをしたことがありますか。
一口に言葉遊びといっても、回文などにはとても難しいものもありますが、例えば、なぞなぞや尻取り、早口言葉といったものであれば、レベルはともかくとして、子供の頃には殆どの人が経験しているのではないでしょうか。


洒落や語呂合わせとなると、場合によってはかなり高度なものも登場して来ます。
サラリーマン川柳というものがよく話題になりますが、毎年思うことですが、見事と言いますか、哀感溢れるものが多く、言葉遊びなどと言うと叱られるかもしれません。
第一、川柳は立派な文芸であって、俳句や和歌と同様に芸術の一分野というべきで、言葉遊びとして捉えるのはもってのほかだとお叱りを受けるかもしれません。
しかし、遊びといえば、ふざけたような部分を連想してしまいがちですが、芸術と同じように、遊びも人生の重要な一部分を担っているような気もするのですが。


十月十三日の毎日新聞朝刊の「余禄」欄に、こんなエピソードが引用されていました。
『 皮肉な警句で知られる劇作家のバーナード・ショーがノーベル文学賞に決まった時だ。「これは私には謎だ。確かに今年は何も書かなかったから、賞をくれたのだろう」・・・ 』
記事は、ノーベル文学賞に関する意見を述べられているものですが、一部を使わせていただきました。
この、バーナード・ショーの言葉を聞きますと、小説であれ、シナリオであれ、芸術でございますと余り見えを切られますと、少々ボリュームのある言葉遊びではないのですか、と反論したくなってしまいます。


最近では、大人の言葉遊びの主流は、ダジャレのような気がします。
実に幅広い人がファンのようで、思いもかけない場所で聞かされて、多くの場合は白けてしまいます。「うまいなあ」と思わせるようなダジャレもないことはないのですが、その殆どはご自分が傑作だと思っているだけで、聞かされる方は忍耐の訓練をさせられているような気持ちです。
大分前のことですが、ラジオ番組の中で、ある芸能人の人が実に名言を述べられていました。
「ダジャレというものは、周囲の愛情で成り立つものです」というのです。
つまり、お互いに気心が知れていて、信頼し合っている間でのみ、下手なダジャレも潤滑油になりうるのです。信頼感のない間では、ただただ、心の隙間風になるばかりなのです。
そういえば、最近は政界でも、ダジャレなのか言葉遊びなのかは知りませんが、結構流行っているみたいです。
例えば、「遺憾である」「しっかりと」「職責を果たす」「近いうち」「然るべき時」等々、ダジャレとしてはあまり良い出来ではないと思うのですが、聞き手とは信頼関係があるのでしょうか。それとも、ヒューヒューと寒い風になって相手の心に届いているのでしょうか。

( 2012.10.15 )




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健気な姿 ・ 小さな小さな物語 ( 445 )

2013-02-06 18:52:15 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
わが家の庭の酔芙蓉は、どうやら最盛期は過ぎつつあるようですが、依然いっぱいの花をつけています。
今朝咲いたばかりの白い花も三十ばかりあり、しぼんだ紅い花も同じ程度あります。蕾もまだまだ数えきれいほどありますので、全部が開花するかどうか分かりませんが、まだ暫くは見事な八重の花を楽しませてくれそうです。


酔芙蓉は、芙蓉の変種ですが、普通の芙蓉は一重が中心ですが、酔芙蓉は八重がほとんどのようです。大輪の八重の花は、朝は純白で昼頃には薄紅色となり、夕方には濃い紅色となって花を閉じますが、ほとんどのものはその状態で翌日も残っています。この色の変化が、お酒を飲んだみたいなのでこの名が付けられました。
中国では、もともと芙蓉といえば蓮の花を指します。水の中で花を咲かせますので水芙蓉といい、木に咲くものは木芙蓉と呼ぶそうです。
わが国には、平安時代にはすでに観賞され栽培されていました。淡い色の花は一日花で、その儚さが大宮人に人気があったのかもしれません。
ただ、この花は古くから栽培されていますが、異種が現れにくいそうで、酔芙蓉は数少ない異種にあたるわけです。


それにしても、酔芙蓉はどうしてこんなに沢山の花を咲かせるのでしょうか。
わが家の酔芙蓉は、もともと植木鉢で買ってきたものを庭に植えたのですが、秋の終りに丸坊主にする以外には何の世話もしないのですが、今年辺りは周囲の歌壇を覆ってしまって、とんでもない状態になっています。そして、毎日咲き変わってゆく花の数は、とても数え切れるものではありません。
植物が花をつける主な目的は、人間に見せるためではなく結実させ子孫を残すためのはずです。
園芸で酔芙蓉を増やす方法は挿木によりますが、花が終わった後も放っておけば、沢山の実を付けます。全ての花に実を付けるわけではないのでしょうが、写真で見ますと相当の数です。
酔芙蓉は、あの種の数だけ子孫を残そうという気持ちはないと思うのですが、自分の後に続くものを育てるには、毎年毎年、命の続く限り、あれほどの花を咲かせる必要があると考えているのでしょうね。


酔芙蓉に限らず、多くの草花は多かれ少なかれそうですし、ウミガメの産卵なども、あれだけ多くの卵を孵化させながら、成長してもとの海岸に戻ってくる亀は、ごくごくわずかだそうです。
ノーベル賞を受賞した山中教授は、会見の席で、研究は一つの成功のためには九つの失敗が必要なのだ、といった旨の話をされていました。この十に一つの成功というのは、おそらく研究テーマのことであって、個別の実験についていえば、それは気が遠くなるような試行錯誤の積み重ねなのだと思われます。
一つのことを成功させる、一つの命をつないでゆく、そこには懸命の努力が隠されていることなのでしょう。
好き放題に伸びて、華やかな花を付けている酔芙蓉が、とても健気な姿に見えてきます。

( 2012.10.18 )
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正否の基準 ・ 小さな小さな物語 ( 446 )

2013-02-06 18:51:17 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
前回の参議院選挙は違憲状態との判断が最高裁により下されました。
これにより、わが国の最高機関とされる国会の、衆議院の全議員と参議院の半数の議員は違憲状態の選挙により選出されたということになりました。
ごく素朴な疑問だと思うのですが、違憲状態で選ばれた人は、国会議員として一人前だと考えておられるのでしょうか。それとも、さすがに少々気が引けるため活動を抑えていて、現在の国会のような状態になったのでしょうか。


そもそも、国会議員を選出するルールを国会議員だけで決めるということに無理があるのではないでしょうか。いくらわが国の最高機関だといっても、互いの利害ばかり主張し合うだけで、国家・国民にとって優れている選挙制度や議員数の配分を真剣に考えるとは、とても思えないのです。
それでは、誰が決めればいいのか、となれば、また訳の分からないような有識者会議などといったものを作り出すのでしょうが、その撰定に、またまた違憲状態で選ばれた議員が主導権を握るのかと考えると、全くうんざりしてしまいます。
何が正しいのか、何が正しくないのか、どう考えればいいのでしょうか。


わが国周辺をめぐる領土問題が、きな臭い香りを運んでくるようになってきました。
それぞれが、それぞれの主張を持っており、歴史の記録などを展開させたりしていますが、そうなれば、いずれの国家も、数千年前の当時の先住民に国土のほとんどを明け渡さなければならなくなるでしょう。
現実の問題としてそんなこと出来ませんから、どこかの時点での所有権を優先させることになるのでしょうが、さて、どの時点にするのが正しいのか正しくないのか、これまた難しくなってしまいます。
結局領土の帰属は、武力以外では決着がつかないのだ、ということにならないことを祈るばかりです。


国内においても、難しい問題が数多く発生しています。
インターネットをめぐる脅迫事件は、大変な冤罪事件の発生を浮き彫りにしてしまいそうな雲行きになってきました。
家族をめぐる事件も、多くの悲劇を生み出しています。
復興予算の使途をめぐる問題などは、予想通りとはいえ腹立たしくなってきます。
どれもこれも、何が『正』で何が『否』だということがはっきりしていさえすれば、簡単に解決することが出来ると思うのですが、なかなかそうもいきません。
結局、『成否の基準』などというものは、強い者や声の大きい者の方向に傾くもので、それを容認し耐え忍んでゆくのが、私たちの社会というものなのでしょうか。

( 2012.10.21 )
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放射線治療 ・ 小さな小さな物語 ( 447 )

2013-02-06 18:50:11 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
放射線治療に関するお話を聞く機会がありました。
と言っても、あるテレビ番組の中で、専門家の方が素人に分かりやすく説明しているものを、たまたま見たものをうろ覚えしただけですので、専門的に正確なものかは、相当自信がありません。まず、その点だけはご了承ください。


お話の意図は、放射線治療というものが近年目覚ましい発展をしていて、他の治療と組み合わせることで、かつては完治が難ししいと言われていた病気に対しても治癒率が向上しているとのことで、その原因には、新しい治療薬が生み出されていることもあるが、放射線治療に関する機器や、技術の向上も大きく寄与しているといったものでした。
昨今、放射線といえば、原発事故を連想してしまいがちですが、専門的には放射線は幾つもの種類に分かれるそうです。
放射能といえば、通常、ラジウム、ウランなどの放射性元素から放射されるものや、原子炉などで造られるプルトニウムなど超ウラン元素と呼ばれる物などからのものを指しますが、電磁波やその一種であるX線などまで加えると、私たちの周囲は、放射線でいっぱいのようです。
宇宙からは、大気に守られ和らげられているとはいえ、常に放射線が降り注いでいますし、第一、私たちの身体自体が一種の放射性物質でもあるわけです。


その昔、名医といわれる人は、触診によって患者の体内の様子を目で見るかのごとくに思い描いていました。
現在では、各種のレントゲンによりどんな医者でも体内の様子をかなり詳しく見ることが出来ます。そうだからと言って、誰もが名医になれるわけではありませんが、レントゲン技術による医療への貢献は、小さなものではありません。また、放射線を利用した治療にも同じことが言えます。
原発事故により、私たちは大きな打撃と被害を強いられました。チェルノブイリの事故は、完全回復させるためにはあと千年必要だという意見もあるそうです。そうであれば、福島の事故の回復には、それに近い時間が必要なのかもしれません。
「果たして、核開発技術は人間が手にしてよかったものなのか」という意見も否定できない一面を持っているような気もします。


遠い昔、人間は「火」を手にしました。これもまた、当時の人たちは、人間が手にしてよいのかどうか悩んだのではないでしょうか。アダムとイブは、人間が手にしてはいけない禁断の木の実を食べたため天上界から追放されたそうです。わが国の神話にも、人間が神の物に手を付けたため怒りにふれたといった話があります。
人間は、「火」を手にしたために、他の動物とは違う成長を遂げたと思われますが、同時によこしまな精神も萌芽させてしまったのかもしれません。
放射性物質の利用という技術を手にしたため多くの利益を得ましたが、同時に大きな犠牲も背負わされることになったのかもしれません。
その良し悪しはともかく、今となっては、「火」も「放射性物質」も手放すことはそうそう簡単なことではないようです。
それと、体内ばかりでなく、精神の正邪を鮮明に映し出すレントゲン技術を期待しているのですが、これも、そうそう簡単なことではないようです。

( 2012.10.24 )

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地震予知失敗に実刑判決 ・ 小さな小さな物語 ( 448 )

2013-02-06 18:47:15 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
『 数か月にわたり群発地震が続いていた地域について、大地震の可能性は低いと報告し、これが報道されたため多くの住民が安心したが、その六日後に大地震が発生、三百九人が死亡、六万人以上が被災した。2009年のことである。
この報告に関わった、大学教授や地震学の専門家らで構成されている防災庁付属委員会メンバー七人が、過失致死傷罪に問われていたが、このほど担当地裁は、全員に求刑の禁固四年を上回る禁固六年の実刑判決を言い渡した。 』
以上は、この二十二日にイタリアで下された判決の概容です。


イタリアの法律がどのようなものなのか、報告書の内容がどういうものなのか、被害の状態がどのようであったのか、私はどれも新聞報道のこと以外は知りません。それでも、この判決にはとても興味を感じました。
裁判はまだ地裁だけですし、イタリアの刑事裁判では判決理由は後日に示されるそうですし、被告側は控訴する方針のようですので、まだまだ決定しているものではありません。
地震予知失敗で刑事責任が問われるのは、世界的に異例な事件のようです。
被告人の一人は、「私は自分の務めを果たしただけで間違いは犯していない」と記者団に主張しているそうですし、弁護側の考えとして、「地震被害は誰の責任でもない。まるで中世の裁判のようだ」と争っていた、と報じられています。
また、わが国のある専門家の感想として、「科学者の責任が刑事罰に問われれば自由な議論が阻害される」といったことが紹介されていました。
イタリアの地裁の判決を各報道機関がかなり大きく取り上げていることから見ても、かなり特殊な裁判であることが分かります。しかし、私は、イタリアのこの地裁に拍手を送りたいと思います。


言論はもちろん、信条や信仰、科学や文化や芸能など、これらの自由は可能な限り守られるべきであり、無用な抑圧は人間の尊厳を阻害することにもなると考えています。
しかし、何にでも限度があります。程度というものもありますし、社会的な立場により、相応の抑制が必要となり、責任も発生しうると考えます。
今回の判決に専門家たちが驚きを感じているということは、「そもそも地震予知など信じる方が間違っている」という考えに立っているのではないでしょうか。もしそうであれば、そのことをもっと丁寧に説明すべきだと思うのです。
「30年以内に50%の割合で巨大地震が発生する」ということが、具体的にどういうことなのかを説明し、そのことに誰かが責任を持っているのか、誰も責任など持つ気がないのであれば、その旨を明記すべきだと思うのです。


このことは、何も地震予知に限ったことではないと思うのです。
「誰と誰とが結婚する」とか「誰と誰とが離婚する」といった報道は、当事者に対してはそれなりの責任は発生するとしても、一般の視聴者や読者にまでは責任を負う必要はないと思われます。
しかし、例えば、福島第一原発の事故当初、水素爆発に対して「あれは原子炉本体を守るために有効」といったような報道をしていたのは、一般人に対して、特に被害地に関係する人々に対して、何らかの罪に当たるのではないのでしょうか。
発言者の責任なのか、誰かが発言させたのか、それとも全く無知だったのか、明確にして謝罪するなり罰を受けるべきではないのでしょうか。
政治家など社会的に影響力のある立場にある人の場合などは、その責任はさらに大きいのではないでしょうか。約束事が守られなかったり、成果が出なかった場合には、その原因は、無知であったのか、やる気がなかったのか、そもそも本気にされては困ることだったのかなどを明確にし、謝罪するなり罰を受けるべきなのです。だんまりを決め込むか「遺憾である」と言えば、それでお終いというのは少しおかしいと思うのです。
ただ、残念ながら、人間は誰しも、他人に厳しく自分に優しい動物ですから、自分の間違いはなかなか分からないものです。気が付いていても黙っていれば逃げられると考えるものなのです。
やはり、正義を守る最後の砦は司法ということになります。複雑な事件が多くて大変でしょうが、イタリア地裁のような頑張りを期待しています。

( 2012.10.27 )
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世界の国旗 ・ 小さな小さな物語 ( 449 )

2013-02-06 18:46:18 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
世界の国旗を少々熱心に見る機会がありました。
インターネットでも、とても詳しく、そして親切に説明されているページがいくつかありますので、ぜひ見られると楽しいと思います。
世界中の国家は、国家の定義については触れないことにしますが、まず全てが国旗を持っています。それも、たった一種類の国旗です。国によっては、第二国旗、第三国旗といったものがあるのかどうかは知りませんが、例えばオリンピックを見る限りは、一種類に統一されています。


わが国では、国旗掲揚に関して幾つかの出来事もありましたし、現在もあるのかもしれません。それは、決してわが国特有のことではなく、幾つかの国では何らかのトラブルの原因になってきたようです。
国家が成立する過程によっては、国旗の制定は決して簡単なことではなかったと思われます。単なるデザイン的な好みの問題もあるでしょうが、それぞれの主義や主張を調整して国旗を定めていくのは、実に難しく、そして、とても重要なことであっただろうと、各国の国旗を見比べながら、一人で合点しています。


各国の国旗を眺めていますと、幾つかのことが見えてきます。
まず第一は、使われている色の数が意外に少ないということです。複雑な紋章を取り入れている国家の場合は別ですが、三、四色程度が中心で、図案としてもシンプルなものが主流です。
わが国の日章旗などはその典型的なもので、「白地に赤く」と歌にもありますが、これは、白と赤の二色なのか、白という無地に赤一色で描かれているのか、少々悩んだりします。
ヨーロッパなどには三色旗が多いですが、この三色を選ぶにあたっても、それぞれの意見があり、上下あるいは左右の順番にしても、それぞれに主張する勢力があったはずです。
世界の国旗を見つめているだけでも、なかなか退屈しません。


国旗に使われている色の数が比較的少なく、図案もシンプルなものが多いのは、誰にでも分かりやすく、誰にでも描きやすくする目的からだと考えられます。
国旗に限りませんが、考え方や価値観も違う大勢の人を一致団結させるためには、あまり複雑な条件を付け過ぎてはいけないのは、ごく常識的な原則です。その点、わが国の国旗は実によく出来ているのかもしれません。
折から、石原新党とやらが話題になっています。第三局の結集だとか、単なる野合だとか、それぞれが自分に都合の良い理論を展開しています。
さて、わが国の国旗ほど単純明快なものは難しいとしても、誰が見ても分かりやすく、そして、少しは信頼できそうな旗印を立ててくれるのは、どの勢力なのでしょうか。

(2012.10.30 )










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初冬の星空 ・ 小さな小さな物語 ( 450 )

2013-02-06 18:45:10 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
『 だんだんと秋も深まり、朝夕は寒く感じる日もある。星空の方も、少し遅くなれば東の方からにぎやかな冬の星座が上ってくるようになってきた。冬の星座といえば、三ツ星のあるオリオン座が最も知られているだろう。
  ( 中略。すばる座など、星がばらばらと集まっている散開星団について紹介されている。)
私たちは、天の川銀河、あるいは銀河系と呼ばれている1000億個とも2000億個とも言われるたくさんの恒星の大集団の中にいる。そして、天の川銀河の渦巻き模様のある、とても厚みが薄いところに散開星団は並んでいる。このために、天の川銀河の中にいる私たちから見ると、散開星団は天の川に沿ったところにあるように見えるのだ。
ふだん私たちはあまり気に留めていないが、私たちが見る夜空には、他にもいくつかの特徴がある。こういった特徴は、実は、私たち自身がどのようなところにいるのかということと結びついているのだ。 』
 以上は、十一月一日付毎日新聞朝刊の「県立大西はりま天文台からの便り」の副センター長・石田俊人氏の記事を使わせていただきました。


晩秋から冬にかけての夜空は、観察するのには少々寒い面もありますが、早くから暗くなりますし、朝も少し早起きをすれば、月の暗い時は星をたくさん眺めることが出来ます。
子供の頃、夏休みなどのキャンプで見た夜空も忘れ難いものですが、凍てつくような季節の真夜中に眺める星空は、何か怖いほどに迫力があって、星座などほとんど知らない私でも感動させられるものです。


石田俊人氏の記事の中にありますように、私たちは一千億個とも二千億個ともいう銀河系の中に存在しているなどということは、「ふだん」どころか全く気付くことなどなく、このように教えていただいてもとても実感など出来るものではありません。
それでも、私たちが地球上に生息し、その地球は太陽の周りを回っていて、しかも太陽のような星が天の川銀河には気が遠くなるほどの数が散らばっているということは、きっと事実なのでしょう。しかも、宇宙全体から見れば、その天の川銀河でさえ芥子粒のようなものだという・・・。
そう考えれば、あれがどうだとか、これが気に入らないなどということは、どれもこれも些細なことで、何もかも許せるような気もするのです。


そして、夜空でさえ私たちがどのようなところにいるのかということで特徴が変わってくるのだとすれば、私たちのごちゃごちゃと寄り集まったような日常生活においては、それぞれの立ち位置によって、利害や考え方が違ってくるのは当然のことなのかもしれません。
そう考えながら星空を眺めていると、大概のことは辛抱できますし、優しい気持ちになってきたようにも思うのです。
ただ、この美しい星空のもとを離れた明日でも、この気持ちを抱き続けることが出来るかどうか、ほんの少し、ええ、ほんの少しばかり心配なのです。

( 2012.11.02 )


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