マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

高芽がついたセッコクの2年目

2018年08月21日 09時08分38秒 | 我が家の花
もうだめになったな、と思っていたセッコクに高芽がついた。

昨年の平成28年5月14日のことだ。

高芽は僅かながらも成長していた。

凡そ10日ほどで高芽のロケットの成長は止まった。

それから4カ月後の平成28年9月25日

もっと育っていたことに気がつく。

セッコクに品種ラベルは見当たらない。

買ったのはずいぶん前のこと。

そのときはラベルもあったが、風雨に晒されてラベル落ち。

花が咲いたら少しでもわかるようになるかもしれない。

ただ、ここ数年間、我が家で咲いてくれたセッコク類とは少し違う。

長さはそれほどでもなくどちらかと云えば寸胴。

寸足らずと云えば、せっかく高芽がついたセッコクに睨まれるかも・・。

そのセッコクの2年目はずいぶんと逞しくなってきた。

6月7日の状態よりも、さらに分けつしたセッコク。



白い根も張り出すわ、新芽も。

来年が実に楽しみになってきた。

これ以上、株が増えていくなら、もう一つ大きめの鉢に植え替えたくもなる。

(H29. 6. 7 EOS40D撮影)
(H29. 7.10 EOS40D撮影)

スポーツミツハシ富雄南店の七夕短冊の願いごと

2018年08月20日 08時50分28秒 | 民俗あれこれ(売り場の民俗歳時記編)
今夜は七夕。所用に立ち寄ったジョーシン富雄南店。

用事を済ませて階段を下りようとしたら笹飾りが目に入った。

近寄ってみればジョーシンではなくスポーツミツハシが設営した七夕さん。

買い物に来られたお客さんが願いを込めて書いてもらえるようにテーブルに短冊を置いていた。

笹はプラスチック製だが短冊は色紙。

ペンもあるから、願いも書いてあるだろうと覗き込む。



黄色い色紙に書いてあった願いごとは「テニスがうまくなりますように!!」だ。

他にも「目標70kg」の願いもある。

重量挙げなのだろうか。

スポーツミツハシに願掛けした短冊はどうされるんだろうか。

子どものころは大阪市内の北島地区でしていた七夕の願い。

60年も前のことだから朧気だが、短冊は笹ごと大和川に流した。

それから数日後。

大雨が降った翌日だったような気がする。

上流から流れてきた短冊願いは笹ごと、大和川の砂浜に流れ着いていた。

上流が豪雨のときは決まってなんやかやが流れてきた。

どんぶらこ、どんぶらこ、と流れてきたのはスイカだった。

金魚もおった。

上流は大和郡山やで、と親から聞いたが、子どもにとっては、そこ、どこ、っていうぐらいの地。

その大和郡山は現居住地。

大和川が縁を繋いでくれた、と思っている。

(H29. 7. 7 SB932SH撮影)

佐味・早朝のカンピョウ干し

2018年08月19日 10時09分48秒 | 民俗あれこれ(干す編)
ユウガオの実の皮を剥いて白い中身を薄く、薄く剥く。

剥く道具はカミソリそのもの。

散髪屋さんで髭を剃ってもらうカミソリ道具そのものであった。

これを竹とか木片を加工して手に馴染むような形に調整して作る。

これまで拝見した皮剥き道具はどの人も工夫して作っていた。

手の大きさも違うし、剥く感触も違うのでいろいろ作ったという人もいた。

今どきはアマゾンで売っているらしいが、平成22年7月17日に取材した田原本町の多に住んでいた高齢の婦人はこの道具を「カンナ」と呼んでいた。

「カンナ」は木を削る道具。

カンピョウの皮剥きは削るような感じでもないが、自作する道具作りもまた民俗。

まったく同じというものはなかった。

ただ、実際に皮剥きを見たことはない。今回がはじめてである。

皮を剥いて干す日は天気予報が頼り。

数日続く晴天になりそうな日を前日までに決めておく。

まずはユウガオの実の収穫。

畑に出かけて採ってくる。

その時間はどことも4時ころと聞いている。

収穫したユウガオの実は持ち帰って皮を剥く。

その時間はだいたいが朝の6時。

自宅から1時間以上もかかる地区であれば遠慮していた。

まぁ遠慮というよりも起床してから身体の準備を整えるまで2時間も要するから断念していたわけだが・・。

前日、3年ぶりに出会ったUさんは田原本町佐味に住む。

大和郡山の我が家から30分もかからない。

取材させてくださいとお願いしたら、皮剥きは朝6時にしましょうと云ってくれた。

ありがたいことである。

この日に収穫したユウガオは2玉。

品種は長玉や丸玉があるらしいが、奈良県内では長玉が多いような気がする。

気がするだけで、どこかに丸玉を育てている家はあるかもしれない。

カンピョウは多いときでも玉三つか、多くても四つ。

皮剥きから干すまでの作業時間は一玉で30分くらい。

数が多ければ多いほど作業時間はかかるし、体力も要る。

これくらいが丁度いいという。

皮を剥く前の作業は見ての通りの円盤切り。

大きな刃の包丁で、ずこっと切断する。

切る幅はカミソリの刃に合わせた3cm~4cm辺り。

ざっと、という感覚の幅に包丁を入れて輪切りする。

だいたいが目安の幅である。

厚さは計測していないが、1cm~2cmくらいはあるような感じだ。

薄っぺらであれば途中で切れる。

分厚くすれば乾きが悪くなる。

微妙な厚さであるが、皮剥きしている状態を観察している限り困った様子でもない。



実は道具のカミソリの刃の角度や隙間。

手でもつ部分の間隔で決まる。

カンピョウの皮に当てて右手で剥いたら、左手でもって円盤を動かす。

左手で支えながら剥いては廻す。

リズミカルな動きで剥いては廻す。

そういう感じに見えたが、やってみなけりゃわからない。



ただ、種がある中心部になれば、くにゃくにゃ状態。

柔らかい部分になれば力の当て具合が難しくなる。

種がある部分近くまで剥いたらひと巻き分が終わる。

種も、柔らかいワタの部分も不要。

廃棄するのであるが、これはジャンボタニシのオトリのエサにするという。

水田や水路辺りに住み着いたジャンボタニシをおびき寄せて捕殺退治する。

柔らかいのが好みらしく、スイカも同じような効果があるらしい。

それはともかく、剥き始めから剥き終わりまで、途中で切れることなく綺麗に剥けても、そのまま干すわけにはいかない。

干す場面になればわかるが、Uさんのカンピョウ干し竿の高さは手が届くところまでだ。

高さは2メートルぐらいなるが、地面につくところまでは伸ばさない。

だいたいが膝頭辺りまでである。



というようなことで長く剥いた皮は適当なところを、指で千切るように切り離す。

作業は見ての通り。

手を伸ばしながら適当な長さを手尺で測って切る。

ある人がお家でしているカンピョウ作りをブログ公開していた。

道具や干し方などに違いがある。

地域はどこであるのか、わからないが参考にしたい民俗である。



この映像はユウガオの両端を切断した断面である。

端っこはヘタ。

この方がわかりやすいからと、適度な厚さに切った断面を見る。

厚い表面皮。

内なる面に緑色の粒が見えるだろうか。

均等についている粒の正体。

植物学的にどういう構造になっているのかわからない。

その部分もそうだが、もう一段内部にある粒も目立つからと云って捨てる。

一つ目のカンピョウの皮剥きを終えたら藁でくるんだ竿に架けて垂らす。

デキが不ぞろいだったので長さも不ぞろい。

竿半分に垂らした右は空間。



ちょうどそこに収まるように位置したUさんは二つ目のカンピョウ作りに入る。

一つ目と同じように円盤形スライスの包丁切り。

ザックザクと切っていた。

一つ目に剥いたカンピョウはまるで簾のように垂れていた。

こうしてみると太目のベルト幅であるが、天日に干せば水分が飛ぶ。

一日ではそこまでならないが、二日目、或は三日目に亘る二度干しをすれば、幅広いカンピョウもチリチリの縮れ麺のようになる。

純白だった幅広のカンピョウも焼けた色になる。

白い簾も風がそよいでくれれば、と思うが、そうはいかない自然現象。

皮剥き作業は一つ目と同じように坦々としていた。

外側から見ていたカンピョウの皮剥き作業も小屋内部から見ればどういう具合になるのか。

外はお日さんが昇って日差しが次第にキツくなってきた照り。



暑さを避けるためもあって、Uさんが作業する小屋内に移動しただけであるが、広がる田園景色に目が開いた。

小屋の向こう側の左は野菜作りの畑。

中央は聞いていないが、ある野菜作付の畝。

その右は田植えの場である。

三者三葉の畑の奥に見える段丘は曽我川の堤になる。



二つ目の皮剥きを終えたカンピョウも竿干し。

情景を見ているだけで癒される。

小屋内部ではどこまで干しているのかわかり難い。

外側に回って干す作業を拝見する。

こうしてみれば二つ目のカンピョウ干しの長さが揃っている。

長く剥いた皮は適当なところを指で千切るように切り離しているように見えていたが、実はそうではなかった。

手尺で測った長さはきっちりしていたのだ。



おもむろに動いたUさん。

竿を吊るしていた紐を解いて前に擦りだした。



作業小屋に置いていた支柱を取り出して土中に挿す。

その位置に埋めた穴あきパイプがある。

そこに鉄製の支柱を挿して固定した。

その支柱もUさんの手造り。



昔取った杵柄に工作はお手の物。

ビスネジは溶接して固めた。

そこに差し込むU字支えはねじ込み型。

カンピョウ干しの時期が終われば取り外す。



作業小屋の天井に収納しているカンピョウ干しの木製支柱がある。

支柱の長さは測っていないが、大方5~6mぐらいになるだろうか。

支柱は2本。

2本とも、てっぺんに針金で縛った滑車がある。

母親がしていた道具はこれであった。



二本の支柱の滑車ごとに上げ下ろしをする紐を通していた。

その紐はカンピョウを干す竿の左右のそれぞれ両端に括っている。

手が届くところまで下ろしてカンピョウを垂らす。

すべてを垂らしたら二人がかかりで竿を上げる。

一人でする場合は、片方ずつ。

上げては紐を支柱に結わえて解けないようにする。

反対側の竿も滑車に通した紐を引っ張って上げる。

またもや紐を支柱に結わえて竿が落ちないように固定する。

こうした作業を繰り返して、高く、高く竿を上げてカンピョウを干す。

昨年の平成28年7月31日に訪れた田原本町の矢部。

高齢の夫婦二人がそうしていたことを知る。

ここ佐味のUさんが話していた母親の作業ぶり。

矢部の高齢夫妻を思い出した。

朝6時からはじめたカンピョウ干し作業は午前7時20分に終えた。

私に喋りかけながらの作業であったから、いつもよりは若干の時間オーバーで終わった。

昇ってきた朝日の光を浴びて眩しい。



干したカンピョウも真っ白に染めてくれる。

どの方向から見ても美しいものは美しい。

撮っている間に時間の影が短くなる。

作業を終えて家に戻れば入浴。

ヒンネ(昼寝)は時のごとく午後にひと眠りする。

それまではさっぱりした身体で他のこともしたいと云って帰っていった。

こうした作業を見せてくださったUさん。

それから20日後、同町本村の旧村にあたる新地で地蔵盆の取材をしているところに顔を出した。

佐味からは直線距離にして4km。

なんでここに、とお互いが顔を見合わせた。

写真、えーのん撮らしてもらったので、今度、持っていきますよ、といって別れたが、我が家の事情でほぼ一年後になってしまった。

(H29. 7. 3 EOS40D撮影)

佐味に巡り合わせたカンピョウ干し

2018年08月18日 08時38分18秒 | 民俗あれこれ(干す編)
所用で訪れた田原本町の佐味。

氏神さんを祭る天神社の近くに住んでいると聞いていたが、自宅がわからない。

昨夏の7月である。

携帯電話が鳴った。

来月はその天神社で「ヤマモリ」行事をするという電話だった。

今年はどうするか、決めていない。

訪れたワケはUさんに渡しておきたい昨年に撮らせてもらったヤマモリ行事の写真である。

電話をくださったお礼にと思ってやってきたが、家が見つからない。

探す前は登録した電話番号でコールしたが、出てこなかった。

どこかに置いてあるのだろうと思って付近の民家の表札名を探してみる。

百メートルほど歩いたところに白いものがある。

より近くまで寄っていけば、それはカンピョウだった。

カンピョウだとわかった瞬間に、作業小屋から出てこられたUさんの目と目が合った。

両者見合って「あれぇ」である。

Uさんと初めてお会いしたのは平成26年8月3日の日曜日。

その日はヤマモリ行事の日であったが、降雨続きで早々に雨天中止を決めていた。

訪れた天神社には誰一人もおられないのは、そういうことだった。

その中止を教えてくださったのは63歳と70歳のご婦人二人。

雨天中止でやむなく各家が注文していたパック詰め弁当は廃棄、ではなく配布である。

その配布中に教えてくださった、次に出会ったのが「ヤマモリ」行事を尋ねたUさんだった。

そのときに手渡しておいた名刺に電話番号があること覚えていたUさんが伝えてくださったのである。

ありがたいことだが、Uさんとはそれ日以来お会いしていない。

昨年の「ヤマモリ」に遭遇していたらしいが、顔を合わせる機会はなかった。

だが、3年ぶりのお会いするUさんであることは、すぐにわかった。

積もる話はさておいて、干しているカンピョウが気にかかる。

梅雨の晴れ間が続くと判断されて本日が初めてのカンピョウ干し。

早朝に採ってきたユウガオの皮を剥いて干した。

柔らかい状態のうちに一旦は下ろして二度干ししたばかりだという。

まさか、Uさんがここでカンピョウ干しをしていたなんてはじめて聞く。

なんでも母親が亡くなったあと、定年満了になってから、母親がしていた記憶を辿って復活したそうだ。

ちなみに明日もする、と云われてこんないい機会を逃すわけにはいかないので約束をお願いした。

(H29. 7. 2 SB932SH撮影)

無添くら寿司橿原葛本店で食べる夏季限定ゴク旨冷やし担々麵

2018年08月17日 08時07分09秒 | 食事が主な周辺をお散歩
榛原に向けて走る国道沿いに幟旗がたつ。

民俗ではなくて無添くら寿司が夏季限定で発売したゴク旨冷やし担々麵を売り出す幟旗である。

新聞チラシにもそれは載っていた。

回転寿司に入店したらついつい食べ過ぎる。

お腹が満腹以上に食べてしまう。

最近は服用した薬の影響で食欲落ち。

昼食はこれまでよりももっと少なくしたい。

幟旗には金額も明示してあった。

税抜き350円である。

お安くいただけるならそれはいい。

ご飯粒も食べたくない。

汁なしなら塩分含有量も少ない・・はず。

くら寿司はシャリカレーとかを大いに宣伝しているが、それは要らない。

食べたいのは汁なし麺。

これがなんとなんとの夏季限定とくれば冷やし担々麵。

氷で〆ているのかどうかも確かめたくなってこの日の昼飯は午前中に決定した。

榛原小鹿野の旧暦閏年の庚申トアゲの取材を終えて山を下る。

目指すお店はくら寿司であるが、どこにあるのだろうか。

出かけ道中に幟旗を上げていたお店は天理店。

そこではない。

何故か。

昼飯を食べたら次に出かける処がある。

それは橿原市の慈明寺町。

できればそこへ向かう途中にあればいい。

そう思って桜井から香芝まで横断する県道を走る。

見つかったお店は橿原葛本店である。

なんのためらいもなく入店して電子的受付スタンドにタッチして一人座りのカウンターをプッシュする。

待ち時間が30秒で呼び出された。

この日は日曜日。

家族連れが圧倒的に多くて座る席はやはりのテーブル席。

そりゃそうである。



指示されたカウンター席についてタッチパネルで選ぶメニューは夏季限定ゴク旨冷やし担々麵。

個数は一個の「1」で完了。

寿司ならどこの回転寿司店であってもとにかく早い。

特急か急行か知らないが、いち早く注文した商品が特別レーンで運ばれる。

そこから来るのか、それとも特別メニューの麺類だから店員さんが運んでくるのか・・。

待つこと4分。

スピード上げて目の前に到着した。

おっ、これはいけそうな味がする。



見た目も実にいい盛りにぐんと食欲をそそる。

太麺に色がある。

これが良い。

白胡麻たっぷり振りかけはマッターホルンを思い出す。

そんなことも思っただけだが・・・。

それほど多いということだ。

タレはオリーブオイルのように見える。

坦々は見た目もそのまんまのコク、というかこげ茶の肉味噌はトウバンジャンだろうな。

これもまたたっぷり盛ってある。

細切りのキュウリが夏らしさを表現しているが、他には・・・夏らしさはない。

ないが、あの葉っぱは何だ。

もしかとしたら・・。

三つ葉ではなくアレや。

私が強烈に苦手意識をもつ香りの葉。

その葉は好きか嫌いか半々に分かれるらしいとテレビの情報番組が伝えていた。

私は嫌いな方。

ずいぶん昔であるが、この葉っぱが入っていたラーメンを食べたことがある。

食べた瞬間にもどしそうになった。

このゴク旨冷やし担々麵に盛っている葉っぱが恐ろしい。

恐ろしいが、担々麵に混ぜて口の中に放り込めばそれも消えるのでは、と思って一口。

全然旨いやんというのが第一印象。

旨さはコクがある。

こんなに美味いとは・・。

細切りキュウリに肉味噌を田楽味噌のように盛って麺もいただく。

キュウリのシャキッと感が実に良い。

これが夏なのか。

口の中が爽やか気分。

とにかく箸が進むくん、である。

茹で卵は1/4切り。

見た目だけの茹で卵に味は感じないから、これもまた担々麵に絡めてほうばる。

つるつる喉の奥に入っていく。

旨さは口の中で広がっていく。

なんせこのタレが美味いのである。

盛り皿にへばりついたタレはねぶってみたいくらいだ。

しかし、それにしてもいくら食べても麺が減らない。

たっぷりあるから味わい時間は倍増。

ピリ辛はストレートに感じず、旨みのある甘さが協調さを発揮。

肉味噌も旨いが担々麵決め手はオイルだと思った。

こうして食べる楽しさを味わったわけだが、どこに「冷やし」があったのか、食べ終わってから気がつく始末。

冷やしなんてどうでもいい。

単に汁なし担々麵だったのであるが、結局の葉っぱは三つ葉・・・。

三つ葉にしてはシャキシャキ感もないし、味もない。

なんだろうか。

まぁ、アレでなかったようだ。

アレとは何である。

パクチーである。

ところで食べているときのことだ。

時間に待てないカップルは一旦予約したテーブル席を蹴ってカウンターにされた。

いきなり注文する海老天3尾を盛っている天丼を注文する二人。

流れるレーンには目もくれず画面タッチの注文握り寿司。

がっつり食べてはるのが羨ましかった。

かつてというかずいぶんと前にくら寿司で食事をしたことがある。

当時、テレビ番組で取り上げられた寿司屋さんが作るラーメンである。

面白い試みにお味をいただいたが、このときの印象が強烈。

なんせラーメン鉢の底に残った粉にまいった、である。

アレ以来遠ざかっていたくら寿司。

今回は魚臭さを感じなかったので再入店は考えてもいい。

そう思いつつの支払い。

支払いはどこの店に行っても必ず店員さんに問う。

クレジットカード若しくは電子マネーが利用できますか、である。

前回は大阪府の能勢町であるが訪れた平成24年11月3日

クレジットカード支払いはできなかった。

ものは試しと問うた店員さんが云った答えはできます、である。

電子マネーもできるようだが、私がもつクイックペイは対応していない。

なくてもクレジットカードが使えるようになったのが嬉しい。

あきんどスシローもはま寿司もかっぱ寿司もクレジットカード支払いが可能。

くら寿司も対応してくれたのが嬉しい。

業界はいい方向に向かっている。

企業努力してくださって感謝でありまする。

ところで、当エリアに美味しい店があった。

大阪・住之江で度々食事をしている魚輝水産が、なんと奈良橿原に来ていたんだ。



そのことを家族に伝えたら、遠いわ、と返事が返った。

(H29. 7. 2 SB932SH撮影)

榛原萩原小鹿野・中組東の旧暦閏年の庚申トアゲ

2018年08月16日 09時37分09秒 | 宇陀市(旧榛原町)へ
服忌の場合であれば、上の組は参ることはできないが、コデキ(子出来)の場合は参加できるという中組東の庚申講の寄り合いである。

前日の7月1日は隣組になる中組講中の営みを拝見していた宇陀市榛原萩原小鹿野。

三つの組があるが、5~6軒の組だった上の組は現在2軒。

営みをできる状況ではないから停止している。

この日に行われるのは中組東。

昭和59年12月9日に建立した庚申さんの祠もずいぶんと朽ちてきたことから、2週間前に一部を修繕された。

昭和59年当時は7軒もあった中組東の講中。



一軒、一軒と脱会されて今では3軒になったという。

花立もゴクダイも葉付きの杉材で作る庚申塔婆もしていたが、現状を継いでいくには困難になった。

若い人たちが気負うことなく次世代に継げるよう、大改革をされた講中。

旧暦閏年の庚申さんの都度、毎回作り替えていた祭具を恒久化すれば次世代が継ぎやすくなると判断されて、花立もゴクダイも作らない。

これからは作らなくてもいいような形の塔婆にしようということになった。



願文は美しい書体で、はじめに五文字の梵字。

中組と同じの「キャ カ ラ バァ」。

続いて「奉造立 庚申供養五穀豊穣講中安全祈願」だ。

この庚申供養塔は前回の平成26年10月に新調したという。

庚申祠が建つ場は今では高台のようになったが、かつてはそうではなかった。

東京オリンピックがあった昭和39年。

土を掘って取り除いて道を拡げた。

それからアスファルト舗装にした。

祠がある場はもっと広かったから大勢の講中が並んでも十分な広さだった。

今では狭いから体制を崩したら落ちそうにもなる場で拝礼をする。



儀式は般若心経を唱えるわけでもなく、2礼2拍手1礼でもなく、手をポンポンと合わすだけ。

「心の中では心経を唱えているような感じで拝ませてもらっています」、という、実にその通りの作法であった。

かつては三つの組とも同じ日に営んでいた旧暦閏年の庚申講。

3カ所を巡って、お下がり御供目当ての子どもが大勢やってきたのであげていたが、今は面影すらない。



ずいぶんと寂しくなったと云いつつこの場で直会。

しばらくの歓談後は、近場の料理屋に出かけて会食をすると云って足早に去っていった。

この日にふと話してくださったTさんの奥さん。

昭和18年生まれの婦人が云うには、最近になって知人から教わったまじないをしていたという。

そのまじないはならまち界隈のS家や山添村のS家と同じように摘んだ紫陽花の花をトイレに吊るしたと・・。

吊るす日は「6」のつく日でもない。

しかも逆さでもない。

教えを聞いたのはどうやら断片的のようだが、来年は拝見したいと申し出たら、拒まれるようでもなかったことを付記しておく。

(H29. 7. 2 EOS40D撮影)

米谷町・白山比咩神社の農休みの麦初穂

2018年08月15日 09時21分19秒 | 奈良市(旧五ケ谷村)へ
農家であれば収穫した玄米を。

農家でなければ店屋で購入するなどで入手した精米を神社に奉納する。



その量はいずれであっても米1升。

重箱に詰めた御供は風呂敷に包んだまま氏神さんに供える。



拝殿に置いて供える神社は奈良市米谷町・白山比咩神社。



どのお家も柄のある風呂敷に包んで供えていた。



供えた御供は拝殿で詰め替え作業をする月当番のサタニン(助侈人)に手渡す。

その数多く拝殿廊下にずらりと並ぶ時間帯は、参拝者が増えるいっときである。



サタニン(助侈人)は供えた順に並んでいる風呂敷一つを取り上げて敷布を紐解く。



蓋を開けた重箱にお米がびっしり。

いっぱいに盛った御供は米袋に詰め替える。



唐臼した玄米であっても、精米であっても米の品種はそれぞれ。

さまざまな味わいが混ざり合う。

空いた重箱は布で拭って綺麗にする。

その重箱に二つの餅を入れる。

一つは和菓子屋さんに注文して作ってもらったセキハン(※糯米で作った赤飯)。

セキハンは箸で摘まんで適量に盛る。

もう一つは形を調えているキナコモチである。



かつて二毛作時代だったころは麦初穂であった。

奉納の御供下げ代わりにお返しする茶碗一杯の餅米赤飯とコムギモチであった。

麦で作ったコムギモチは、田植えを終えた時季的にいっても“サナブリモチ“である。

麦作をしなくなった現在はコムギモチ(サナブリモチ)でなく、その代わりのキナコモチである。

平成6年に発刊された『五ケ谷村史』に、7月1日は農休みの麦初穂とある。

12月1日は米初穂の新嘗祭とある。

初穂は一年に二度。

二毛作であったことがよくわかる資料データである。

農休みの麦初穂はこう書いてあった。

「麦の初穂を供えて収穫を感謝する。宮司が参詣し、十一人衆、氏子総代、町役員、上ノ坊住職が参加する。この日はソラ豆のコフキと胡瓜の薄切りを肴に飲食した。また、小麦粉を潰してキナコをつけたコムギモチを作り、お参りの人に配った。ミヤモリ(※村神主)は赤飯を作り、各家に分けた。この日に供えられた麦は、カンヌシ(※村神主)の収入となっていた」とある。

一毛作となった現代は麦を栽培することはない。その代わりに麦からお米に替えた。

収穫した新米を供えるのは新嘗祭。

平成28年12月1日に取材した。

新嘗祭に御供した新米は年中行事を務める村神主に感謝、そしてお礼を込めて捧げられる。

これを神主落ちというようだ。

麦初穂も同じように御供は村神主が受け取る仕組みになっている。

その代わりに氏子にお礼のお返しに配られるのがセキハンとキナコモチである。

昔は村神主家で村の戸数分を作っていたが、たいそうになったことから和菓子屋さんに頼むようになった。

作りの手段は替わったが、お礼の気持ちはかわりない。

麦秋の時季に供える米谷町の麦初穂に栗の木がある。

置いてあった場は鈴緒のある拝み所。

村神主が山に出かけて伐ってきた栗の木である。

麦の収穫を終えたら稲作に移る。

かつてはそうしていた。

刈り取った田んぼは稲作。

育苗した苗は田植え。

その植え初めに栗の木を立てる地域がある。

天理市福住より東になる山間地。

天理市山田町の下山田や中山田に数々あった植え初めに栗の木があった。

田植えをする一角に立てて豊作を願う習俗である。

山添村の切幡や大塩にもあるし、桜井市の小夫嵩方でもみられる習俗である。

欲しい人は持ち帰ってもらって良しとしている米谷町の栗の木である。



この日に置いていた葉付き栗の木。

拝殿に置いたのは村神主のTさん。

持ち帰ってもらうのに7本揃えた。

置くには置いたが、何をするのかは知らない、と云った。

「こんなんはゲンのもの。畑には何もせーへん(※立てることはない)が、神棚にまつるぐらいなもの。子どものころの昔は、家でコムギモチを作って食べていた」と話してくれたのは一老のKさん。

ご高齢の婦人は、「うちは神棚にまつっていた。お爺さんがおったころは、田植えのときに挿してはった」と話してくれた。

生前のお爺さんがしていた植え初めの儀式である。

具体的にどうだったのか、覚えていないというが、おそらく私が想定する麦刈りを終えた直後に水張りをした田植え。

その植え初めの行為に栗の木を立てていたと想定する。



膳に出す料理に漬けもんにした胡瓜があった。

熱くなった身体を冷やすのに食べる胡瓜の漬物である。

農家の営みは神社行事のなかで見られるが、麦栽培をしなくなった今は見ることはない。

初穂は「米」になったが、今もこうして伝統を続けているとNさんが話してくれたが、村史に書いてあったコフキのソラマメ御供は見られなかった。

ちなみに、「麦秋」とは、麦穂が稔って収穫期を迎えた初夏の時季をいう。

(H29. 7. 1 EOS40D撮影)

榛原萩原小鹿野・豆植えの印

2018年08月14日 08時47分27秒 | 民俗あれこれ(四季耕作編)
小鹿野中組は前日の土曜日にされた。

一方、隣組の中組東は日曜日。

日程決めの決まりは特にない。

講中と相談して日を決めるだけだ。

区長より中組東の日程を聞いてはいたが、講中はまだお会いしていない。

もしかとすれば、あのお家であろうと思ってまずは庚申堂に向かってみる。

その庚申堂の真ん前に道路を隔てた向こう側に稲作田がある。

草刈りをした土手下の崖ぷちで畑作業をしていた男女二人がおられた。

お声をかけたら、私が取材すると区長が伝えてくれていた講中の代表者だった。

夫婦揃っての畑作業は宇陀の黒豆植えだった。急な崖は滑りやすいし、登りも難しい。

足を踏ん張りながら植付けする箇所に竹の棒を挿していく。

その位置が植付けの目印で、奥さんが種を埋めていた。

やがて山影に隠れるお天道さん。



崖はもちろん、挿した竹の棒もシルエットになった。

その姿はまるで墓標のようにも見えた。

(H29. 7. 1 EOS40D撮影)

榛原萩原小鹿野・中組の庚申月の営み

2018年08月13日 09時37分45秒 | 宇陀市(旧榛原町)へ
外の庚申さんに参る在り方は旧暦の閏年に行われる。

このお勤めを「庚申トアゲ」と呼ぶのであるが、定例は2カ月に一度の営み。

60日サイクルの庚申の日がお勤めの日であるが、小鹿野の中組は年に3回の営み。

奈良県内に数多くある庚申講であるが、高齢化などで負担が大きくなり、60日サイクルを崩す地域は多く、初庚申、或いは終い庚申だけにしたという地域もある。

そう、小鹿野も同じように、近年は年一度のお勤めに移っていたのであった。

旧暦閏年の庚申トアゲ参拝を済ませた講中はヤド家に場を移す。

ヤド家には年代不詳の庚申図を床の間に掲げていた。

その下に並べた御供にやや大きめの豆腐一丁がある。

味付けをしていない冷ややっこを皿に盛って供える。

もう一品はお頭付きの魚。

この日は丸太一本の鯖一尾だった。



口開けしたお神酒も供えて、ローソクに火を灯す。

神事同様に2拝、2拍手、1拝してから会食に移る。



儀式が終われば座敷で直会を始める。

講中が云うには、かつてはカシワ肉とタイコイモを炊いた煮しめとか、カシワ肉のすき焼きを食べていたそうだ。

他に生タコの刺身もあったという。

小鹿野の大西垣内に伊勢講があった。

天照皇太宮の掛図は二人立の像が描いてあったそうだ。

また、お日待っつぁんもあった。

9月1日は集会所兼の地蔵寺すぐ傍にある弁財天社の行事。

デアイの名がある集落の道造りをした後に行われる行事はツイタチ座。

呼び出し合図の太鼓を打って参集。

長老が導師を務める数珠繰りがしているらしい。

その前に行われるのが風籠り。

ほぼ8月末の日曜にしているという行事もまた心経を唱える。

また、11月には十夜がある。

赤飯を供えて、宇陀市榛原萩原・融通念仏宗派宗祐寺の住職が法会をされる間に行なう数珠繰りもあるという。

(H29. 7. 1 EOS40D撮影)

榛原萩原小鹿野・中組の旧暦閏年の庚申トアゲ

2018年08月12日 09時08分21秒 | 宇陀市(旧榛原町)へ
宇陀市榛原萩原の小鹿野に庚申講があると知ったのは平成28年の10月28日だった。

民俗探訪に訪れた宇陀市菟田野の平井。

帰路に立ち寄ったのが、小鹿野であった。

その際、目にした庚申堂。

旧暦閏年に行われる庚申行事に奉ったと想定される塔婆があった。

花立ての残欠もあるから行事をしているのだろう。

話しを聞いてみたくなった区長家はすぐ近くだったが、不在だった。

区長にお会いできたのは、翌年の平成29年4月14日

凡その行事感触を伝えてくださる。

度々に小鹿野へ向かうことが難しいので区長の電話番号を教えてもらっていた。

6月末までに、村で行事日程を決めると区長が話していた。

そろそろ決まっているころであろうと思って電話を架けたのが6月28日。

そのときの話しでは、7月1日が実施日になると云っていた。

午後になってからになるが、ある家に講中が集まって、花立やゴクダイを作るという。

祭りの道具が出来あがった午後3時ころには庚申さんに参って三巻の般若心経を唱える。

小鹿野に庚申講は3組あるが、1組は講中が2軒になったので中断した。

もう1組は講中の都合を考えて翌日の2日にする。

花立もせず参るだけになったという。

その組の講中が3軒になったから大幅に簡略化した、と電話で伝えてくれた。

そうした経緯があってたどり着いた行事の日である。

中組の講中は4軒。

所有する軸箱の箱面に「明治八亥年 小鹿野 ・・・」の墨書に5人の名があったからかつては5軒であった。

小鹿野にある3組の庚申講は上組、中組に東の組もある。

上組の庚申さんは山ノ神と呼ばれている庚申石。

かつては5、6軒の講中で営んでいたが、現在は2軒。

今年は人数が少なくなったので中断したそうだ。

東の組は6軒で営んでいたが、ここも同じように軒数は減って3軒でしているという。



紹介されたヤド家のM家の床の間に庚申さんの掛図を掲げていた。

見た目でも古さを感じる掛図。

裏面なども拝見したが、寄進年号を示すものがないが、装飾素晴らしく立派な掛図に感動を覚える。

黒光りの風合いをもつ掛図箱も拝見する。



黒一色の表面に文字は見つからない。

開けた蓋裏もないが、底面になにかしかの文字がある。

「の」の文字に判読不能文字と「上」は何を伝えているのだろうか。

専門家の判定がほしいところであるが、ひっくり返した箱の底面に連名があった。

判読できた文字は右から「明治八年(1875)乙亥」、「小鹿野村」、「□本時□」、「西向元□」、「堂本時□」、「大西□□」、「□□□」、中、村」とあるから、当時は5軒の講中であった。

時代は明治とわかって、実は小鹿野の前身は玉小西(たまこにし)と呼ぶ地域であった。

明治初めの時代であるが、今でも字地に(元)玉小西があるようだ。

その箱とは別保管している封筒がある。

中に納めているのは便せん。

平成16年4月、18年7月、21年7月、26年10月、29年7月にそれぞれ担ったヤド家の名前。

こうして書いておかんと忘れてしまうので記録したそうだ。

その書面に書いてあったのが行事名。

「とあげ庚申」と記されていた。

これまで村々でされている数々の旧暦閏年の庚申行事を記録してきた。

ここ小鹿野も同じく「とあげ庚申」。

「とあげ」とは、庚申さんに願文を書いた塔婆を揚げ、念仏を申す「塔婆揚げ」である。

ある地域では「とあげ」とあったが、別の地域では「とうあげ」だった。

それがあったからわかった「塔揚げ」。

願文を書いた塔婆を揚げることから塔婆揚げであるが、「とうあげ」が短く訛って「とあげ」になったことは・・」ということである。



その願文は、これまでずっと同じ。

見本通りに願文を葉付きの杉の木に書いてきたという。

そのような話しをし終わって、取り掛かった庚申さんに奉る祭具の調製である。



屋外である調整作業は二つある。

一つは真竹で作るゴクダイ(御供台)である。

もう一つは杉の木で作る塔婆である。

予め伐採していた真竹はとても長い。

それを切る長さは庚申堂に遺していた前回に立てたゴクダイが見本。

見本に合わせて伐っていく。

丸太素材の状態で作るゴクダイに載せる棚作りもある。

真竹を割って細い竹を何本か作る。



これもまた前回の棚を見本に長さを合わす。

枚数も同じ枚数にする。

あとからわかったが本数は15本だった。

そのままの状態では棚にならない。

両端を編んでいくように紐を通していく。



編み方も全開を見本につくるヤド家のご主人。

できあがった棚は御簾(みす)のような簾型である。

一方、ゴクダイの土台になる支柱部分も作り始める。

支柱は棚を載せる形に調整する。

ヤド主がゴクダイの棚作りをしている最中、みなは協力しあって棚を載せる支柱を作る。



これもまた、前回に祭った見本を元に作っていく。

真ん中より若干下に節目があるように竹を切る。

その節目までを四つに割く。



勢いをつけ過ぎたら節目まで割ってしまう。

それを越さない程度に割るのが難しい。



しかも、である。

割いた4辺に曲げを入れる。

これもまた力を入れ過ぎてしまえばパリパリと音を立てて先まで割かれてバラバラになるからその加減が難しい。

そういうわけで工夫するのが曲げである。

節目より少し上にバーナーの火の力を借りて優しく曲げる。

予め作っておいた2本の竹片を割いたところにかます。

よく見れば内側に節目がある。

その端の見えない部分に竹片を噛ませば出来上がりだ。

竹片は支柱の反りで外れないように抑えられている。

それも確かめて出来上がったゴクダイである。

次の製作物は真竹で作る花立と杉の木で成形する塔婆作りである。

塔婆の木肌成形を撮っている際に行われていた花立作りの工程である。

塔婆に目線がいってしまったものだから花立は出来あがり状態を見ていただきたい。

ただ、製作工程はとても難しく、切込みの大きさに外れないようにした鉄線巻きなど、昔はしていなかった工程がある。

できるだけ簡単にできるようにと工夫されたのは前回の平成26年10月7日からだという。



これまで実施した日とヤド家がどの家であったのか、メモを残すようにしたのは平成16年の4月4日からだった。

次は平成18年7月29日。

その次は平成21年7月11日、その次は平成24年7月1日。

このように履歴をみていけばわかるように榛原萩原・小鹿野の旧暦閏年のトアゲは「大」の月にされてきたことがわかる。

私がこれまでに取材してきた地域では「大」の月を意識するが、どの地域も間違いなく3月から5月辺りに行っている。

つまりは豊作を願って春の季節にしているのだ。

ところが小鹿野は、多少日程は前後するものの、頑固にも旧暦の「大」の月に合わせて実行していることがわかった。



葉付きの杉材で作る庚申塔婆である。

カマで皮を剥いで、願文を書けるように、また、白い部分がわかるように削る。



願文書きもまた前回の見本を元に太文字サインペンで書いていく。

願文は初めに「空 風 火 水 地」の「キャ カ ラ バァ」。



続いて「奉造立 庚申供養五穀成就講中安全祈願 平成二十九年七月一日」と書いた。



ゴクダイ、花立、塔婆の三つが揃ったら地蔵寺(兼集会所内)の建つ地にある庚申堂に向かう。

急な坂道を登ってきた講中たち。

その道は人の歩ける範囲の里道である。

だが、集落を訪れるには、車利用でないとしんどい急坂ばかりの里道。

普通自動車では難義しそうな狭くて急な坂道。

4WD型軽自動車でないと、実に走行が難しい狭い道。

急坂の地形に、坂道の途中で一旦停まったら、発進は実に難しい地域だと思った。

急な坂道を行き来するにはとてもしんどい。

心臓に病をもつ私にとっては負担度が最高潮に達する坂道を講中は難なく歩いている。

ヤド家はご主人の代わりに奥さんが参られる。

実は作業中もずっと座ったままであったご主人は事故で脊椎を壊された。

歩くのもままならない身体でなんとか製作した庚申講の祭具。

「座ってする作業はもう慣れています」と云っていたのが印象的だった。



運んできた花立は庚申堂の右側に立てる。

花立ては2本それぞれにお花を活けて飾る。

左側にはゴクダイ。

そして庚申塔婆である。



ゴクダイの棚にそっと載せたのは器に盛った御供。

オカキやお菓子なんどの軽い御供だった。



ローソクに火を灯して始めたお念仏は般若心経。



このときの導師は区長さん。

小鹿野の年中行事のお勤めは般若心経を十巻、或いは三巻が多い。



この日の庚申講行事は一巻で終えた。

(H29. 7. 1 EOS40D撮影)