雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  制外の家

2013-02-13 08:00:11 | 運命紀行
         運命紀行

            制外の家


徳川家康という人物を、百数十年にも及ぶ戦国時代を収束させた最後の功労者とするのに異論を唱える人は少ないと思う。
そういう人物であるから、当然文武両道に優れ、高邁な理想を描き、将来を見通す能力に優れていたと推測される。さらに、家康個人がいくら優れていても、彼を支える家臣団や味方となる諸豪族あってのことであろうから、それらの人々を惹きつけるだけの人格者であることも必要だったはずである。
おそらく家康という人物は、それら天下人として必要とされるあらゆる資質を備え、あるいは磨き上げていったと考えられる。ただ、その家康という人物を理解するうえで、分かり難い部分もある。
生まれてきたばかりのわが子を忌み嫌ったという話が残されていることもその一つである。

家康には、公認されているだけで十一人の男子がいる。そのうちの二人について、生まれてきた時に嫌悪していることを明言しているのである。
一人は次男の於義丸、あと一人は六男の辰千代である。
この二人について共通していることは、どうやら二人とも双子として誕生してきたらしいことである。当時の風習として、双子を嫌ったらしいことはいろいろな記録に残されている。そうだとすれば、家康がこの二人を嫌ったということも当然のようにも考えられるが、並の人物ならともかく、天下を収めるほどの人物が、それほど嫌うほどこの迷信が強烈なものであったのかと首をひねるのである。
この嫌われた二人の息子は、一人は本編の主人公である後の結城秀康であり、もう一人は後の松平忠輝である。

於義丸は、天正二年(1574)二月、家康の次男として誕生した。母・於万の方は、三河国の神社の社人氷見吉英の娘である。なお、誕生月には異説もあり、幼名も於義伊、義伊丸、義伊松なども伝えられている。
於万の方は、家康正室の築山殿の奥女中であったが、家康が見染めたものである。築山殿は今川氏に繋がる出自もあって、家康は頭が上がらなかったらしい。家康の長男は、この築山殿の生んだ信康である。
於万の方が懐妊したことを知った家康は、築山殿の悋気を恐れ、於万の方を重臣の本多重次のもとに預けた。
結局、於義丸が誕生したのは、浜松城下の有富見村の代官、中村正吉の屋敷であり、その後もこの屋敷で養育されたようである。
これはずっと後年のことであるが、於義丸を初代藩主とする福井藩の歴代藩主は、参勤交代の際にはこの中村家に立ち寄ることを慣例としていたという。

家康に嫌われた於義丸が正式に父子対面したのは三歳の頃で、それも義兄である信康の取り成しにより実現したものらしい。
その信康は、天正七年(1579)武田氏との内通を疑われ自刃に追い込まれている。この内通については、母の築山御前と共にそれらしい動きがあったとされるが、それ以上に家康と同盟関係にあった織田信長からの圧力によるともいわれる。一方で、信康と家康の間に意見対立があったという説も有力になっている。
いずれにしても、この時点で、於義丸は家康後継者の地位に繰り上がるのが当然であるが、どうもそのような処遇は受けていない。なお、嫌われていたようなのである。

天正十二年(1584)、家康と秀吉が唯一戦った小牧・長久手の戦いが起こった。この戦いは、武力衝突の面では徳川軍有利であったが、政治戦略では羽柴側が遥かに勝り、結局うやむやの内に終結しているが、その和解の条件として於義丸は秀吉のもとに養子に出されることになった。実質的な人質である。
この時、於義丸は十一歳になっていたが、家康には他にも男子がいたのである。後の秀忠が六歳、松平忠吉が五歳、武田信吉が二歳の三人である。
武家の棟梁である家康にとって、嫡男の地位にある子供を人質に出すことは極力避けたいはずである。当時の徳川・羽柴の力関係からしても秀吉が家康の嫡男を要求したとは考えにくい。一番下の信吉はともかく、秀忠であれ忠吉であれ人質としての役は十分なはずなのである。家康自身が人質となったのは六歳の頃であることを考えれば、於義丸は、やはりこの時点でも嫌われていたらしい。

同年の十二月、秀吉のもとで元服を果たした於義丸は、羽柴の名字と実父・養父から一字ずつ取った秀康が与えられ、羽柴秀康と名乗ることになる。
天正十五年(1587)の九州征伐で初陣を果たし、その後の豊前岩石城攻めや日向国平定戦でも功績を挙げ、天正十八年の小田原城攻めにも参加している。
秀康は、優れた体躯の持ち主で剛毅な性格で武勇抜群であったと伝えられている。しかし、秀吉の庇護のもとでの戦陣では、その武勇の程度を試される場面もあったかもしれないが、秀吉の養子として大切に扱われての戦功であったとも考えられる。

後のことになるが、三人目の父となる結城晴朝から贈られた「御手杵(オテギネ)」という槍は、天下三名槍の一つとされていて、常人では使いこなせないような大きく重いものであった。従って、秀康が相当武勇に優れていたということは事実らしい。
因みに、この天下三名槍と呼ばれるものは、黒田節で知られる「日本号」と、家康自慢の豪傑本多忠勝愛用の「蜻蛉切(トンボキリ)」との三つである。

養子に出されたとはいえ、天下人秀吉の庇護のもとで堂々たる若武者として育っていた秀康であるが、再び試練の時を迎える。
天正十七年(1589)、秀吉の側室淀の方が男児を出生した。鶴松と名付けられるこの男児の出生は、秀吉にとっては望外の幸運であったが、周辺に及ばす影響は小さなものではなかった。うがった見方ではあるが、この男児の出生、そして、その後の秀頼の誕生こそが、豊臣政権を短命で終わらせた原因のようにさえ思えるのである。
それはともかく、鶴松の誕生は秀康の身の上にも大きな影響を与えたのである。

実子のいない秀吉は、多くの養子を手元で養育していた。実質的には人質としての意味が大きかったが、同時に自分の手足となることを期待している面もあった。さらには、養子の中から自分の後継者、あるいは次期政権を担う人材の養成も考えていたように思われる。甥の秀次などはその有力候補であったはずである。
しかし、実子誕生により、それらの構想は大きく変化していった。むしろ、優秀な養子ほどわが子にとっては将来の禍根となる懸念を抱いたようなのである。
秀吉は、養子たちを積極的に外に出すことを考え、ついには秀次のような悲劇へと発展していくのである。

秀吉の方針により、秀康は北関東の有力大名結城氏に婿入りすることになったのである。
結城氏は下野の守護に任命されたこともある名門豪族であった。そこに目を付けた秀吉は、当主の結城晴朝の姪と秀康を娶せ、結城十一万石の家督を継がせたのである。
この処置は、家康が三河を中心とした旧領から関東一円二百四十万石へ転封されていることに配慮して、その後背地に実子の秀康を婿入りさせたともいわれているが、同時に、秀康が豊臣政権のために働くはずとの自信もあったように思うのである。

ここに、三人目の父を得て、結城秀康が誕生したのである。天正十八年(1590)のことで、秀康は十七歳になっていた。
結城氏の家督を継いだ後、ある期間は結城秀朝と名乗りを替えていたことがある。およそ五年間ほどのことであるが、実父の「康」を新しい養父の「朝」に替えているのであるが、このことを想像するだけでも様々な思惑や配慮が浮かんでくるのである。
また、改めて羽柴の姓も贈られていて、「羽柴結城少将」と呼ばれていた時期もある。

実父に嫌われ、養父も二人目となり、名乗る名字は、徳川・羽柴・結城と変わり、さらには再び羽柴も名乗ることになった秀康は、それでもまだ、その変遷の激しさは道半ばだったのである。


     * * *

やがて秀吉が死に、時代は徳川の時代へと移って行く。
慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いの前哨戦ともいえる会津征伐には秀康も参加している。会津への途上、石田三成が挙兵したことにより、家康は小山で評定を開き、西に引き返すことを決定する。
この時、家康は、本隊は家康自らが率いて東海道を進み、別働隊は秀忠が率いて中山道(東山道)を進むことが決められ、秀康は上杉景勝を押さえるための留守居役を命じられている。
この配置は、秀忠を後継者として意識しているようにも見えるし、後背を守る役割を秀康に託しており、その器量を評価しているようにもみえる。

関ヶ原の戦いで勝利した後、秀康は越前国北庄六十七万石が与えられた。これは五十五万石程の加増であり、論功行賞中最大のものである。
慶長九年(1604)には、松平の姓を名乗ることを許されたらしく、秀康はさらに名乗る名字が新しくなった。
翌年には権の中納言に昇任し、徳川政権下で重きをなす大名になって行った。
慶長十二(1607)、伏見城番を任じられたが、病のため任務途中で帰国、閏四月八日に死去した。
波乱に満ちた生涯であったが、まだ享年三十四歳という若さであった。

秀康は、実父家康に嫌われ、二人の養父に仕えるなど、気の休まることのない生涯であったかに思われるが、なかなか剛毅でスケールの大きな人物であったらしい。それらしい逸話が幾つも残されている。

伏見城で、家康と共に相撲観戦をしていた時のことである。
観客が熱狂のあまり興奮状態となり騒然となった。その時秀忠が観客席から立ち上がり、騒いでいる者どもを睨みつけた。その凄まじいまでの威厳に、観客は一瞬の内に静まり返ったという。
家康も驚き、その威厳ある態度に感心したことを近習に話したという。

石田三成が武断派と呼ばれる福島正則や加藤清正らに襲撃されて家康の屋敷に逃げ込んだことがあった。仲介の労を取った家康は、三成を隠居させることで収束させたが、三成を居城の近江まで送り届ける役を秀康に命じた。血気あふれる豊臣の荒武者たちから守る役を秀康に託したのである。
無事役目を果たし、その接し方に感激した三成は、名刀「五郎正宗」を贈った。この名刀は、「石田正宗」と称せられ、末裔である津山松平家で後世に伝えられた。

秀康一行が鉄砲を持ったまま江戸に向かおうとしていた時、碓氷峠の関所で咎められたことがあった。
秀康は、我が越前松平家は徳川家中で別格扱いであることを知らぬ関守は不届きとして成敗しようとした。役人は驚き、江戸に伺いを立てたが、秀忠は、殺されなかったことを幸いだったと笑って事態は収まったという。

関ヶ原合戦後間もない頃のことと思われるが、家康が重臣たちに後継者について意見を聞いたことがあった。本多忠勝、本多正信・正純親子らは秀康を推し、秀忠を支持したのは大久保忠隣一人だけだったという。

秀忠が家督を継いだ時、秀康は伏見城代を務めていた。
都で人気の出雲の阿国一座を伏見城に招いたことがあった。阿国の歌舞伎を絶賛した後こう漏らしたという。
「天下に幾千万の女あれど、一人の女を天下に呼ばれ候はこの女なり。我は天下一の男となることかなわず、あの女にさえ劣りたること無念なり」と。

最後の逸話は、自分の気持ちを必死に鎮めようとしているように感じられて切ない。
しかし秀康の末裔は、御三家などの序列とは別格の「制外の家」として幕末までその存在感を示し続けている。松平忠直という問題児も出たが、福井藩を本家として、津山藩、松江藩なども越前松平家として隠然たる影響力を保ち続けていた。それは、単なる名門ということだけでなく、福井藩単独としては三十万石前後であったが、一門を合わせれば百万石程度にもなり御三家を遥かに上回る実力を有していたのである。

家康には、公認されているだけで十一人の男子がいたことは先に述べたが、後世まで家を存続させたのは五人だけである。将軍家を継いだ秀忠と御三家を興した義直・頼宣・頼房の三人と、松平秀康の五人である。このうち先の四人はいずれも徳川を名乗っており、松平を名乗った家康の直系は秀康一人なのである。
これは結果論かもしれないが、天運は、秀忠には徳川を、秀康には松平を継がせたのかもしれない、と思ったりするのである。

                                        ( 完 )

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