稲刈りが始まっている室生。
台風12号の影響で稲が倒れていることから拍車がかかっているから行事どころではないのだが、と話す村人たち。
コンバインを荷台に乗せて稲田に向かう。
それは風の影響だけでなく雨がよく降ったので重みで倒れているのだという。
倒れた稲は手刈りをしなければならない。
ハサギに掛けて稲を干す。
枯れた藁は高く売れる。
畳のウラ地にするのだそうだ。
身体の湿気を吸い取ってくれる畳。
軽い流行りの畳ではこうはいかんと話す。
ムシロやコモにもあったが昨今は見なくなったのは機械で刈っているからだという。
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その頃、太鼓が叩かれて村中にその音が聞こえるようにする。
一人、二人と自家の畑で栽培した野菜を袋に詰め込んで牟山寺にやってくる。
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春先は天候不順だった。
今年のデキはあまり良くないと話す。
持ち寄った野菜は種類ごとに纏められてナスビとインゲンマメ、ヤツデの葉だけが取り上げられた。
ナスビは二つ切りにして左右の角に小さな穴を開ける。
そこに半切りしたインゲンマメを挿す。
まるで耳のように見える。
「ウサギの耳のようだと昨年は言ってたが、どうもシカのツノにも見えるなあ」と今年の役員たちが口々にいう。
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一方では穴の空いた竹筒にごはんを詰めていく。
そこへ木の棒を突っ込んでメシを押し出す。
それはお皿に見立てたヤツデの葉に立てる。
これをメシツキと呼んでいる。
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ナスビもメシも20個ずつ作られる。
村の戸数であってそれは本堂に供えられる。
御供はもう一種類ある。
本来なら葉付きダイコンを使うのだが、今年は間に合わず代用のシシトウで恰好をつけられた。
すべてが出来上がるとコジュウタに入れて本堂に運ばれて長い机に並べられた。
ずらりと揃った御供は豊作の証し。
オコナイと呼ばれる正月の初祈祷でたばったヤナギの木や矢は田んぼに挿す。
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豊作を祈願したものだ。
その残りが寺縁側に見られた。
6月には祈祷されたお札を虫送りの際に村内の数か所へ挿しておいた。
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それらは豊作を祈願したものである。
そのおかげか稲は金色に染まって収穫の日を迎えた。
野菜もそうである。
それらの恵みをこの日の会式に供える。
本尊の正面にはツキメシや野菜、果物などを載せた椀が四つ。
その高膳を供えられローソクに火が灯された。
こうした世話をするのは自治会役員と寺世話(てらぜわ)の人たち。
その音が村に聞こえた数時間後のことだ。
御供が供えられた本堂には婦人たちは上がっていった。
「いつもならもうちょっと多いのですが・・・」と申しわけなさそうに般若心経を3巻唱えられた。
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かつて会式は3日あった。
五日、十日、十五日だったそうだ。
その三日目の十五日はここでコモリをしていた。
「女のコモリ」だといって、めんめんが家で作ったごちそうを持ち寄って団らんしていたそうだ。
ズイキとドロイモが入ったご飯は塩味だった。
当時は導師がおられて木魚を叩いてお念仏を唱えたという。
子供も一緒になって会食をしていた。
境内ではしゃぎまわっていたし盆踊りもあった。
9月にはイモ名月やマメ名月(旧暦9月13日の十三夜)もしていた。
あっちこっちの家へ行って「だあーっと盗っていきよった」と婦人たちが話す食べ物はダンゴだったそうだ。
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無山では盆のときにトビウオを食べる習慣はなかったが、婚姻した年の夏にはトビウオをソーメンを嫁の実家に送っていた。
お中元の際に贈った習わしは「昔のことや」と話す。
年末にもあったようだからそれは歳暮であろう。
そのお盆の13日には竹棒に挿したワラを燃やして先祖さんを迎える。
そのワラ火は送りの15日にもされる。
供えた薄い経木。
戒名が書かれた木だ。
それらも含めて供えたものは笠間川へ持って行く。
前の川だからマエノカワと呼んでいる橋の袂だそうだ。
そこで燃やして先祖さんは天に帰ってもらうらしい。
(H23. 9.11 EOS40D撮影)
台風12号の影響で稲が倒れていることから拍車がかかっているから行事どころではないのだが、と話す村人たち。
コンバインを荷台に乗せて稲田に向かう。
それは風の影響だけでなく雨がよく降ったので重みで倒れているのだという。
倒れた稲は手刈りをしなければならない。
ハサギに掛けて稲を干す。
枯れた藁は高く売れる。
畳のウラ地にするのだそうだ。
身体の湿気を吸い取ってくれる畳。
軽い流行りの畳ではこうはいかんと話す。
ムシロやコモにもあったが昨今は見なくなったのは機械で刈っているからだという。
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その頃、太鼓が叩かれて村中にその音が聞こえるようにする。
一人、二人と自家の畑で栽培した野菜を袋に詰め込んで牟山寺にやってくる。
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春先は天候不順だった。
今年のデキはあまり良くないと話す。
持ち寄った野菜は種類ごとに纏められてナスビとインゲンマメ、ヤツデの葉だけが取り上げられた。
ナスビは二つ切りにして左右の角に小さな穴を開ける。
そこに半切りしたインゲンマメを挿す。
まるで耳のように見える。
「ウサギの耳のようだと昨年は言ってたが、どうもシカのツノにも見えるなあ」と今年の役員たちが口々にいう。
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一方では穴の空いた竹筒にごはんを詰めていく。
そこへ木の棒を突っ込んでメシを押し出す。
それはお皿に見立てたヤツデの葉に立てる。
これをメシツキと呼んでいる。
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ナスビもメシも20個ずつ作られる。
村の戸数であってそれは本堂に供えられる。
御供はもう一種類ある。
本来なら葉付きダイコンを使うのだが、今年は間に合わず代用のシシトウで恰好をつけられた。
すべてが出来上がるとコジュウタに入れて本堂に運ばれて長い机に並べられた。
ずらりと揃った御供は豊作の証し。
オコナイと呼ばれる正月の初祈祷でたばったヤナギの木や矢は田んぼに挿す。
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豊作を祈願したものだ。
その残りが寺縁側に見られた。
6月には祈祷されたお札を虫送りの際に村内の数か所へ挿しておいた。
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それらは豊作を祈願したものである。
そのおかげか稲は金色に染まって収穫の日を迎えた。
野菜もそうである。
それらの恵みをこの日の会式に供える。
本尊の正面にはツキメシや野菜、果物などを載せた椀が四つ。
その高膳を供えられローソクに火が灯された。
こうした世話をするのは自治会役員と寺世話(てらぜわ)の人たち。
その音が村に聞こえた数時間後のことだ。
御供が供えられた本堂には婦人たちは上がっていった。
「いつもならもうちょっと多いのですが・・・」と申しわけなさそうに般若心経を3巻唱えられた。
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かつて会式は3日あった。
五日、十日、十五日だったそうだ。
その三日目の十五日はここでコモリをしていた。
「女のコモリ」だといって、めんめんが家で作ったごちそうを持ち寄って団らんしていたそうだ。
ズイキとドロイモが入ったご飯は塩味だった。
当時は導師がおられて木魚を叩いてお念仏を唱えたという。
子供も一緒になって会食をしていた。
境内ではしゃぎまわっていたし盆踊りもあった。
9月にはイモ名月やマメ名月(旧暦9月13日の十三夜)もしていた。
あっちこっちの家へ行って「だあーっと盗っていきよった」と婦人たちが話す食べ物はダンゴだったそうだ。
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無山では盆のときにトビウオを食べる習慣はなかったが、婚姻した年の夏にはトビウオをソーメンを嫁の実家に送っていた。
お中元の際に贈った習わしは「昔のことや」と話す。
年末にもあったようだからそれは歳暮であろう。
そのお盆の13日には竹棒に挿したワラを燃やして先祖さんを迎える。
そのワラ火は送りの15日にもされる。
供えた薄い経木。
戒名が書かれた木だ。
それらも含めて供えたものは笠間川へ持って行く。
前の川だからマエノカワと呼んでいる橋の袂だそうだ。
そこで燃やして先祖さんは天に帰ってもらうらしい。
(H23. 9.11 EOS40D撮影)