椎木町や西町を目指して走っていた大和中央道。
小林町の交差点を通りがかったときのことだ。
水を張った田んぼでマンガ掻きをしていた婦人がいた。
もしかとすればと思って停車すればSさんだった。
マツリで世話になった右座のMさんのお許しをいただいて車を停めて立ち話。
翌日は田植えをすると話していた。
話題は転じて小林町の古い絵馬の保存に移った。
小林町の氏神さんは杵築神社。
平成24年の10月にマツリを終えた翌年1月に造営に際して撤去の神事でお祓いをすると聞いていた。
その日は所用で訪れることはできなかった。
3月には上棟祭を斎行された。
それより数週間前には拝殿等を撤去された場で祈年祭が行われた。
遡って1月7日のことだ。
カメラのキタムラ奈良南店で出合った住民は右座のSさんだった。
Sさんはマツリで撮らせてもらった写真を持っていた。
それを持ちこんで店員さんと相談されていたのだ。
小林町に差しあげたマツリの記録写真は大量にある。
それを納める額縁を探していたというのだ。
そのときに伝えておいた絵馬の件。
建て替えるにあたって古い絵馬は捨てることなく公民館に残しておいたと話す。
ほっと撫でおろした絵馬の所在である。
杵築神社に掲げていた絵馬のなかには村の男の子たちが奉納した絵馬がある。
そのことを知ったのは平成23年12月28日のことだった。
神社に掲げる簾型の注連縄。
当日は仕事の都合で間に合わなかったが、馴染みの住民らと神社へ出かけた。
そのときに拝見した絵馬に「童頭」とか「童首」の墨書があったのだ。
その当時はお元気だった左座一老のMさんが話した絵馬のこと。
小学六年生たちが童頭(或いは童首)となって奉納された絵馬であるという。
童頭が小学校を卒業する記念に奉納された絵馬であると話していた。
三枚の絵馬に昭和6年、昭和13年、昭和23年の年代記銘が見られた。
下の方には六年生以下の子供たちの名前がたくさん記されていた。
女児の名も多くある絵馬であった。
その子らは小学五年生から一年生までだそうで、童頭を祝って名を連記していたのである。
このような在り方の絵馬は私が知る範囲では見たことも聞いたこともない。
葛城市などでは子供が誕生した際に奉納する絵馬があるが、連名でもなく単独である。
小学生が纏まって絵馬を奉納されることはない。
小林町では誕生絵馬を奉納する習慣はなかったが、旧村地域にあった貴重な民俗事例は後世に残しておきたいと思って「大切に保存してください」と伝えたのである。
S婦人の話しに戻そう。
撤去した絵馬には天保四年(1833)や安政四年(1857)もあった。
こうした絵馬は、市にお願いして近々の6月5日に鑑定士によって鑑定されると云うのである。
民俗を知らない鑑定士であれば、重要性に気がつくことはない。
その場に立会いたいと思ってお願いした。
これまで何度も小林町の行事取材をしてきた。
座の長老たちとは顔なじみである。
是非ともと逆にお願いされた。
帰宅してからS婦人から電話があった。
鑑定士はこの年の3月まで県立民俗博物館に勤務されていた鹿谷勲氏であった。
退職されてからは「奈良民俗文化研究所」を設立されて代表になっている。
指名されたのは市長である。
鹿谷勲氏は大和郡山市の文化財保護審議会委員も担っている。
指名にほっとしたのは云うまでもない。
それというのも鹿谷氏は新福寺で行われるオコナイや杵築神社のマツリにも同行されており、子供が奉納した絵馬も拝見している。
これらは前もって鹿谷氏に所在を伝え、実見もしていたのである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/d4/5c2d7dff92ad036fa60a1a032ebd5f08.jpg)
定食屋で昼食を済ませて急行した小林町の旧公民館。
保管しておいた絵馬の前で座の人たちとともに聞取りをしていた。
小林町に奉納された絵馬のうち、いちばん新しいものは平成三年十月吉日だが、子供ではないようだ。
絵は天の岩戸開き神話。
アマテラスオオミカミがお隠れになった岩戸が開かれアメノウズメが鈴をもって踊っている様相である。
岩戸を開いたアメノタヂカラヲの姿もある。
描いた絵師(大和高田の松場)の名もあった。
池之内町に住む植島宮司の父親の紹介で、西田中、或いは岡町に住む人に書いてもらったと云う人もおられたが、鹿谷氏の判定では絵師は違うようだ。
かつて小林町の杵築神社の祭祀は植島宮司の父親が勤めていた。
何らかの事情があって現宮司は継ぐことはなかった。
しばらく途絶えていた宮司は筒井町の二宮宮司に頼んで来てもらったのは八条町の牧野宮司だ。
池之内町の現植島宮司は絵心がある。
兼社である小南神社には自ら描かれた絵馬を奉納されていることは存じている。
年代記銘が見られない大きな絵馬も天の岩戸開き神話である。
座中とともに拝見する絵馬の額にはたくさんのクギがあった。
時期は不明だが、どうやら額を張り替え補修されたようである。
元々あった額に年代記銘があったのであろう。
子供が奉納された絵馬は4枚ある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/09/e9/d8b03c23b0e8c950f87ac253bb5141e5.jpg)
いちばん古いものは槍で虎を退治する武者絵で「明治二拾一年九月拾四日 童首 2名」で男の子が20名の他数えきれないほどの女の子の名があった。
剥離があったのか、名が記された辺りは紙を充てているようだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/4b/3b9ef9ca2ddbfbde5dc09bdcd1e25cf7.jpg)
二枚目は砂浜を駆ける騎馬武者を描いた絵馬。
「昭和六年拾月拾四日 童首 5名」で、額下に5名の男の子他、男女の名が連名してあった。
三枚目は縦型の絵馬。
虎が描かれていたが左半分は欠損している。
年代記銘は「昭和二十三年十月十五日 頭首 2名」。
男女十数名の名が記されている。
四枚目は乗馬ごと海に浸かって弓を射る那須与一であろう。
年代記銘は「昭和三十年十月十四日 童頭」であるが、男名が5名で、女名は1名であった。
数名は村を出たが、数名は今でもご健在だと云う。
少子化の波が被ってきたのか、その後は奉納されることはなかった。
小学六年生は12歳。
かつては15歳が元服で会った。
成人になる何歩も前の年代の男の子たちが村を巡って集めたお金で絵馬を奉納する風習はいつから始まったのかは判らない。
その年までは子供たちが大とんどを組んでいた。
神社南を出た処である。
Sさんがオヤを勤めたときである。
廃れた大とんどは何年もの期間であった。
近年になって復活したが、神社境内で行う小とんどになったと話す。
奉納した小学六年生は「ドウ」とも呼ばれていた。
「ドウガシラ(堂頭)」は「オヤ」とも呼ばれていたと話す。
オヤ家ではイロゴハンを炊いて集まった子供たちを摂待していた。
「オヤの家で食べさせてもらっていた」と話すイロゴハンの具材はアゲゴハンとも呼ぶショウユゴハンというからアゲだけであった。
器に盛られた漬けものとともに食べていたと云うその日を「ニアンサン」と呼んでいた。
二月か、三月か判らないが、村の子供からお金を集めていたそうだ。
昭和14年生まれのSさんは自らイロゴハンを炊いていたと云う。
「ニアンサン」はもしかとすれば、「ネハンサン」。
涅槃の勧めにお金集めをしていたものと思われる。
現在の小林町の涅槃さんは、2月14日に集会所に集まった尼講の営みだ。
大きな涅槃図を掲げて般若心経を一巻唱える。
そのあとは、ナンマイダを繰り返す数珠繰りである。
このようなことから「ニアンサン」こと「ねはんのすすめ」の風習が小林町にも存在していたのである。
15歳になった男の子は村が認める座入りがあると左座のHさんが話していたことを覚えている。
この日、座中が口にした「十五酒(じゅうござけ)。
数え15歳になった男の子は村の行事に参加することができる。
一人前として村が認めるのだ。「十五酒」の名がある山添村岩屋の彼岸の中日の行事がある。
15歳になった村の男の子は道造りなど、村の行事に参加することができる岩屋の決まりだ。
一人前になったことを祝う村入りは15歳で認めることから「十五酒(じゅうござけ)」と呼んでいた。
小林町と同じ考え方である。
川掘りは水利組合の仕事であるが、5月には「イワイガオリ」と呼ぶ村行事があった。
集まるのは小林町の真言宗豊山派の新福寺の本堂だった。
自前の弁当を持ちこんで食べていたと云う。
料理はカマスゴなどのご馳走だったと話す。
そう云えば「ショウジセンベイ」を食べていたと口々に話す。
長方形のセンベイにはサイの目のように焼きが入っていた。
その姿はまるで障子の桟のように見えることから名があった「ショウジセンベイ」。
落花生入りもあれば、入っていないものもあった。
筒井町の「へんこつや」で売っていたそうだ。
今でもスーパーで売っていると云うのも落花生入りのようだ。
公民館にはさまざまな道具が残されている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/54/ae4b9309368f1a4fa199875ebb7a699f.jpg)
押入れから取り出した古い提灯と旗。
いずれも「片桐村大字小林」の文字があった。
他にもあるがと云われるが、長時間に亘った絵馬の鑑定。
歴代の村人の名がある絵馬は後世に伝える村の伝統の証し。
できることならすべてを残しておくことが大切だと話す。
保存をしても後世の人たちが重要性に気がつかず捨ててしまうかもしれない。
改築された拝殿には何枚かを掲げておきたいが、どれにするか判断に悩まれる。
保存をするならそのままの形態ではなく、納める箱を作って、外には年号、奉納者の名などを記してはどうか。
さまざまな意見が飛び出したこの日の鑑定。
この月の末には村の総意で決めたいと話して解散した。
数時間に亘った鑑定。
ひとまずゆっくりしてと、もてなすいつもの人たち。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/e8/fab3c6753966321ff4bcb8ad36e82b40.jpg)
小泉町の富味寿司で頼んだにぎり寿司をよばれた。
旧公民館は長谷寺の所有地。新福寺本堂はおよそ370年前に建てられたという。
今にも倒壊しそうだと佐々木住職や座中も話していた。
杵築神社は造営されて新しくなった。
相応しいように本堂も建てなおすことになった。
その一環で絵馬も整理したいと云うのである。
その後、鑑定をされた鹿谷勲氏の話しによれば、修復することに決定したと云う。
村の貯金をはたいて契約した修復費用は120万円。
村の子供たちが奉納した貴重な財産を残す。
将来を見据えた結論である。
その後の9月新聞各社が取りあげた絵馬の修復。
青年の仲間入り儀礼である「童あがり」事例として紹介された。
(H26. 6.13 EOS40D撮影)
(H26. 6.13 SB932SH撮影)
小林町の交差点を通りがかったときのことだ。
水を張った田んぼでマンガ掻きをしていた婦人がいた。
もしかとすればと思って停車すればSさんだった。
マツリで世話になった右座のMさんのお許しをいただいて車を停めて立ち話。
翌日は田植えをすると話していた。
話題は転じて小林町の古い絵馬の保存に移った。
小林町の氏神さんは杵築神社。
平成24年の10月にマツリを終えた翌年1月に造営に際して撤去の神事でお祓いをすると聞いていた。
その日は所用で訪れることはできなかった。
3月には上棟祭を斎行された。
それより数週間前には拝殿等を撤去された場で祈年祭が行われた。
遡って1月7日のことだ。
カメラのキタムラ奈良南店で出合った住民は右座のSさんだった。
Sさんはマツリで撮らせてもらった写真を持っていた。
それを持ちこんで店員さんと相談されていたのだ。
小林町に差しあげたマツリの記録写真は大量にある。
それを納める額縁を探していたというのだ。
そのときに伝えておいた絵馬の件。
建て替えるにあたって古い絵馬は捨てることなく公民館に残しておいたと話す。
ほっと撫でおろした絵馬の所在である。
杵築神社に掲げていた絵馬のなかには村の男の子たちが奉納した絵馬がある。
そのことを知ったのは平成23年12月28日のことだった。
神社に掲げる簾型の注連縄。
当日は仕事の都合で間に合わなかったが、馴染みの住民らと神社へ出かけた。
そのときに拝見した絵馬に「童頭」とか「童首」の墨書があったのだ。
その当時はお元気だった左座一老のMさんが話した絵馬のこと。
小学六年生たちが童頭(或いは童首)となって奉納された絵馬であるという。
童頭が小学校を卒業する記念に奉納された絵馬であると話していた。
三枚の絵馬に昭和6年、昭和13年、昭和23年の年代記銘が見られた。
下の方には六年生以下の子供たちの名前がたくさん記されていた。
女児の名も多くある絵馬であった。
その子らは小学五年生から一年生までだそうで、童頭を祝って名を連記していたのである。
このような在り方の絵馬は私が知る範囲では見たことも聞いたこともない。
葛城市などでは子供が誕生した際に奉納する絵馬があるが、連名でもなく単独である。
小学生が纏まって絵馬を奉納されることはない。
小林町では誕生絵馬を奉納する習慣はなかったが、旧村地域にあった貴重な民俗事例は後世に残しておきたいと思って「大切に保存してください」と伝えたのである。
S婦人の話しに戻そう。
撤去した絵馬には天保四年(1833)や安政四年(1857)もあった。
こうした絵馬は、市にお願いして近々の6月5日に鑑定士によって鑑定されると云うのである。
民俗を知らない鑑定士であれば、重要性に気がつくことはない。
その場に立会いたいと思ってお願いした。
これまで何度も小林町の行事取材をしてきた。
座の長老たちとは顔なじみである。
是非ともと逆にお願いされた。
帰宅してからS婦人から電話があった。
鑑定士はこの年の3月まで県立民俗博物館に勤務されていた鹿谷勲氏であった。
退職されてからは「奈良民俗文化研究所」を設立されて代表になっている。
指名されたのは市長である。
鹿谷勲氏は大和郡山市の文化財保護審議会委員も担っている。
指名にほっとしたのは云うまでもない。
それというのも鹿谷氏は新福寺で行われるオコナイや杵築神社のマツリにも同行されており、子供が奉納した絵馬も拝見している。
これらは前もって鹿谷氏に所在を伝え、実見もしていたのである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/d4/5c2d7dff92ad036fa60a1a032ebd5f08.jpg)
定食屋で昼食を済ませて急行した小林町の旧公民館。
保管しておいた絵馬の前で座の人たちとともに聞取りをしていた。
小林町に奉納された絵馬のうち、いちばん新しいものは平成三年十月吉日だが、子供ではないようだ。
絵は天の岩戸開き神話。
アマテラスオオミカミがお隠れになった岩戸が開かれアメノウズメが鈴をもって踊っている様相である。
岩戸を開いたアメノタヂカラヲの姿もある。
描いた絵師(大和高田の松場)の名もあった。
池之内町に住む植島宮司の父親の紹介で、西田中、或いは岡町に住む人に書いてもらったと云う人もおられたが、鹿谷氏の判定では絵師は違うようだ。
かつて小林町の杵築神社の祭祀は植島宮司の父親が勤めていた。
何らかの事情があって現宮司は継ぐことはなかった。
しばらく途絶えていた宮司は筒井町の二宮宮司に頼んで来てもらったのは八条町の牧野宮司だ。
池之内町の現植島宮司は絵心がある。
兼社である小南神社には自ら描かれた絵馬を奉納されていることは存じている。
年代記銘が見られない大きな絵馬も天の岩戸開き神話である。
座中とともに拝見する絵馬の額にはたくさんのクギがあった。
時期は不明だが、どうやら額を張り替え補修されたようである。
元々あった額に年代記銘があったのであろう。
子供が奉納された絵馬は4枚ある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/09/e9/d8b03c23b0e8c950f87ac253bb5141e5.jpg)
いちばん古いものは槍で虎を退治する武者絵で「明治二拾一年九月拾四日 童首 2名」で男の子が20名の他数えきれないほどの女の子の名があった。
剥離があったのか、名が記された辺りは紙を充てているようだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/4b/3b9ef9ca2ddbfbde5dc09bdcd1e25cf7.jpg)
二枚目は砂浜を駆ける騎馬武者を描いた絵馬。
「昭和六年拾月拾四日 童首 5名」で、額下に5名の男の子他、男女の名が連名してあった。
三枚目は縦型の絵馬。
虎が描かれていたが左半分は欠損している。
年代記銘は「昭和二十三年十月十五日 頭首 2名」。
男女十数名の名が記されている。
四枚目は乗馬ごと海に浸かって弓を射る那須与一であろう。
年代記銘は「昭和三十年十月十四日 童頭」であるが、男名が5名で、女名は1名であった。
数名は村を出たが、数名は今でもご健在だと云う。
少子化の波が被ってきたのか、その後は奉納されることはなかった。
小学六年生は12歳。
かつては15歳が元服で会った。
成人になる何歩も前の年代の男の子たちが村を巡って集めたお金で絵馬を奉納する風習はいつから始まったのかは判らない。
その年までは子供たちが大とんどを組んでいた。
神社南を出た処である。
Sさんがオヤを勤めたときである。
廃れた大とんどは何年もの期間であった。
近年になって復活したが、神社境内で行う小とんどになったと話す。
奉納した小学六年生は「ドウ」とも呼ばれていた。
「ドウガシラ(堂頭)」は「オヤ」とも呼ばれていたと話す。
オヤ家ではイロゴハンを炊いて集まった子供たちを摂待していた。
「オヤの家で食べさせてもらっていた」と話すイロゴハンの具材はアゲゴハンとも呼ぶショウユゴハンというからアゲだけであった。
器に盛られた漬けものとともに食べていたと云うその日を「ニアンサン」と呼んでいた。
二月か、三月か判らないが、村の子供からお金を集めていたそうだ。
昭和14年生まれのSさんは自らイロゴハンを炊いていたと云う。
「ニアンサン」はもしかとすれば、「ネハンサン」。
涅槃の勧めにお金集めをしていたものと思われる。
現在の小林町の涅槃さんは、2月14日に集会所に集まった尼講の営みだ。
大きな涅槃図を掲げて般若心経を一巻唱える。
そのあとは、ナンマイダを繰り返す数珠繰りである。
このようなことから「ニアンサン」こと「ねはんのすすめ」の風習が小林町にも存在していたのである。
15歳になった男の子は村が認める座入りがあると左座のHさんが話していたことを覚えている。
この日、座中が口にした「十五酒(じゅうござけ)。
数え15歳になった男の子は村の行事に参加することができる。
一人前として村が認めるのだ。「十五酒」の名がある山添村岩屋の彼岸の中日の行事がある。
15歳になった村の男の子は道造りなど、村の行事に参加することができる岩屋の決まりだ。
一人前になったことを祝う村入りは15歳で認めることから「十五酒(じゅうござけ)」と呼んでいた。
小林町と同じ考え方である。
川掘りは水利組合の仕事であるが、5月には「イワイガオリ」と呼ぶ村行事があった。
集まるのは小林町の真言宗豊山派の新福寺の本堂だった。
自前の弁当を持ちこんで食べていたと云う。
料理はカマスゴなどのご馳走だったと話す。
そう云えば「ショウジセンベイ」を食べていたと口々に話す。
長方形のセンベイにはサイの目のように焼きが入っていた。
その姿はまるで障子の桟のように見えることから名があった「ショウジセンベイ」。
落花生入りもあれば、入っていないものもあった。
筒井町の「へんこつや」で売っていたそうだ。
今でもスーパーで売っていると云うのも落花生入りのようだ。
公民館にはさまざまな道具が残されている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/54/ae4b9309368f1a4fa199875ebb7a699f.jpg)
押入れから取り出した古い提灯と旗。
いずれも「片桐村大字小林」の文字があった。
他にもあるがと云われるが、長時間に亘った絵馬の鑑定。
歴代の村人の名がある絵馬は後世に伝える村の伝統の証し。
できることならすべてを残しておくことが大切だと話す。
保存をしても後世の人たちが重要性に気がつかず捨ててしまうかもしれない。
改築された拝殿には何枚かを掲げておきたいが、どれにするか判断に悩まれる。
保存をするならそのままの形態ではなく、納める箱を作って、外には年号、奉納者の名などを記してはどうか。
さまざまな意見が飛び出したこの日の鑑定。
この月の末には村の総意で決めたいと話して解散した。
数時間に亘った鑑定。
ひとまずゆっくりしてと、もてなすいつもの人たち。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/e8/fab3c6753966321ff4bcb8ad36e82b40.jpg)
小泉町の富味寿司で頼んだにぎり寿司をよばれた。
旧公民館は長谷寺の所有地。新福寺本堂はおよそ370年前に建てられたという。
今にも倒壊しそうだと佐々木住職や座中も話していた。
杵築神社は造営されて新しくなった。
相応しいように本堂も建てなおすことになった。
その一環で絵馬も整理したいと云うのである。
その後、鑑定をされた鹿谷勲氏の話しによれば、修復することに決定したと云う。
村の貯金をはたいて契約した修復費用は120万円。
村の子供たちが奉納した貴重な財産を残す。
将来を見据えた結論である。
その後の9月新聞各社が取りあげた絵馬の修復。
青年の仲間入り儀礼である「童あがり」事例として紹介された。
(H26. 6.13 EOS40D撮影)
(H26. 6.13 SB932SH撮影)