十月に入っても、なお台風の心配をしなくてはならない今年の天候ですが、北国や、山地などからは深まる秋の便りも伝えられ始めました。
日本列島は大変長いですから、それに島嶼(トウショ)を加えますと、その気候変化を簡単に表現することは難しいと思うのですが、本州中央部あたりでいえば、ここからのひと月余りが一年で最もさわやかな季節ではないでしょうか。
春にも同じような期間がありますが、さわやかさということでは秋のこの期間がまさっていると思われます。
最近、観光目的で京都へ行く機会がありました。現在だけでなく、私の生活圏からは京都は近い位置にありますので、訪れる機会は多く、今更わざわざ観光目的と言うのはピンとこないのですが、たいした目的もなく行ったのですから、観光目的ということになるのでしょう。
今回も、修学旅行生らしい団体の何組かに出会いました。京都ではどんな季節に訪れても一組くらいの修学旅行生に会うものですが、大分以前から何組かに分かれてタクシーで移動する修学旅行生が多くなっているように思っていたのですが、今回の何組かは、バスを連ねての移動のようで、とても微笑ましく感じました。
そんな生徒たちの会話に、こんなのがありました。
三十三間堂(蓮華王院)でのことですが、ここは、中央に大きな観音像(中尊)が安置されていて、その左右に五百体ずつの等身立像の観音さまが整然と祀られていることで知られています。
「本当に千体もあるのかな?」
「数えてみたら」
「うーん・・・。掛け算というものは、こういう時のために習ったのかな?」
何気なく聞いてしまった私は、あやうく吹きだしそうになりました。同時に、「不謹慎だ」などという感情は全く湧かず、むしろ微笑ましく好感を感じました。
確かに、私たちは算数や数学を通じていろいろな計算の方法を学びます。専門的なものはともかく、最も基本的な加減乗除といわれる計算方法でも、実社会においてどの程度利用されているのでしょうか。
特に現在は、電卓などというものがあり、それさえもほとんどの場合は携帯電話で間に合っているのでしょう。
実際に私たちの頭を使って、足したり引いたりにせよ、掛けたり割ったりにせよ、ごくごく簡単なものに限られるのではないのでしょうか。
それでは加減乗除など学ぶ必要はないのかとなれば、やはり必要だといわれる方が大半だと思われます。
いくらコンピューターが発達しても、その基本には加減乗除があるはずだという正論もありますが、人間の感情もこの原理で支配されている部分が多いという面からも学ぶべきだという気がするのです。
つまり、嫌なことは掛け算のように増えていき、大切なものは割り算のように失われていき、一つ一つ加えていくことの大切さを知った時には、一つ一つ失われている悲哀に耐えなければならないことを、私たちは実感しなければならないのですから。
こんなことを考える私は、観音様を数えてみようとする修学旅行生よりは、大分感性が衰えているのでしょうね。
( 2012.10.06 )
日本列島は大変長いですから、それに島嶼(トウショ)を加えますと、その気候変化を簡単に表現することは難しいと思うのですが、本州中央部あたりでいえば、ここからのひと月余りが一年で最もさわやかな季節ではないでしょうか。
春にも同じような期間がありますが、さわやかさということでは秋のこの期間がまさっていると思われます。
最近、観光目的で京都へ行く機会がありました。現在だけでなく、私の生活圏からは京都は近い位置にありますので、訪れる機会は多く、今更わざわざ観光目的と言うのはピンとこないのですが、たいした目的もなく行ったのですから、観光目的ということになるのでしょう。
今回も、修学旅行生らしい団体の何組かに出会いました。京都ではどんな季節に訪れても一組くらいの修学旅行生に会うものですが、大分以前から何組かに分かれてタクシーで移動する修学旅行生が多くなっているように思っていたのですが、今回の何組かは、バスを連ねての移動のようで、とても微笑ましく感じました。
そんな生徒たちの会話に、こんなのがありました。
三十三間堂(蓮華王院)でのことですが、ここは、中央に大きな観音像(中尊)が安置されていて、その左右に五百体ずつの等身立像の観音さまが整然と祀られていることで知られています。
「本当に千体もあるのかな?」
「数えてみたら」
「うーん・・・。掛け算というものは、こういう時のために習ったのかな?」
何気なく聞いてしまった私は、あやうく吹きだしそうになりました。同時に、「不謹慎だ」などという感情は全く湧かず、むしろ微笑ましく好感を感じました。
確かに、私たちは算数や数学を通じていろいろな計算の方法を学びます。専門的なものはともかく、最も基本的な加減乗除といわれる計算方法でも、実社会においてどの程度利用されているのでしょうか。
特に現在は、電卓などというものがあり、それさえもほとんどの場合は携帯電話で間に合っているのでしょう。
実際に私たちの頭を使って、足したり引いたりにせよ、掛けたり割ったりにせよ、ごくごく簡単なものに限られるのではないのでしょうか。
それでは加減乗除など学ぶ必要はないのかとなれば、やはり必要だといわれる方が大半だと思われます。
いくらコンピューターが発達しても、その基本には加減乗除があるはずだという正論もありますが、人間の感情もこの原理で支配されている部分が多いという面からも学ぶべきだという気がするのです。
つまり、嫌なことは掛け算のように増えていき、大切なものは割り算のように失われていき、一つ一つ加えていくことの大切さを知った時には、一つ一つ失われている悲哀に耐えなければならないことを、私たちは実感しなければならないのですから。
こんなことを考える私は、観音様を数えてみようとする修学旅行生よりは、大分感性が衰えているのでしょうね。
( 2012.10.06 )