マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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白土町大人念仏講の彼岸講

2011年10月22日 09時06分39秒 | 大和郡山市へ
大和郡山市白土町には子供の念仏講と大人の念仏講がある。

お盆の時期に六斎鉦を叩いていた講中だ。

鉦が叩かれる音からチャチャンコ、チャンガラガンとも呼ばれている講中である。

その大人の念仏講には三つの組に分かれている。

それぞれの組には名称がないことから仮にA組、B組、C組としておこう。

お盆に六斎念仏を営まれた三つの組はそれぞれに分かれて寄合をしている。

A組とB組は春の彼岸の夜に集まって会食をしている。

鉦や文書を納めている箱を管理する当番家を挽き継ぐ日でもある。

場所はといえばA組が公民館でB組は宿と呼ばれる当番家であった。

C組も公民館であるが秋の彼岸の日に集まる。

かつては春と秋に寄っていた。

ところが春はイチゴの栽培が忙しい。

そういうわけで秋だけになった。

3年ほど前までは当番家の宿でしていたがA組と同様に公民館に移った。

集まった講中は9人。

女性がほとんどである。

鉦を叩くのは男性。

旦那は仕事が忙しいからと婦人に任しているそうだ。

昭和46年は13戸が講中であったが現在は9戸になった。

座敷には一合半の寿司折り。それを肴に酒を飲む。

「ビールは要らん。お酒は五合と決まっている。」と話した長老さん。

B組がされた拝礼もなく会食が始まった。

男性が多かったときはそれくらいのお酒が要ったのだが女性が多くなれば酒の飲みも少なく半時間ほどで終いのトーフのすまし汁が出されてお開きになった。

その間には次の当番家やチャンガラに行く人を決めておられた彼岸講と呼ばれる寄合いの夜はこうして終えた。

膳のトーフ汁は今でも変わらないが昭和26年ころはアゲ、イモ、ゼンマイ(改めカマボコ半切り)、コンニャク、ゴボーオなどが(煮ものだったと思われる)文書に書き記されている。

これをオヒラ(平の漢字が書かれていた)と呼んでいたHさんは80歳。

他に昭和48年に嫁入りされたN婦人の話ではその頃は既にトーフ汁と一合半の寿司だったというから、それ以前に膳料理に変化があったのであろう。

昭和40年頃、白土ではないが天理櫟本で川沿いに建つ家々の門口(イヌヤライ)で竹製の祠があったことを思い出された当番のNさん。

そこには人形さんみたいなものがあったという。

添上高校辺りから中街道に至るまでの筋道だったそうだがさてさてそれは・・・。

(H23. 9.23 EOS40D撮影)