昨年来から白土町の大人念仏講の所有物を調査している。
念仏講は三つの組で構成されており、それぞれが年当番を設けて念仏鉦などを保管している。
それぞれの組には名称がない。
しかもお互いがどの組に所属しているか交流がないことから他の組のことは存知されていない。
それゆえ、一軒、一軒を訪ねていかねばならない。
昨年はK氏が管理されている鉦と古文書を拝見させていただいた。
今年も使われた4枚の鉦には「白土村念佛講中」の刻印があった。
これらは隣家のK家の先人が寄進したと伝わっている。
3枚の鉦の中央には墨書が認められたが文字は判読できない。
もうひとつ重要な書類が残されていた。
念仏講の箱の中にはそれらが入っていることが知っておられたが未だかって見たこともなかったと話していた。
それは念佛講中の記帳で、年号が判別したのは新しいものから明治28年、天明、寛政年だった。
覚え書きと想定される帳には文政10年(1827年)が記されていた。
三冊の記帳のすべてを拝見していなかったので、念仏鉦を叩かれた翌日の8日に管理されていた年当番のY家を訪れた。
念佛講箱には三冊の文書があった。
一つは「文政十年十月吉日 念佛講中」で、もう一つは「明治二十八年八月吉祥 念佛講中」とある。
そこには弥陀方観音堂念仏講中世話人の名があるがほとんどが明治二十八年から平成十年までの宿営みの件を記載していた。
それには当時三組があると記されている。
先の文書には江戸期から明治二十五年などが見られることからその前のものだろう。
もう一冊には表紙がなく明らかに先の2冊と記載様式が異なる。
それにあった年号が天明七年(1787年)二月や八年、寛政十年(1789年)二月や文政二年(1819年)二月だった。
ということはその冊は先の2冊よりも以前の営み帳だと考えられる。
三つの組に名称がないことから仮にこの組をA組としておこう。
そうして残る2組の存在を確認いたしたく訪れた当番家のN家。
8月7日に念仏鉦を叩かれたあとのことだった。
同組のM氏は民俗博物館で展示したらどうかと4枚の鉦の展示協力をされたのだ。
それには「白土村念佛講中」の刻印があった。
ところが文書はN家が管理している。
そのようなことで訪問に至ったのだ。
預かりの念佛講帳箱を拝見すれば文書、念佛講中の墨書がある三合三合と思われる枡、銅製の湯とうなどが出てきた。
中には鉦が一枚残されていた。
それは足が三本ある鉦だ。
床に置いて叩いていたのであろう。
それには「宝永三年(1706年)十月十五日念仏講中 六条住播磨大掾(じょう)貞的作」と判読したのだがどうだろう。
文書は「明治三年十月十四日 永代念佛講中」だった。
当番家に聞いても文書はそれだけだという。
江戸期の文書は見つからなかったが仮にB組としておく。
残すはC組であるが、秋の彼岸の寄り合いがあると聞きその場で確認を得たいと思う。
(H23. 8. 8 EOS40D撮影)
(H23. 9.19 EOS40D撮影)
念仏講は三つの組で構成されており、それぞれが年当番を設けて念仏鉦などを保管している。
それぞれの組には名称がない。
しかもお互いがどの組に所属しているか交流がないことから他の組のことは存知されていない。
それゆえ、一軒、一軒を訪ねていかねばならない。
昨年はK氏が管理されている鉦と古文書を拝見させていただいた。
今年も使われた4枚の鉦には「白土村念佛講中」の刻印があった。
これらは隣家のK家の先人が寄進したと伝わっている。
3枚の鉦の中央には墨書が認められたが文字は判読できない。
もうひとつ重要な書類が残されていた。
念仏講の箱の中にはそれらが入っていることが知っておられたが未だかって見たこともなかったと話していた。
それは念佛講中の記帳で、年号が判別したのは新しいものから明治28年、天明、寛政年だった。
覚え書きと想定される帳には文政10年(1827年)が記されていた。
三冊の記帳のすべてを拝見していなかったので、念仏鉦を叩かれた翌日の8日に管理されていた年当番のY家を訪れた。
念佛講箱には三冊の文書があった。
一つは「文政十年十月吉日 念佛講中」で、もう一つは「明治二十八年八月吉祥 念佛講中」とある。
そこには弥陀方観音堂念仏講中世話人の名があるがほとんどが明治二十八年から平成十年までの宿営みの件を記載していた。
それには当時三組があると記されている。
先の文書には江戸期から明治二十五年などが見られることからその前のものだろう。
もう一冊には表紙がなく明らかに先の2冊と記載様式が異なる。
それにあった年号が天明七年(1787年)二月や八年、寛政十年(1789年)二月や文政二年(1819年)二月だった。
ということはその冊は先の2冊よりも以前の営み帳だと考えられる。
三つの組に名称がないことから仮にこの組をA組としておこう。
そうして残る2組の存在を確認いたしたく訪れた当番家のN家。
8月7日に念仏鉦を叩かれたあとのことだった。
同組のM氏は民俗博物館で展示したらどうかと4枚の鉦の展示協力をされたのだ。
それには「白土村念佛講中」の刻印があった。
ところが文書はN家が管理している。
そのようなことで訪問に至ったのだ。
預かりの念佛講帳箱を拝見すれば文書、念佛講中の墨書がある三合三合と思われる枡、銅製の湯とうなどが出てきた。
中には鉦が一枚残されていた。
それは足が三本ある鉦だ。
床に置いて叩いていたのであろう。
それには「宝永三年(1706年)十月十五日念仏講中 六条住播磨大掾(じょう)貞的作」と判読したのだがどうだろう。
文書は「明治三年十月十四日 永代念佛講中」だった。
当番家に聞いても文書はそれだけだという。
江戸期の文書は見つからなかったが仮にB組としておく。
残すはC組であるが、秋の彼岸の寄り合いがあると聞きその場で確認を得たいと思う。
(H23. 8. 8 EOS40D撮影)
(H23. 9.19 EOS40D撮影)