お社と呼ばれるお仮屋を建てられた額田部推古神社の当家たち。
一番当家から四番までの当家は家の玄関口に笹竹を立てて注連縄を張る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/be/c96a74da0dd6c831c4fa3a977905b8c7.jpg)
土台は四角い形で上は芝生を植えている。
この年はお店で買ったものだがかつては田畑に生えているシバを土ごと採ってきてそれを土台に被せた。
一番当家ではもっと生えてくるようにと肥料を散りばめている。
当家では組み立て式の神社を祀っている。
それはお社と呼ばれている推古神社である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/2c/26bb12d4f94ded8aad50b57cedbb2375.jpg)
四角く塀に囲まれたお社の中には杉の枝葉が植えられた。
中央の頂点には藁束が見られる。
そのお社には日と月を象った燈籠も下げられた。
鳥居には推古神社の名がある扁額も付けられている。
まさにこのお社は推古神社の分霊を祭るお社である。
お神酒、塩、米に生鯛を供えて神職を待つ当家の家族。
後方には一週間前に作られた黒白の大御幣やヤナギの木に根付き稲を取り付けたものも置かれた。
これらは祭りのお渡りの際に息子や孫が持つという。
現在は座敷に置かれているが、かつては家外の庭に設えたお社だった。
昭和58年(1983)に一番当家を勤めたK婦人によれば当時のお社は組み立て式でなく杉葉で覆う造りだったそうだ。
幅は一間ぐらいだった。
当時の資料によれば縦幅1.9mで横幅は1.6m。
高さは約1mの規模で、竹で組まれていた。
周囲の枠は麦藁で社周りはシバを敷き杉葉で覆ったお社は矢来で組み、一辺が80cmの正方形だった。
今年の一番当家のN氏によれば15年ほど前に組み立て式になったという。
平成7年ころには既に組み立て型だったと調査報告もあるからそうなのだろう。
また、40年前というから昭和40年代であろう。
当時、一番当家を勤めたY婦人の話によれば庭を「カド」と呼んでいた。
「カド」と呼ばれるその場は母屋前の広い空間の前庭である。
刈り取った稲籾はムシロを敷き干していたことから「カドボシ」。
農家の家の造りは前庭を「カド」と呼んでいるのだ。
一番当家の付近に住んでいたS婦人やもう一人のY婦人もそうだったと口々に話す。
その場所といえば、十五夜のお月見にススキやハギ花、お神酒、塩、洗米を供えていた丹後庄に住むM婦人もそういう。
それを示す記録写真がY家で残されていた。
先のK家が一番当家を勤めた5年後だというから昭和63年であろう。
その姿は昭和58年に書き記された当家資料の図面と同じであった。
この写真によれば社の前に小石が数個並べられている。
当時行われていた竜田川の小石拾いである。
「ウツシマワシ」が行われる前の9月28日に当家たちが身を清める川に行って10個の小石を拾う。
それを毎日置いていたのであるが、今日を含めその後の祭典では見られない。
ご厚意でその写真を提供していただいたのでここに掲載しておく。
昨今では祭りの際における家の記録を撮られることを度々目にする。
一生に一度の晴れ舞台でもあるわけだ。
それは後年において貴重な民俗写真となっていく。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/88/81692fb1f3741544cab7ab574fbd539f.jpg)
(H23.10.13 スキャン)
夕方、日が暮れるころに推古神社に集まってきた一番から四番の当家たち。
それにミナライとも呼ばれている新当家の4人。
この夜に分霊を遷す神職を待っている。
到着すれば直ちに分霊遷しの神事が始まった。
祓えの儀、祝詞を奏上されてしばらくすれば口に白いマスクをした神職が神社を飛び出した。
手にしているのはサカキだ。
それは四つある。
四番当家が神職の足元を照らしながら額田部の街中を歩いている。
街灯の明かりはところどころ。
それがなければ闇の道中。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/97/23e356cc21961ec7cdce9d6ded5023bc.jpg)
「オーー オーーー」と唸るような発声でヒタヒタと早足で一番当家に向かう。
無言のまま向う足取り。
道中では人に出あっても決して話してはならないという。
注連縄を張られた当家の家中は真っ暗闇。
燈籠に灯された蝋燭の僅かな光のなかでウツシマワシが行われる。
緊張が走る分霊遷しの儀式である。
そうして二番、三番、四番へと巡っていく。
すべてを四番当家が道先案内をするわけにはいかないから途中で一番当家に替った。
分霊遷しを終えると当家たちは直ちに神社に戻らなければならない。
神社で再び神職を迎えるのだ。
こうして緊張感が張りつめた分霊遷しを終えた当家たちは我が家に戻っていった。
前述の婦人たちがいうにはお社をヤカタと呼んでいる座敷のお社に分霊が遷されたサカキが立てられていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4f/8e/2c5200b82fb5120cf8b0b878707b89fe.jpg)
この夜から毎日、祭りの日まで朝に蝋燭に火を灯して神饌を供える。
家人は神さんの前で手を合わせて拝むと当家たちが話した。
来週のお渡りの直前にはこの夜の逆順で再び神遷し(戻し)がされるそうだ。
(H23.10. 2 EOS40D撮影)
一番当家から四番までの当家は家の玄関口に笹竹を立てて注連縄を張る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/be/c96a74da0dd6c831c4fa3a977905b8c7.jpg)
土台は四角い形で上は芝生を植えている。
この年はお店で買ったものだがかつては田畑に生えているシバを土ごと採ってきてそれを土台に被せた。
一番当家ではもっと生えてくるようにと肥料を散りばめている。
当家では組み立て式の神社を祀っている。
それはお社と呼ばれている推古神社である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/2c/26bb12d4f94ded8aad50b57cedbb2375.jpg)
四角く塀に囲まれたお社の中には杉の枝葉が植えられた。
中央の頂点には藁束が見られる。
そのお社には日と月を象った燈籠も下げられた。
鳥居には推古神社の名がある扁額も付けられている。
まさにこのお社は推古神社の分霊を祭るお社である。
お神酒、塩、米に生鯛を供えて神職を待つ当家の家族。
後方には一週間前に作られた黒白の大御幣やヤナギの木に根付き稲を取り付けたものも置かれた。
これらは祭りのお渡りの際に息子や孫が持つという。
現在は座敷に置かれているが、かつては家外の庭に設えたお社だった。
昭和58年(1983)に一番当家を勤めたK婦人によれば当時のお社は組み立て式でなく杉葉で覆う造りだったそうだ。
幅は一間ぐらいだった。
当時の資料によれば縦幅1.9mで横幅は1.6m。
高さは約1mの規模で、竹で組まれていた。
周囲の枠は麦藁で社周りはシバを敷き杉葉で覆ったお社は矢来で組み、一辺が80cmの正方形だった。
今年の一番当家のN氏によれば15年ほど前に組み立て式になったという。
平成7年ころには既に組み立て型だったと調査報告もあるからそうなのだろう。
また、40年前というから昭和40年代であろう。
当時、一番当家を勤めたY婦人の話によれば庭を「カド」と呼んでいた。
「カド」と呼ばれるその場は母屋前の広い空間の前庭である。
刈り取った稲籾はムシロを敷き干していたことから「カドボシ」。
農家の家の造りは前庭を「カド」と呼んでいるのだ。
一番当家の付近に住んでいたS婦人やもう一人のY婦人もそうだったと口々に話す。
その場所といえば、十五夜のお月見にススキやハギ花、お神酒、塩、洗米を供えていた丹後庄に住むM婦人もそういう。
それを示す記録写真がY家で残されていた。
先のK家が一番当家を勤めた5年後だというから昭和63年であろう。
その姿は昭和58年に書き記された当家資料の図面と同じであった。
この写真によれば社の前に小石が数個並べられている。
当時行われていた竜田川の小石拾いである。
「ウツシマワシ」が行われる前の9月28日に当家たちが身を清める川に行って10個の小石を拾う。
それを毎日置いていたのであるが、今日を含めその後の祭典では見られない。
ご厚意でその写真を提供していただいたのでここに掲載しておく。
昨今では祭りの際における家の記録を撮られることを度々目にする。
一生に一度の晴れ舞台でもあるわけだ。
それは後年において貴重な民俗写真となっていく。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/88/81692fb1f3741544cab7ab574fbd539f.jpg)
(H23.10.13 スキャン)
夕方、日が暮れるころに推古神社に集まってきた一番から四番の当家たち。
それにミナライとも呼ばれている新当家の4人。
この夜に分霊を遷す神職を待っている。
到着すれば直ちに分霊遷しの神事が始まった。
祓えの儀、祝詞を奏上されてしばらくすれば口に白いマスクをした神職が神社を飛び出した。
手にしているのはサカキだ。
それは四つある。
四番当家が神職の足元を照らしながら額田部の街中を歩いている。
街灯の明かりはところどころ。
それがなければ闇の道中。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/97/23e356cc21961ec7cdce9d6ded5023bc.jpg)
「オーー オーーー」と唸るような発声でヒタヒタと早足で一番当家に向かう。
無言のまま向う足取り。
道中では人に出あっても決して話してはならないという。
注連縄を張られた当家の家中は真っ暗闇。
燈籠に灯された蝋燭の僅かな光のなかでウツシマワシが行われる。
緊張が走る分霊遷しの儀式である。
そうして二番、三番、四番へと巡っていく。
すべてを四番当家が道先案内をするわけにはいかないから途中で一番当家に替った。
分霊遷しを終えると当家たちは直ちに神社に戻らなければならない。
神社で再び神職を迎えるのだ。
こうして緊張感が張りつめた分霊遷しを終えた当家たちは我が家に戻っていった。
前述の婦人たちがいうにはお社をヤカタと呼んでいる座敷のお社に分霊が遷されたサカキが立てられていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4f/8e/2c5200b82fb5120cf8b0b878707b89fe.jpg)
この夜から毎日、祭りの日まで朝に蝋燭に火を灯して神饌を供える。
家人は神さんの前で手を合わせて拝むと当家たちが話した。
来週のお渡りの直前にはこの夜の逆順で再び神遷し(戻し)がされるそうだ。
(H23.10. 2 EOS40D撮影)