雅工房 作品集

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運命紀行  勝利者の影

2013-02-01 08:00:15 | 運命紀行
         運命紀行

             勝利者の影


「天下分け目の関ヶ原」と称されることがあるが、応仁の乱から百三十三年後に当たる慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いにおいて、徳川家康率いる東軍が勝利し、これにより家康の天下掌握は決定したといえる。
戦国時代の始まりや終りの時期については諸説あるが、関ヶ原の戦いが戦国時代の終焉を告げる出来事であったことは間違いあるまい。
それは、すなわち、徳川家康こそが戦国時代の勝利者だといえることになる。

豊臣秀吉が死去してから関ヶ原の戦いまでの期間は、およそ二年一カ月である。
秀吉の最晩年は相当指導力を失っていたとも考えられるが、少なくとも生存中は表面化していなかった。
秀吉死去の時点で、家康が軍事力・経済力共に実力第一の大名であったことは間違いないが、豊臣家に忠節を誓う勢力も小さくはなかった。
前田利家健在であり、福島、加藤、細川、黒田なども豊臣政権下に組み込まれている上、西国の島津、毛利といった大藩もどう動くか予断は許されなかった。

このように、秀吉死去の時点では、そう簡単に徳川政権が誕生することを予測できなかったはずであるが、ただ一人家康だけは、はっきりと狙いを定めて着々と手を打っていったのである。
その戦略の最大のものは、有力大名との婚姻政策であった。相手方に味方する可能性の高い大名を婚姻により味方につけることが出来るとすれば、差し引きによる戦力強化は極めて大きい。

さすがに秀吉は、そのことを予測していて大名間の婚姻を禁じていたが、家康はこれを無視して強引に有力大名との婚姻を進めていった。実現したものを列挙してみる。

 ○ 伊達政宗の長女と、家康六男の松平忠輝
 ○ 福島正則の嫡子(養子)と、家康養女(家康の甥松平康元の娘)
 ○ 蜂須賀家政の世子と、家康養女(小笠原秀政の娘)
 ○ 加藤清正と、家康養女(家康の叔父水野忠重の娘)
 ○ 黒田長政と、家康養女(保科正直の娘)

この他、細川家や島津家に対しては、家康自身が相当の働きかけをしていたらしい。
婚姻を結ぶことがどの程度の紐帯となるかはともかく、婚姻を結んだ五家が味方に付くとすれば、家康陣営強化はすこぶる大きい。そして、この婚姻政策だけではないとしても、関ヶ原に至る過程、あるいは関ヶ原の戦いにおいても、これらの有力大名たちの直接的間接的な働きは極めて大きかったのである。

そして今一つ、この五つの婚姻を見ると一つの不思議が浮き彫りになってくる。
五つのうち四つは家康の養女を相手大名家に嫁がせているものである。養女とはいえ、徳川の名誉のためにも使い捨てのように嫁がせるわけではなく、立派な人質としての意味があったはずである。
だが、ただ一つ、伊達家に対しては、相手の姫を六男の正室に迎えているのである。その理由はいろいろ推察できる。たまたま良い縁組だったということも考えられないわけではないが、当時の状況下では全く考えられない。百パーセント政略結婚のはずである。

そうだとすれば、伊達家という存在が、家康にとって特別な存在であったということが考えられる。
まず考えられることは、徳川が豊臣陣営と対峙することになった場合、伊達家はその後背に本拠地を持っているということである。伊達政宗という人物を高く評価したのかもしれないし、その戦力に魅力があったのかもしれないが、地勢的にみて家康は奥州に強力な味方が何としても欲しかったはずなのである。
そのために、家康は秀吉の生存中から何かと好意を示していたし、その仕上げとして、伊達家からはその姫を人質として得たかったのである。
そしてその相手は、養子ではなく、実子である忠輝に重要な役目を与えたのである。

家康が関ヶ原の合戦に勝利し、徳川家による長期政権が築かれていく過程には、幾つもの要因があり、幾人もの貢献があったのは当然のことであろう。
上記の説明がいささかでも真実を捉えているとすれば、松平忠輝という人物もその貢献者の一人に入るのではないだろうか。
しかし、なぜか家康は忠輝に対して極めて冷酷な仕打ちをしているのである。

確かに、紆余曲折はあったとしても、慶長十五年(1610)、忠輝十九歳の頃に、越後高田藩主に任じ、川中島と合わせ七十五万石の太守としている。この面だけ見れば、忠輝がおとなしく分に応じた行いに務めていれば、徳川連枝として有力大名であり続けたはずだともいえる。
しかし、七十五万石を与えた後もなお家康は、忠輝に辛く当たり続けているのである。

伝えられている所によれば、家康が病重くなった時、将軍秀忠はもちろんのこと、弟の義直・頼宣・頼房らは枕元に招かれ最後の言葉を受けているが、忠輝だけは招かれなかったのである。
拝謁を望む忠輝は、駿府まで馳せ参じたが、家康は最後まで面会を許さなかった。それどころか、駿河に来たことに激怒し、城中にも入れなかったという。

家康が没しても、徳川政権は揺るぐことなく盤石の体制を築き上げていった。
そこには、家康から、秀忠・家光と続く栄光の座があるとともに、輝きが強ければ強いほど生じなければならない影の存在が必要だったのかもしれない。
やがて、兄である二代将軍秀忠によって改易され、領土を没収されることになる松平忠輝も、そのような影となるべき運命を背負っていたのかもしれない。


     * * *

忠輝は、天正二十年(1592)徳川家康の六男として江戸城で誕生した。
幼名は辰千代、母は茶阿局である。
ところが、家康はこの誕生を喜ばなかったという。その理由についてはいくつか伝えられている。
まず、生母の茶阿局の身分が低かったためというもの。赤子の容貌があまりにも醜かったというもの。双子であったというものもあるが、当時は双子を嫌う風潮があった。

いずれもそれなりの理由とも考えられるが、納得できないようにも思える。
まず、茶阿局の身分についてであるが、家康はたくさんの妻妾を持ち、大勢の子どもを儲けている。しかし、あまり身分に拘っているとは思えないのである。秀吉が高貴な出身の女性にあこがれていた感じがするのに対して、家康の場合は、良くいえば人物本位、悪くいえば手当たり次第という感じがしないでもないのである。
茶阿局にしても、もとは遠江の鋳物屋の嫁であったという。その美貌に目がくらんだ代官が自分のものにしようとして彼女の夫を謀殺したので、彼女自身が家康に訴えたが、家康もまたその魅力のとりことなり、代官を処分したのち我がものにしてしまったのである。
浜松城で寵愛を受け、奥向きのことを仕切っていたともいわれ、身分云々は納得できない。

容貌についても、茶阿局は少なくとも代官と家康を、とりこにしてしまうだけの美貌の持ち主なので、その子の容貌がそれほどひどいというのも理解しにくい。考えられることは、家康自身の容貌が相当ひどいものであったか、最悪の劣性遺伝が発生したとしか考えられない。
双子云々については、当時の迷信や風潮として他にも伝えられているので、本当に双子であったとすれば、これはある程度納得できる。

いずれにしても、生まれたばかりの赤子を見た家康は、「色きわめて黒く、まなじりさかさまに避けて恐ろしげなれば・・」という理由で「捨てよ」と命じたという。
捨てられたのちの忠輝は、もちろん重臣たちの配慮によってであるが、下野長沼城主で三万五千石の大名皆川広照によって養育されることになる。

家康が忠輝と正式に対面したのは慶長三年(1598)、忠輝七歳の時であるが、この時も家康はこの六男である少年を嫌ったという。一説には、忠輝の容貌が長子であった信康に瓜二つであったからだとも伝えている。信康は武田家との内通を疑われ織田信長の意向により自刃に追い込んでおり、家康としては触れられたくない影の部分であったのかもしれない。
そう考えれば、忠輝は幼くして家康の影の部分を背負う運命であったのかもしれない。

慶長四年(1599)一月、忠輝は長沢松平家の家督を継ぐ。これにより松平の姓となり、八歳にして武蔵国深谷一万石の大名となったのである。
しかし、この一連の目出度いはずの出来事も、実は、忠輝の同母弟である松千代が先に長沢松平家に入っていたが、早世してしまったためその跡を受け継ぐ形だったのである。つまり、弟の死去により家督を引き継いだということであり、何とも冷たい仕打ちのように思われる。

しかし、これから後は順調に長沢松平家の家産を膨らませていった。
慶長七年(1602)十二月に下総国佐倉五万石に加増され、翌年二月には信濃国川中島十二万石に加増移封されている。この間わずか四十日ほどという慌ただしさである。

伊達政宗の長女五郎八姫(イロハヒメ)との婚約が成立したのは、慶長四年一月のことなので、忠輝の慌ただしい昇進にはそのことが影響していると思われる。
その五郎八姫との結婚は、慶長十一年(1606)のことで、忠輝十五歳、五郎八姫十三歳の時であるから、当時のちょうど適齢期といえるが、この婚姻は政略上の契約であることを考えれば、婚約から七年余も要していることに、何か支障があったのかもしれない。ただ、二人の仲は睦まじいものであったと伝えられている。

慶長十五年(1610)、越後高田藩主に任じられ、川中島と併せ七十五万石の太守となる。最初は前任の堀氏が築いた福島城を居城としたが、慶長十九年には高田城を築城、これには幕命により義父である伊達政宗ら十三大名が助力している。
こうして、徳川政権を支える太守となったはずの忠輝であるが、やはり父家康との間には確執が続いていたようである。
慶長十九年の大坂冬の陣には出陣が認められず、江戸留守居役を命じられている。翌年の夏の陣には出陣しているが、その時に将軍秀忠の旗本を斬殺するという事件を起こしている。理非はともかく、忠輝が改易に追い込まれる原因の一つと考えられる。 

元和二年(1614)四月、家康は忠輝の面会を許さないまま死去する。
そして、その混乱さえ治まらない七月六日、忠輝は兄である将軍秀忠により改易を命じられ、伊勢国朝熊に流罪とされた。原因は、大坂夏の陣における怠慢を指摘されたものだが、秀忠の旗本斬殺事件の影響も当然あったと思われる。
生母の茶阿局は、家康の信頼厚かった側室の阿茶局に取り成しを頼むも聞き入れられなかった。
その後も許されることなく、飛騨国高山、信濃国諏訪と移され、天和三年(1683)七月、幽閉先の諏訪高島城の南の丸で死去する。享年九十二歳であった。

忠輝が、家康並びに秀忠に何故これほど疎まれたのかについては諸説がある。
改易を命じた張本人は秀忠であるが、彼の私憤だけで長年に渡りこれだけ徹底した処罰が行われたとは考えにくい。やはり家康の意向が働いており、それなりの理由があったと考えるのが自然である。
家康が、生母の身分や、忠輝の容貌、あるいは双子であったことなどで嫌っていたとされるのが事実だとしても、高田藩主に就けた以降については、そのような理由で憎み続けることなどあり得ない。
やはり、もっと他に、徳川政権としては忠輝が危険人物であった理由があるはずである。

そう考えれば、幾つかの問題点が浮上してくる。
一つは、忠輝が極めて粗暴であったということである。実際に御家騒動を起こしているし、秀忠の旗本斬殺という事実もある。
豊臣家に対して、特に秀頼に同情的であったという少数意見もある。十四歳の頃家康と共に秀頼に会っており、年齢も近いことから可能性もある。
伊達政宗を後見として天下を狙ったという説もある。徳川政権の転覆はともかく、忠輝は覇気のある人物だったともいわれ、凡庸として知られる秀忠にとって代わる程度のことは考えたかもしれない。そのような事実はないとしても、秀忠がその危険を感じた可能性もある。
同じく伊達家との関係で、忠輝もキリシタンで棄教しようとしなかったとか、海外渡航や貿易に熱心なことに幕府は危険を感じていたのかもしれない。

いずれにしても、忠輝が改易となったのは二十五歳の時であり、亡くなるまでの流人生活は六十七年に及ぶのである。
終焉の地である諏訪高島城南の丸での幽閉の期間だけでも五十七年を超える。この期間を忠輝は何を思い何をよすがに生き続けたのであろうか。
高島城南の丸というのは、本丸の外の南側に忠輝を幽閉するために造られた施設であった。広さは千二百坪程あり堀と柵で外部との連絡路は橋一つだけで厳重に遮断されていた。
しかし、その生活は、家臣は諏訪で抱えたものも含め百人近くもおり大名並の生活は保障されていたらしい。
また、密かに外部に出ることも黙認されていたらしく、立ち寄り先の藩士の娘との間に男児を儲けたともいわれる。
しかし、幽閉の身は許されることなく続き、忠輝が没した時は、徳川宗家は五代綱吉になっていたのである。果たして綱吉は、幕府創業の影となったような人物が遥か信州に閉じ込められていることを知っていたのであろうか。

ただ、こんな逸話も残されている。
実は、家康と忠輝との仲は修復されていたというのである。家康は死に臨んで、茶阿局を通じ「野風の笛」を忠輝に与えていたという。この笛は、信長、秀吉、そして家康と伝えられた天下人の象徴ともいえる笛なのである。その笛は、現在、忠輝の墓所のある諏訪市の貞松院に伝えられている。
この逸話が事実かどうかは分からないが、何かほっとさせてくれる逸話である。

                                        ( 完 )



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