運命紀行
伊達の秘蔵っ子
戦国武将たちを評する場合、伊達政宗を「遅れて生まれてきた英雄」と表現されることがある。
確かに、政宗は文武に優れた武将であったし、何よりもその覇気は天下を狙うに相応しいものであったらしい。少なくとも、関ヶ原の合戦の決着がつく頃までは、天下はともかく、奥州全土を勢力下に置く程度の野望は抱いていたかに見える。
しかし、政宗は、やはり少し遅れて生まれてきたのである。
彼が誕生したのは永禄十年(1567)のことで、戦国の始まりとされる応仁の乱から百年目に当たる年である。戦国の世はようやくその終息の方向が見え始めていた。
因みに、この年の有力武将の年齢を見てみると、武田信玄四十九歳、織田信長三十四歳、豊臣秀吉三十一歳、徳川家康二十六歳、西国の雄毛利元就に至っては七十一歳になっていた。
米沢城主伊達輝宗の第一子として誕生した政宗は、幼い頃は内向的な少年だったともいわれるが、やがてその武勇は頭角を現し、天正十二年(1584)十八歳にして家督を引き継いだが、その後も一族や近隣豪族との戦いに明け暮れていた。
中央から遠く離れた奥羽の地でようやく強力な地盤を築き上げかけた頃には、天下はすでに、秀吉がその手中にしようとしていたのである。
もしかすると、五郎八姫(イロハヒメ)もまた、少し遅れて生まれてきた姫だったのかもしれない。
伊達政宗が田村清顕の娘愛姫(ヨシヒメ/メゴヒメ)を正室に迎えたのは、天正七年(1579)のことである。
政宗が十三歳、愛姫が十二歳のことである。二人の年齢を考えれば、すぐに子供が生まれないのも不思議ではないが、二人の最初の子供である五郎八姫が誕生するのは、結婚後十五年後の文禄三年(1594)なのである。
このあと、二人の間には三人の子供が生まれているし、政宗の最初の子供は側室が生んだ男の子で五郎八姫の誕生より三年前のことである。なお、この庶長子である男の子は後の秀宗で、伊予宇和島十万石の初代藩主となる人物である。
また、政宗は生涯で七人以上の側室を持っているが、儲けた子供の数は全部で伝えられているだけで十六人を数える。
これらを考え合わせてみると、政宗と愛姫の間に十五年も子供が生まれなかったことが、何か運命的なものを感じてしまうのである。
もし、五郎八姫があと十年早く生まれていれば、彼女の生涯はどういうものになっていたのだろうか。
歴史において、あるいは一人の生涯においてでも、「もし」などと言い出せばきりがないのは承知しているが、どうしても考えてしまうのである。
もし十年早く生まれていれば、少なくとも、五郎八姫が松平忠輝と結ばれることはまずなかったと考えられ、徳川の影の部分を生きることはなかったと思われる。
では、どういう人生が考えられるかと言えば、おそらく、秀吉の影響を強く受けた人生になっていた可能性が高いように思われる。実際に、先に述べた三歳年上の義兄である秀宗は秀吉の猶子となっているのである。
五郎八姫が十年早く生まれていれば、秀吉は秀宗より先に五郎八姫を実質的な人質として手元に置こうとすることは十分考えられる。そうなれば、秀吉麾下の有力大名との婚姻が考えられ、政宗の動向と共に違った人生が用意されていたかもしれない。
もちろん、このような想像など、歴史を考える上では全く詮ないことであることは確かである。
歴史の事実は、関ヶ原の戦いの前年、六歳の五郎八姫は家康六男の忠輝と婚約が成立する。徳川家康が覇権を手中にするための大きな布石の一翼を担うことになったのである。
この時忠輝もまだ八歳で、この二人が結婚に至るのは七年後のことであるが、徳川政権が安定してゆく中で、波乱の生涯を強いられることになるのである。
* * *
五郎八姫は、文禄三年六月、伊達政宗の長女として誕生した。母は正室愛姫である。
政宗にはすでに庶長子の秀宗がいたが、正室との間の子を待ち望んでいて十五年目にして初めての出産に狂喜したといわれている。
当時の風潮として、当然男児出生を望んでいて、生まれてくる子供の名前は「五郎八」と決めていたが、生まれてきたのが女児だったため落胆したが、名前はそのままつけることとし、「姫」だけを付け加えたといわれている。
しかし政宗は、大変美しくそして聡明に育っていった五郎八姫をたいそう可愛がったようである。
「五郎八姫が男であったなら」と、政宗は残念がったという逸話も伝えられている。
その五郎八姫に、大きな転機が訪れてきた。
秀吉亡き後の天下を掌握すべく策動を始めていた家康にとって、伊達家は何としても味方に取り入れる必要のある人物であった。まだ若く、向こう意気の強い政宗は、秀吉との関係で何度か厳しい状況に追い込まれることがあったが、その都度陰に陽に援助の手を差し伸べてきていて、政宗も感謝の気持ちを抱いていた。
その関係を盤石のものにするための切り札となったのが、五郎八姫と家康の六男忠輝の婚約であった。
家康は、秀吉が言い残していた命令を無視して、他にも有力大名との婚姻を進めていったが、他の婚姻は、加藤清正であれ、福島正則であれ、黒田長政であれ、蜂須賀家政であれ、全て自分の娘(養女)を嫁がせるものであった。つまり、相手に人質ともいえる姫を与えているのである。
しかし、伊達政宗の場合は違っていた。婚姻とはいえ五郎八姫を人質として差し出せというものであった。
婚約が調ったのは関ヶ原の戦いの前年である慶長四年一月で、五郎八姫が六歳、忠輝が八歳の時であるが、実際に輿入れするのはずっと後のことなので、関ヶ原の合戦前に五郎八姫が徳川屋敷に移ることはなかったらしい。つまり、人質としての役にはなっておらず、この婚約による同盟強化は、政宗と家康の男と男の約束であったらしい。
五郎八姫が誕生したのは、京都の聚楽第伊達屋敷である。その後も、伏見、大坂と住いを移しているが、これは豊臣政権下での必要からだと考えられる。従って、五郎八姫は伊達家の姫ではあるが、京都生まれの大坂育ちといった環境で幼少期を過ごしており、武家の姫というよりもっと雅やかに育っていた可能性もある。
そして、伊達家の大坂屋敷や伏見屋敷で育てられていた間は、先に述べたような徳川の人質などというよりは、むしろ豊臣の人質という立場であったかもしれない。しかし、考えようでは、そのような環境なればこそ五郎八姫と忠輝の婚約は、伊達家と徳川家の紐帯に意味を持っていたともいえる。
五郎八姫が伏見から江戸に移ったのは、慶長八年(1603)のことで、この年は家康が征夷大将軍に就いた年であり、徳川政権の動きに合わせたものである。
そして慶長十一年(1606)十二月にかねて婚約中の二人は結婚した。五郎八姫十三歳、忠輝十五歳という年齢は、当時としては適齢期といえるが、この結婚はあくまでも政略的な必要からのものであり、年齢の考慮などないはずである。そう考えれば、婚約から結婚まで八年近くも間が空いているのは少々不自然に感じられる。
その理由としては、関ヶ原の戦いを挟み、豊臣から徳川へと政権が移っていく激しい期間であり婚姻が延び延びにになってしまったことが考えられる。あるいは、徳川軍の大勝利により、結婚を急ぐ必要性が薄まり、両人の適齢期まで待ったとも考えられる。どちらも納得できる理由である。
もう一つ、推測できる理由もある。
忠輝が家康に嫌われていたらしいことは多くの記録が残されているので、その程度はともかく事実であろう。しかし、それにもかかわらず忠輝はなかなか覇気のある人物であったらしい。
政宗もまた、覇気もあり野心も抱いている人物だったはずである。
五郎八姫と忠輝の婚姻は、伊達家を麾下に置くための家康の策略であったが、一方で政宗は忠輝によって徳川政権に影響力を持とうと策謀をめぐらせたとしても何の不思議もない。
忠輝を家康後継者にすることまで考えたか否かはともかく、後の御三家並、あるいはそれ以上の大藩となれば、伊達家と合わせれば徳川政権下にあって無視できない勢力を得ることになる。
二人の婚約から結婚の間に時間が空いたこと、あるいは、この後の忠輝の処遇を合わせて考えてみた時、このような推論を全く空論というわけにはいくまい。
さまざまな政略を背景とした二人の結婚であったが、その仲は極めて睦まじいものであったという。ただ、残念ながら子供は生まれなかったようである。
冷遇され続けている忠輝であるが、遅れながらも身代を膨らませてゆき、慶長十五年(1610)には越後高田藩主に任じられ、以前からの川中島と合わせ七十五万石の太守となった。
この頃の五郎八姫の動静はあまり伝えられていないが、その自覚はともかく、奥州の雄伊達家と徳川の不満分子的な忠輝とを結びつける重要な位置にいた可能性は高い。もし、そのような見方をする人物が徳川政権内に居たとすれば、伊達六十二万石、伊予伊達十万石らと忠輝七十五万石の団結は、決して面白いものではなかったであろう。
やがて、元和二年(1616)四月に家康が没すると、七月には、兄である二代将軍秀忠によって忠輝は改易の処分を受ける。理由は大坂夏の陣における不行跡とされているが、七十五万石の太守である弟を改易処分とするには、並々ならぬ政治的な判断がなされたはずである。
忠輝は伊勢国朝熊に流罪となり、その後幽閉先を変えながら、延々と流人生活を送るのである。
忠輝のこの処分に伴い、五郎八姫は離縁され実家に戻り、その後は仙台で暮らすことになる。五郎八姫二十三歳の時であった。
離縁についての詳しい記録は残されていないようであるが、どちらからの申し出にせよ、幕府の改易の目的に伊達家と忠輝との分離が含まれているとすれば、とうてい婚姻生活を続けることは出来なかったことになる。
仙台に戻った後は、仙台城本丸の西館に住いが与えられたことから、西館殿とも呼ばれたという。
五郎八姫はこの地で四十五年の年月を生きるのである。
この長い仙台での生活について残されている資料は少ない。
ただ、二代藩主となった六歳年下の同母弟である忠宗は、この姉を随分頼りにして大切に遇したといわれる。
また、母の愛姫がある時期キリシタンであったことからも、五郎八姫も入信していた可能性が高い。伊達藩は、ローマで教皇パウロ五世との謁見を実現させた遣欧使節を送り出しており、キリスト教との繋がりの強い土地柄であった。仙台に戻った五郎八姫が、何らかの形でキリシタンの活動に参加したり援助を行った可能性は否定できない。
その後の徳川政権は、厳しいキリシタン弾圧政策を行っているので、五郎八姫の動静を伝えるものが少ないのは、そのあたりにも影響があるかもしれない。
寛文元年(1661)五月、五郎八姫は六十八歳で亡くなった。墓所は、松島の天麟院である。
この時、忠輝は遥か信濃の国で健在であった。離縁した後の二人は、互いの動静について、たとえ風の便りのようなものでも伝わっていたのであろうか。
そして、もし、五郎八姫がキリシタンの教えを守り続けていたとすれば、離婚を認めない教義に従って、二人は依然夫婦だったのかもしれない。二十三歳で仙台に戻った五郎八姫には、数多くの再婚話が持ち上がったが全て拒絶したという。
遠く離れ、再びまみえる可能性など全くない状況の四十五年間であるが、もしかすると、五郎八姫は幸せな日々であったのかもしれない、と思うのである。
( 完 )
伊達の秘蔵っ子
戦国武将たちを評する場合、伊達政宗を「遅れて生まれてきた英雄」と表現されることがある。
確かに、政宗は文武に優れた武将であったし、何よりもその覇気は天下を狙うに相応しいものであったらしい。少なくとも、関ヶ原の合戦の決着がつく頃までは、天下はともかく、奥州全土を勢力下に置く程度の野望は抱いていたかに見える。
しかし、政宗は、やはり少し遅れて生まれてきたのである。
彼が誕生したのは永禄十年(1567)のことで、戦国の始まりとされる応仁の乱から百年目に当たる年である。戦国の世はようやくその終息の方向が見え始めていた。
因みに、この年の有力武将の年齢を見てみると、武田信玄四十九歳、織田信長三十四歳、豊臣秀吉三十一歳、徳川家康二十六歳、西国の雄毛利元就に至っては七十一歳になっていた。
米沢城主伊達輝宗の第一子として誕生した政宗は、幼い頃は内向的な少年だったともいわれるが、やがてその武勇は頭角を現し、天正十二年(1584)十八歳にして家督を引き継いだが、その後も一族や近隣豪族との戦いに明け暮れていた。
中央から遠く離れた奥羽の地でようやく強力な地盤を築き上げかけた頃には、天下はすでに、秀吉がその手中にしようとしていたのである。
もしかすると、五郎八姫(イロハヒメ)もまた、少し遅れて生まれてきた姫だったのかもしれない。
伊達政宗が田村清顕の娘愛姫(ヨシヒメ/メゴヒメ)を正室に迎えたのは、天正七年(1579)のことである。
政宗が十三歳、愛姫が十二歳のことである。二人の年齢を考えれば、すぐに子供が生まれないのも不思議ではないが、二人の最初の子供である五郎八姫が誕生するのは、結婚後十五年後の文禄三年(1594)なのである。
このあと、二人の間には三人の子供が生まれているし、政宗の最初の子供は側室が生んだ男の子で五郎八姫の誕生より三年前のことである。なお、この庶長子である男の子は後の秀宗で、伊予宇和島十万石の初代藩主となる人物である。
また、政宗は生涯で七人以上の側室を持っているが、儲けた子供の数は全部で伝えられているだけで十六人を数える。
これらを考え合わせてみると、政宗と愛姫の間に十五年も子供が生まれなかったことが、何か運命的なものを感じてしまうのである。
もし、五郎八姫があと十年早く生まれていれば、彼女の生涯はどういうものになっていたのだろうか。
歴史において、あるいは一人の生涯においてでも、「もし」などと言い出せばきりがないのは承知しているが、どうしても考えてしまうのである。
もし十年早く生まれていれば、少なくとも、五郎八姫が松平忠輝と結ばれることはまずなかったと考えられ、徳川の影の部分を生きることはなかったと思われる。
では、どういう人生が考えられるかと言えば、おそらく、秀吉の影響を強く受けた人生になっていた可能性が高いように思われる。実際に、先に述べた三歳年上の義兄である秀宗は秀吉の猶子となっているのである。
五郎八姫が十年早く生まれていれば、秀吉は秀宗より先に五郎八姫を実質的な人質として手元に置こうとすることは十分考えられる。そうなれば、秀吉麾下の有力大名との婚姻が考えられ、政宗の動向と共に違った人生が用意されていたかもしれない。
もちろん、このような想像など、歴史を考える上では全く詮ないことであることは確かである。
歴史の事実は、関ヶ原の戦いの前年、六歳の五郎八姫は家康六男の忠輝と婚約が成立する。徳川家康が覇権を手中にするための大きな布石の一翼を担うことになったのである。
この時忠輝もまだ八歳で、この二人が結婚に至るのは七年後のことであるが、徳川政権が安定してゆく中で、波乱の生涯を強いられることになるのである。
* * *
五郎八姫は、文禄三年六月、伊達政宗の長女として誕生した。母は正室愛姫である。
政宗にはすでに庶長子の秀宗がいたが、正室との間の子を待ち望んでいて十五年目にして初めての出産に狂喜したといわれている。
当時の風潮として、当然男児出生を望んでいて、生まれてくる子供の名前は「五郎八」と決めていたが、生まれてきたのが女児だったため落胆したが、名前はそのままつけることとし、「姫」だけを付け加えたといわれている。
しかし政宗は、大変美しくそして聡明に育っていった五郎八姫をたいそう可愛がったようである。
「五郎八姫が男であったなら」と、政宗は残念がったという逸話も伝えられている。
その五郎八姫に、大きな転機が訪れてきた。
秀吉亡き後の天下を掌握すべく策動を始めていた家康にとって、伊達家は何としても味方に取り入れる必要のある人物であった。まだ若く、向こう意気の強い政宗は、秀吉との関係で何度か厳しい状況に追い込まれることがあったが、その都度陰に陽に援助の手を差し伸べてきていて、政宗も感謝の気持ちを抱いていた。
その関係を盤石のものにするための切り札となったのが、五郎八姫と家康の六男忠輝の婚約であった。
家康は、秀吉が言い残していた命令を無視して、他にも有力大名との婚姻を進めていったが、他の婚姻は、加藤清正であれ、福島正則であれ、黒田長政であれ、蜂須賀家政であれ、全て自分の娘(養女)を嫁がせるものであった。つまり、相手に人質ともいえる姫を与えているのである。
しかし、伊達政宗の場合は違っていた。婚姻とはいえ五郎八姫を人質として差し出せというものであった。
婚約が調ったのは関ヶ原の戦いの前年である慶長四年一月で、五郎八姫が六歳、忠輝が八歳の時であるが、実際に輿入れするのはずっと後のことなので、関ヶ原の合戦前に五郎八姫が徳川屋敷に移ることはなかったらしい。つまり、人質としての役にはなっておらず、この婚約による同盟強化は、政宗と家康の男と男の約束であったらしい。
五郎八姫が誕生したのは、京都の聚楽第伊達屋敷である。その後も、伏見、大坂と住いを移しているが、これは豊臣政権下での必要からだと考えられる。従って、五郎八姫は伊達家の姫ではあるが、京都生まれの大坂育ちといった環境で幼少期を過ごしており、武家の姫というよりもっと雅やかに育っていた可能性もある。
そして、伊達家の大坂屋敷や伏見屋敷で育てられていた間は、先に述べたような徳川の人質などというよりは、むしろ豊臣の人質という立場であったかもしれない。しかし、考えようでは、そのような環境なればこそ五郎八姫と忠輝の婚約は、伊達家と徳川家の紐帯に意味を持っていたともいえる。
五郎八姫が伏見から江戸に移ったのは、慶長八年(1603)のことで、この年は家康が征夷大将軍に就いた年であり、徳川政権の動きに合わせたものである。
そして慶長十一年(1606)十二月にかねて婚約中の二人は結婚した。五郎八姫十三歳、忠輝十五歳という年齢は、当時としては適齢期といえるが、この結婚はあくまでも政略的な必要からのものであり、年齢の考慮などないはずである。そう考えれば、婚約から結婚まで八年近くも間が空いているのは少々不自然に感じられる。
その理由としては、関ヶ原の戦いを挟み、豊臣から徳川へと政権が移っていく激しい期間であり婚姻が延び延びにになってしまったことが考えられる。あるいは、徳川軍の大勝利により、結婚を急ぐ必要性が薄まり、両人の適齢期まで待ったとも考えられる。どちらも納得できる理由である。
もう一つ、推測できる理由もある。
忠輝が家康に嫌われていたらしいことは多くの記録が残されているので、その程度はともかく事実であろう。しかし、それにもかかわらず忠輝はなかなか覇気のある人物であったらしい。
政宗もまた、覇気もあり野心も抱いている人物だったはずである。
五郎八姫と忠輝の婚姻は、伊達家を麾下に置くための家康の策略であったが、一方で政宗は忠輝によって徳川政権に影響力を持とうと策謀をめぐらせたとしても何の不思議もない。
忠輝を家康後継者にすることまで考えたか否かはともかく、後の御三家並、あるいはそれ以上の大藩となれば、伊達家と合わせれば徳川政権下にあって無視できない勢力を得ることになる。
二人の婚約から結婚の間に時間が空いたこと、あるいは、この後の忠輝の処遇を合わせて考えてみた時、このような推論を全く空論というわけにはいくまい。
さまざまな政略を背景とした二人の結婚であったが、その仲は極めて睦まじいものであったという。ただ、残念ながら子供は生まれなかったようである。
冷遇され続けている忠輝であるが、遅れながらも身代を膨らませてゆき、慶長十五年(1610)には越後高田藩主に任じられ、以前からの川中島と合わせ七十五万石の太守となった。
この頃の五郎八姫の動静はあまり伝えられていないが、その自覚はともかく、奥州の雄伊達家と徳川の不満分子的な忠輝とを結びつける重要な位置にいた可能性は高い。もし、そのような見方をする人物が徳川政権内に居たとすれば、伊達六十二万石、伊予伊達十万石らと忠輝七十五万石の団結は、決して面白いものではなかったであろう。
やがて、元和二年(1616)四月に家康が没すると、七月には、兄である二代将軍秀忠によって忠輝は改易の処分を受ける。理由は大坂夏の陣における不行跡とされているが、七十五万石の太守である弟を改易処分とするには、並々ならぬ政治的な判断がなされたはずである。
忠輝は伊勢国朝熊に流罪となり、その後幽閉先を変えながら、延々と流人生活を送るのである。
忠輝のこの処分に伴い、五郎八姫は離縁され実家に戻り、その後は仙台で暮らすことになる。五郎八姫二十三歳の時であった。
離縁についての詳しい記録は残されていないようであるが、どちらからの申し出にせよ、幕府の改易の目的に伊達家と忠輝との分離が含まれているとすれば、とうてい婚姻生活を続けることは出来なかったことになる。
仙台に戻った後は、仙台城本丸の西館に住いが与えられたことから、西館殿とも呼ばれたという。
五郎八姫はこの地で四十五年の年月を生きるのである。
この長い仙台での生活について残されている資料は少ない。
ただ、二代藩主となった六歳年下の同母弟である忠宗は、この姉を随分頼りにして大切に遇したといわれる。
また、母の愛姫がある時期キリシタンであったことからも、五郎八姫も入信していた可能性が高い。伊達藩は、ローマで教皇パウロ五世との謁見を実現させた遣欧使節を送り出しており、キリスト教との繋がりの強い土地柄であった。仙台に戻った五郎八姫が、何らかの形でキリシタンの活動に参加したり援助を行った可能性は否定できない。
その後の徳川政権は、厳しいキリシタン弾圧政策を行っているので、五郎八姫の動静を伝えるものが少ないのは、そのあたりにも影響があるかもしれない。
寛文元年(1661)五月、五郎八姫は六十八歳で亡くなった。墓所は、松島の天麟院である。
この時、忠輝は遥か信濃の国で健在であった。離縁した後の二人は、互いの動静について、たとえ風の便りのようなものでも伝わっていたのであろうか。
そして、もし、五郎八姫がキリシタンの教えを守り続けていたとすれば、離婚を認めない教義に従って、二人は依然夫婦だったのかもしれない。二十三歳で仙台に戻った五郎八姫には、数多くの再婚話が持ち上がったが全て拒絶したという。
遠く離れ、再びまみえる可能性など全くない状況の四十五年間であるが、もしかすると、五郎八姫は幸せな日々であったのかもしれない、と思うのである。
( 完 )