マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

岩屋八柱神社宵宮祭

2010年11月20日 07時31分20秒 | 山添村へ
山添村岩屋の八柱神社下の川には清廉な滝がある。

不動の滝だという。

石仏の不動明王と薬師如来を祀っている。

この滝には石塔がある。

天正八年大和領主だった筒井順慶が伊賀攻めをした際に岩屋の人たちが戦死した。その霊を慰めるために建立した供養塔だという。

その傍らにはモチを供えている。

モチはカラスが来るというので網を被せている。

モチは神社の賽銭箱や手水舎にもある。

宵宮参拝に来た氏子たち。

神社にお参りして滝にも手を合わせる。

この逆もある。

参拝の順は特に決まりはない宵宮祭だ。



神職を迎えて神事が始まった。

本殿に上がったのは宮守さんと当屋に氏子総代の3人だ。

氏子たちは本殿下で参拝している。



神饌は季節の幸と新穀を刈り取られた根付きの稲藁3束。

傍らにはカキとザクロがお供えされている。

これは明日の座入りの儀式に配られる里の幸だ。

参籠所で行われる座の席は表座と裏座に別れている。

岩屋は84軒。大字の道(旧道)を境に二座に分け、席は毎年交互に入れ替わる。

当家が口上を述べると堂下(どうげ)が「けこうでございます」と返答するらしい。

戸主がいない家などさまざまな事情があって座の席に着けない人には「送り膳」と言って堂下が持っていく。

堂下は行事の手伝いをする人たちだ。

その膳はエダマメ、コンニャク、モチ、ザクロ、カキ、ジャコ(雑魚)などだ。

この膳の儀式を座杯と呼んでいる。

座杯は戸主継承者の数え年17歳の長男や婿養子の座入りの儀式のことである。

座入りのときに飲まれる酒は20本。相当な量だ。

それはともかく今日は宵宮。

神事を終えると宮守、氏子総代、当家は神職とともに社務所で参籠。

氏子たちは参籠所となって別々に直会が行われる。



氏子たちは座席に着いた。

そこへ宮守と区長が上座に座った。

本日のお礼と会計報告を伝えた。

そして下座に座った2人の堂下は挨拶を述べてジャコ(雑魚)とお神酒を席に配る。

お酒の酌は三三九度のような作法で1、2、3と酒器を盃に落とす格好をする。

そしてお神酒を注ぐ。

上座に座る長老たちから順に酌していく。

こうしてお酒を調えたら「みなよばれてください」と宮守が挨拶されて退席された。

そのあとはジャコで酒宴の場となった。



肴はもう一つある。それは出汁豆。

桶升に入れられた出汁豆は各自が皿に盛って回していく。

かつては当家が料理したそうだ。

家庭の味でそれぞれが美味しかったと話す。

その頃はコンニャクやゴボテン、カマボコ、タマゴ焼きもあったそうだ。

堂下がお重に詰めて運んだそうだ。

17年前に息子が座入りしたときのことだと話す氏子。

丁度、高校の中間試験だった。

試験も座入りの儀式も同じ日。

同時に出席はできない。

そこで区長が村の行事の大切さを校長先生に訴えた。

村の行事を配慮して試験は追試験で対応された。

伝統行事を守ってくれた校長先生に感謝した話す父親だった。

座入りは一人前として認める儀式。

父親が退いたら息子はこの席に出席することができる。

子供には任されんといって退かなければ席に着くことができない。

60歳になって始めて席に着いたという事例もあるそうだ。

それとは逆に親父が亡くなったことから17歳から着いた元氏子総代のYさん。

御歳は70歳を越えている長老だ。

岩屋では座入りとは別に村入りの行事がある。

彼岸の中日、十五酒(じゅうござけ)と呼ばれる行事は興隆寺(こうりゅじ)で行われる。

15歳になれば村の道造りに参加できる。

一人前の村人になったということを祝うそうだ。それをイリツコ(入りつこ)と呼んでいる。

(H22.10.16 EOS40D撮影)

切幡神明神社宵宮座入り

2010年11月19日 07時50分07秒 | 山添村へ
山添村切幡は上出と下出の地区ごとに神明神社の祭典を営む神主がいる。

16日が祭礼の日だった大祭。

それはいつしか第三日曜に移った。

前日は宵宮。

早朝から集まった下出の神主と当屋の人たち。

翌年を任されるミナライもいる。

当屋は大当屋と相当屋の二人だ。

ミナライと当屋の息子たち。

キョウと呼ばれるアカメシを供えて式典を終えた。

それはお下がりとなって塗りの椀に盛られる。

座席の数だけ用意される。

供えたときは膳にはキョウがあった。

四角い形の上に円錐形の乗せた二段型のキョウ。

キョウ御供とも呼ばれているキョウはモチゴメアズキメシのオコワだそうだ。

その膳には枝付きのエダマメとサイラと呼ばれるサンマの開きも乗せていた。



机は注文したパック詰め料理が運ばれる。

上座には3人の男児の名前が記されている。

直前までに生まれた男の子の名前だ。

そこには紅白の饅頭も置かれた。

氏子たちは席に座る。

上座は父親に抱かれた赤ん坊。

一人はやむなく欠席されたことを伝える神主。

新氏子の名を詠み上げる挨拶はその子たちの座入り告知である。

お酒も注がれた儀式は酒宴に移った。

母親はどうしているかと言えば末席の外れに居る。

そのうち赤ん坊も泣き出すようになるので母親の処に移された。

同席した孫を見守る人は上座に座った父親の父親だ。

子供の親は大阪や奈良市新大宮。

住まいは切幡でなくとも氏子入りを認める座入りは男だけだった。

いつしか女の子も氏子だということで参列を認めるようになった。

(H22.10.16 EOS40D撮影)

西波多の行事

2010年11月18日 07時33分49秒 | 楽しみにしておこうっと
山添村西波多は名阪国道の山添ICから西へ北野に抜ける道中。

右手に春日神社が見える。

上津の地区だ。

そこで行われている秋祭りの宵宮。

真っ暗ななかで銭まきがあるという。

銭まきは珍しい風習で隣村の遅瀬でも行われている。

ここから北へ向かうと下津地区に着く。

道中は狭い地道の街道。

対向車と出会った場合は対応が難しい。

それはともかく下津には新道ができている。

そこを東に向かえば山添ICになる。

その道沿いに鎮座する下津吉備津神社を訪問した。

住民のおばさんにお聞きすれば既に例祭は終わっているという。

17日だったがそれに近い日曜だというが、どうも第一日曜に行われたそうだ。

トーヤとアイトーヤがある。

3日前にはモチゴメを集め、それを炊いていた。

手間がかかるからとお店で作ってもらうようにした。

それぞれの家からお重を持って神社でよばれる。

「おます」という。

箸は神社が用意するという。

神社近くに住むNさんが村の神主だそうだ。

山添双書によれば饗式三献やザザンザが紹介されている。

一度訪ねてみたい。

切幡の祭礼に応援に来ていた下津の若者から話を聞いた。

年末の29日にはシダ取りをされている。

子供の行事だ。

男の子たちは消防蔵の次の三叉路から山にあがっていく。

小中学校の子たちは月ヶ瀬の桃香野へ山を歩く。

山中でシダを取ってくるのだ。

山の名前は判らない。

朝5時ころに集合して行った記憶があるという青年。

昼ごろには戻ってきたそうだ。

15年前のことだが今では子供が少ない。

しているかどうかは判らないという。

(H22.10.16 SB932SH撮影)

脇本の泥棒除け札

2010年11月17日 09時53分06秒 | 民俗あれこれ(護符編)
脇本に住むMさん。春日神社の一老を勤めていた人だ。

一旦は引退されたが氏神さんの総代になった。

そのMさんのお宅を訪ねた。

ふと玄関口を見上げればなにやらお札が貼ってある。

目をこらしてみれば「十二月十二日」と書いてある。それも逆さまからだ。

大阪、河内、金剛山葛城山を越えた辺りに分布していたようだ。

このお札は泥棒避けとされているそうだ。

何年前かのことだと話すMさん。

家に帰ったら玄関をドンドンとしている見知らぬ人が居た。

帰ってきたMさんを見るやいなや垣根を飛び越して逃げていったそうだ。

それから不安になった。

近所でその話しをすれば良いお守りがあると教えてもらった。

それが「十二月十二日」のお札だ。

ありとあらゆる家の扉に貼り付けたお札。

効き目があったのか、それからは不安も危害もないという。

魔除けの一種だと思ってはいるが心が安らぐと話す。

この風習を教えてくださった人は地元の人のNさん。

どういういきさつで貼っているのか一度お聞きしたいものだ。

私の実家になる大阪でもしていた泥棒除けの札。

祖母が生きていた頃だった。

毎年していたのを子供のときに目撃していた。

祖母は河内の出身でなく大阪市内の中央にある中之島。

戦災で焼けるまでは呉服屋だった。

その娘だった祖母。

それはともかく情報によれば奈良の料亭の菊水にもあるようだ。

また知人の話では奈良町辺りでも見かけたことがあるという。

大和郡山の春岳寺の住職によれば京都から伝わったのではないかという。

今夏に東京へ転勤された新聞社支局次長の話では丹波から伝播したのではないかという。

どれが事実なのか判らないが文化圏はかなり広かったのであろう。

流通、交通、姻戚などに関係した人が動いた結果なのかもしれない民間信仰である。

(H22.10.15 EOS40D撮影)

山添村岩屋の行事

2010年11月16日 07時19分47秒 | 山添村へ
山添村の秋祭りは第二日曜にされる地域と第三日曜にされる地域に別れている。

前半は管生、室津、桐山、北野、大塩、西波多の上津と下津に遅瀬など。

後半は春日、三ヶ谷、切幡、岩屋、峰寺などだ。

まだ調べていない地域もあるのだが岩屋の行事について尋ねてきた。

岩屋の宮さんの行事は毎月ある。いわゆる月次祭で「さへ」とも呼ばれている。

さへは長老たちが2人交替でお参りをする。

村の神主は宮守さんと呼ばれている一年神主。

11月1日はさへの日でそのあとは元服祭が行われる。

当人が接待する日だそうだ。

それが終われば次の宮守を決める式典。

長老たちが決めるのだが、実際はすでに決まっている年齢順。

宮守は12月31日に役目を終えていたが今は3月31日。

ある年に宮守さんが不幸になったそうだ。

それからは3ヶ月ずらしたそうだ。

当家も家の順になっている。

かつては茶碗にクジを入れて引きあげる茶碗籤。いわゆるフリアゲだったそうだ。

10月の第二日曜はゴイシ(御石)洗い。

朝早くから掃除にあたる。

そのころ村の人たちが順繰りにやってきて燈籠下にある玉石を洗うのだ。

じゃぶじゃぶと洗うのは蛇口の水。

でてくるのは井戸水だ。

岩屋は80軒ほど。

昼過ぎまでかかるという村人の奉仕作業だそうだ。

秋祭りは元々に祭礼されていた16日から17日に近い日曜に替わった。

氏神祭(本祭)には座入りの儀式が行われる。

17歳の男子(戸主の後継者の男の子)と村入りした婿養子が対象になる。

酒の肴に膳が用意される。これが堂下(どうげ)と呼ばれる祭典のお手伝いで3人いる。

膳の中身はエダマメ、コンニャク、モチ、ザクロ、カキ、ジャコ(雑魚)などだそうだ。

宮守さん家の婦人の話ではゴーシンサンや山の神があるという。

山の神は11月7日。昼過ぎに集まる。

その夜は夜籠もりをするらしい。

(H22.10.15 SB932SH撮影)

薬園八幡神社秋祭り

2010年11月15日 07時48分52秒 | 大和郡山市へ
秋祭りの神事は朝だった材木町の薬園八幡神社。

夕方は地域の人たちが寄ってくる縁日だ。

氏子たちが店子になっていろんな夜店を開店する。

神社の出入り口は提灯がずらりと並ぶ。

氏子たちが住まいする町名がそれぞれ記されている。

拝殿に灯りが点った。

座敷には古い祭式道具が置かれている。

幟、獅子面、天狗面、太鼓などお宝ものが処狭しに並べられた。

夜店の様相は夏祭りと同じ様だ。

輪投げは何時から始まりますかと尋ねてくる母親。

子供が楽しみにしているのだろう。

(H22.10.12 SB932SH撮影)

新庄町素盞嗚神社祭り当舎

2010年11月14日 08時47分09秒 | 大和郡山市へ
秋祭りは12日と決まっている新庄町の素盞嗚神社。

新庄町はもう一つの神社がある。それは鉾立神社である。

場所はといえば東の外れ。出屋敷だったという地区は8軒ほど。

ここでは集まりやすい第二日曜日に変更された。

お渡りなど秋祭りは既に終えていた。

一方、素盞嗚神社では昨日の宵宮と同様に二日間に亘ってお渡りをしている。

地区は西と東。それぞれにトーヤ制度がある。

トーヤを充てる漢字は当舎だそうだ。

県内ではヤを充てる字は屋や家が多くあるが舎は聞くことがない。

それはともかく当舎(本当舎とも)は各地区とも2人だ。

白衣を身につけて登場する。

当舎はもう一人いる。

次の当舎を勤める人でミナライとも呼ばれているアトトーヤ(受け当舎とも)。

衣装は和装だ。氏神さんを司っているのは3人の氏子総代。

いずれも黒足袋を履いた和装姿だ。

お渡りは両地区の当舎家からぞろぞろ歩いて高く掲げた提灯の前に合流する。

その際、「トーニ(ジ)ン トーニ(ジ)ンワーイ」と唱和したら皆が「ワーイ」と言っていたのだが、恥ずかしくなったのかもう何年も発声したことがないと総代は話す。

鳥居前で厳粛にお祓いをしたあとは宮司を先頭に拝殿に向かって行く。



当舎の孫男子(当人と呼ぶ)は稲束と竹の御神酒入れを担いでいる。

三つの扇を組み合わせた御幣を持つのは当舎。

幣の色は紺と白。目立つ色彩である。

本殿の両脇に御幣と稲束、御神酒入れを立て掛けて神事が始まった。

末社へもお参りをするが宮司と手伝いだけだ。

竹筒からお神酒をカワラケに注ぎ参拝する。

当舎の家族が見守るなか粛々と神事は続けられる。

そのあとは拝殿に登って直会へと移った。

両地区は左右に別れて座る。

座席にアトトーヤが配るジャコと昆布。お神酒も注がれた。

しばらくはそれを肴にお酒が入る。



30分ほど過ぎた辺りでしょうか。当舎の前に座って「御幣下げいかがですか」と口上を述べる。

「はい けっこうでございます」と返答をもらったアトトーヤは御幣を持ちだして末社に参る。

その御幣を持ったまま再び拝殿にあがった。

なんと一人ずつ頭の上から御幣を振るのだ。

所作はいわゆる奉幣振り。

そしてもう一回の口上。

「げこう(下向)はいかがですか」と述べれば「はい けっこうでございます」と返答する。

これは下向と呼ばれる儀式であった。

これを所作するアトトーヤは一人。

お神酒を早く飲みきった方がその所作をするのが慣わしであったが、現在は右(南側)に座る地区となった。

この年は右に座るのが西地区、左は東地区だった。

翌年はその座る位置を入れ替え交互にあたるようにされた。

こうして酒飲みの競争をしなくてもいいようになったという。

祭りの前々日はヨバレの日だった。

当舎の家で氏子たちがご馳走をよばれるのだ。

伊勢音頭の囃子唄でモチを搗いていた。

「そこつきゃー へーそーだー」のモチ搗き唄。

杵で力強く搗いた。

今でも文句は覚えているが急には思い出せないとU氏子総代は言った。

場所は公民館に替わったが合同のモチ搗きは今でもしているそうだ。

夕方5時には個々の家では提灯を立てる。

「東地区は酒をよー飲んでた」と話す総代たち。

飲み過ぎてこってつけに杵に付くぐらいモチはトロトロになった。

そのモチはテーバイと呼ばれるキナコモチにしたそうだ。

(H22.10.12 EOS40D撮影)

白土町白坂神社の祭り

2010年11月13日 09時28分51秒 | 大和郡山市へ
早朝から集まってきた白土町白坂神社の当家六人衆。

年長から一老、二老と呼ばれている。

集落の北、西、中、東、城垣内から選ばれた年番六人衆(2月3日までの一年間)のお勤めは朝早い。

事前に用意された野菜類。芽付きレンコン、ゴボウ、エダマメ、サトイモなどの野菜にコンニャクが加わる。

これを造りものの形に調える。

レンコンを土台にゴボウ2本とエダマメ数本を立てる。

下部は2個のサトイモを置く。

レンコンにはコンニャクを串で挿している。

これらを括ってできあがった生御膳。

特に名称はなくオソナエの一種であろう。

一時間ほどで7体ができあがった。

生御膳は人身御供だとも言う。

もうひとつはモッソと呼ばれる盛り飯だ。

今年はモチゴメを1割混ぜたそうだ。

昨年まではメシを大釜で炊いていた。

モッソの型に押し込んで作るのだが型崩れし易いことからモチゴメをいれた蒸しメシにされた。

手間を省いてお店で五合ずつに分けて作ってもらった。

それはともかくこれをモッソの型枠に詰め込むのだ。

型枠はブリキ。寸胴に近い円錐型だ。

小さな穴の方からメシを押し込んでいく。

適量に分けてあるのでそれが無くなればモッソ型枠を引っこ抜く。

するりというわけにはいかない。

そろそろと持ち上げていくにも多少時間がかかる。

スポッと抜けたらそこにはモッソメシが現れた。

これに7月に採取したコモ(新庄町鉾立よりの天理の川)で周りを巻いていく。

何重にもなるコモ巻き。縛り止めが難しい。

最後のコモを巻いたら束ねた茎の部分に水引で括る。

やっと一つができた。

これを高杯に乗せる。

その後は順調に出来上がるモッソ作り。

生御膳もそうだが「匠の技じゃ」と言って一個作るたびに上手くなる。



これも一時間半ほどで7個ができあがった。

両御供は本殿に2対、境内内末社に3対。

ご神木にも1対。境内外の弁天さんにも1対。合計7対だ。

これは祭りを終えて六人衆と自治会長が氏子たちの参拝を終える夜8時ころに持ち替える数でもある。

モッソの形は隣町の石川八坂神社と同形だったが関係があるのかどうかは判らない。

なお、型抜きししたメシは一般的に「モッソウ飯」と呼ばれている。

漢字を充てれば「物相」。

世間では計量する型そのものが「物相」と呼ぶようだ。

そういう面から言えば梅型のご飯を作る型もモッソウとなる。

すべての御供ができあがる時間は丁度昼前。

自治会長を呼んで公民館で軽食をよばれる。

お酒も入って歓談の時間が過ぎていく。

そうこうするうちにお渡りをする時間が近づいてきた。

7人は一旦家に帰る。

六人衆は出発前にお風呂(シャワー)に浸かって身を清める。

かつては三室の龍田川で禊をして、小石を拾いそれを風呂に入れていたと話す一老。

小学校のことやからおよそ65年くらい前だったと思い出された。

当時は17日が祭礼だった。

学校終えてランドセルを降ろした。

農繁期だったので手伝いしていたと話す。

再び集まった六人衆と自治会長にトモたちはスーツ姿で現れた。

出発地は地区の中央の辻。おもむろに歩き出した。

お渡りは自治会長が先頭だ。

六文銭の首飾りを着けた一老、二老と続き御幣を持つトモが並ぶ。

トモは一、二老の男性家族で日の丸御幣を持つ。

次は三老、四老だ。そのトモは実付き稲と桶、酒樽を担ぐ役目だ。

そして五老、六老となり提灯を持つ。



沿道ではお渡りを一目見ようと待ち構えている。

鳥居を潜り本殿へまっしぐら。

御幣などは本殿前に置いた。

そして始まった神事。宮司がいなくとも粛々と行われる。

本殿に左側の末社をお参りすると裏側に回って右の末社前に整列し参拝。

再び本殿前で参拝して神事を終えた。

そこころ子供御輿は地区を巡っていった。

囃す子供の声が集落に聞こえてくる。

普段着に着替えてきた人たち。

神社で参拝者を待つのだ。

夕刻間近、拝殿に登って直会が始まった。

特別な料理はなくなってパック詰め料理の膳だ。



「宵宮は大勢参りに来よったな」と話すも本祭は人影が見られない。

そして暗がりの時間に近づいた。



燈籠にローソクを点していくのだ。

同時刻、地区の担当当番の人もローソクを点けていく。

この人たちは神社内でなく神社の外回りの火点け役であるのだ。

言葉を交わして出屋敷のほうまで歩いていった。

(H22.10.11 EOS40D撮影)

長滝町九頭神社宵宮

2010年11月12日 07時34分32秒 | 天理市へ
前日に本当屋と受け当屋の2軒の家にヨバレに行く座衆を採択する「座分け」があった長滝町。

夕方から始まって凡そ3時間は酒宴になる。

今はパック詰め料理になった当屋の料理。

かつては料理をこしらえて接待をしていたそうだ。

本当屋の玄関口には注連縄が張られている。

両側には藁で包んだ洗い米と塩がある。

そして3mぐらいの長さの太いメダケを3本立てている。

2本は提灯。形態は高張提灯のようだ。

もう1本は幟とも思える幡だ。

本当屋は赤色で大当屋の幡。受け当屋は白色でコ当屋になるという。

本当屋の座敷には舘の神さんを祀っている。

2月5日に行われた正月ドーヤのときから一年間祀るそうだ。

祭壇には2種類のモチのお供えがある。

アンツケ(アンコ)モチとキナコモチだ。これはセキダモチと呼んでいる。

モチを搗いて柔らかい間に「イ(藺)」で切るという。

今夜は九頭神社の宵宮。

かつては長いオーコで担いでいた太鼓台があった。

秋祭りには天理ダムに沈んだ地区まで練っていた。

台には子供が4、5人乗って太鼓を叩いていたと話すNさん。

長老十人衆の予備にあたるそうだ。

両当家は行司が出発時間を調整して神社までお渡りをする。

出発前、素襖(ソウ)を身につけ烏帽子を被る当屋と十人衆。区長もその姿になった。

玄関口で太い松明に火を点けた。

赤い炎がメラメラと燃える。

提灯にもローソクが点された。



最初に出発した受け当屋に一行が待ち会う場所にやってきた。

しかし先導を行くのは本当屋の行列だ。

一列になって神社を目指して真夜中のお渡り。

鳥居をくぐって宮入りした。

松明は境内で燃やす。



そして始まった真夜中の宵宮式典。

両当家、長老十人衆らが席に着いた。

一老は朗々と祝詞を奏上する。

境内は賑やかだが拝殿はまさに神事一色。



それが終われば千本杵で搗いた紅白の御供モチをいただく。

参拝者には甘酒が振る舞われる。

明日の秋祭りの時間を通達されて宵宮を終えた。

(H22.10.10 EOS40D撮影)

北野山町戸隠神社宵宮のウタヨミ

2010年11月11日 07時19分13秒 | 奈良市(東部)へ
奈良県東部の東山中辺りでは田楽などの神事芸能を奉納されている地区が散見される。

奈良市では丹生町丹生神社柳生町八坂神社阪原町長尾神社邑地町水越神社大保町八坂神社水間町八幡神社大柳生夜支布山口神社下狭川九頭神社。山添村では北野天神社室津戸隠神社桐山戸隠神社峰寺六所神社中峯山神波多神社などだ。

布目川沿いに位置する北野山町の戸隠神社で演じられる田楽も一連の東山中の神事芸能として無形民俗文化財に指定されている。

宵宮の夜、前月の12日に振り上げで決まったゴヘイモチの当家を先頭に出発した渡り衆の一行は神社を目指してお渡りをしてきた。

ジャリジャリと呼ばれるササラ、横笛、太鼓を持つ渡り衆が続く。

北野山町には山の神がある。お渡りの際にはその山の神に向かって今年もよろしくお願いしますと拝礼してやってきた。

下駄から草履に履き替えて本殿に登っていった。

暗闇のなかで行われる神事。拝殿下で拝見する氏子や当家家族。

秋の虫の声に混じってウタヨミが聞こえてくる。

目出度い詞が連なる謡い語りだ。

始めに渡り衆のなかから若い者が一人歩み出て「あかつきおきて そらみえる こがねまじりのあめがふりて そのあめようて そらはれて ところがさかえる たまぶうえし きみがよ」を謡う。

ジャリジャリ、横笛、太鼓を鳴らされているかどうか耳には入らない。

次に年長者が歩み出て謡う。

「せいようのはるのあしたには かどにおまつをたてならべ おさまるみよしるしには たみのかまどにたつけむり まつからまつへ ようごのまつ」。

周りの衆は「ハァ」と掛け声を掛けてジャリジャリ、横笛、太鼓を鳴らす。最後は当家が締めくくる。

「やっととんとん(3回繰り返す)」、「おんまえならおんまえ かめはかめ つるこそふれてまえあそび つるのこやしゃまごの そだとうようまで ところがさかい(処が栄えるの意) たまぶうえし(賜って嬉しいの意) きよがつは」の詞章を述べる。

最後はジャリジャリ、横笛、太鼓を鳴らしながら揃って「きみがよは かねてこそ ひさしかるべき すみよしの まつやにゆうどう」と謡った。

このときには謡の声や鳴り物の音色が聞こえてきた。



奉納を終えた一行は参籠所に移った。

枝付きのエダマメが差し出され酒をいただく。

ほどなく渡り衆は戻っていくものの参籠所では氏子たちの直会となった。

茹でたエダマメはとても美味しい。

(H22.10.10 EOS40D撮影)