東京、大坂、京都の3都の庭園を比較している連作の京都の(下)にあたる。東京、大阪と比較している。京大学術出版会で専門的と思ったら、庭より茶店、茶屋、寺院の貸席など風俗が面白い、山水の存在など庭の裏を、なお京都の町家を町屋と書くのは独自だ。
知見は:
茶屋について
・茶店(掛茶屋:簡易)、茶屋(料理茶屋:飲食可)、芝居茶屋→御茶屋(芸妓、遊女)
・祇園:1670年鴨川新堤で芝居小屋と祇園新地に茶屋町、非官許遊女(芸妓だけでなく娼妓のことか)の出現、1751年茶屋復興、1790年遊女屋営業許可、1851年祇園、祇園新地、二条新地、北野新地、七条新地に遊女商売の再免許
・江戸後期、一力は青楼(妓楼)とあり遊郭、芸妓の置屋でもあった
・京都唯一の幕府公認の島原遊郭には傾城屋(遊女(娼妓)を置く)、揚屋(置屋から遊女を呼ぶ)、茶屋があり、庭園での月見などあり格式が高く値も高い。1867年島原以外の遊女町の公許に伴い安い競合に負けた。祇園は逆に踊りや音曲のできる芸妓で高級化を図った→芸妓と娼妓の違いが区別されていないのが残念
山水について
・者(寺の土地に住着いた流浪難民が地代の代わりに雑役庭掃き)と(河原に住着いた流浪難民、死んだ牛の解体や加工も):川崎、三条、四条、六条、八条
・川崎(一条鴨川西岸):青蓮院の「かわさき入道」、四条(四条から仏光寺、河原町から寺町の範囲):化者の養叟が虎菊、瀧ヶ口(鹿ケ谷):四条、八条のと姻戚関係
・御土居(1591)に一部が強制移転し三条橋東(天部村)、江戸初期には高野川の東にも移転
・えた:皮革、処刑・清掃→一生変わらない身分、:雑芸能、遊行的職業、物貰い→一定条件で町民や農民に と推定 は迫害される えた になり、作庭家として存在が隠蔽されるようになった
・西芳寺の庭園は四条流としての仕事か
寺院の貸席について
・東山の寺院で貸席や料理屋化
・東山は無税の「洛外町続町」として形成、円山公園の周りの斜面地に景観を売り物にする寺の貸席(この場合は、御茶屋や宴会場のような利用)が発達
・円山安養寺(多蔵庵(春阿弥)、花洛庵(重阿弥)、多福庵(也阿弥)、長寿院(左阿弥)、勝興庵(正阿弥)、延寿庵(連阿弥))霊山正法寺、双林寺、長楽寺など。共通点は室町時代に天台宗から時宗に宗旨替えで再建、安養寺が「相阿弥作」の庭園も整備、明治以降は上地され官有地、庭園とともに「席貸(せきがし)であり、貸席(明治以降の宴会場)ではない)料理」で収益を稼ぐ。さらにその後は、洋風旅館・ホテルに霊山正法寺の翠紅館は現在料理店( http://www.kyoyamato.com/history/ )
丸山公園から高台寺にかけての下河原には、明治以降の雇仲居など風俗の歴史がある( http://blog.goo.ne.jp/n7yohshima/e/e90b82c2aeb953b5c05123ec1f9e9325 )東山の隠れた風俗の歴史が面白い。寺社と色街のつながりは各所にある
多面的に庭をとらえ、お薦め