マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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天理上山田の田の虫送り

2014年12月28日 08時46分20秒 | 天理市へ
この年は一般を受け入れた下山田を避けて標高460mの上山田の田の虫送り行事を拝見した。

天理市山田町で行われる田の虫送りは市の無形民俗文化財に指定されている。

観光化された田の虫送りである。

市が募った観光客は団体バスでやってくる。

山田町の史跡も訪ねるツアーだ。

大勢の人たちの姿はすぐ判る。

なぜに判るかといえば背負ったザッグや肩掛けカバンなのだ。

子供なんぞはみな手袋をしている。

着衣も一般的で、なかにはネームプレートを首から下げている職員もいる。

村人であれば普段着。

一目で違いが判る松明を持つ人たちの姿。

村の在り方でない情景はカメラに納めても利用し難い。

そう思って上山田にしたのだ。

陽が暮れる前にしておきたい村人の聞き取り。

畑でノラ仕事をされていた婦人や村総代、在住の大和高原文化の会員、村の男性らに話を聞く。

上山田の村は西垣内、南垣内、上出(うえで)垣内、中垣内、東垣内(1の組・2の組)の6垣内。

村の戸数は47戸だったが、戸主が亡くなられて廃墟、村を出る家もあると云う。

今では40戸ほどになったと話す。

旦那もいない家では女性が松明を持って参加する婦人もいるようだ。

出発地は上山田の八阪神社でもなく平福寺でもない。

西の墓の下のやや広場である。

その場から下って新道が交差する三差路手前。

新道でなく旧道を下って布目川支流を渡る。

架かる橋を通って「ムカイドウ」と呼ぶ山裾の里道(りどう)に行くと聞いた。

この日のために里道に生えていた草も奇麗に刈りとったと話す。

そこから下って「カンジリバシ」と呼ぶ橋を渡って「カワギワ」と呼ぶ川堤つたいに松明の火で虫を送るというのだ。

終着地はその先。一本松から流れる川が合流する地点である。

10年ほど前は「ムカイドウ」の里道ではなく、新道の国道47号線だった。

車の往来が激しくなった新道。

虫送りをするには危険な状態になる。

そういうことで元の「ムカイドウ」に戻したと話す。

「高台から見下ろす松明の灯りが動く様子は毎年楽しみにしているんや」と話す80歳の婦人はノラ仕事をしながら話してくれた。

松明行列が出発するまではまだ時間がある。

集落内を歩いて散策する。

八阪神社隣りに平福寺が建っているが、上山田公民館として利用されているようだ。

傍らには石仏がある。

地蔵さん、行者さんに如意輪観音もあった。

もしかとすれば十九夜さんの営みがあるかもしれない。

公民館でもある平福寺の廊下には先を尖らした2本の青竹が置いてあった。

虫祈祷のお札を挟むと思われる竹である。

廊下下には数多くの松明があった。

老人会の役員さんたちが手間をかけて作った松明。

これらは一般向け観光客に持ってもらう松明である。

どうせなら松明作りから体験してもらったらどうかと思うのである。

八阪神社にあった石燈籠。

面白いことに「錫杖天王」の刻印があった。

寄進された年代は「安政五年(1858)・・九月吉日辰」である。

慶安年間(1648~)に分村したと伝わる山田の三村。

上山田には八阪神社、中山田は八幡神社、下山田は春日神社。

それぞれの村に三社が鎮座する。

元々は5軒からなる中山田だけの一村であった。

当時の村の氏神さんは一社。

その後、村民は20軒に増えた。

徐々に人口が増加していった。

その後も増え続けて村は上、下へと拡張していった。

その後に三つの大字に分かれた山田の村。

それぞれの大字に神社を祀った。

分社したという。

そのようなことで氏神さんを祀っていた元の社は跡地だけになった。

集落から道路、室生川支流を越えた南側の山の中。

今でもあるという。

下山田の虫送り出発前の様相を見届けて上山田に急行した。

時間は18時半だ。



出発地を目指して歩いていたら、3人の男性が松明を担いでやってきた。

「19時やというのにお互い早いなぁ」としばらく待っていた村の人にも聞取りをする。



村の人が持ちこむ松明はこの場で点けられるが、火を移すオヒカリはどこから持ち込むのであろうか。

その件を尋ねた結果は、これよりもっと上のほうで行うと云う。

予め蔵輪寺で授かったオヒカリの火は役員が一本の松明に火を移すと云う。

その松明は寄せた雑木に一旦、火を移してみんなが火をもらうと云うのだ。

そこへやってきたのは太鼓を乗せた軽トラだ。



下山田と同様に自然木のオーコで縛った太鼓は軽トラに乗せていた。

下山田のオーコは太鼓の胴にぴったり納まっていたが、上山田のオーコはやや隙間が見られる。

上山田では一般客を受け入れる年は当番が担ぐが、そうでない年は軽トラに乗せて後方を伴走すると云う。

さて、虫送りに欠かせない祈祷札がある。

祈祷札は、この日の午前中に中山田の蔵輪寺住職が上・中・下山田の分を纏めて祈祷されたと昨年に聞いていた。

竹に挟んだ祈祷札は先頭を行く村総代が持つ。

もう一枚はと思って探してみるが見つからなかった。



移す松明と祈祷札の前に置いてあった容器がある。



現代的なランタンである。

授かったオヒカリが風に吹かれて消えないように工夫した容器である。

中には煌々と火が灯っていたが、かつては提灯だったと話す。

出発するころともなれば子供たちもやってきた。

太鼓を打つ子供たち。

いわゆる始まり合図の呼出太鼓である。

上山田には太鼓とともに鉦も打つ。

鉦は最近になって村の人が寄進したもの。

真鍮製の金属で、できているからややカン高い音色である。

出発時間は19時であるが、当番にあたる中南垣内の太鼓打ちを勤める「大和高原文化の会」の代表が遅れていた。

太鼓打ちが来なければ出発することもできない。

しばらくすればやってきた代表は4年ぶり。

お会いした場は県立民俗博物館である。

平成22年5月23日に行われた「“大和麗し”の民俗」講演会直後の企画展「モノまんだら」会場だった。

当時職員だった鹿谷勲氏から紹介された「大和高原文化の会」だった。

話題は盛りあがって著書である『奈良大和路の年中行事』を買ってくださったのだ。

ありがたいことに来られていた代表・役員ともども4人も買ってくださったのだ。

その後はお会いする機会もなく4年も経っていた。

代表は数年前に病いを患い身体を崩されていたそうだ。

今ではなんとか散歩ぐらいはできるようになったと云う。

今年は当番を勤めることもあって久しぶりの田の虫送りに参加したと云う。

会話していたときのこと。



突然始まったオヒカリの火移し。

数分前に上のほうでオヒカリの火を松明に移されていたのだ。

シャッターチャンスを逃した。

火点け役は村総代。

雑木を組んだ処に移す。



燃え上がれば、めいめいが持ってきた松明に火を点けて出発する。

平成23年、24年とも雨天であっただけに、「今年はえー天気やから松明もよう燃えるわ」と云いながら下っていく松明の行列。



先頭は祈祷札を持つ村総代だ。

法被は誰も着用していない。

一般客を受け入れる年は法被を着用して太鼓担ぎをして打ち鳴らすと云う。

普段着姿で下っていく松明の火が夕闇の田園を照らし出す。

このころの時間帯は夕暮どきだ。

下り路は左側に寄ったり、右へ寄ったりしていくようだが、特に決まりはない。



左側はガードレールがしばらく続く。

300mぐらい下って右側の田んぼ側に移った。



傍に建つ建物は避けるような感じで行列が行く。

太鼓打ちと子供の鉦叩きは軽トラに乗せて行列の後方につく。

音色は山間に響き渡り、遠くのほうから聞こえてくる。

500mぐらい下った処では松明を持つ住民が待っていた。

おそらく中垣内や東垣内の人たちのようだ。



待っていた人たちはここで火の「ワケアイ」をする。

合流すればおよそ2倍にもなった松明の火。



道路一面に広がってさらに下っていくが、新道だけに車の往来は割合多く、虫送りに熱中して車の存在に気がつかなかったらとんでもないことになってしまう。

気になっていたのは「田の虫送りの唄」だ。

この日の聞き取りでは話題にのぼらなかった。

行列の際にも唄を囃す人もいなかった。

廃れてしまったのだろうか。

ここより新道を外れて旧道へ向かって下る。

新道を挟む三差路を渡って、周りが田んぼの旧道を行く。

ここら辺りで待ち構えていたカメラマンがいた。

山裾の里道(りどう)である「ムカイドウ」を練り歩く松明の火を撮りたかったのであろう。

行列についていくこともせず、新道から眺める。



婦人が話していた高台から見下ろす松明の灯りを眺めたかったが、より近い場に移動してシャッターを押す。

松明の行列は休むことなく先を急いでいた「ムカイドウ」の里道に灯りが点々とする。

新道にはワゴン車が何台か停まっていた。

降ろした乗客が田の虫送りの景観を見ておられた。

どうやら介護施設の患者さんのようである。



「ムカイドウ」を練り歩く松明はおよそ5分間。

長い行列だ。

松明はくるりと向きを替えて「ムカイドウ」を抜ける。

一本松からの街道を南下して布目川のほうに下りてきた。

新道手前にある「カンジリバシ(橋)」からは土手つたいに布目川を下っていく。



この場で合流した太鼓と鉦打ち。

代表はずっと打ち続けていたようだ。

川面に写りこむ松明の火が美しい。



行列の最終到達地は一本松から流れる小野味川と合流する処にある中州だ。

中州に移ることなく、土手堤より燃え盛る松明を放り込む。

バチバチと燃える音が聞こえてくる。

その場に祈祷札を立てて、稲を食い荒らす害虫を送った。

後日に確認した祈祷札の願文は「奉修 虫送り害虫駆除五穀豊饒 龍光山蔵輪寺」だった。

虫送りの祈祷札を立てる地域は寺に関係する。

天理市山田町は蔵輪寺(真言宗高野山派)、奈良市旧都祁村針ケ別所は長力寺(古義派真言宗御室派)、同都祁村小倉では観音寺(長谷寺普山派)、宇陀市室生の染田の十輪寺(日蓮宗)や室生無山の牟山寺(元真言宗豊山派→融通念仏宗)がある。

牟山寺は融通念仏宗であるがかつては真言宗豊山派だった。

染田の十輪寺は日蓮宗であるが、祈祷札は融通念仏宗派・白石興善寺の僧侶によって願文を書いていただく。

いつの時代か判らないが、宗派替えをされたと考えられる。

いずれにしてもすべてが真言宗派である。

かつては松明があったとされる奈良市旧都祁村の南之庄・歓楽寺(真言宗高野山派)では祈祷札を村の境界に立てる。

祈祷札は見られないが、山添村切幡・極楽寺では松明火による虫送りがある。

ここも今では融通念仏宗であるがかつては真言宗だった。

それぞれのお寺は真言宗でもあり、正月初めの初祈祷のオコナイ行事が今尚行われている。

かつて虫送り行事があったと聞いている奈良市旧都祁村上深川の元薬寺(古義真言宗)や下深川の帝釈寺(古義真言宗豊山派)もオコナイ行事がある。

オコナイ行事が行われている地域の寺すべてではないが、今でも田の虫送りをされている地域と合致するのである。

宗派は異なるもののいずれも真言宗派である。

虫送りは前述したように五穀豊穣を願う行事であり松明の火で追いやる虫供養でもある。

供養に理由つけをして始められたのではないだろうか。

そう思うのである。

上山田の行程は歩数にして約1500歩。

距離は1.25kmぐらいだった。

虫送りを終えて解散した村人たち。

辺りはすっかり暗闇になっていた。

婦人がノラ仕事をされていた場所に戻った。

そこでは村の人ら数人がなにやら話している。

そこではホタルがちらほら飛んでいた。

丁度20時である。

明かりぐあいからヘイケボタルのようであるが、川面や田んぼでは光っていない。

「ここだけや」と云うのだ。

そんな話しをしていた長老が思わず口にした田の虫送りの唄。

「たーのむーしおくりー- ドンドン」であった。

「鉦はカンやった」とも云う。

調べてみた音色は「カン、カン、ドンドン、カン、ドンドン」であった。

ここでもう一つの疑問が湧いた「カンジリバシ」の名。もしかとすれば「カンジリ」は「カンジョ」が訛ったのではないだろうか。

川を跨いで掛けるカンジョウナワカケの地の字名が「カンジリ」として継承されたと思うのである。

(H26. 6.16 EOS40D撮影)