国際博物館会議が1977年に制定した記念日は「国際博物館の日」。
毎年5月18日に年ごとに決められた世界共通のテーマでさまざまな企画が行われる。
今年は日曜日。
奈良県立民俗博物館では帝塚山大学名誉教授の赤田光男氏(九州宗像出身)が記念に「奈良の民俗」を講話される。
聴講料は無料だが、入館料は要る。
案内チラシに載っていた写真のなかには、山村、六斎念仏に紅白の御幣を持つ祭礼があった。
写真ではどこの行事であるのか判らなかった。
それを知りたくて聴講した。
矢田山で自然観察会を終えて直行した奈良県立民俗博物館。
講師の紹介をされていた講義室。席はほぼ満杯だ。
見渡せば若い人たちが半数を占めている。
どうやら帝塚山大学の学生だ。
日本全国の民俗を調査された講師が奈良の民俗の本質に迫るという講議は、「江戸中期の村の数はいくつあったのか」から始まった。
幕藩制を敷いていた江戸時代の国々は270国。
江戸時代の調査史料によれば、全国津々浦々、村の数は10万村もあったそうだ。
村落の文化はそれぞれ。いわば10万種の民俗があった。
それを言ったのは柳田国男。
奈良県は1406村であった。
隣村間の共通文化はあるものの、個性をもつ村落民俗で成り立っていた。
奈良の村ではそれぞれ区割りがあり、「垣内(かいと)」或いは「組(くみ)」と呼ぶ地域が多い。
その単位は村落分けの共同体組織でもある。
共通の民俗文化は地理的条件によって大きく異なる。
吉野川を境に文化が違っていた。
立地条件は南の奥吉野山地に東の大和高原。
最近はそう呼ぶようになったが東山中である。
「山」と「処」で成り立っているから「やまと」と呼ぶようになったを話す。
稲作ため池が多いのは国中(くんなか)と呼ばれていた盆地平坦部。
東日本は同族親族だが、西日本は地縁親族。
仏教王国の大和を山添村峰寺の墓制事例を紹介し解説される。
峰寺は北に9戸の植村組、中央・六所神社が鎮座する峯寺組は9戸に西の8戸の押谷組の三つの垣内がある。
その六所神社には会所がある。
村の決めごとを議論する場はかつてお寺。
安置する薬師さんが見ている場で案件を決めるのだと云う。
六所神社の祭礼は峰寺・松尾・的野の三カ大字が廻りで行われる。
昨年は大字の的野、一昨年は峰寺で、その前年は松尾であった。
大字の在り方に特徴が見られるため、私は三カ年に亘って継続的にマツリを調査してきた。
ジンパイを奉納するガクニンは、会所とも呼ぶ参籠所に上がって神社総代に挨拶を述べる。
参籠所は長屋とも呼ぶが、薬師さんは見られない。
氏が述べる会所はおそらく境内に建つ建物であると思われるが、ガクニンらは立ち入ることはない。
さて、峰寺には共同墓地と5カ所に点在する石塔墓がある。
組ごとの石塔墓であるが、地縁血縁によって分かれるのであろう。
さらに墓地には区分けがある。
墓地入口は若年層で奥は年寄り。
中間は右に男性、左に女性となっているそうだ。
共同墓地の在り方も含めて「両墓制」をもつのは大和の特徴であると話す。
ちなみに峰寺には本家・分家で組織されるキタムラ一統があるそうだ。
それもまた、大和の特徴である「与力」組織。
また、伊勢講、愛宕講、庚申講、二十三夜講などの講組織もあると云う。
中世、平城・城下町が形成された時代の民家は4間。
それ以前は2間であった。
元禄時代、木材の必要性から林業が盛んになった。
当時の吉野の山林は村の共有林であった。
村とは関係のない資本力をもった商人が木材を買い出すようになった。
下市・上市・五條や国中の金持ちが買い占めた木材。
立木所有林経営は商人で村の人が山守となって城造り・家造りの木材を供給してきたと前置きされるお話しは始まってから50分も経過していた。
レジメには「福マル呼び・狐の施行・トンド・鬼の宿・岳ノボリ・客仏」などの年中行事もあれば、「仏教寺院分布・念仏信仰・両墓制」の先祖信仰に「雨乞・野神」の精霊信仰もあった。
講演時間は足るのだろうか。
そんな心配をついしてしまうこの日の講話は氏が長年に亘って調査された民俗学に関してだ。
神道・仏教ではない村の民俗は「神」を「カミ」、「仏」は「ホトケ」と書くと話す。
カタカナで表現するのは、神道でなく村の「カミ」で、「ホトケ」は村の先祖のこととする考え方だと云う。
村の共同体で行われる「カミ」や「ホトケ」が村を支えると話されて「福マル呼び」に繋げられた。
<フクマル呼び>
配られた資料の「福マル呼び」の写真は山添村の切幡(きりはた)。
奈良の民俗を調査されてきた保仙純剛氏が纏められた『日本の民俗―奈良―』に掲載された写真であると話す。
刊行は昭和47年11月。今から42年前よりも前の様相である。
私が高校を卒業した数年後、社会人で動き始めた二十歳代のころである。
先人が記録した写真の様相に感動するのである。
切幡は昨年の大晦日にある家のフクマル迎えを取材した。
40年前はどこともしていたらしいが、現在はぐっと少なくなっているそうだ。
大晦日の夕刻に行われるフクマル呼び。
家を出た辻に出かけて「フクマル コイ コイ」と三回唱えて我が家に「フクマル」を呼びこむ。
県立民俗博物館より提供された大和郡山市伊豆七条町の映像を映し出す。
大晦日には「ホトケ」である先祖がやってくる。
正月にも先祖さんがくると信じられていた。
「ミタマ(御霊)のメシ」と称してご飯などを縁側や竃に供える風習があるのは東北地方。
「ミタマのメシ」とか、「ミタマのダンゴ」である。
大和ではなぜか「フクマル」と呼んでいる。
室町時代に「フクジン(福神)」信仰が流行ったそうだ。
火を焚いて先祖さんを迎えた。
それは「フクジン」信仰と重なっていく変化があったと云う。
「フクマルコッコー」と呼ぶのは「フクジン」を迎える在り方。
山添村北野では玄関口で、箒で掃いて扉をピシャッと閉める。
フクマルを迎えた火は神棚や「イタダキ」に供える。
文明十年(1478)から元和四年(1618)にかけて記された興福寺『多門院日記』に書かれてあった正月の餅飾り。
膳の配置が図式化されていた。
飾りの品々にムキクリ(5個)、アカキモチ、トコロ、イリコメ、キクキリ、ホタワラ、クシガキ、カンジ(1個)、ユカウ(1個)、タチハナ(3個)、モチカス(五個)、アカキマヲ(6個)がある。
ムキクリは剥き栗と判るが、アカキモチは赤色のモチであろうか。
トコロは根が髭のように見える長寿の印しのトコロ芋、イリコメは煎った米だ。
ホタワラはホンダワラ。
雑穀町旧家の三宝飾りで拝見した稲藁で作ったタワラ(俵)のことであろうか。
クシガキは室生下笠間で拝見したいつもニコニコ、仲睦まじくの語呂合わせの10個の串ガキと同じと思われる。
カンジはキンコウジとも呼ばれるコウジミカン。
ユカウはユズであろう。
タチハナは橘の実。
キクキリ、モチカスはなんであろうか。
アカキマヲは括弧書きにアカキメカとある。これも判らない。
図には「次ニ大圓鏡イタタク」とある図絵は三方に乗せたイタダキの膳。
ホタワラ(5個)、合米一合、タチ花(五個)である。
正月早々に毘沙門天や弁財天に祈祷する。
これも「フクジン(福神)」であると云う。
「毘沙門 カネくれ」と呼ぶのは縁起担ぎ。
招福信仰の本質は先祖迎えであると話す。
<東安堵の施行>
かつて調査された安堵町東安堵の古老が話した狐の施行。
施行と書いて「センギョウ」と呼ぶ。
寒中に野辺の狐に施しをする。
アブラアゲやアズキメシを野らに出かけて施した。
神社や寺辺りの5カ所にも施した。
集団でなく、個人個人が出かけて施した「ノマキ」と呼ぶ風習だそうだ。
古い農業神はキツネとされてきた。
豊作神はやがて稲荷神へと移った。
大和では屋敷信仰がほとんど見られないと云う。
<茅原のトンド>
正月14日、15日は各地でトンドが行われる。
県立民俗博物館より提供された大和郡山市城町(じょうちょう)のトンド写真を映し出した。
子供たちが竹に挿したモチをトンドの残り火で焼いている写真だ。
城町のトンドは主水山がある。
我が家から歩いて数分のところだ。
映像を見る限り当地ではないと判った。
講演後に聞いた話では城町でも西側。
つまり西城(にしんじょ)である。
かれこれ40年以上も前は1月31日に行われていた。
いつしか小正月の1月15日に移った。
その後、成人の日がハッピマンデー施行によって近い日曜日になった。
現在では実施日の決定は正月明け新年会一週間後の日曜である。
西城も同じ日である。
このことは主水山住民から聞いている。
新暦の小正月にトンドが行われる地域は多くあるが、地域によっては2度目の正月と称して1月31日、或いは2月1日や2日もある。
氏はそのことには触れなかった。
1月14日に行われる御所市茅原(ちはら)の吉祥草寺では大きなトンドが燃やされる。
雌雄の大トンドや太い化粧回しの綱を作る作業を撮った写真で紹介される。
トンドの場は吉祥草寺。かつては真言宗派であった。
トンドの火点けは玉出住民が行う。
寺で迎える茅原住民と合流する。
寺に入堂されて般若心経を唱える。
そしてトンドの火点け。
玉出住民はオヒカリから移した長い松明でトンドに移す。
かつては修正会の行事であったようで、結願にトンドを燃やす。
今では茅原・玉出両地区で行われる村行事。
おおげさであるが、1月15日は小正月。
この日は旧暦。
ほんとの正月迎えであり、先祖迎えであると強調される。
満月の日が良いとされる先祖迎え。
大和では大晦日とトンドの日の両方がある。
<鬼の宿>
天川村に天河弁財天社がある。
弁財天は水の神さんでもある。
「フクの神」でもある前鬼を祭る家が3軒ある。
柿坂家は村長を勤めた家で、分家におばあさんが住んでいた。
若い分家は神主家。
天河社の社家である。
2月3日は節分。
京丹後地方では祓い追われた鬼を迎える「鬼の宿」がある。
「鬼の宿」は大和にもあるのかと調べてみたらあったと云う。
天河の前鬼末裔の家で行われる節分前夜。
かつてはおばあさんの家であったが、現在は神主家。
斎壇を祭り、二つの布団を敷いた写真を映し出す。
床の間の斎壇に向かって般若心経や祝詞を唱える。
前鬼の先祖を呼び起こすのは「先祖降ろし」だそうだ。
社家はこっそり井戸に行って、晒しを水に浸けて桶に貯める。
これを幾度も繰り返す。
貯めた水桶は縁側にそっと置く。
終わり直近に鬼が降りてきたと「ホォーーー」と声がでて、ピタリと終える神事。
直ちに布団をさっと敷く。
ひと晩寝ると云う布団は左が男で、右は女。
翌朝に去っていくという「鬼の宿」。
京丹後ではこのような作法もなく、「鬼の宿」と呼ばれているだけだそうだ。
山辺郡の人たちは薪を平城京に持ちこんでいた。
「春来る鬼」という記載があるらしい。
日本の古い観念は春来るフクジン(福神)な「カミ」である。
仏教が与えた影響が「フクマル」、「トンド」、「オニ」に。それは当たっていると思うと話す。
<ダケノボリ>
旧暦、山に登って楽しんで下りてくる。
春の農耕始めにダケノボリをしていた。
二上山のダケノボリが有名だ。
里山に登って山の神と共食する。
下りた山の神は農の神になる。
古いのがよく残っている大和のであると云う。
<キャクボトケ(客仏)>
山辺郡によくあるキャクボトケ。
お客さんがホトケ。
我が家に不幸ごとが起これば、縁側にショウロウダナを作る。
先祖さんは縁側に祭る。
ニワにはガキダナを置く。
それはムエンサン。
山辺郡ではそこにもうひとつつく。
我が家から出ていった人。
当主からみれば叔父や叔母である。
その人らが先に亡くなれば、霊魂が故郷の家に戻ってくる。
それがキャクボトケ。
兄弟姉妹は実家に戻ってくるのだ。
嫁さんの両親・兄弟姉妹も嫁ぎ先の山辺郡の家で霊魂を祭る。
真言宗派が広めた仏教の教えであると思っていると話す。
ここまでの講話は1時間半。先を急がれる。
奈良県の仏教寺院の分布表を提示された。
1796寺のうち、断トツなのは浄土真宗。
609寺もある。
2番目は338寺の浄土宗。
3番目は297寺の真言宗。
4番目は208寺の融通念仏宗である。
以下、曹洞宗、日蓮宗、法相宗、華厳宗、真言律宗・・・である。
庶民民俗が多く見られるのは浄土宗、真言宗、融通念仏宗で、浄土真宗には民俗行事はまずないと話す。
念仏信仰のひとつに十三仏がある。
死んだつもり修行する生前修行は逆修。
そうすることで阿弥陀さんの世界にいけると信じられた。
念仏風流・辻念仏の例示は「古市氏」。
お盆になれば念仏風流していたのは応仁時代。
念仏講碑の金石文が多くある大和の国。
他の地域では確認できないくらいに少ないらしい。
大和の特徴だそうだ。
講演時間は2時間を越えた。
雨乞は飛ばされて野神を話す。
稲作始めにジャマキをする大和の野神行事。
水の神は日照りに水を潤す「カミ」。
田の神となって出現するが、滋賀県では豆の収穫時期。
子供の相撲の褒美に大量の豆をあげるそうだ。
(H26. 5.18 SB932SH撮影)
毎年5月18日に年ごとに決められた世界共通のテーマでさまざまな企画が行われる。
今年は日曜日。
奈良県立民俗博物館では帝塚山大学名誉教授の赤田光男氏(九州宗像出身)が記念に「奈良の民俗」を講話される。
聴講料は無料だが、入館料は要る。
案内チラシに載っていた写真のなかには、山村、六斎念仏に紅白の御幣を持つ祭礼があった。
写真ではどこの行事であるのか判らなかった。
それを知りたくて聴講した。
矢田山で自然観察会を終えて直行した奈良県立民俗博物館。
講師の紹介をされていた講義室。席はほぼ満杯だ。
見渡せば若い人たちが半数を占めている。
どうやら帝塚山大学の学生だ。
日本全国の民俗を調査された講師が奈良の民俗の本質に迫るという講議は、「江戸中期の村の数はいくつあったのか」から始まった。
幕藩制を敷いていた江戸時代の国々は270国。
江戸時代の調査史料によれば、全国津々浦々、村の数は10万村もあったそうだ。
村落の文化はそれぞれ。いわば10万種の民俗があった。
それを言ったのは柳田国男。
奈良県は1406村であった。
隣村間の共通文化はあるものの、個性をもつ村落民俗で成り立っていた。
奈良の村ではそれぞれ区割りがあり、「垣内(かいと)」或いは「組(くみ)」と呼ぶ地域が多い。
その単位は村落分けの共同体組織でもある。
共通の民俗文化は地理的条件によって大きく異なる。
吉野川を境に文化が違っていた。
立地条件は南の奥吉野山地に東の大和高原。
最近はそう呼ぶようになったが東山中である。
「山」と「処」で成り立っているから「やまと」と呼ぶようになったを話す。
稲作ため池が多いのは国中(くんなか)と呼ばれていた盆地平坦部。
東日本は同族親族だが、西日本は地縁親族。
仏教王国の大和を山添村峰寺の墓制事例を紹介し解説される。
峰寺は北に9戸の植村組、中央・六所神社が鎮座する峯寺組は9戸に西の8戸の押谷組の三つの垣内がある。
その六所神社には会所がある。
村の決めごとを議論する場はかつてお寺。
安置する薬師さんが見ている場で案件を決めるのだと云う。
六所神社の祭礼は峰寺・松尾・的野の三カ大字が廻りで行われる。
昨年は大字の的野、一昨年は峰寺で、その前年は松尾であった。
大字の在り方に特徴が見られるため、私は三カ年に亘って継続的にマツリを調査してきた。
ジンパイを奉納するガクニンは、会所とも呼ぶ参籠所に上がって神社総代に挨拶を述べる。
参籠所は長屋とも呼ぶが、薬師さんは見られない。
氏が述べる会所はおそらく境内に建つ建物であると思われるが、ガクニンらは立ち入ることはない。
さて、峰寺には共同墓地と5カ所に点在する石塔墓がある。
組ごとの石塔墓であるが、地縁血縁によって分かれるのであろう。
さらに墓地には区分けがある。
墓地入口は若年層で奥は年寄り。
中間は右に男性、左に女性となっているそうだ。
共同墓地の在り方も含めて「両墓制」をもつのは大和の特徴であると話す。
ちなみに峰寺には本家・分家で組織されるキタムラ一統があるそうだ。
それもまた、大和の特徴である「与力」組織。
また、伊勢講、愛宕講、庚申講、二十三夜講などの講組織もあると云う。
中世、平城・城下町が形成された時代の民家は4間。
それ以前は2間であった。
元禄時代、木材の必要性から林業が盛んになった。
当時の吉野の山林は村の共有林であった。
村とは関係のない資本力をもった商人が木材を買い出すようになった。
下市・上市・五條や国中の金持ちが買い占めた木材。
立木所有林経営は商人で村の人が山守となって城造り・家造りの木材を供給してきたと前置きされるお話しは始まってから50分も経過していた。
レジメには「福マル呼び・狐の施行・トンド・鬼の宿・岳ノボリ・客仏」などの年中行事もあれば、「仏教寺院分布・念仏信仰・両墓制」の先祖信仰に「雨乞・野神」の精霊信仰もあった。
講演時間は足るのだろうか。
そんな心配をついしてしまうこの日の講話は氏が長年に亘って調査された民俗学に関してだ。
神道・仏教ではない村の民俗は「神」を「カミ」、「仏」は「ホトケ」と書くと話す。
カタカナで表現するのは、神道でなく村の「カミ」で、「ホトケ」は村の先祖のこととする考え方だと云う。
村の共同体で行われる「カミ」や「ホトケ」が村を支えると話されて「福マル呼び」に繋げられた。
<フクマル呼び>
配られた資料の「福マル呼び」の写真は山添村の切幡(きりはた)。
奈良の民俗を調査されてきた保仙純剛氏が纏められた『日本の民俗―奈良―』に掲載された写真であると話す。
刊行は昭和47年11月。今から42年前よりも前の様相である。
私が高校を卒業した数年後、社会人で動き始めた二十歳代のころである。
先人が記録した写真の様相に感動するのである。
切幡は昨年の大晦日にある家のフクマル迎えを取材した。
40年前はどこともしていたらしいが、現在はぐっと少なくなっているそうだ。
大晦日の夕刻に行われるフクマル呼び。
家を出た辻に出かけて「フクマル コイ コイ」と三回唱えて我が家に「フクマル」を呼びこむ。
県立民俗博物館より提供された大和郡山市伊豆七条町の映像を映し出す。
大晦日には「ホトケ」である先祖がやってくる。
正月にも先祖さんがくると信じられていた。
「ミタマ(御霊)のメシ」と称してご飯などを縁側や竃に供える風習があるのは東北地方。
「ミタマのメシ」とか、「ミタマのダンゴ」である。
大和ではなぜか「フクマル」と呼んでいる。
室町時代に「フクジン(福神)」信仰が流行ったそうだ。
火を焚いて先祖さんを迎えた。
それは「フクジン」信仰と重なっていく変化があったと云う。
「フクマルコッコー」と呼ぶのは「フクジン」を迎える在り方。
山添村北野では玄関口で、箒で掃いて扉をピシャッと閉める。
フクマルを迎えた火は神棚や「イタダキ」に供える。
文明十年(1478)から元和四年(1618)にかけて記された興福寺『多門院日記』に書かれてあった正月の餅飾り。
膳の配置が図式化されていた。
飾りの品々にムキクリ(5個)、アカキモチ、トコロ、イリコメ、キクキリ、ホタワラ、クシガキ、カンジ(1個)、ユカウ(1個)、タチハナ(3個)、モチカス(五個)、アカキマヲ(6個)がある。
ムキクリは剥き栗と判るが、アカキモチは赤色のモチであろうか。
トコロは根が髭のように見える長寿の印しのトコロ芋、イリコメは煎った米だ。
ホタワラはホンダワラ。
雑穀町旧家の三宝飾りで拝見した稲藁で作ったタワラ(俵)のことであろうか。
クシガキは室生下笠間で拝見したいつもニコニコ、仲睦まじくの語呂合わせの10個の串ガキと同じと思われる。
カンジはキンコウジとも呼ばれるコウジミカン。
ユカウはユズであろう。
タチハナは橘の実。
キクキリ、モチカスはなんであろうか。
アカキマヲは括弧書きにアカキメカとある。これも判らない。
図には「次ニ大圓鏡イタタク」とある図絵は三方に乗せたイタダキの膳。
ホタワラ(5個)、合米一合、タチ花(五個)である。
正月早々に毘沙門天や弁財天に祈祷する。
これも「フクジン(福神)」であると云う。
「毘沙門 カネくれ」と呼ぶのは縁起担ぎ。
招福信仰の本質は先祖迎えであると話す。
<東安堵の施行>
かつて調査された安堵町東安堵の古老が話した狐の施行。
施行と書いて「センギョウ」と呼ぶ。
寒中に野辺の狐に施しをする。
アブラアゲやアズキメシを野らに出かけて施した。
神社や寺辺りの5カ所にも施した。
集団でなく、個人個人が出かけて施した「ノマキ」と呼ぶ風習だそうだ。
古い農業神はキツネとされてきた。
豊作神はやがて稲荷神へと移った。
大和では屋敷信仰がほとんど見られないと云う。
<茅原のトンド>
正月14日、15日は各地でトンドが行われる。
県立民俗博物館より提供された大和郡山市城町(じょうちょう)のトンド写真を映し出した。
子供たちが竹に挿したモチをトンドの残り火で焼いている写真だ。
城町のトンドは主水山がある。
我が家から歩いて数分のところだ。
映像を見る限り当地ではないと判った。
講演後に聞いた話では城町でも西側。
つまり西城(にしんじょ)である。
かれこれ40年以上も前は1月31日に行われていた。
いつしか小正月の1月15日に移った。
その後、成人の日がハッピマンデー施行によって近い日曜日になった。
現在では実施日の決定は正月明け新年会一週間後の日曜である。
西城も同じ日である。
このことは主水山住民から聞いている。
新暦の小正月にトンドが行われる地域は多くあるが、地域によっては2度目の正月と称して1月31日、或いは2月1日や2日もある。
氏はそのことには触れなかった。
1月14日に行われる御所市茅原(ちはら)の吉祥草寺では大きなトンドが燃やされる。
雌雄の大トンドや太い化粧回しの綱を作る作業を撮った写真で紹介される。
トンドの場は吉祥草寺。かつては真言宗派であった。
トンドの火点けは玉出住民が行う。
寺で迎える茅原住民と合流する。
寺に入堂されて般若心経を唱える。
そしてトンドの火点け。
玉出住民はオヒカリから移した長い松明でトンドに移す。
かつては修正会の行事であったようで、結願にトンドを燃やす。
今では茅原・玉出両地区で行われる村行事。
おおげさであるが、1月15日は小正月。
この日は旧暦。
ほんとの正月迎えであり、先祖迎えであると強調される。
満月の日が良いとされる先祖迎え。
大和では大晦日とトンドの日の両方がある。
<鬼の宿>
天川村に天河弁財天社がある。
弁財天は水の神さんでもある。
「フクの神」でもある前鬼を祭る家が3軒ある。
柿坂家は村長を勤めた家で、分家におばあさんが住んでいた。
若い分家は神主家。
天河社の社家である。
2月3日は節分。
京丹後地方では祓い追われた鬼を迎える「鬼の宿」がある。
「鬼の宿」は大和にもあるのかと調べてみたらあったと云う。
天河の前鬼末裔の家で行われる節分前夜。
かつてはおばあさんの家であったが、現在は神主家。
斎壇を祭り、二つの布団を敷いた写真を映し出す。
床の間の斎壇に向かって般若心経や祝詞を唱える。
前鬼の先祖を呼び起こすのは「先祖降ろし」だそうだ。
社家はこっそり井戸に行って、晒しを水に浸けて桶に貯める。
これを幾度も繰り返す。
貯めた水桶は縁側にそっと置く。
終わり直近に鬼が降りてきたと「ホォーーー」と声がでて、ピタリと終える神事。
直ちに布団をさっと敷く。
ひと晩寝ると云う布団は左が男で、右は女。
翌朝に去っていくという「鬼の宿」。
京丹後ではこのような作法もなく、「鬼の宿」と呼ばれているだけだそうだ。
山辺郡の人たちは薪を平城京に持ちこんでいた。
「春来る鬼」という記載があるらしい。
日本の古い観念は春来るフクジン(福神)な「カミ」である。
仏教が与えた影響が「フクマル」、「トンド」、「オニ」に。それは当たっていると思うと話す。
<ダケノボリ>
旧暦、山に登って楽しんで下りてくる。
春の農耕始めにダケノボリをしていた。
二上山のダケノボリが有名だ。
里山に登って山の神と共食する。
下りた山の神は農の神になる。
古いのがよく残っている大和のであると云う。
<キャクボトケ(客仏)>
山辺郡によくあるキャクボトケ。
お客さんがホトケ。
我が家に不幸ごとが起これば、縁側にショウロウダナを作る。
先祖さんは縁側に祭る。
ニワにはガキダナを置く。
それはムエンサン。
山辺郡ではそこにもうひとつつく。
我が家から出ていった人。
当主からみれば叔父や叔母である。
その人らが先に亡くなれば、霊魂が故郷の家に戻ってくる。
それがキャクボトケ。
兄弟姉妹は実家に戻ってくるのだ。
嫁さんの両親・兄弟姉妹も嫁ぎ先の山辺郡の家で霊魂を祭る。
真言宗派が広めた仏教の教えであると思っていると話す。
ここまでの講話は1時間半。先を急がれる。
奈良県の仏教寺院の分布表を提示された。
1796寺のうち、断トツなのは浄土真宗。
609寺もある。
2番目は338寺の浄土宗。
3番目は297寺の真言宗。
4番目は208寺の融通念仏宗である。
以下、曹洞宗、日蓮宗、法相宗、華厳宗、真言律宗・・・である。
庶民民俗が多く見られるのは浄土宗、真言宗、融通念仏宗で、浄土真宗には民俗行事はまずないと話す。
念仏信仰のひとつに十三仏がある。
死んだつもり修行する生前修行は逆修。
そうすることで阿弥陀さんの世界にいけると信じられた。
念仏風流・辻念仏の例示は「古市氏」。
お盆になれば念仏風流していたのは応仁時代。
念仏講碑の金石文が多くある大和の国。
他の地域では確認できないくらいに少ないらしい。
大和の特徴だそうだ。
講演時間は2時間を越えた。
雨乞は飛ばされて野神を話す。
稲作始めにジャマキをする大和の野神行事。
水の神は日照りに水を潤す「カミ」。
田の神となって出現するが、滋賀県では豆の収穫時期。
子供の相撲の褒美に大量の豆をあげるそうだ。
(H26. 5.18 SB932SH撮影)