マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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南山城村田山・諏訪神社田山の花踊り

2016年07月18日 09時07分58秒 | もっと遠くへ(京都編)
奈良県の北外れにある「田山」の地を知ったのはいつだったろうか。

福住別所の永照寺下之坊住職だったのか、それとも月ヶ瀬桃香野の善法寺住職だったのか覚えてないが、月ヶ瀬地区辺りにあるその地でオコナイ行事があるやに聞いていた。

もしかとしたら都祁針の観音寺住職だったかも知れない。

行事を行う寺名は存じていない。

オトナと呼ばれる長老らは宮本(宮元とも)座、中間(中元とも)座の二座を組織していた。

念仏を唱える際に発せられる「ランジョー」に合わせて子供が棒をもって叩くらしい。

それは諏訪神社宮司も一緒になって行う神仏混合の行事であった。

私の記録メモ、平成22年より書いてあった1月の正月行事は京都府相楽郡南山城村・田山にある観音寺だった。

この日に訪れた田山の諏訪神社におられた田山の花踊り保存会副会長が今でもしているが・・と云いかけた。

座の諸事情によって数年前からランジョー作法(本堂外縁のマナイタ叩き)は中断しているようだが、都祁針の観音寺住職が来られて法会を行っているということだ。



写真は諏訪神社の急な石段。

もしかとすればだが、角度は45度かも・・。

それはともかく最下段辺りの石段に数個の穴が彫られていた。



間違いなければこれは「盃状穴(はいじょうけつ)」。

いつの時代か判らないが当社においても願掛け、あるいはまじないをしていたのであろう。

田山の花踊りが奉納される神社は諏訪神社。

本殿下右横の境内で行われる。

同神社の割拝殿には数々の絵馬が奉納されて掲げられている。



正面に拝掲する絵馬に興味をもった。

10枚なのか、12枚なのか隠れている枚数もあるのか、それも判らない絵馬を一枚、一枚眺めてみる。

大きな松明とも思える道具に火が見える。

十月・マツリの日と思える出店の様相もある。

五月・笠を被った人が田植えをしている絵もあるし、六月・傘廻しと思える大道芸も。

三月はたぶんに梅の花見。

七月は競い馬だ。

画風や奉納寄進者の名から判断して江戸時代の作だと思えた絵馬に感動する。



また割拝殿には「明治乙亥(明治八年・1875)春陽日 淡海谷氣長筆」とある仇討を描いたと思える絵馬が一枚。

「明治三□□乙亥年(明治八年;1875)四月五日」の記銘がある赤穂浪士の討ち入りを描いたと思える一枚もある。



「施主長老」26人の連名があることから奉納寄進したのは座中(宮本座・中間座の二座)であろうか。

なお、他の資料によれば座は宮本座(宮元座とも)に中間座(中元座とも)、九日(くにち)座があるようだ。

田山に来た訳はもう一つある。

今年の8月末に京都府立山城郷土資料館の企画展の「踊る!南山城-おかげ踊り・花踊り・精霊踊り-」に南山城村の「田山の花踊りを紹介していた展示物を拝見したことによる。

11月3日に行われる花踊りは諏訪神社に奉納される。

集合・出発地は旧田山小学校グラウンド。

そこから神社に向けて練り歩く行列がある。

展示に記録動画もあった。

「花踊り」の踊りや衣装・シナイ飾りを見ていてなんとなく奈良市大柳生や月ヶ瀬石打の太鼓踊りを思い起こす。

太鼓に乗った子供が雨乞い願掛けを口上するのも石打と同じ。

行列に棒(棒術なのか、払い棒なのか?)のようなものを持つのも同じであるが、これまで見たこともないような、顔を金箔の笠で覆った黒い紋付の羽織袴衣装を着る「唄付け」にも興味をもった。

太鼓打ちの前で貝吹きをする修験者の姿もある。

この様相は是非とも拝見したいと思って出かけた田山。



午後ともなれば旧田山小学校跡の講堂体育館に集まって、踊り衣装の着替えが始まった。

傍には緑色の葉に咲いた桃色花の飾りを保管していた大きな箱があった。



それには「志ない」と書いてあった。

大人たちは踊り子。



その場に居た浴衣姿の小さな子供はササラを手にしている。

もう一人は裃姿だ。



椅子に座って念仏とも思えるような詞章を小さな声で唱えていた。

この男の子は諏訪神社で奉納される田山の花踊りに重要な役目を担う神夫知(しんぶち)である。



広げた詞章は「謹上再拝 謹上再拝 皆々様 静まり候らえ 静まり候らえ 京都府相楽郡南山城村大字田山には 古より 大旱天の年に当たりては 氏神様 諏訪神社に 雨乞いの祈願を込め 神威により 雨降らし給うや 村人達 うち集い 願済ましの踊りを奉納するを例とし 今日まで伝えられ候ところ 長き歳月 旱天もなく このままにては 古き文化も廃れ 後の世まで伝えること 難しくなるを虞れ これを改め 五穀豊穣 家内安全の祈願を願ましとし 氏神様の祭礼に奉納せんとす 御入来の皆々様 ゆるゆる御見物 なされ候らえ なされ候らえ 」、「平成二十七年十一月三日 神夫知○○」。(※ ○○は太鼓の上に乗って向上する男児の名前である。)

口上はもう一つ。

愛宕参り、八つ橋踊りを紹介する口上である。

黙々と頭に叩き込む姿に声はかけられない。

氏神さんを祀る諏訪神社へ奉納される花踊り。

踊り子たちが始めに登場する場は旧田山小学校の校庭だ。

平成15年3月を最後に廃校となった村立田山小学校である。



懐かしいケンケン遊びの痕跡がある。

昔の痕跡ではなく、午前中に立ち寄ったときにはなかったから、ついさっきまで子供たちが遊んでいたのであろう。

幕始めに披露される旧田山小学校校庭は旧有野家の庭だったそうだが、その関係性は田山花踊り保存会編集・発行の『雨乞い田山花踊り』には書かれていない。

何故に旧有野家の庭で披露されるのか、再訪した際に尋ねてみたい。

踊り子が背中に担いだシナイ。

復活したときに作った衣装は今年が最後の出番。



50年も使用してきた衣装は新調されて来年には披露されるらしい。

心棒の中半分は赤・緑三段の房飾り。

天頂は長さ2メートルほどの竹に造花や色紙で飾っている。

花笠のような仕立ての桃色花に緑色葉は色紙で作られている造花だ。

そこに赤10本・白色5本の御幣も挿していた。

重さはどれくらいか存知しないが、躍る際のバランスとりが難しいように思えた。

踊り子の衣装は花柄の長羽織。赤・黄紅葉が流水に舞っているような柄のようだ。

この柄は京都生まれの染物作家・皆川月華による作品らしい。

踊り方のコツを披露直前まで指導していたのは花踊り保存会の副会長。



長年に亘って受け継いだ花踊りを次世代に継いでいた。

足元は白脚絆に草鞋。

手は白い手甲を嵌める。

いずれも赤い紐で締めている。

長羽織を着る女装姿の踊り子たち(ハナの呼び名がある)が登場した時間帯は黒い雲が俄かに張りだした。

雨天における花踊りが心配されたが、10分ほどで流れていった。

旧田山小学校跡の校庭に二宮金次郎像があった。



懐かしい。

とはいっても私はここの出身者ではない。

大阪市内の住之江区。

生まれ育った北島町にある敷津浦小学校だ。

敷津浦小学校の創立は明治7年。

昭和41年に卒業してから何十年も経った。

記憶は曖昧だが、母校も校庭に二宮金次郎像があったことを鮮明に覚えている。

わたしが学んだ母校とほぼ同じ時期の明治9年に創立された旧田山小学校跡校舎の廊下の突きあたり手前の扉を開ける。

舎内教室にあった椅子や机。

黒板などなどはいずれも当時のまんまのようだ。

コの字型の校舎にあがってみる。

土足は厳禁。靴を脱いで廊下にでる。

綺麗に磨きをかけた板張り廊下。

このような建物構造は大阪市内にあった敷津浦小学校校舎となんら変わらない。

卒業して学年はあがって中学生。

学び舎は北に徒歩15分の市立南稜中学校に移った。

思いだすのは廊下も舎内教室も板張りだった。

スリッパを履いていたような気がする。

一直線に伸びる長い廊下を雑巾がけしていた時代を思いだして、同じポジションから横位置も撮ったが、奥行きはあまり感じない。

撮る位置の角度もあるのかも知れないが、確かめる時間はなかった。

田山の花踊りは雨乞い祈願。

水の神さんとして信仰される氏神・諏訪神社へ捧げる雨乞いの踊りである。

諏訪神社は明治時代の神仏分離令がでるまでは九頭大明神と呼ばれていた。

神社名が替わったのは明治四年一月のことだ。

このようなケースは日本各地で見られる。

神社に建之された灯籠などでその痕跡が判るが、この日は確かめる余裕はなかった。

「毎年のことだけど、奉納が始まるまで曇り空であっても晴れになる」と話したのは「入端(いりは)太鼓」役を務める女の子の母親だった。

「水の神さんに奉納するんやから、雨天でも決行する」と村人らが話していたのも頷ける。

ただ、決行する場所は「トレセン」になると話していた。

屋内スポーツ施設として利用されている「南山城村農業者トレーニングセンター」が「トレセン」の正式名称である。

田山の花踊りには願掛けの軽いものから重厚なものまで、十四段階の踊り系統がある。

『雨乞い田山花踊り』記念誌によれば14曲目。

軽いものに願掛けの雨乞いをして3日以内に叶った場合は諏訪神社の籠堂で躍る「こもりの願」がある。

その他、願が叶って各戸が持ち寄った青物を供える「青物願」や蒸し米を供える「供の願」、百若しくは百八つの灯明を灯す「百灯明の願」、千個の火を灯す「千灯明の願」、地区の組ごとに大灯籠に火を灯す「大灯籠の願」、キリコ灯籠を灯す「キリコ灯籠の願」、「山灯籠の願」、「臨時大祭の願」、自由な衣装で伊勢音頭を唄って自慢の芸をみせる「総いさめの願」、3日続けて踊っても雨が降らなかった場合に躍る「ふりかけ踊りの願」、羯鼓(かんこ)と呼ばれる締め太鼓を胸につけてバチを打ちながら踊る「かんこ踊りの願」。シナイの造花代わりに依代の笹をつけて踊る「笹踊りの願」、効験は見られず、期限も設けず踊り明かした「雨乞い願満」、茅葺の屋根から雨滴が落ちるぐらいの雨量になったときに踊る「花踊りの願」がある。

この日に披露される「田山の花踊り」は最後に挙げた「花踊り」の形式だ。

着替えを終えた踊り子たちは講堂を出て校庭に集まる。



家族とともに記念の写真をおさまる家族も多い。

お父さんの晴れ姿に絣模様の浴衣になった小さな子供も一緒になって記念撮影だ。

親子三代に亘って神夫知役を務めた家系もあるようだ。

「花踊り」の楽曲は12曲の「庭踊り」がある。

九節の「愛宕踊」、五節の「屋敷踊」、五節の「庭の踊」、五節の「手きき踊」、六節の「御殿踊」、八節の「姫子踊」、十八節の「陣役踊」、七節の「拾九踊」、五節の「鎌倉踊」、九節の「八ツ橋踊」、七節の「綾の踊」、七節の「御庭踊」である。

合計で十二段、九十一節。

すべてを奉納披露すれば丸々どころか二日間にも亘るらしい。

この日の時間枠からいえば数曲。曲(演目)は毎年替わるようだ。

さぁさ、踊ろう・・・旧田山小学校跡の校庭で披露される初めの楽曲は「愛宕踊り」。



小学3年生の男・女児が太鼓を打つ「入端(いりは)太鼓」によって始まる。

小学生が奏でる場に並んだ人は修験姿の四人。

ボー、ボーと吹き鳴らす法螺貝の音色は単調なように聞こえる。



次は真打の太鼓打ち。

子供と同じく鉢巻きを締めている。

上は黒紋付。

下は袴姿。



バチを打つ姿はさすがだなと思った。

その様子を横で拝見する入端太鼓役の子供たち。

大きくなったら担ってみたいと思っているのだろう。

入端太鼓役の子供たちの右に立っているのは3人の太鼓打ち。

シナイを背負った女装の姿。

衣装は中踊り役と同じようだ。



両手にバチを持っているので役目は一目瞭然だ。

田山の花踊りが最も特徴的なのは唄ウタイである。

唄ウタイは「唄付」の呼び名がある。



黒紋付に白足袋。

下駄履きで頭部は紅白の花を取り付けた菅笠。

顔部分に垂らした白布に前面は金箔マスクの顔隠し。

奈良県内ではまったく同類が見られない独特の装束に不思議を感じる。

右手に持つ白扇で調子をとる唄付は踊り子の調子をだす節回し役。

隠れた存在であるが、撮った画面をよくよくみれば白扇ではなくヒラヒラの金色紙を貼った棒のようなもので節回しをしている数人の唄付もおられたことを付記しておく。

呼び名が「唄付」の唄ウタイの顔隠し装束が気になり、類事例があるのかどうか調べてみた。

参照したのは「三重県インターネット放送局」が公開している三重県内の伝統行事である。

それによると、三重県内で羯鼓(かんこ若しくはかっこ)踊りを継承している地域は12例もある。

伊賀市下柘植・愛田地区に伊賀市(旧阿山町の)大江、伊賀市山畑(やはた)がある。

京都南山城より東に向けて15kmから20kmの距離に三カ村が集約している。

一方、そこよりぐっと下がった南方に宮川が流れる。

その流域にある多気郡大台町下三瀬、伊勢市の円座町・佐八町・小股町の共敬・下小股・中小股・東豊浜町の土路、度会郡南伊勢町の道方、度会郡度会町の麻加江だ。

なかでも田山の「唄付」の顔隠しとそっくりなのは伊賀市山畑(やはた)だ。

田山が白色に対して山畑は緋色の布である。

その名も「フクメン」。

そのまんまの呼び名である。

違いがあるのは扇に対して団扇になることだ。

また、唄ウタイでもなく、室町時代末のころから江戸時代にかけて全国的に広まった風流囃子の疫神祓いの造り物の一つにある「傘鉾」とされる多気郡明和町の有爾中(うになか)の「ヤナギに取り付けたものも「フクメン」と同じ形式であった。

なお、「フクメン」はしていないが、菅製妻折れの花笠を被り、黒紋付羽織で振りの扇が同じような地区に伊賀市下柘植愛田地区と大江(旧阿山町)がある。

詳しく書けばきりがないが、奈良大和の太鼓踊りや、十津川などの大踊りと似通った部分が多々見られる三重県事例は直に拝見したいものだと思うが、「三重県インターネット放送局」の事例公開だけでなく、もっともっと多くの事例がある。

調べれば調べるほど羯鼓踊りが多いことに驚く。

半年後に花踊りとか花笠踊り、太鼓踊り、あるいは羯鼓踊りなどこれら類事例を体系的に纏められ、数多くの論文を発表されている「京都学園大学人間文化学部メディア文化学科民俗芸能論」の青盛透氏とお会いする機会があった。

自ずと質問したのはこの唄付、フクメンの不思議な姿である。

青盛氏が云われたのはこの装束は「男性が女装する風流(ふりゅう)の一つにある」だった。

風流は逆に女性が男装する場合もある。

宝塚歌劇団もその流れ。

マツリによく見られる男性が女装する姿も風流になるそうだ。

ちなみに菅笠は平安時代の市女笠に見られるように女性が被る笠の一種。

笠に垂らしている金色の紙片で顔を隠し、周りは白地の布で囲う。

これは「モミ」という名、着物で云えば振袖のようなものだと話す。

「モミ」の色っていうのは何だろう。

調べてみれば紅花で染めた絹布の色。

これで合っているのだろうか。

ところで、田山のシナイを背負って羯鼓(かんこ若しくはかっこ)と呼ばれる締め太鼓を胸につけてバチを打ちながら踊る姿を拝見して気がついた。

音が鳴っていないのだ。

バチで羯鼓を打つ真似をしているだけだった。

これは田山に限ったものではなく、三重県事例にはいくつかある。



愛宕踊りを踊った踊り子たちは校庭を出発する。



先頭は陣笠を被った裃姿の警護武士。



次に編笠被りの竹の払い棒持ち(白装束の一の棒は七五三御幣を持つ世襲制家・二~五の棒持ちは女装の着流し)、長谷川流棒術の少年(かつては青年男子)。



ササラ、鶏兜を被る天狗とササラを手にするひょっとこ面の道化。



太鼓曳き、入端太鼓、師匠太鼓、修験姿で法螺貝を吹く4人、2人の貝の助、神夫知(しんぶち)、保存会役員、3~4人の太鼓打ち(シナイ飾りの太鼓打ちが3人)。

独特な装束の唄付は11~12人(昭和57年は9人)。

黒紋付に白足袋だ。

しかも、下駄履きで頭部は金箔マスクで全面顔隠し。

奈良県内ではまったく同類が見られない装束である。

菅笠を被り白扇で調子をとる唄付は踊りの節回し役。

隠れた存在である。

行列の最後を〆るのは踊り子12人の中踊り。

鉢巻き姿が勇ましい。

お渡りの終着点は諏訪神社の鳥居。



ここを潜って急な階段を登っていけば宮司が祓ってくださる。

ササラを持つ子供たちや屈めて登る踊り子も祓い清める。



隊列だけでなく、同じように登る一般の人も祓ってくださる。

行列の人数は多い。



場を離れて一息つく。

そこに落ちてあったササラ。



子供が落としたのであろう。

よくよく見れば鋸のような刻みがある。

音が鳴るササラの二重構造がよく判る。

曲(演目)は毎年替わると話していた「入端(いりは)太鼓」役を務める女の子の母親。

いろいろ教えてくださったのが嬉しい。



母親が云うには、入端太鼓は小学3年生の男・女児。

棒振りは小学4年生から6年生までの男女(平成14年までは男児)に中学3年生までの男の子たちが役目を務めるそうだ。

ちなみに、ササラ持ちは保育園児に小学1年生から2年生までが務める。

神夫知(しんぶち)の口上は二つある。

一つ目は太鼓の上に立って、神殿に向き軍配を片手に雨乞いの口上を述べる。



「謹上再拝 謹上再拝」を口上して二拝する。

二つ目は向きを換えて同じく太鼓の上に乗って「愛宕参りは所願成就 次に踊るは八つ橋踊りで御座候 団扇の用意為され候らえ 為され候らえ さらば太鼓の役 頼み申す ホー」を口上する。申して直ちに太鼓から降りて役目を終えた神夫知(4年生以上の小学校高学年)であった。

口上が終わるや否や一番手の太鼓が打たれて「ドドーン」。それを合図に「八ツ橋踊」を披露される。

『田山花踊保存会結成五十年のあゆみ 田山花踊り』によれば、これまでの楽曲は平成26年が「愛宕踊」、「十九踊」、「姫子踊」。



近年を繰り下がってみよう。

平成25年は「愛宕踊」、「屋敷踊」、「手きき踊」。

24年は「愛宕踊」、「綾の踊」、「御庭踊」。

23年は「愛宕踊」、「鎌倉踊」、「御庭踊」。

22年は「愛宕踊」、「陣役踊」、「御庭踊」。

21年は「愛宕踊」、「御殿踊」、「御庭踊」。

20年は「愛宕踊」、「庭の踊」、「御庭踊」。

19年は「愛宕踊」、「八ツ橋踊」、「御庭踊」。

平成27年の今年は「愛宕踊」、「八ツ橋踊」、「御庭踊」を披露された。

こうしてみれば校庭で行われる踊り始めは常に「愛宕踊」(校庭で3節・境内で後半3節であろうか)だ。

「八ツ橋踊」をされて一旦は小休止。

次は保存会副会長が口上を述べて「御庭踊」が始まった。



諏訪神社の奉納踊りの〆は、ここ数年間のだいたいが「御庭踊」で、中踊りがそれぞれの年によって異なるようである。

「田山の花踊り」の起源は明らかでないが、安永二年(1773)に発生した飢饉の年に願掛け花踊りが行われた際に使われた床几(しょうぎ)一台が残されていると、田山花踊り保存会編集・発行の『雨乞い田山花踊り』に書いてある。

床几に年代が書いてあったのかどうか、そこまでは書かれていない。

推測であるが、たぶんに床几の裏面に墨書があるのだろう。

また、寛政六年(1794)に書き記された唄本が保存されている。

唄本の裏書に「天保十一年(1840)花踊アリ、森本林助十二才、文久三年(1863)笹踊アリ、明治九年(1876)カンコ踊、明治十六年(1883)カンコ踊・・・明治十九年(1886)・・・明治二十六年(1893)五月十日・六月二十五日・・・」などの記帳がある。

田山の花踊りは大正13年に「笹踊り」を奉納してから飢饉の年は発生せずに花踊りが途絶えた。

昭和38年、初老厄年の有志5人が発起人となって保存会を立ち上げ復活した。

空白期間は40年間。

体験記憶を辿りながら復興され、諏訪神社例大祭日の10月17日に踊りを奉納していた。

その後の平成7年~9年にかけては第三日曜日。

翌年の平成10年からは11月3日の祝日に落ち着いた。

(H27.11. 3 EOS40D撮影)

南山城村・田山観音寺の行事

2016年07月17日 12時25分00秒 | もっと遠くへ(京都編)
田山にオトナ衆と呼ばれる長老の二座があった。

その名のどおりの高齢者でしめていたオトナ衆すべてが退座したというのだ。

理由ははっきりしない。

数年前(一昨年の平成25年)まであったという田山花踊り保存会の人。

オトナと呼ばれる二座の長老座が営んでいた正月初めのオコナイがあった。

場は観音堂である。

僧侶は都祁針の観音寺住職のようだ。

これまでは住職がオコナイに祈祷されるごーさん札を墨書していた。

そのお札に朱印を押してハゼウルシの木の棒に挟んでいた。

オコナイは村の安穏を祈る初祈祷。

ランジョー作法に「アユミイタ」と呼ぶ板にハゼウルシの木で打ち叩く。

祈願したお札とハゼウルシの木は苗代に立てる。

五穀豊穣を願う苗代の祭りである。

苗代をしていないN家はシイタケ栽培農家。

栽培するハウスに立てるそうだが、田山の8割は稲作農家。

苗箱を作って苗代に置いているようだが、ごーさん札は探してみなければ・・という。

もう一本のごーさん札は味噌壺の上に置く。

そうしておけば味噌が美味しくなるという。

JA京都やましろの月間やましろ「やましろ探訪」記事によれば、田山のオコナイ行事は中世からの宮座になる「宮本座」と「中間座(ちゅうげんざ)」のオトナ衆によって年頭の正月六日にしていたとある。

それが冒頭に聞いた話しである。

記事によればヤマハゼの木で作った牛玉札(ごおうふだ)を挟む杖(ごおうつえ)を160本。

寺住職が墨書する牛玉札は二種類。

戸数を考えて80枚も墨書するようだ。

一つは「大日如来牛玉宝印」で、もう一枚は「観世音牛玉宝印」だそうだ。

記事には真言宗の教主が大日如来系と観音寺本尊にちなんだ厄難除けの護符であると書かれていた。

さらに記事は続く。

両座の最たる長老である一老は嘉吉三年(1443)に作られた宝珠印に朱肉をつけて押印する。

これも冒頭に聞いた件である。

オコナイの作法も詳しく書いてあった。

ヤマハゼの木に挟んだごーさん札は本堂入口の柱に飾る。

本尊の前にも供える。

住職席の後ろにマナイタと呼ばれる板材を並べてヤマハゼの木を置く。

住職が読経する途中で発声される一老。

大きな声で「ランジョー(乱声)」と発声される。

それを合図に場にいた子供たちがヤマハゼの木を掴んでマナイタを打ち叩く。

乱打であるランジョー作法は魔をはらい法会を盛り上げたと書いてあった。

法会を終えた村人が持ち帰るごーさん札。

「観世音」札は味噌甕の蓋の上に置く。

もう一枚の「大日如来」札は籾種を撒いた苗代場の水口に挿した。

この行為は虫除けになると云われているを書かれてあった。

奈良県内各地で行われているオコナイ或は初祈祷されたお札の在り方と同じなのだ。

尤も、真言宗豊山派である針の観音寺住職は自寺においてもそうされている。

ここでの作法はご朱印を押す真似事がある。

マナイタならぬ叩いた板の上を駆けながら周りにいる村人に捧げるありがたいご朱印の作法である。

当行事は平成17年の1月12日に取材させていただいたことを覚えている。

もっと早くに知っておればオコナイ作法を拝見できたが、今は見ることもない。

しかし、だ。

田山花踊り保存会の人の話しによれば、作法はなくともごーさん札の墨書・朱印押しはあるらしい。

それだけでも拝見したいものだと思った田山の観音寺行事に星祭りがあるようだ。

女性なら19歳、33歳。男性の場合は25歳、42歳の厄年になれば厄除け祈願。

61歳、88歳であれば還暦・米寿祝いに祈祷してくださるそうだ。マメマキやモチマキもあるというから一度は訪ねてみたい。

映像は聞取りをしていた諏訪神社拝殿。

田山の花踊りはここ拝殿下の境内で披露される。

(H27.11. 3 SB932SH撮影)

南山城村・旧田山小学校跡

2016年07月16日 08時41分15秒 | もっと遠くへ(京都編)
田山の花踊りが行われる集合場所および出発地は京都府相楽郡南山城村の大字田山にある旧田山小学校跡の校庭になる。

山添村の北野より下った地は月ヶ瀬の桃香野。

そこより東廻りで車を走らせる。

月ヶ瀬橋の赤い橋脚を渡って左折れ。

久しぶりの長引の集落を通る。

三叉路に出れば左折れ。

西に向かってなだらかなカーブを経て一直線。

数キロメートルも走れば南山城村の大字田山に着く。

白抜き文字染めした「京都府指定無形民俗文化財 田山花おどり」の幟旗が立ててあった。

そこが旧田山小学校跡。

校庭には数人の人たちが居た。

関係者のようであるが、主たる関係者ではないと云う。

どうやら諏訪神社にいるようだ。

そこを訪れて関係者にお会いして取材の承諾を得た。

その場でたまたま遭遇した二人のカメラマンと合流する。

特に約束もしなかった二人の出合いは奇遇なことである。

そこに居られたもう一人の男性は京都府立山城郷土資料館の学芸員。

調査および記録のために滞在しているという。

この田山の花踊りは企画展を通じて教えてくださったのだ。

8月末日に訪れた企画展は充実した内容であった。

この日に遭遇した一人のカメラマンとともに拝観していた。

それはともかく始まるまでは時間がある。

落ち着く場はどこにするか、である。

先に到着していた二人は旧小学校跡にある喫茶に、ということで三人揃って歩いた。

里道から急な坂を登れば校門に着く。

身体が思うように動かない。足が上がらないし、腰がだるい。

難儀な身体になったものだ。

これもまた、それはともかく、だ。

平成15年(2003)3月を最後に廃校となった田山小学校の校舎跡を利用した「Cafeねこぱん」という喫茶がある。

お茶でもしようやということで寛ぐ場をここに決めた。

木造校舎に囲まれたコの字型の中庭は懐かしい。

とはいっても私はここの出身者ではない。

大阪市内の住之江区。

生まれ育った北島町にある敷津浦小学校だ。

敷津浦小学校の創立は明治7年。

昭和41年に卒業してから何十年も経った。

記憶は曖昧だが、二宮金次郎像があったことは鮮明に覚えている。

ここもそうだがこの場に建てているわけでなく母校も校庭にあった。



コの字型の校舎にあがってみる。

土足は厳禁。

靴を脱いで廊下にでる。

綺麗に磨きをかけた板張り廊下。

このような建物構造は大阪市内にあった小学校校舎となんら変わらない。

卒業して学年はあがって中学生。

学び舎は南稜中学校に移った。

思いだすのは廊下も舎内教室も板張りだった。

スリッパを履いていたような気がする。

校舎の扉も木造。

ガタガタしても扉に車輪があったので難なく開いた。



そんなことを思いだしながら、母校とほぼ同じ時期の明治9年に創立された旧田山小学校跡校舎の廊下の突きあたり手前の扉を開ける。

舎内教室にあった椅子や机。

黒板などなどはいずれも当時のまんまのようだ。

その黒板にCafeねこぱんのメニューが書かれていた。

ぱっと見た限りであるがやや高め。

私にとっては逃げ出したくなるメニュー金額である。

写友人は二人ともコーヒーがお好きなようですでに頼んでいた。

仕方ないと云えば申しわけないが450円だったと思うアイスコーヒーを注文する。

同店には日替わりランチがある。

値段は1000円。

私にとっては目ん玉が飛び出すくらいの価格帯。

一人だったら扉を締めて帰っているだろう。

時間帯が合わなかった芸能人がこの地にやってくると聞いていた。

取材する関西テレビのクルー。

駐車場に「関西テレビ」があったので来訪の話しは間違っていない。

その様子を映し出す番組があった。

なんと深夜放送なのだ。

番組は「横山由依(AKB48)がはんなり巡る京都いろどり日記SP~ゆいはん&あんにん秋・・・」だ。

放送が始まったのは午前1時55分。

この夜はたまたま深夜に目覚めた。

ぱっちり目が覚めた。

夜は無音。

それが怖くてテレビのスイッチをいれる。

なにげに見た映像に校舎が写っていた。

そうだ、間違いない、旧田山小学校跡校舎の板張り廊下。

そこを歩く横山由依さんと入山杏奈さん。

おしゃべりしながら廊下を歩いていた。

二人は「田山の花踊り」を見学すると噂で聞いていた。

どうやらその映像はすでに終わっていたようだ。

それはともかく二人が扉を開けて入ったのがCafeねこぱんだった。

数人のお客さんが談笑しながら食事をしている。

野菜とか煮込みカレーは白墨で950円と書いてある。

ベーグルサンドスープセットは850円だ。

田山の子供たちが勉学に使っていた椅子に座る。

机を開けて置いてあった教科書をとりあげる。

注文した自慢のランチは秋のベーグルランチ。

おそらく850円であろう。

つい最近食べたガンジス川のナンカレーセットも850円。

味の食べ比べはしていないが、ナンカレーが絶対に勝つと思っている。

HPをもつCafeねこぱんのメニューは果たしてどんなものなのか。

知りたくなって探してみた。

メニューの項目を開けばメールだった。

注文する食べ物の一切が公開されていないのにどうして注文できるのだろうか。

不思議でならないHPである。

ちなみに旧田山小学校跡の他の部屋は工作室にギャラリー。

田山の民具もある郷土の資料館もある校舎。

ゆっくり見ている時間はなかった。

(H27.11. 3 EOS40D撮影)

桃香野民家の吊るし柿

2016年07月15日 11時20分11秒 | 民俗あれこれ(干す編)
奈良市月ヶ瀬桃香野集落下の街道を走るのは何年ぶりになるだろうか。

10月だったか、11月、それとも12月。

はっきりした月日は思いだせないが、たくさんの吊るし柿を干している民家の景観は今でも頭の中に記憶している。

平成17年11月23日に訪れた月ヶ瀬の大字月瀬および石打への往復に通ったときであろうか。

それとも数年後に訪れた平成20年12月10日にお礼伺いのときであろうか。

とにかく思いだせない。

その後の平成22年10月17日は山添村春日から月ヶ瀬石打を通って桃香野を巡ったこともある。

いずれにしても起床した朝がとても寒かったことだけは覚えている。

前書きはそれぐらいにしておこう。

この日は京都府相楽郡南山城村の田山を目指して家を出た。

南山城には10時ころに着きたい。

そう思って選んだコースは大和郡山市から奈良市内の古市町、紀寺・白毫寺を経て東山間を登る。

田原の里、水間トンネルを抜けて山添村の桐山・北野越え。

そこから左折れして一直線の下り坂。

三叉路を右折れしたら桃香野集落下に着く。

左手に広がる山間集落の一角だ。



民家に吊るされた柿色が目に入った。

記憶は正しかった。

というよりもその後もされていたのである。

仮に前回見たのは平成20年とすれば7年前。

その家に住む人がしなくなったら柿色は見られない。

今でもされている状況を見て一安心する。



民家はすぐ上にあるが、訪ねていく時間がない。

柿の種類、いつごろ、どのようにされているのか、来年こそ聞いてみたいものだ。

(H27.11. 3 EOS40D撮影)

寺崎のハザカケ

2016年07月14日 09時05分46秒 | 民俗あれこれ(干す編)
飛鳥病院を出入りする車道通路がある。

その前を通る街道は明日香村の越から高取町の与楽(ようらく)、寺崎に越智間を東西に走る道。

ときおり利用する。

ついつい速度が増してしまう車道走行は安全運転に気を配る。

道路を跨ぐにも速度が早い車を見届けて渡らなければならない。

その道を自転車で駆けていく男性。

西の方角に向かって走っていた、その向こうだ。

長く、長く伸びたハサガケがあった。

道路の端っこをゆっくり歩く。

走ることはまだまだ無理な身体は足元がおぼつかない。

飛ばす車に風をきられないようにしっかり大地を踏みしめて歩く。



時間帯は午後4時半。

薄暮になりつつある空は霞んでいた。

(H27.11. 1 EOS40D撮影)

与楽のマメホシとススキ

2016年07月14日 09時00分00秒 | 民俗あれこれ(干す編)
大淀町からの帰り道は明日香手前を左折れして高取町に入る。

何度か訪れた大字越を通り越して大字与楽(ようらく)。

ここにもあった畑のハザカケにアゼマメ干し。

稲を刈った跡地に必ずあるわけでもないアゼマメ干し。

奈良県内を走っておればすぐに判ると思うが、アゼマメを植えている処が随分と減っているのである。

与楽の田園を見渡してもここだけのような気がする。

すぐ近くに稲藁を重ね干しにしているススキがあった。

向こう側の畑ではハクサイ、ダイコンなどの野菜を作っている。



その向こうは駐車場。

飛鳥病院に勤める人たちの駐車場だと一目で判る駐車台数だ。

(H27.11. 1 EOS40D撮影)

畑屋のマメホシと農小屋

2016年07月14日 08時51分04秒 | 民俗あれこれ(四季耕作編)
大淀町の上比曽で行われている新婚家祝いに村中を廻る亥の子行事。

新婚の家がなければしない。

あればするということだ。

今年はどうであるのか、突然のごとく、というか思いだし、心臓リハビリに最適かと思って出かけた夕方近い時間帯。

適当な時間を見計らって訪ねたが、誰一人現れなかった。

平成19年のときに訪れたH家辺りから見る田園は稲刈りもすっかり終わっていた。

ふらりと立ち寄った同家に女将さんが畑に出ておられた。

当時、亥の子取材させていただいた女将さんは今でも差し上げた写真や著書本どころか私のことも覚えておられた。

結論から云えば、この年は新婚さんがおられないということだ。

思わず呟いた「新婚さん、いらっしゃぁーぃ」、「来年も待っています」である。

上比曽を諦めて帰路につく。

帰りの道中に必ず通る村がある。

畑屋である。

なにかがあるかもしれないと思って上流を目指す。

入村した辺りは田園が広がる地。

12月半ばになれば、ここ小字カンジョの地で正月行事の勧請掛けが行われる。

川切り以上に張る勧請縄はさらに新道を跨って架ける。

道切りとも思える勧請掛けはとても長いのである。

ここら辺りも稲刈りはとうに過ぎていた。

ハザカケがあったかどうか判らないが、木の棒を収納している小屋や稲藁を積んでいる小屋もあった。

後方に杉木立。



日が暮れるころの時間帯も美しい。

そう思って立ち止った。

さらに畑屋川を遡って上流を目指す。

どん突き辺りは集落民家がある。



畑作をしているようだ。

ネットを張った処はナス栽培だろうか。

山の方にはシシまたはシカ避けと思われる柵がある。



すぐ近くの民家下には刈り取り前のアゼマメが見られた。

その奥の稲を刈り取ったあとの畑場にハサガケがある。

ぶら下げていたのは干して乾いたアゼマメだ。



隣の民家では川に降りる階段手摺に干していた。

アゼマメはすべてが根付き。



紐で括って干している。

カラカラに乾いて皮が黒くなれば棒か何かで叩いてマメを取り出すであろう。

(H27.11. 1 EOS40D撮影)

出展作品に登場のおばあちゃんたちに感謝

2016年07月13日 09時25分13秒 | しゃしん
第5回目の「私がとらえた大和の民俗 ―衣― 」写真展が始まった。

翌日にはカメラマントークも行われた。

開催期日までに出展作品に登場するおばあちゃんにお礼を伝えたかった。

そのときに要るのが写真展図録。

今回は開催日までのお届けができなかった。

展示日の前日に業者納入された写真展図録。

当然ながら間に合わない。

翌日の26日にメール便で届いた図録。

写真、日付け、場所、解説分などなどを確認する。

若干の手違いでテレコになった頁はあるが、大きな影響を及ぼすものではない箇所だった。

この日は仕事休み。

できる限りにモデルになっていただいたおばあちゃんに手渡ししたい。

そう思って車を走らせる。

1カ所目は田原本町の八田。

撮影地はすでに終わっていた稲刈りの場。

とうぜんながら誰もいない。

ご自宅を訪ねて呼び鈴を押すが反応はない。

裏に入って作業場を見れば男性がホウレンソウを綺麗にしていた。

奥さんの居場所を尋ねるが耳が遠くて応えられない。

問答の結果、どうやら畑に居るらしい。

自宅よりそれほど遠くない処の畑を見渡した。

帽子を被った野良着姿。

腰の曲がり具合でおばあちゃんだと一目で判る。

近づいて声をかけたら笑顔を返してくれた。

撮らせてもらったときも笑顔だった。

お礼に図録を広げて明示した。

自分の姿を見て笑っている。

おばあちゃんは同町阪手で昭和5年に生まれた85歳。

阪手の行事も取材してきたので親近感を覚える。

おばあちゃんは10月初めに写真展開催地の県立民俗博物館にでかけたという。

テレビで放映された赤紙を見たくて家族が運転する車ででかけたという。

自転車は乗れるおばあちゃんは爽快に走ることはできるが、歩きは困難。

収穫も考えて老人乳母車を押して畑に行く。

今の畑の栽培はホウレンソウ。

数列ずつ時期をずらしてタネ蒔きをする。

この日は最初に植えたホウレンソウの収穫作業。

持って帰りと云われて畑地に降ろす。

大量に盛ったホウレンソウを抱えて車に乗せる。

ここにあるカキも持って帰りというおばあちゃん。

実成のカキの木はたわわ。

稔った枝が重さで弛む。

あっちにあるカキはシブガキ。

これは甘いフユガキ。

「いっぱい採ってや」と云われてビニール袋に詰め込む。

採っても、採ってもカキ色の様相は変わらない。

摘み取りするだけで腰が痛くなる。

次のお礼先は奈良市中畑町。

八田から車を走らせて30分。

平坦地から高台に移った。

中畑町は急こう配の土地。

現状の身体では心臓がバクバクする。

仕方なくおばあちゃんの家前までと思って坂道を駆け上がる自家用車。

くるりと旋回したら、そこにおばあちゃんが居た。

ハクサイやダイコンなどを栽培している。

ご近所のおばあちゃんとともに農作業をしていたと云う。

ここもお礼の図録をさしあげる。

頭の上を気にしておられたおばあちゃん。

「ほっかむりをしていたときに撮ってあげたほうがよかったんやけど・・・」と伝えたら笑っていた。

写真展に出展した作品は二人連れ。

図録はそれぞれ1冊ずつお礼にさしあげる。

嫁入りしてから大字中畑の春日神社のゾークは3回もあった。

20年に一度のゾークであるゆえ60年間。

昭和8年、奈良市忍辱山町で生まれた82歳。

先週に行われた奈良市小山戸のゾークを知っていた。

小山戸のゾーク祭典に外氏子として参拝していた2軒のご近所さんから聞いたという。

小山戸のゾークは外氏子の寄附も頼らずに実施したという。

三家三様の野良着を紹介する写真を見たおばあちゃん。

唐箕は昭和時代の製作だが今でも現役で使っているという。

唐箕は県立民俗博物館にあることは知っている。

話の展開に移った博物館。

車は運転できないからバスと電車を利用してでかけたことがあるという。

それほど昔ではなく、最近のことである。

写真に写っている友達と二人ででかけた。

バスを降りて歩く博物館までの徒歩距離は遠かったと話すおばあちゃんはこの日ももんぺ姿。

10月初めには稔ったモチゴメをハサカケにしたという。

孫も手伝ってくれた稲刈りは手刈り。

鎌で根株を刈り取って竹製のハサカケに天日干しをしていたという。

(H27.10.27 EOS40D撮影)

曲がり角に立つカメラマントーク

2016年07月12日 08時39分07秒 | しゃしん(県立民俗博物館展示編)
今回で5回目になった「私がとらえた大和の民俗」写真展

今回のテーマは衣。

写真家11人が織りなす民俗写真が33枚。

バラエテイに富んだ作品が展示された。

この日はカメラマントーク。

出席者は森川光、田中、脇坂、植田、松本、志岐、野本の7人。

聴講者はトークカメラマンの知人が半分の7人。

一般の聴講者は6人で計13人。

開催前日に案内された讀賣新聞の記事を見て来られたそうだ。

だいたいがこれぐらいの聴講者。

距離感は近すぎるぐらい短い。

始めに自己紹介。

3分間制限に紹介する。

植田さんは会社に勤めていたときの上司の話しをされる。

マツリがある日は休まなきゃならないということだ。

会社を辞めて云十年。

吉野川付近に点在するオカリヤがある。

ある地域の取材でばったり出会った上司は氏子総代だった。

松本さんは神さんのおかげで撮らせてもらっていると話す。

祀っている神さんから派生して民俗にはまった志岐さん。

先人の知恵で今の生活があるという野本さん。

それぞれの思いで自己紹介される。

今回のMCは森川光さん。

写真家それぞれの若い時のプロフイール写真が載っている図録の裏表紙を見せながら話す。

当時撮られたときの服装は今回のテーマの衣。

生きてきた写真家の生の生活文化に民俗、フアッションを見出す。

これよりは出展した自分の作品を解説する。

脇坂さんは奈良晒しを考えていたが、織るだけのシーンしか撮れなかったので、自分らしく子供のハレ着姿にしたという。

エジプト文化を揚げて大昔からあるエプロンを取り上げた志岐さん。

たまたま遭遇した現代の普段着。

肥え籠をオーコで担ぐ男性。

婦人はエプロン姿だ。

肥えを運ぶ作業から教えてもらったタバコの葉の生産。

蒸したタバコの葉は鉄管を通した蔵で保管していた。

行事に行列を組む前掛けもエプロン。

虫送りに練り歩く姿は他所で見たことがないという。

森川光さんは欠席者の代弁紹介もしなければならない。

ご自身も体験している修験の在り方。

インパクトがある作品は松井さんのだ。

修験の衣装は特異的。

「死に行」を着ていると話す。

鹿谷さんの作品は解説できないと云ってマイクを渡された。

本人も難しかったという3枚組。

本人の気持ちになって話す。

ここまでで1時間と20分。

聴講者は飽きてきたように思える。

ここからは自由に話してくださいとMCにバトンタッチ。

森川光さんは動かないものを撮る、動いているものを撮る、を獅子舞の被写体を選んで解説する。

カメラはこうして回す。

遊びの要素もある作品作りのコツを話す。

順番に渡されるマイク。

運ばれたら喋るしかないが、ネタはどうするのか。

急に言われても・・である。

裏表紙に残された叔母の姿。



若い時の生前の姿であるが、今月に亡くなった

本人は生きていないが、撮られた写真が図録に残された。

写真があったからこそできる生前の記録である。

数か月前、私は入院していた。

職業病ではないが、写せる範囲内でケータイデジカメで撮っていた。

いつしか忘れてしまうものを記録しておけば後年に役立つ。

そう思っている。

なんてことを話していたら時間ばかりが経過する。

残り30分間は聴講者が求める質問時間に割り振る。

一つ目の質問は写ってはいけない人を撮った場合、或は写さない基準はあるのか、である。

地方行政の条例はあるが、肖像権という法律はない。

もう一人はお寺などに支払う志納金はどうすればいいのか、である。

これは人さまざまである。

有名寺院は規約がある。

それに沿って支払っている場合もあれば、賽銭は必ずという人もいる。

酒を供える人もあれば、無収入の身であるゆえ、何もしないという人もいる。

規約があれば、それに沿うが、基準なんてものはない。

最後に出た言葉が「もっと多くの人に、このトークに来てほしかった。賑やかになってほしかった」という橋本さん。

その通りだと思う。

数人の写真家はFBやブログで案内していた。

聴講者に友人が居られたのはそういうことだ。

ちなみに前日の初日は50人も来館したそうだ。

讀賣新聞の効果ではないだろうか。

毎回、悩ませる集客である。

(H27.10.25 SB932SH撮影)

萱森私祭の頭屋祭

2016年07月11日 07時51分51秒 | 桜井市へ
時間ともなれば正装した村人らが頭屋家にやってくる。

これより始まるのは桜井市萱森のマツリ行事だ。

頭屋祭を始めるにあたって座った頭人は烏帽子を被った白装束の狩衣姿。

これは太夫が着用する正装である。

頭人は一老でもあり、太夫でもある。

役目が重なってなければ、頭人、二老、三老、祭頭総代とも同じ装束の紺色素襖。

肩から袖にかけて二本の白染め、烏帽子を被って白い鉢巻きを締める。



中老、副中老は裃姿。氏子はスーツ姿で頭人に向かって「おめでとうございます」の挨拶をする。

一同揃って前夜に神さんを遷しましした神輿の前に座る。

祭主を勤めるのは瀧倉の今西宮司だ。

引退された親父さんの跡を継いだ娘さんだ。

幣で祓って、大宮に戻られる還幸の祝詞を奏上する。



「三月朔座の御神入り(おしめいり)に、家主として、頭人として今日の良く日に戻る大宮に還りませと、かしこみまおぉーす」と、お渡りの祝詞も終えて一段落した。

右手に見えるのは御供を納めた唐櫃。

その上に結った大注連縄を乗せていた。

かつて座を営む頭屋家は長男が生まれた家が受けていた。

戸数が17戸になった萱森では継承することが難しく、ミヤモト十人衆が順次交替して頭人を勤めるようになったそうだ。

頭屋祭神事を終えた一行は座敷を囲むような状態に「座り替え」。

その場で肴謡(さかなうたい)の謡を唄う。

唄うといっても節回しもなく、朗々と“詩”を詠みあげるような謡いである。



謳いは「トウヤダチウタイ」。

充てる漢字は「頭屋立詩」だ。

詞章は「神と君との道すぐに 都の春に行くべきは 此れぞ現状楽の舞 さて万才楽の生み衣 さすかいなには悪魔を祓い 納むる手にはふじくを抱き 千秋楽には民を撫で 万才楽には命を延ぶ 相生の松風颯々(さっさつ)の聲(こえ)ぞ楽しむ 颯々の聲ぞ楽しむ」だ。

「高砂」の最後に謡われる小謡の「付祝言(つけしゅうげん」。

かつては直会の酒宴に酒を飲み交わす際に謡われていたのであろう。

昨年の頭屋祭もそうだったが、突然の服忌によって今年のマツリも出仕される村人の人数は少ない。

これより始まるのは頭屋家から氏神さんが鎮座する高龗神社へのお渡りだ。

宵宮祭のお渡り順は警護・竹箒、警護・竹杖、御榊、日ノ御旗、月ノ御旗、御榊台、立矛、祭頭総代、氏子総代、御榊、中老、神輿、唐櫃、副中老、一老、奉幣、二老、三老、神職、宮本衆、立矛、座中一同である。



今年の渡り衆の数は足らない。

猫の手どころか、子供の手も借りたいくらいになった。

その声を聞いた子供は早速動きだした。



猫の手になったかどうか判らないが、子供が担うお渡り道具は警護の竹箒と竹杖だ。

先頭の警護は竹箒。



神さんが通る道を綺麗に掃く。

次も警護で竹杖。



かつては腰の曲がった長老が杖をついていた。

その様相は見ることないが、急遽決まった子供が役につく。

喜び勇んで箒か杖か、姉妹の競争だ。

先に掴んだほうが勝ち。

なんてことはないが、母親とともに動きだした。

初めての体験に母親の愛情が横につく。

子供のころに村で育った母親。

マツリを見ていたので、傍に就いて優しく教えながら道を掃いていた。



御榊、日ノ御旗、月ノ御旗、御榊台、立矛は重たい道具。

昔は大勢いたか役目を分担しえた。

今では一度に運ぶことも難儀なことだ。

何度も何度も運び抱えて往復する。

頭屋家から歩けばどれぐらいの距離があるのだろうか。

急な坂道は神社に向かう参道でもあるが、現在は玄関辻に停めた軽トラで高龗神社まで運ぶ。



神さんを遷された神輿も、御供を納めた唐櫃も重たい。



さすがにこれらは成人男子。

とはいっても若くはないし、年寄りでもない若手である。

彼らも村で生まれた男子。

数年も経たないうちにマツリ頭屋を務める。

昭和24年に新調した神輿を寄附した家はG家。

今年のマツリ直前に家人が亡くなり、一年間も神事ごとに参列することができない服忌になった。



大きくなった孫の姿に目を細めている頭人が抱えているのは8カ月間も神さんが仮住まいしていたヤカタだ。

前夜に行われた遷しまし神事によって神輿に遷されたからこの日は空である。

警護の竹杖を運んだ妹孫。

まだ運びたいらしく軽めの日ノ御旗をもった。



ともに運んでいるのは3本の御幣を運ぶ十老さん。

ミヤモト十人衆入りしたのは3年前だった。

その年は頭人も務めたと話す。

そのころに病んだ身体。

動きは不自由の身であるが、いつもこうして動ける範囲内でガンバッテはる。

私もほぼよう似た病み上がり者。

駆け登ることはできないが、動ける範囲内で写真を撮っていた。

神社に到着した一行はすぐさま宵宮祭に取り掛かる。

注連縄張りに提灯掲げ。

御榊を差し込んだ鏡と刀の立矛や紅白の日ノ御旗、月ノ御旗、槍立矛に御榊台などもある。

それぞれが分担し合って祭り道具を調える。



なかでも私のお気に入りは笑い顔の狛犬。

頭の上にちょこんと乗せたコジメがよほど嬉しいのだろう。



祭頭総代は「シバ」の呼び名がある頭人の木札を揃える。

場は鳥居柱の二か所だ。



一年間もこの場に置いておくが、ふらりと訪れる旅人は気がつくだろうか。

太夫こと今年の頭人は一人で「カンマツリ」。



本来なら太夫、頭人の二人で行う「カンマツリ」のお供えを一人二役でしていた。

手にしているのは、トリコ(米粉であろう)と呼ぶ粉に甘酒を入れて混ぜて練ったドロドロ状の白いもの。

萱森ではその名はついていないが、県内類事例から判断すれば、おそらくシトギであろう。

供える場所は神社奥にある掘切に鎮座する滝倉神社や狛犬の足元、燈籠である。

御供はもう一カ所ある。

高龗神社鳥居前数十メートルの場である山の神。

昨年は屋根ともども朽ちていた山の神。



つい最近において新しくなった。

それぞれの場にクリの木の箸で摘まんで供える。



太い大注連縄は鳥居に吊り下げる。

四つの大きな房の間にネムの木で細工したヨキ、オノをそれぞれ2個ずつぶら下げた。

これは神社側から見た大注連縄。

房を取り付けた藁の結び目が見える。

二老曰く、これは誤りだった。

本来なら、逆方向の潜る鳥居側から見てヨキ、オノがある方に結び目があるというのだ。

修正する時間、体力もない。

仕方ない、ということである。

大注連縄には日の丸旗が掲げられた。

頭屋家にも立てていた日の丸旗であるが、黄金色の金属ボールは見られない。

これは神社用の日の丸旗なのである。

掲げた大注連縄を潜って神社に戻っていく頭人こと太夫さん。



青竹をクロス状に支えた日の丸旗を潜っていった。

頭人こと太夫さんが潜った日の丸旗。



向こうの境内から妹孫が駆け寄ってきた。

その場に集まる姉孫に母親。

母親は頭屋家の次女。

隣に立つ女性は長女だ。

三女は頭屋家で留守番。

両親を祝う三人娘が一堂に揃った。

この場は揃わなかったが、じゃれ合う二人の孫娘に釣られて記念の一枚。



長女はどこかで見たことがあるような、ないような・・・。

萱森の太い注連縄から思いだされた嫁ぎ先の村行事。

なんでも大きな蛇を引きずって村中を巡るというのだ。

もしかとすれば御所市の蛇穴ではと云えば、あるブログの掲載写真に私が登場していると返す。

拝見したスマホの画面の一コマどころか、この記事は私が撮って執筆した年度の「汁掛け・綱曳き祭」だった。

長女さんが写っていた写真は頭屋家の接待料理を作って並べているところだった。

この年の垣内当番組は11、12組。

私がきいていた組と合致する。

萱森で出合った藁細工の注連縄は蛇に転じた。

これこそ奇遇と云うしかいいようがない。

この年の参拝者は昨年よりも格段に多い。



宵宮座の頭屋祭に出仕される座中の息子や娘は孫たちを連れて参拝していたのだ。

たまたまこの年に集中しただけだと話す氏子たち。

参拝者は作業のすべてを終えた座中ともども拝殿前で甘酒をいただいた。

斎主による祓えの詞、祓えの儀、祝詞奏上、玉串奉奠など、厳かに執り行われる。



拝殿に置いた祭壇に盛ったお供えがある。

五枚重ねの鏡餅。

上にはコモチが3個ある。

サバやカマスの魚も供えた。

ニンジン・キャベツ・ピーマン・ダイコン・ハクサイ・ゴボウ・ドロイモや果物のカキなども盛っている。

これらのお供えは小宮に捧げる御供だ。



祭壇下には折敷に盛った一升米もある。

その上には紙片も載せていた。

そして、神饌所に置いていた神饌は座中が手渡しで本殿に捧げて献饌する。



宵宮祭とも呼ばれる頭屋祭。

饌米を盛った三枚の折敷の前に三本の大御幣を置いた。

座中一同が起立して頭を下げる祝詞奏上の次に奉幣振りの神事が行われる。

始めに登場するのは太夫だ。

三本の御幣を纏めてもつ太夫。

裃姿の中老、副中老は大御幣が倒れないように介添えして支える。



御幣の下の部分の脚にあたるところを持って左回りに三回振りまわす。

次は撒米の作法に移る。

始めに中央の折敷より盛った饌米を手にして前方の本殿側に向かって奉る。

その作法は紙片とともに米を撒くのである。

中央の次は左手側、その次は右手側。

同じように撒米をする。

拝礼した太夫が退座された次は祭頭総代を務める二老が同様の作法をするが、御幣は一本持ちになる。

撒米は中央、左手、右手の順だった。

三番手は三老になるが、やむなく欠席。

五老が代わりに所作をする。

五老も同じく御幣は中央にあった一本持ちである。

撒米は中央、左手、右手の順だった。



饌米は今年度産ではなく昨年の産である。

本年も五穀豊穣でありますようにと願いを込めて撒米されるのは、この年の2月24日に祭典された御田植祭のお礼でもあると話していた。

また、この作法はすべての禍を祓う儀式でもあるそうだが、一瞬の作法をとらえるのは難しい。

このあとは撤饌、閉扉をされて祭式を終えた。

御供下げしたカマスは一尾ごとに頭と尾に解体する。

包丁で切り分けてパック詰め料理の宴席に置かれる。

持ち帰って家で食べるらしいが、炊く、煮るなど味付けしないと食べられないと話していた。

座中は配膳席に座っているが、裃姿の中老、副中老は着替えることもなく宴席の端に立っていた。

マツリの労いもある直会に移る直前のことだ。



中老、副中老は奉幣振りをした大御幣、それぞれ1本ずつもって動きだす。

座中一人ずつに頭の上から翳して振るのである。

振るというよりも、垂らした幣で頭を撫でながら通り過ぎるという感じだった。

こうした御幣祓いの儀式は除災の意味があると話していた。

頭屋祭を終えた直会の場は頭屋家がもてなす接待になる。



膳は頭屋家が注文した「太寅」の仕出し料理。

席についた祭頭総代が次の頭屋家を紹介する。

頭屋家代表はこれまで一年間も喪に服したY家。

頭人になるY氏が挨拶をされて承諾された。

来年の頭屋祭は10月23日と24日。

前週の日曜日は小夫の祭典。

今西トモ子宮司は小夫も祭式をされるが斎主は桑山俊英宮司。

萱森を斎主するのは今西さんということで日程が決まった。

マツリを終えた直会の場においても頭屋家の接待膳をよばれた。

この場を借りて厚く御礼を申し上げる次第だ。

宴席が終わって座中は解散する。

その際には一本のローソクを貰う。

このローソクは何時、どこで火を点けるのか。

聞いてみれば、今夜である。

かつては帰りの道中に、紋が描かれた各家が持ち込んだ提灯にローソクの火を灯した。

それは暗がりの夜道に足元を照らす道具であった。

今では提灯は持ち込まないが、一本のロ-ソク貰いだけは名残として昔通りに配られる。

ちなみに神社提灯は六つ。

拝殿、社務所に丸提灯の鳥居である。

(H27.10.24 EOS40D撮影)