大淀町文化会館小ホールで講演があった。
平成26年度事業の「あらかし土曜講座-世界遺産・吉野の自然と文化-」である。
これまで「吉野に残る“海”の伝承」、「吉野-その自然と人-」、「源流から里・街へ」であった。
所用と重なり出かけることはできなかったが、これは是非とも聴講したいと思って出かけた。
講師は大淀町教育委員会の松田度氏だ。
度々、お世話になっている学芸員が話すテーマは「三つの“野”-吉野・熊野・高野を深める-」である。
4話シリーズの土曜講座の〆である。
講演が始まるまでは、これまで講話されたレジメをいただいて拝読していた。
吉野歴史資料館館長の池田淳氏のレジメにある「潮淵の潮」。
大和特有のオナンジ参りの際に持ち帰る川中の小石拾い。
その場は妹山を背に鎮座する大名持神社下に流れる淵である。
「シオブチ」と呼ばれる深い淵から湧き出る水は「口に含めばピリッとしてサイダーのようだ」と古老が話す記事だ。
その味は津風呂川の流域にも存在するらしく同じように泡が湧きでていた。
津風呂は温泉がある地。泉質は炭酸食塩水。
その話しで思い出したのが下市町の新住(あたらすみ)。
オカリヤを立てられたN家の当主が話した件だ。
氏神さんの八幡神社は山の方角だ。
鎮座する宮山から流れる水は地下水となって吉野川に注ぐ。
水が昏々と湧きでる大自然の清水は「風呂の場」の名がある。
温めだからその名が付いたようだが、ぷくぷくと泡が浮いていた。
コーヒーに丁度いいまろやかな味だと話していた。
ピリッとした温泉で名高い有馬温泉。
その泉質を利用した有馬サイダーがある。
ピリッした味は潮のように感じた「シオブチ」に興味をもったとは言うまでもない。
三つの世界遺産に共通する“野”を取りあげて話す松田度氏の講演が始まった。
「世界を代表する聖地があるのは吉野山の金峯山寺である」と述べたのは管長だそうだ。
「吉野」と呼ぶのは「吉野山」であろうか。「熊野」は広々とした“野”。
高野山は広い盆地であるが「高野」はどこであるのか。
これらの疑問を解いていく。
“野”は「の」或いは「ぬ」。
「ぬ」は草深くさまざまな食物が生えている地。
クリやアワとか四季折々に草が生えているが、稲作には不向きな地である。
“野”は狩場でもある。
野を駆け巡る動物を狩る場は豊かさの象徴だと話す。
“野”はいつのまにか、“山”にすり替わって聖地になった・・・・。
“野”は一つに絞られる解答を求めることなく、意味を探っていく。
吉野山・奥駆道は世界遺産に指定された「吉野・大峯」。吉野山・大峯山信仰は平安時代からだ。
吉野町で最も古い木造を安置する世尊寺は飛鳥時代には存在していたと云う。
東塔跡がその時代を示すと云ってスライドに映し出す。
平安時代の貞観十六年(875)に京都醍醐寺を開創した聖宝が吉野山の基礎を作った。
金峯山寺の中興の祖でもある。
吉野山に鎮座する吉野水分神社も平安時代の創建。
その時代以前はさっぱり判っていないと云う。
飛鳥時代には吉野山でなく、吉野ノ宮離宮の地である宮滝であろう。
象山(さきやま)の南にそびえる山が吉野山だ。
大淀町の土田(つった)に縄文時代から弥生時代にかけて使われていたとされる土器類が発掘されている。
その後の平成14年の発掘で発見された竃がある堅穴住居や掘立柱建物、庭園などの遺構によって当時の郡役所であったことが判った。
かつて「吉野」と呼んでいたのは大淀町・吉野町の北岸の平野部。
吉野宮も吉野監(よしのげん)=(郡衙;ぐんが)が存在していた。
その地は「えー野原」から「良き野原」となり、「よしの」になったのではと話す。
「みよしのの象山・・」と万葉集に謡われた「みよしの」の地は飛鳥の宮を世話する人たちが住んでいたようだ。
「熊野」の話題提供は熊野の地に所縁のある和歌山の加太(かだ)の浦から始まる。
熊野の岬から常世に渡ったとされる少名彦命。
和歌山沿岸地に熊野の神を祭る白浜。
円月島がある地だ。
奇岩が多い景勝地は三重県尾鷲や盾ケ崎まで延々と続く。
三重県熊野市有馬町に花窟(はなのいわや)がある。
神庫神社のご神体は大きな岩のゴトビキ岩。
蛙がのそっとやってきて綱を掛けられた様相からその名がついたと云う。
「熊野」の“野”はどこであるのか。
古い史料に「クマノオオカミ」の名がある。
熊野本宮大社の祭神は「スサノオノミコト」。
神話によれば「クマノオオカミ」が「スサノオノミコト」になったそうだ。
「スサノオ」は渡来系の神さん。
神話が記すに降りたった地は「クマナリノミネ」。
いつしか「クマナリノミネ」は遷座されて出雲の国に移った。
その「クマナリ」を何度も呼ぶうちに「クマノ」になったと話す。
熊野は常世の海であり、海人たちの伝承がある。
「アマノ」と呼ぶ海人は「クマノ」に伝えた。クマノノクニツクリ(熊野国造)は奈良時代。和歌山南部に作った地が「クマノ」。
「熊野国」の成立であると話す。
世界遺産の一つに「高野山がある。
丹生・高野明神とともに栄えた真言宗のメッカ。
高野山の地の一角にある丹生都比売神社。
空海が高野山内に寺を開く都度、許可を得た神社である。
本家は和歌山かつらぎ町天野の丹生都比売神社。
分霊を何度も勧請して高野山に遷したそうだ。
かつらぎ町天野(あまの)の天野は広々とした“野”である。
三谷薬師堂の女神神像が最近発見された。女神の神像は丹生都比売神像であると云われている鎌倉時代の作。
神像は吉野川から流れ着いて高野山に行ったと云う。
「ニウ(フツヒメ)伝承がある。
「天野」の地はどこから・・・である。
仮説を話す松田講師。
それは有馬野(あまの)では・・と云う。
有間の皇子は天智天皇の皇位争いの策略に巻きこまれて和歌山海南市の藤代(ふじしろ)坂で処刑されたという説がある。
白浜温泉を「牟婁の湯」と呼んでいる和歌山の景勝地。
藤代より170kmを三日間で往復したと史料にあるらしい。
かつらぎ町天野に鎮座する丹生都比売神社は「菅川(つつがわ)の藤代峯」と推定されるそうだ。
鎮魂の地に祀った「スサノオノミコト」は高野山に連れていった。
神聖な地は「神山」。「神の峯」は「高野の峯」になったであろうと話す。
「太政官符案併遺告」より高野山の四至(しいし)を続けて話す。
四至とは東西南北の境界を示す語。
天平十二年‘740」の籍文によれば、東は丹生の川上で、南は有田川の南の長峯。西が星川の神勾(かみまがり)の谷で、北は吉野川に囲まれた地であるそうだ。
1時間半に亘って講義をされた松田節。
知ることが多く、興味深く拝聴させてもらった。
「野」のテーマを詰めるにさまざまな地を訪ねてこられた。
教わること多しの三つの「野」。
それぞれの「・・野」の文字(漢字)が初出される文献にはどんなものがあるのか。
「高野」は「こうの」でなくて、何故に「こうや」と呼ぶのか。
「聖地」と呼ばれるようになったのはいつかなど、謎は深まるばかりだ。
松田氏は「クマナリ」の語源を用いて論を展開されたが、「クマソ」はどうなのか。
また、紀伊半島を海から眺めた場合はどうであるのか、10年後に纏められると云う10年後を「待つ」ことはできない年齢に達する。
奈良県内旧村名に「・・野」のつく村がいくつかある。
「春日野」、「桃香野」、「大野」、「的野」、「北野」、「井戸野」、「鹿野園」、「深野」、「都介野」、「御経野」、「青野」、「萱野」、「勢野」、「立野」、「巻野内」、「猪木野」、「長野」、「上芳野」、「下芳野」、「平野」、「冬野」、「五条野」、「樋野」、「磯野」、「染野」、「宇野」、「上野」、「表野」、「久留野」、「西久留野」、「島野」、「牧野」、「上野地」、「内野」、「新野」、「塩野」、「栗野」、「御吉野」、「南芳野」、「殿野」、「滝野」、「老野」、「神野」、「宗川野」、「西野」、「入野」、「南大野」・・・・がある。
三つの「野」の考えた方と一致するのか、それとも物理的・地域的な違いはどこにあるのか。
現地調査に何年かかるやら・・と思った。
帰路について地元に戻ってきた。
大和中央道に咲いていた野の花を撮っておいた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/cb/b4ddc453904164166c8138cc2739106d.jpg)
大和郡山市にある地名で“野”がつく旧村は井戸野がただ一つ。
松田氏が話したキーで答えを探るが見えてこない。
(H26. 6.14 記)
平成26年度事業の「あらかし土曜講座-世界遺産・吉野の自然と文化-」である。
これまで「吉野に残る“海”の伝承」、「吉野-その自然と人-」、「源流から里・街へ」であった。
所用と重なり出かけることはできなかったが、これは是非とも聴講したいと思って出かけた。
講師は大淀町教育委員会の松田度氏だ。
度々、お世話になっている学芸員が話すテーマは「三つの“野”-吉野・熊野・高野を深める-」である。
4話シリーズの土曜講座の〆である。
講演が始まるまでは、これまで講話されたレジメをいただいて拝読していた。
吉野歴史資料館館長の池田淳氏のレジメにある「潮淵の潮」。
大和特有のオナンジ参りの際に持ち帰る川中の小石拾い。
その場は妹山を背に鎮座する大名持神社下に流れる淵である。
「シオブチ」と呼ばれる深い淵から湧き出る水は「口に含めばピリッとしてサイダーのようだ」と古老が話す記事だ。
その味は津風呂川の流域にも存在するらしく同じように泡が湧きでていた。
津風呂は温泉がある地。泉質は炭酸食塩水。
その話しで思い出したのが下市町の新住(あたらすみ)。
オカリヤを立てられたN家の当主が話した件だ。
氏神さんの八幡神社は山の方角だ。
鎮座する宮山から流れる水は地下水となって吉野川に注ぐ。
水が昏々と湧きでる大自然の清水は「風呂の場」の名がある。
温めだからその名が付いたようだが、ぷくぷくと泡が浮いていた。
コーヒーに丁度いいまろやかな味だと話していた。
ピリッとした温泉で名高い有馬温泉。
その泉質を利用した有馬サイダーがある。
ピリッした味は潮のように感じた「シオブチ」に興味をもったとは言うまでもない。
三つの世界遺産に共通する“野”を取りあげて話す松田度氏の講演が始まった。
「世界を代表する聖地があるのは吉野山の金峯山寺である」と述べたのは管長だそうだ。
「吉野」と呼ぶのは「吉野山」であろうか。「熊野」は広々とした“野”。
高野山は広い盆地であるが「高野」はどこであるのか。
これらの疑問を解いていく。
“野”は「の」或いは「ぬ」。
「ぬ」は草深くさまざまな食物が生えている地。
クリやアワとか四季折々に草が生えているが、稲作には不向きな地である。
“野”は狩場でもある。
野を駆け巡る動物を狩る場は豊かさの象徴だと話す。
“野”はいつのまにか、“山”にすり替わって聖地になった・・・・。
“野”は一つに絞られる解答を求めることなく、意味を探っていく。
吉野山・奥駆道は世界遺産に指定された「吉野・大峯」。吉野山・大峯山信仰は平安時代からだ。
吉野町で最も古い木造を安置する世尊寺は飛鳥時代には存在していたと云う。
東塔跡がその時代を示すと云ってスライドに映し出す。
平安時代の貞観十六年(875)に京都醍醐寺を開創した聖宝が吉野山の基礎を作った。
金峯山寺の中興の祖でもある。
吉野山に鎮座する吉野水分神社も平安時代の創建。
その時代以前はさっぱり判っていないと云う。
飛鳥時代には吉野山でなく、吉野ノ宮離宮の地である宮滝であろう。
象山(さきやま)の南にそびえる山が吉野山だ。
大淀町の土田(つった)に縄文時代から弥生時代にかけて使われていたとされる土器類が発掘されている。
その後の平成14年の発掘で発見された竃がある堅穴住居や掘立柱建物、庭園などの遺構によって当時の郡役所であったことが判った。
かつて「吉野」と呼んでいたのは大淀町・吉野町の北岸の平野部。
吉野宮も吉野監(よしのげん)=(郡衙;ぐんが)が存在していた。
その地は「えー野原」から「良き野原」となり、「よしの」になったのではと話す。
「みよしのの象山・・」と万葉集に謡われた「みよしの」の地は飛鳥の宮を世話する人たちが住んでいたようだ。
「熊野」の話題提供は熊野の地に所縁のある和歌山の加太(かだ)の浦から始まる。
熊野の岬から常世に渡ったとされる少名彦命。
和歌山沿岸地に熊野の神を祭る白浜。
円月島がある地だ。
奇岩が多い景勝地は三重県尾鷲や盾ケ崎まで延々と続く。
三重県熊野市有馬町に花窟(はなのいわや)がある。
神庫神社のご神体は大きな岩のゴトビキ岩。
蛙がのそっとやってきて綱を掛けられた様相からその名がついたと云う。
「熊野」の“野”はどこであるのか。
古い史料に「クマノオオカミ」の名がある。
熊野本宮大社の祭神は「スサノオノミコト」。
神話によれば「クマノオオカミ」が「スサノオノミコト」になったそうだ。
「スサノオ」は渡来系の神さん。
神話が記すに降りたった地は「クマナリノミネ」。
いつしか「クマナリノミネ」は遷座されて出雲の国に移った。
その「クマナリ」を何度も呼ぶうちに「クマノ」になったと話す。
熊野は常世の海であり、海人たちの伝承がある。
「アマノ」と呼ぶ海人は「クマノ」に伝えた。クマノノクニツクリ(熊野国造)は奈良時代。和歌山南部に作った地が「クマノ」。
「熊野国」の成立であると話す。
世界遺産の一つに「高野山がある。
丹生・高野明神とともに栄えた真言宗のメッカ。
高野山の地の一角にある丹生都比売神社。
空海が高野山内に寺を開く都度、許可を得た神社である。
本家は和歌山かつらぎ町天野の丹生都比売神社。
分霊を何度も勧請して高野山に遷したそうだ。
かつらぎ町天野(あまの)の天野は広々とした“野”である。
三谷薬師堂の女神神像が最近発見された。女神の神像は丹生都比売神像であると云われている鎌倉時代の作。
神像は吉野川から流れ着いて高野山に行ったと云う。
「ニウ(フツヒメ)伝承がある。
「天野」の地はどこから・・・である。
仮説を話す松田講師。
それは有馬野(あまの)では・・と云う。
有間の皇子は天智天皇の皇位争いの策略に巻きこまれて和歌山海南市の藤代(ふじしろ)坂で処刑されたという説がある。
白浜温泉を「牟婁の湯」と呼んでいる和歌山の景勝地。
藤代より170kmを三日間で往復したと史料にあるらしい。
かつらぎ町天野に鎮座する丹生都比売神社は「菅川(つつがわ)の藤代峯」と推定されるそうだ。
鎮魂の地に祀った「スサノオノミコト」は高野山に連れていった。
神聖な地は「神山」。「神の峯」は「高野の峯」になったであろうと話す。
「太政官符案併遺告」より高野山の四至(しいし)を続けて話す。
四至とは東西南北の境界を示す語。
天平十二年‘740」の籍文によれば、東は丹生の川上で、南は有田川の南の長峯。西が星川の神勾(かみまがり)の谷で、北は吉野川に囲まれた地であるそうだ。
1時間半に亘って講義をされた松田節。
知ることが多く、興味深く拝聴させてもらった。
「野」のテーマを詰めるにさまざまな地を訪ねてこられた。
教わること多しの三つの「野」。
それぞれの「・・野」の文字(漢字)が初出される文献にはどんなものがあるのか。
「高野」は「こうの」でなくて、何故に「こうや」と呼ぶのか。
「聖地」と呼ばれるようになったのはいつかなど、謎は深まるばかりだ。
松田氏は「クマナリ」の語源を用いて論を展開されたが、「クマソ」はどうなのか。
また、紀伊半島を海から眺めた場合はどうであるのか、10年後に纏められると云う10年後を「待つ」ことはできない年齢に達する。
奈良県内旧村名に「・・野」のつく村がいくつかある。
「春日野」、「桃香野」、「大野」、「的野」、「北野」、「井戸野」、「鹿野園」、「深野」、「都介野」、「御経野」、「青野」、「萱野」、「勢野」、「立野」、「巻野内」、「猪木野」、「長野」、「上芳野」、「下芳野」、「平野」、「冬野」、「五条野」、「樋野」、「磯野」、「染野」、「宇野」、「上野」、「表野」、「久留野」、「西久留野」、「島野」、「牧野」、「上野地」、「内野」、「新野」、「塩野」、「栗野」、「御吉野」、「南芳野」、「殿野」、「滝野」、「老野」、「神野」、「宗川野」、「西野」、「入野」、「南大野」・・・・がある。
三つの「野」の考えた方と一致するのか、それとも物理的・地域的な違いはどこにあるのか。
現地調査に何年かかるやら・・と思った。
帰路について地元に戻ってきた。
大和中央道に咲いていた野の花を撮っておいた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/cb/b4ddc453904164166c8138cc2739106d.jpg)
大和郡山市にある地名で“野”がつく旧村は井戸野がただ一つ。
松田氏が話したキーで答えを探るが見えてこない。
(H26. 6.14 記)