橿原考古学研究所附属博物館で春季特別展「弥生時代の墓―死者の世界」が始まっている。
期間は平成26年4月19日~6月22日までだ。
4月29日に北井利幸氏が展示内容を解説されるのであったが、仕事を終えてすっかり失念していた。
興味があった今回の展示はいつかは出かけてみたいと思っていた。
期間はまだまだあると思っていたがずるずると経過する。
この日は煩わしい作業を終えて思い切った。
研究所を訪ねたが、出はらっているという。
仕方なく入館料を払って拝観してみようと思って受付に出向いた。
奥から登場した北井さん。会場で解説をしていたようだ。
「弥生時代の墓―死者の世界―」は古来の現実であるが、葬送の儀礼は現代に通じる何かが判るかも知れない。
意識していたのは魏志倭人伝に記された倭国の大乱の痕跡があるのか、ないのかである。
倭人伝ではそうとうな大乱であったように思えるのだが、戦いで死を迎えた痕跡は九州や山口県で発掘された状況では数多くあると認知している。
ところが奈良県内ではそのような様子もないぐらいに発掘数が少ない。
展示される死者の状況を知ることによって、それを確かめたかったのだ。
北井さんは手にしていた図録をくださった。
写真を撮ることは禁じられている館内。
案内にメモをとることも失念していた。
いただいた図録を見て、思い出しながら下記に残しておこう。
今回の展示を担当された北井さんの案内で館内を巡る。
展示物は近畿地方で発掘された21遺跡。
弥生時代前期(約2000年前)~中期(2300年前)の期間だ。
大きな木棺がある。
大阪府四条畷市の雁屋遺跡から出土した木棺は長さが約2m、幅65cm、高さ40cmで材はコウヤマキの板だ。
長方形四枚を組み合わせた木棺には横から嵌めた小口板で封じ、崩れないようにしている。
保存状態がいい木棺に圧倒される。
木棺は蓋板、側板、小口板、底板から構成される。
構造は組み板によって3分類されるそうだ。
葬られた棺は木棺の他に甕棺もあれば、棺でなく直接穴を掘った場に埋葬している場合もある。
いわゆる土壙墓(どこうぼ)である。
今のところ、奈良県内の人骨埋葬発掘事例は縄文時代晩期が最も古いそうだ。
展示されてあった橿原市観音寺の本馬遺跡では16基の土壙墓と19基の土器棺墓だった。
推定身長165cmの男性の他、4歳前後の幼児骨も出土した。
土壙墓周辺に生活域を示す住居跡もあることから墓域と密着していたようだ。
弥生時代ともなれば方形周溝墓、円形周溝墓、台状墓が作られ、組合せ式木棺が採用される。
兵庫県尼崎市の田能遺跡で発掘された土器棺墓は日常的に用いる土器を棺として利用していた転用墓。
主に新生児や幼児の埋葬である。甕棺と土器棺墓は専用の棺とするか、日常土器であるかの違いである。
興味深い出土に兵庫県尼崎市の東武庫遺跡から発掘された堅櫛の破片がある。
表面に赤漆が塗られた破片から復元図が描かれていた。
人体のどの個所にどういう具合に付けていたのであろうか。
儀礼で見に付けていたのか想像する。
木棺が初めて発見されたのは兵庫県尼崎市の田能遺跡。
その後、大阪府豊中市の勝部遺跡、大阪府東大阪市の巨摩遺跡、大阪府四条畷市の雁屋遺跡、兵庫県神戸市の玉津田中遺跡によって全体像がみえてきたそうだ。
長い年月に亘って土中に埋もれていた木棺の多くは腐食して、遺存することは稀である。
木棺の材はヒノキもあるが、多くはコウヤマキ製だ。
植生は集落付近にあったのか、それとも山から伐りとって運んだのか・・・。
豊中市の勝部遺跡の木棺人骨から背に刺さった石槍や数本打ち込まれた石鏃が発見されている。
深く刺さっていないように見える一事例であるが、出土は4体。腰骨・肋骨・頭骨など喰い込んだ状態であった。
もしかとすれば戦いで亡くなったと想定されようが、弥生時代の争乱を物語ることはできない。
神戸市の玉津田中遺跡から1m弱の木棺が出土した。
その長さから小児用であったことが判る。
下層からは女性人骨を埋葬した長さ167cmの木棺も出土した。
そこには性別不明の人骨があった。
棺内からはウリ科植物の種子とともに石鏃もあった。
玉津田中遺跡の木棺内から出土した鋒(きっさき)がある。
青銅製の武器である鋒から人間の皮下脂肪が検出されたそうだ。
被葬者は剣か矛で腹部を突き刺され、折れた鋒が体内に残存したまま埋葬されたと考えられる。
橿原市の四分遺跡で出土した木蓋土壙墓からも石鏃が発見されている。
一つの墓壙に2体の人骨である。ご互いが頭を逆方向に向けている男女の埋葬事例は特殊だ。
追葬ではなく同時に埋葬された人骨に石鏃があった。
女性は2カ所で、男性は4カ所にあった。打ちこまれていた傷痕部位は、女性が左大腿骨・中位胸椎の2カ所。男性は前頭骨・左肩甲骨・左右の寛骨・腰椎の6カ所である。
年齢推定は女性が18~25歳で、男性は25~30歳の若き男女。
武器は石鏃だけでなく、重量のある武器で生命を断たれた。
これは争いでなく、何らかの事情で葬られたと考える。
かけおち、それとも兄妹、或いは近親婚の根絶・みせしめではないだろうか。
兵庫県神戸市の新方遺跡の出土に3体の弥生時代初期人骨がある。
1体は17本も刺さったサヌカイト製石鏃が発見されている。
これほど多くの石鏃は上半身に集中しているというから、矢の先端に括りつけて何人もの人が矢で射った。
何らかの事件によってみせしめに打ったのではないだろうか。
ただ、そうであれば集落の墓に埋葬することは考えにくい。
集落を守るために悪病祓いの人身御供ではないだろうか。
大阪府八尾市新家町の山賀遺跡や東大阪市の巨摩遺跡においても僅かであるが、石鏃が発見されている。
近畿地方の出土例はそれほど多くなく、争乱は集落ごとの小規模であったようだと語る北井さん。
田原本町の羽子田遺跡からは2点の石鏃と1点の石剣が出土したが、武器ではなく、近年の研究によって装着していた可能性が高くなった。
四条畷市の雁屋遺跡で出土した木棺の経緯が面白い。
木棺の側板一枚が近くの民家で濡れ縁としておよそ35年間使用されていたというのだ。
年輪年代法によって測定された結果は弥生時代中期の木材だった。
民家で長期間使用されているにも拘わらず美しいのである。
奈良県内で発掘された弥生時代の墓は広範囲に亘る。
盆地部では、奈良市の柏木遺跡、大和郡山市の八条・八条北遺跡、田原本町の唐古・鍵遺跡、田原本町の十六面・薬王寺・阪手東・矢部南・羽子田(石鏃2点・石剣1点)遺跡、三宅町の伴堂東・三河遺跡、桜井市の芝・大福遺跡、橿原市の坪井・四分・土橋・西曽我・曲川・観音寺本馬遺跡、御所市の鴨都波遺跡、葛城市の小林遺跡がある。
東部山間では、奈良市のゼニヤクボ遺跡がある。
吉野川流域では、五條市の原・中遺跡、吉野町の宮滝遺跡などだ。大古の奈良盆地は里山までを境界とする湖であったことは知られている。
山麓にクリの木が植えられ集落人の食糧にしていた。
いつしか湖は徐々に水面が干上って川を形成した。
流れは盆地を抜けて大阪湾に繋がる大和川となる。
干上った土地に移っていった時代は判らないが小規模な集落が形成されていった。
私がもっていた縄文人が住まいする土地は高地性集落。
弥生人は盆地部にいなかったと思っていた。
北井さんにそのことを問えば、そうでもなく盆地部においても縄文時代の遺跡が多くあるという。
神戸市の玉津田中遺跡からは水田跡も見つかっており、そこからは木製の鋤・鍬・堅臼も出土したそうだ。
玉津田中遺跡竹添地区の方形周溝墓最下層から周溝を掘削した際に使われたと思われる着柄鋤が出土した。
東大阪市の巨摩遺跡の方形周溝墓からも供献土器とともに鋤の柄が出土している。
墓の穴を掘った鋤は死者とともに埋葬されたのである。
これは現代でも通じる民俗の在り方。
土葬の際に墓穴掘りを大和郡山市の矢田町住民は「アナホリ」と呼んでいたが、穴掘り道具の話題はでなかった。
四条畷市の雁屋遺跡で出土した四本脚付きの木製容器がある。
材はヤマグワである。
木を刳り抜いて作った容器は何の道具であったのだろうか。
鉄製道具がまだない時代ではサヌカイト石器が考えられるにしても、手間がかかる細かい作業。
時間はそうとうなものであったろう。上部の口縁部には蓋がずれないような小細工も施されている。
同遺跡ではモミ材を浅くU字形に加工した2点の木製品が出土した。
それは人体を運ぶ担架であったと推定される。その担架の下から出土したのは頭を西北方向に向けたノグリミ製の鳥形木製品も出土した。
口の部分に切り込みがあり、腹部の下には棒を挿し込んだと推定される穴が開けられていた。
死者を担架に乗せて、鳥形木製品とともに方形周溝墓に葬ったと思われる立体感がある出土品だ。
それにしても翼を閉じた鳥形木製品の「鳥」はいったい何の種類を模したのであろうか。
形からすればカモでもない。
シギやサギのようにも見えない。
タカ、カラス、ハト、ニワトリでもない。
稲作技術の伝幡によって農耕儀礼に使われたという説があるが、出土したのは墓であるだけに葬送儀礼であることに間違いないと思う。
埋葬した被葬者には身につけていたさまざまな装飾品が認められる。
それらによって性別・役割・性格など、生前の姿を考える助けになる。尼崎市の田能遺跡から出土した碧玉製管玉は通していた紐が溶けてバラバラになっていた。
一つ一つの長さは一定でない。
復元された菅玉は実に美しい。もう一つは左椀に嵌めた白銅製釧(くしろ)で、形態はゴホウラを縦切りにした貝輪を模している。内部が空洞で小さな玉のようなものがある。
神戸市の新方遺跡から出土した鹿角製の指輪だ。
これもまた細かい手作業で細工されたのであろう。
根気がいる仕事だったに違いないが、右手指に5点を装着していたのは男性だ。
この他にも多数の装身具があるが、詳しくは図録を参照されたい。
こうして特別に案内してくださった館内の展示はすべてがレプリカでなく本物だという。
館外に出てから手を合わして帰路についた。
(H26. 5.20 SB932SH撮影)
期間は平成26年4月19日~6月22日までだ。
4月29日に北井利幸氏が展示内容を解説されるのであったが、仕事を終えてすっかり失念していた。
興味があった今回の展示はいつかは出かけてみたいと思っていた。
期間はまだまだあると思っていたがずるずると経過する。
この日は煩わしい作業を終えて思い切った。
研究所を訪ねたが、出はらっているという。
仕方なく入館料を払って拝観してみようと思って受付に出向いた。
奥から登場した北井さん。会場で解説をしていたようだ。
「弥生時代の墓―死者の世界―」は古来の現実であるが、葬送の儀礼は現代に通じる何かが判るかも知れない。
意識していたのは魏志倭人伝に記された倭国の大乱の痕跡があるのか、ないのかである。
倭人伝ではそうとうな大乱であったように思えるのだが、戦いで死を迎えた痕跡は九州や山口県で発掘された状況では数多くあると認知している。
ところが奈良県内ではそのような様子もないぐらいに発掘数が少ない。
展示される死者の状況を知ることによって、それを確かめたかったのだ。
北井さんは手にしていた図録をくださった。
写真を撮ることは禁じられている館内。
案内にメモをとることも失念していた。
いただいた図録を見て、思い出しながら下記に残しておこう。
今回の展示を担当された北井さんの案内で館内を巡る。
展示物は近畿地方で発掘された21遺跡。
弥生時代前期(約2000年前)~中期(2300年前)の期間だ。
大きな木棺がある。
大阪府四条畷市の雁屋遺跡から出土した木棺は長さが約2m、幅65cm、高さ40cmで材はコウヤマキの板だ。
長方形四枚を組み合わせた木棺には横から嵌めた小口板で封じ、崩れないようにしている。
保存状態がいい木棺に圧倒される。
木棺は蓋板、側板、小口板、底板から構成される。
構造は組み板によって3分類されるそうだ。
葬られた棺は木棺の他に甕棺もあれば、棺でなく直接穴を掘った場に埋葬している場合もある。
いわゆる土壙墓(どこうぼ)である。
今のところ、奈良県内の人骨埋葬発掘事例は縄文時代晩期が最も古いそうだ。
展示されてあった橿原市観音寺の本馬遺跡では16基の土壙墓と19基の土器棺墓だった。
推定身長165cmの男性の他、4歳前後の幼児骨も出土した。
土壙墓周辺に生活域を示す住居跡もあることから墓域と密着していたようだ。
弥生時代ともなれば方形周溝墓、円形周溝墓、台状墓が作られ、組合せ式木棺が採用される。
兵庫県尼崎市の田能遺跡で発掘された土器棺墓は日常的に用いる土器を棺として利用していた転用墓。
主に新生児や幼児の埋葬である。甕棺と土器棺墓は専用の棺とするか、日常土器であるかの違いである。
興味深い出土に兵庫県尼崎市の東武庫遺跡から発掘された堅櫛の破片がある。
表面に赤漆が塗られた破片から復元図が描かれていた。
人体のどの個所にどういう具合に付けていたのであろうか。
儀礼で見に付けていたのか想像する。
木棺が初めて発見されたのは兵庫県尼崎市の田能遺跡。
その後、大阪府豊中市の勝部遺跡、大阪府東大阪市の巨摩遺跡、大阪府四条畷市の雁屋遺跡、兵庫県神戸市の玉津田中遺跡によって全体像がみえてきたそうだ。
長い年月に亘って土中に埋もれていた木棺の多くは腐食して、遺存することは稀である。
木棺の材はヒノキもあるが、多くはコウヤマキ製だ。
植生は集落付近にあったのか、それとも山から伐りとって運んだのか・・・。
豊中市の勝部遺跡の木棺人骨から背に刺さった石槍や数本打ち込まれた石鏃が発見されている。
深く刺さっていないように見える一事例であるが、出土は4体。腰骨・肋骨・頭骨など喰い込んだ状態であった。
もしかとすれば戦いで亡くなったと想定されようが、弥生時代の争乱を物語ることはできない。
神戸市の玉津田中遺跡から1m弱の木棺が出土した。
その長さから小児用であったことが判る。
下層からは女性人骨を埋葬した長さ167cmの木棺も出土した。
そこには性別不明の人骨があった。
棺内からはウリ科植物の種子とともに石鏃もあった。
玉津田中遺跡の木棺内から出土した鋒(きっさき)がある。
青銅製の武器である鋒から人間の皮下脂肪が検出されたそうだ。
被葬者は剣か矛で腹部を突き刺され、折れた鋒が体内に残存したまま埋葬されたと考えられる。
橿原市の四分遺跡で出土した木蓋土壙墓からも石鏃が発見されている。
一つの墓壙に2体の人骨である。ご互いが頭を逆方向に向けている男女の埋葬事例は特殊だ。
追葬ではなく同時に埋葬された人骨に石鏃があった。
女性は2カ所で、男性は4カ所にあった。打ちこまれていた傷痕部位は、女性が左大腿骨・中位胸椎の2カ所。男性は前頭骨・左肩甲骨・左右の寛骨・腰椎の6カ所である。
年齢推定は女性が18~25歳で、男性は25~30歳の若き男女。
武器は石鏃だけでなく、重量のある武器で生命を断たれた。
これは争いでなく、何らかの事情で葬られたと考える。
かけおち、それとも兄妹、或いは近親婚の根絶・みせしめではないだろうか。
兵庫県神戸市の新方遺跡の出土に3体の弥生時代初期人骨がある。
1体は17本も刺さったサヌカイト製石鏃が発見されている。
これほど多くの石鏃は上半身に集中しているというから、矢の先端に括りつけて何人もの人が矢で射った。
何らかの事件によってみせしめに打ったのではないだろうか。
ただ、そうであれば集落の墓に埋葬することは考えにくい。
集落を守るために悪病祓いの人身御供ではないだろうか。
大阪府八尾市新家町の山賀遺跡や東大阪市の巨摩遺跡においても僅かであるが、石鏃が発見されている。
近畿地方の出土例はそれほど多くなく、争乱は集落ごとの小規模であったようだと語る北井さん。
田原本町の羽子田遺跡からは2点の石鏃と1点の石剣が出土したが、武器ではなく、近年の研究によって装着していた可能性が高くなった。
四条畷市の雁屋遺跡で出土した木棺の経緯が面白い。
木棺の側板一枚が近くの民家で濡れ縁としておよそ35年間使用されていたというのだ。
年輪年代法によって測定された結果は弥生時代中期の木材だった。
民家で長期間使用されているにも拘わらず美しいのである。
奈良県内で発掘された弥生時代の墓は広範囲に亘る。
盆地部では、奈良市の柏木遺跡、大和郡山市の八条・八条北遺跡、田原本町の唐古・鍵遺跡、田原本町の十六面・薬王寺・阪手東・矢部南・羽子田(石鏃2点・石剣1点)遺跡、三宅町の伴堂東・三河遺跡、桜井市の芝・大福遺跡、橿原市の坪井・四分・土橋・西曽我・曲川・観音寺本馬遺跡、御所市の鴨都波遺跡、葛城市の小林遺跡がある。
東部山間では、奈良市のゼニヤクボ遺跡がある。
吉野川流域では、五條市の原・中遺跡、吉野町の宮滝遺跡などだ。大古の奈良盆地は里山までを境界とする湖であったことは知られている。
山麓にクリの木が植えられ集落人の食糧にしていた。
いつしか湖は徐々に水面が干上って川を形成した。
流れは盆地を抜けて大阪湾に繋がる大和川となる。
干上った土地に移っていった時代は判らないが小規模な集落が形成されていった。
私がもっていた縄文人が住まいする土地は高地性集落。
弥生人は盆地部にいなかったと思っていた。
北井さんにそのことを問えば、そうでもなく盆地部においても縄文時代の遺跡が多くあるという。
神戸市の玉津田中遺跡からは水田跡も見つかっており、そこからは木製の鋤・鍬・堅臼も出土したそうだ。
玉津田中遺跡竹添地区の方形周溝墓最下層から周溝を掘削した際に使われたと思われる着柄鋤が出土した。
東大阪市の巨摩遺跡の方形周溝墓からも供献土器とともに鋤の柄が出土している。
墓の穴を掘った鋤は死者とともに埋葬されたのである。
これは現代でも通じる民俗の在り方。
土葬の際に墓穴掘りを大和郡山市の矢田町住民は「アナホリ」と呼んでいたが、穴掘り道具の話題はでなかった。
四条畷市の雁屋遺跡で出土した四本脚付きの木製容器がある。
材はヤマグワである。
木を刳り抜いて作った容器は何の道具であったのだろうか。
鉄製道具がまだない時代ではサヌカイト石器が考えられるにしても、手間がかかる細かい作業。
時間はそうとうなものであったろう。上部の口縁部には蓋がずれないような小細工も施されている。
同遺跡ではモミ材を浅くU字形に加工した2点の木製品が出土した。
それは人体を運ぶ担架であったと推定される。その担架の下から出土したのは頭を西北方向に向けたノグリミ製の鳥形木製品も出土した。
口の部分に切り込みがあり、腹部の下には棒を挿し込んだと推定される穴が開けられていた。
死者を担架に乗せて、鳥形木製品とともに方形周溝墓に葬ったと思われる立体感がある出土品だ。
それにしても翼を閉じた鳥形木製品の「鳥」はいったい何の種類を模したのであろうか。
形からすればカモでもない。
シギやサギのようにも見えない。
タカ、カラス、ハト、ニワトリでもない。
稲作技術の伝幡によって農耕儀礼に使われたという説があるが、出土したのは墓であるだけに葬送儀礼であることに間違いないと思う。
埋葬した被葬者には身につけていたさまざまな装飾品が認められる。
それらによって性別・役割・性格など、生前の姿を考える助けになる。尼崎市の田能遺跡から出土した碧玉製管玉は通していた紐が溶けてバラバラになっていた。
一つ一つの長さは一定でない。
復元された菅玉は実に美しい。もう一つは左椀に嵌めた白銅製釧(くしろ)で、形態はゴホウラを縦切りにした貝輪を模している。内部が空洞で小さな玉のようなものがある。
神戸市の新方遺跡から出土した鹿角製の指輪だ。
これもまた細かい手作業で細工されたのであろう。
根気がいる仕事だったに違いないが、右手指に5点を装着していたのは男性だ。
この他にも多数の装身具があるが、詳しくは図録を参照されたい。
こうして特別に案内してくださった館内の展示はすべてがレプリカでなく本物だという。
館外に出てから手を合わして帰路についた。
(H26. 5.20 SB932SH撮影)