同期会二日目は中川先生の案内で有楽苑の茶室( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%B6%E5%AE%A4 )を学ぶ。国宝茶室に座るのは初めて。外は雨で、軒の明かり窓も閉めている。細竹を並べた遊楽窓に竹の影が映る。下地窓、連子窓と変化に富む。二畳半台目の炉は向切りの構成。
中川先生から連歌と茶会のつながりの指摘があった。
国宝の茶室に座る。大山崎の覗くだけの待庵とは体験の密度が違う。
明るめの茶室で技法が展開している。
仕掛けを感じた
躙り口から見える暗がりと光としての隅
①点前座の前は暗がり
入口の土間への飛石が奥から直角に右に移り視線を躙り口に誘導
躙り口に入った奥には点前座の前にある火灯のくり抜き板に囲まれた暗がりの入り隅が見える
暗がりの先に有楽窓に竹の影が動く
部屋に入ってヴィスタの展開として
②鱗板と斜めの壁
やがて主人の方に視線を移す
斜めの壁でパース構成、主人が大きく見える
斜めの壁の延長は躙り口の端に位置するため、中に入るにつれ点前座横の壁がだんだん見え斜めの壁に気が付く
象徴的な達磨の洞窟のシンボライズ
③炉の前に置かれた「火灯のくり抜き板」(以下 板という)は臨済宗の達磨の岩窟( http://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/suibokuga/item06.html )、自身が再興した正伝院は建仁寺( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E4%BB%81%E5%AF%B )の塔頭で臨済宗
板は悟りを示す岩の入口を象徴、板の後ろの隅に座ると丁度岩に籠る達磨のように見える、またここに座ると落ち着く
有楽斎が72歳の自分を見つめる「鏡」としての板だろうか。キリシタンとしてmemento mori ( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%AA )につながる可能性もあろう。
板の横の窓は桟も3本で4枚(死)に、他は5枚(5は五角形とその中の五芒星につながる、黄金比やフィボナッチ数列に関係する数字だ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%A7%92%E5%BD%A2 )
または、座るものはいないが、主人の前に「真の正客」として思い出の方々を心の中で座らせたのではないだろうか。
連歌の延長の茶会ではなく、禅の師家と修行者の関係ではないだろうか。板の火灯型自体が禅に関連する。
茶室にて中川先生から如庵の主客はどこに座るかという質問。
普通なら、入って件の板の隣からと思った。しかし、逆に床前に座り、左回りの順番という説もある( http://www7a.biglobe.ne.jp/~ikka/joan.htm )この場合は最後の方のあとに「新の正客」が板の前に座るという見立てだろうか( http://mikiocha.jugem.jp/?eid=167 )
茶室に座り、考えるのは貴重な体験だった。暗くすることで窓の光、陰影が浮かびあがる。暗示の要素が組み込まれている。謎解きがあるわび、さびは血なまぐさい戦国時代が生んだ反動かもしれない。
面白い、しかしこれ以上趣味を増やすのは避けたい。
なお、有楽苑のお庭は堀口捨巳も関与とのことだが、延段は行(直線の石と丸い石の組合せ)だが当たりき。エッジが出ていない。飛石も高さや表面、石種が同じの丸いもので変化がない。この点、桂離宮の飛石にはストーリーがある。また、ヴィスタの変化や暗示も感じなかった。
この他、茶室も見学し、お茶を頂いた、台風もあり早々に名古屋駅から帰洛
(参考)有楽苑は明治政府の廃仏毀釈を受け、祇園町衆に払い下げられ有楽館として貸席(後の時代の席貸ではない:三業地でいう、茶屋(京都)、東京(料亭)、料理店(愛知)、大阪(待合)に相当)
京都での文献は
http://blog.goo.ne.jp/n7yohshima/e/e90b82c2aeb953b5c05123ec1f9e9325
http://blog.goo.ne.jp/n7yohshima/e/aa4c249c9bd6db92704f9409e15ef88e